1.
久我重明の棄権。
闘技場に降り立った徳川光成の発言に、ざわめく観客たちをよそに、得心がいっている男たちがいる。
ひとりは、松尾象山。
ひとりは、愚地独歩。
ひとりは、丹波文七。
ひとりは、猪狩完至。
ひとりは、獅子尾龍刃。
そして、最後のひとりは、羽柴彦六である。
男たちの共通点は、皆が皆、久我重明という黒い男をよく知っていることである。
久我重明は、闇の空手家、萩尾流をおさめた古武術家である。
表の格闘家ではなく、芯から端まで裏社会の住人だ。
その習性は、地下闘技場の、いかにもひらけた環境とはなんとも食い合わせが悪い。
地下闘技場は、いわゆる
集う観客は、格闘士に負けず劣らずの、選ばれしものたちである。
それは金持ちであったり、他の団体の名うての選手であったり。
時には政治家、官僚といった表社会の大物たちも観客である。
基本的に、秘密主義の信用を理解する彼らにとり、秘匿性を秘匿のまま保てる口の硬さは大前提であり、それはそのまま彼らの職業や生き方にも反映されているものだ。
しかし、ひとの口に戸は建てられぬのが常。
多勢に、己の戦いを見られるということは、多勢に、己の技を見せつけるに等しい。
それが、いつ、どこで、ポロッと溢れて、広まるのかは誰にもわからない。
表の健全なアスリートや、表社会に確たる居場所を持つ武術家ならばともかく、常日頃から『他者からの危害』を心の片隅に戒め、常在戦場を身姿に映さねばならない裏の武術家にとり、己の技を知られることは死に直結しかねない。
久我重明の兄、久我伊吉が、かつてヤクザに依頼され、力剛山のプロレスを潰すために試合場に乗り込み、そこでテレビの全国放送でアジアン・ドラゴン──すなわち獅子尾龍刃と、図らずとも真剣勝負でやり合ってしまったことがある。
久我伊吉は獅子尾龍刃に勝利し、力剛山と範馬勇一郎に囲まれたものの、万全無事に帰還した──だが、その日のうちに、伊吉は裏社会から引退を決意した。
ならば、弟の久我重明が、兄の轍を踏むはずもなく。
羽柴彦六がふ、と息を吐いた。
この場にいる格闘士の中で、最も久我重明と近しいと言えるのが、彦六であった。
なにせ、羽柴彦六は重明の兄の久我伊吉を倒し、萩尾流の師範──すなわち、事実上の重明の師ともやり合いこれを倒し、ついには久我重明と雌雄を結したことがある。
その時は、羽柴彦六は久我重明に負けた。
だが、あの時、確かに──久我重明と羽柴彦六は繋がっていたのである。
心と心で。
ここではないどこかで。
無限の平野に、ふたりきりだった。
倒れる彦六の顔に、重明は容赦なく踏み込みをいれながら、そこに恨みや怒りはなく、真っ白な世界で、ただ、月明かりだけがしるべとなる世界で、ふたりはふたりだけの世界で、阿吽で呼吸をしていたのだ。
だから羽柴彦六が少し、肩を落とした。
付き添いの鳴海俊男だけが、彦六の背から溢れた、かすかな切なさの波動をキャッチしていた。
そんな事情など梅雨知らず、観客たちはまだざわめいている。
久我重明を知る者も、知らぬ者も、水を刺された気持ちは一緒であった。
第一試合の熱が引いていく。
棄権──ということは、リザーバーの出番ということだが、リザーバーは所詮、いざという時の『予備』である。
その落差は如何ともしがたく、観客たちのため息は混ざり合い、ひとつの合唱のように、地下闘技場に響いた。
しかし、徳川光成は凛とした態度を崩さない。
言った。
「これからリザーバーの選手を紹介することになるんじゃが……ワシがしのごのと口で説明するより、諸君らの目で見てもらった方が早いじゃろう」
徳川光成は、玄武の方角を見る。
いつの間にやら、
そこに──山が立っていた。
2.
身長、控えめに見ても二メートルを遥かに上回る。
だが、男の
体重、一体何キロ……?
確実に一〇〇は、絶対に下回らない。
それどころか、見目にもう、絶対に二〇〇キロは超えている。
顔が太い──
頸が太い──
肩が太い──
腕が太い──
腹が太い──
脚が太い──
足のサイズは三〇……?
