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1.
あの日以降、獅子尾龍刃は週に一度だけ、あの飲み屋で天城六郎にあっていた。
一週間のうち、だいたい三日ほどは、ひたすら付きっきりで力剛山のトレーニングを受けている。
力剛は本来、龍刃の一週間はまるまる付きっきりでトレーニングに費やすつもりだったらしいが、プロレス人気の急上昇につき、商談の仕事や挨拶回りなどが増えていた。
力剛山は商談の際には必ず自分が顔を出して、自らの顔と言葉で話を通した。
特に、金が絡む話になると、マネージャーに任せるような真似は一度たりともしなかった。
プロレスの人気をコントロールせんと、懸命に汗を流し言葉を費やし、時には暴力を持って相手を脅してでも舵取りを行っていた。
抜け目なく忙しく飛び回る合間合間に、本人の興行に加えトレーニングも行なっている都合もあって、四六時中付きっきりは叶わなかったのである。
つまり、力剛山はプロレス興行と商談の都合で、だいたい一週間に二〜三日はジムを空けなければならなかった。
『不幸な事故』に見舞われた先輩たちは、その日に力剛山から破門を言い渡された。
懇願する彼らの尻を蹴り飛ばし、じろりと龍刃に向けられた力剛山の目は乱暴で、恐ろしい光を宿していた。
ある夜。
天城六郎と飲んでいた。
飲むと言っても、龍刃はまだ十三歳だ。
だから、いつも水か、お茶を頼んでいた。
天城は酒である。
ゲタに、袴。上半身は白いシャツを着ていた。
龍刃は、半袖のシャツにゆとりのある長ズボンである。
龍刃の身体は、いつもアザやコブがあった。
唇は切れていて、飲み物が染み込んでは鋭い針で刺したような痛みがあった。
しかし、本人の態度はけろりとしていた。
大きな身体がさらに大きくなっている。
天城六郎も大概、その身長に反して大きな肉を備えているが、龍刃と並ぶと大人と痩せた子供ほどの違いに見えた。
「プロレスの練習は、どうだい?」
「キツいっス。でも、楽しいっス」
聞いた後、吐き出した言葉をまたかき集めるように、天城が舌で酒を転がしている。
龍刃は変わらず、岩のような声であった。
だが、そこに、微かな喜びの色が混じっている。
天城はそれに