いや、四〇センチはあるんじゃなかろうか。
眼が丸い。
黒目が大きい。
徳川光成を、真っ直ぐに見据える視線が太い。
髪は、おそらく長い黒髪だ。
おそらくと言うのは、その男は髪を結っているからである。
額の真ん中から、左右に、結った前髪を後ろ髪に回して留めている。
そして、頭上に髷を作っている。
大銀杏──
ほとんど裸同然の格好であった。
身につける布は、腰回りと急所を隠す部分しかない。
つまり、
「お相撲さん……?」
観客の誰かが言った。
しかし、こんな力士は見たことがない。
今をときめく力士──横綱といえば、多くの人が、金竜山関か、龍金剛関を思うだろう。
どちらでもない。
まだ、若い。
しかし、風情があった。
貫禄があった。
山が、のそりと動き始めた。
歩くに従い、ゆるやかな上下運動を繰り返す。
その歩みが
その呼吸が、太い。
動き出すと、よりいっそう大きく見える。
常人の、頭ひとつ分どころの高さではない。
常人の、ひと一倍分どころの恰幅ではない。
闘技場に降り立った。
ぺこりと、軽く、光成に頭を下げると、彼は光成からマイクを受け取って、観客を俯瞰する。
マイクが、まるで小枝のようだった。
「みなさん、初めまして」
精悍な声だった。
軽く発しただろうに、よく通る。
声帯も太く、力強いのだろう。
「野見宿禰と申します」
その名前を聞いた何人かの格闘士の表情が、険しくも驚嘆に染まる。
特に──アントニオ猪狩、獅子尾龍刃、そして、猪狩の側でそれまで談笑していたマウント斗羽の表情が、時の止まったように固まっていた。
2.
大日本相撲協会。
その、理事長室であった。
黒い漢がいる。
皮膚も、髪も、眼光も、服も、ベルトも、ズボンも、靴も──おそらくは、下着も黒そうな漢である。
久我重明──
机をひとつ挟んで、そこに鎮座する人物は、大相撲協会理事の、嵐川将平である。
久我重明は、相撲協会に呼び出されていた。
用心棒をしていた暴力団に、相撲協会から直接連絡があったのだ。
今現在を持ってしても、暴力団──主に一家と呼ばれる者たち──は、大相撲にとってのタニマチ(スポンサー)である。
暴対法の制定以降、クリーンな世界を客に見せることを至上命題とする彼らにとり、表立って関係を公表することはもちろんないが、依然としてその形態は昭和時代の
しかし、久我重明は最初、招集に応じようとしなかった。
大相撲が、闇社会を生きる自分に、一体何の用があるというのか。
我関せずと沈黙する重明に、連絡を預かった暴力団構成員は、言った。
『西宮富士』のことだと。
久我重明は、その名を聞くに態度を変えた。
いや、漆黒の鉄面皮は変わらないのだが、意を反してあっさりと、その日のうちに相撲協会に赴いたのである。
そうして通された理事長室。
現在ここに、嵐川将平と、横綱の金竜山。
そして、久我重明がいる。
照明が、いやにてらっていた。
久我重明の醸し出す闇を、少しでも祓わんとしているようであった。
嵐川は、ごほんと咳をひとつ打った。
ひとすじ、汗が頬を落ちている。
切り出す言葉に覚悟を乗せているでそぶりあった。
「結論から言おう、久我重明さん。アンタの出場権が欲しい」
「…………」
何のことだか、久我重明にはすぐにわかった。
徳川光成が主催する、最大トーナメントのことだ。表、裏を問わず、最大、最強、最新、そして、古き格闘士たちを集めての『大』格闘大会を開くと、徳川光成は宣言している。
そして、ここ数ヶ月。
世界中にスカウトマンを派遣し、金に糸目をつけずばら撒き、どの道でも『強さ』という一点においては文句なしの、超一流を集めていた。
当然、闇の実力者である久我重明のもとにも、スカウトは来ていたのだが、重明は先に書いた理由にしたがって、これを断っていた。
久我重明は、意味のある戦いしかしない。
その『意味』を、他者が定義づけることは不可能である。
重明は、金をもらって、仕事としてやる時もあれば、全く無益に思える時でもやる。
久我重明という、世間一般から逸脱した黒い男は、闇に溶かし込んだ独特の価値観で生きている。
兎にも角にも──久我重明は最大トーナメントを辞退したのだ。
徳川光成の使者に、代わりを探せとまで言った。
その話を、なぜ、相撲界が知っているのか。
予想はできる。
だが、あえて、重明は聞いた。
「西宮富士が、それと、どういう関係がある?」
き、と嵐川の視線が強くなる。
アンタねェ、と、口に力がこもっていた。
「忘れたとは言わせんぜ、アンタが、西宮富士と戦ったこと──」
それは、一九六X年のことである。
『昭和の巌流島』を制したプロレス王、力剛山が、ラテンウォーターで飲んでいる時のこと。
力剛山が、ヤクザと喧嘩して、腹を刺されて死んだ時のことだ。
当時、日本一の武芸者となっていた力剛山の、元タニマチであった藤木組が、横暴がすぎる力剛山に辛酸を飲ませるために、現役力士たちをプロレスに送り込もうとしていた──という話があった。
その時に、藤木組が
結局、ふたりはプロレス入りはしなかった。
だから、力剛山はヤクザと喧嘩して死んだ──と、世間的には伝わっている。
しかし、真相は違った。
力剛山は、確かに、トドメこそヤクザに刺されたが、その前に瀕死になっていたのだ。
やったのは、当時の龍金剛である。
ラテンウォーターで、力剛山と龍金剛が喧嘩をして、力剛山は負けたのだ。
本来その場に、西宮富士もいたはずだった。
ふたりの力士が力剛山の元に向かう道中、西宮富士に勝負を仕掛けたのが、この久我重明なのである。
「忘れるものか」
久我重明は断じた。
大相撲……それも、横綱とやり合ったのだ。本来、路上の喧嘩など、死んでも許されない立場の人間が、自分のような、なんの箔もない人間と立ち合った──
忘れられるはずもない。
じろりと、久我重明の黒点の眼が嵐川を睨み下ろす。
嵐川は怯まなかった。
「勝負の結果に、どうこう言うつもりはねェ。古い話だ。どっちが勝ったのか──今、要点はそこじゃねェンだよ」
ならば、一体何が問題なのか。
重明は問うた。
「あの戦いの後、西宮富士は休場を余儀なくされた。アンタ、それがどーいう意味か、わからんほど耄碌しちゃおらんだろう」
陰謀囁かれるあの夜の真実が、ふたつある。
ひとつは、龍金剛が獅子尾龍刃を敗り、力剛山を倒したこと。
そして、もうひとつの真実が、西宮富士が久我重明と戦い、重体となって帰還したことであった。
西宮富士は、場所を休むことを余儀なくされた。
つまり、戦後のわずかな時期、大相撲は角界最強と謳われ、大人気だった横綱のいない場所を、開かざるを得なかったのだ。
世間一般的には、原因不明の休場である。
横綱とは、スターだ。
角界の花形そのものであり、力の象徴であり、神の依代でさえある。
相撲のシンボルであり──
力を司るものたちのシンボルであり──
すなわちそれは、掛け値なしに、信仰の対象なのだ。
ましてや、時代が時代である。
総理大臣の顔と名前は知らなくとも、横綱の顔と名前は知っているという国民がザラだった時代だ。
横綱の欠場が、当時の相撲界にどれほどの打撃を与えただろうか。
金額で示せば、もはや青天井に届くほどと言って大袈裟ではないだろう。
「アンタ、ウチらにその損失を、まだ払ってねェだろうが」
「……さっき、勝負の結果に文句は言わない、と言わなかったか?」
「個人の勝ち負けのレベルではな」
それも、本来なら到底許容はできない。
だが、この際は目を瞑ろう。
嵐川が言っているのは、久我重明と西宮富士の死闘の末に起きた、相撲界にまつわる損失のことである。
「…………」
「もうわかっただろう。アンタは、一九六X年、大相撲に対して払いきれない
「その対価が、おれの出場権か──」
要は、手打ちの相談である。
久我重明にとり、悪くない話だった。
重明自身、あの時の戦いを、
だが、大相撲は、敵にまわすにはあまりにも巨(おお)きい。
もちろん、
だが、純粋に金銭的な話となれば、所詮一介の武術家にすぎない重明には荷が勝ちすぎる。
重明にも、必要とすれば金を出す人脈は多数いるが、これは、そんじょそこらの成金に払い切れる額でもない。
ましてや、この交渉は徹頭徹尾建前だ。
結局、重明が何をしようと、どう取り繕おうと、相撲界は久我重明の出場権を奪い取るつもりなのだ。
相手側に、そういう結論が、先にある。
だから、重明は無駄口は叩かない。
「ふたつ、聞いていいか」
重明は、鉄面皮のままであった。
「大相撲にも、徳川光成から声をかけられているだろう? なぜ、こんなに遠回しなことをする」
大体の返事は予想できている。
しかし、あえて質問した。
予想が当たっていようがいまいが、相手の口から、はっきりと言質をとる目的である。
「久我さんよ」
言いづらそうに、口を開いた。
「大相撲が、秘密裏とはいえ、多勢の前で、
予想は、どんぴしゃりであった。
相撲の、積み上げてきた歴史の話だ。
相撲の、積み立てられた格の話だ。
相撲には、戦後の時代に、自らの歴史を閉ざさぬために、自らのことを『暴力』ではなく『文化』だとGHQに──つまりアメリカに示し、存続の了承を得た先人の血と汗と努力がある。
異種格闘の歴史を遡るなら、大相撲こそ、異種格闘の源流と読んでも過言ではない事実を持ちながら、現代において、大相撲が他流と試合を行うことを、良しとしない者があまりにも多すぎた。
「……なるほど」
久我重明は目を細めた。
質問を続けた。
「それで、誰が出るんだ? ここにいると言うことは、金竜山が出るのか?」
金竜山は、現役最強の横綱である。
かつての西宮富士をも凌ぎ、歴代最強と誉れ高い。
今回の大会、金竜山なら格も強さも十分すぎる。
重明は、あるいはすでに、地下闘技場の正選手である龍金剛かと聞いた。
嵐川は首を振った。
違う、と言う。
「どんな理由があろうと、横綱は出せねェよ」
と、言い切った。
金竜山は黙っていた。
実は、これには裏があった。
最大トーナメントへの出場に対し、現役力士たちはこぞって賛意を示していた。
対して、相撲協会の役員たちは、こぞって反意を示していたのだ。
相撲界が、現役とOBで意見が割れている。
もちろん、こんなことを部外者に知られるわけにもいかない。
「じゃあ、誰なんだい?」
「神さ」
嵐川は、言いながら、どこか自嘲気味であった。
神──?
久我重明が、嵐川の言葉を脳裏で反芻した時。
扉が開いた。
そこから、
それこそが、二代目野見宿禰であった。
2.
久我重明が、見上げている。
大きい。
太い。
なんという澄んだ眼をしているのか、この男。
入ってきた瞬間から、部屋の体積の何分の一かが、野見宿禰に奪われている。
「こいつは──」
「野見宿禰さ」
二代目のな、と嵐川が言った。
野見宿禰。
日本の大相撲の源流となった、古代相撲の力士である。
その存在は古事記に記されている。
つまり、紀元前二〇〇〜三〇〇年とも言われる古代に、出雲の地にて執り行われた試合の勝者だ。
その時の相手は、当麻蹴速。
そして、古事記においてはこれは国譲りの神話として綴られており、諸説あるが──野見宿禰はタケミカヅチと同一視され、当麻蹴速はタケミナカタと同一視される説もある。
剛力無双を誇った野見宿禰は、当麻蹴速との相撲に勝ったのち、その剛力豪胆な力と性格を称えられ崇められ、
その、野見宿禰の名を、この坊やが継いでいると言うのか。
野見宿禰の頭頂から爪先までを、久我重明が見通した。
強い──ということは、いやほど
なんという手の分厚さだろうか。
この肉体ならば、剛力無双というのも頷ける。
「どうだい? 久我さんの眼から見て、こいつはよ……?」
皮肉に聞こえない嵐川の皮肉であった。
微かな戸惑いが混じっている。
久我重明は、
「……いいぜ」
と呟いた。
「本当か?」
「ああ。二代目野見宿禰が、地下闘技場でどこまでやれるのか──見たくなった」
こうして、久我重明は名義貸しとして出場を決め、その実、徳川光成には最初から野見宿禰を出場させるという手筈で段取りが行われたのであった。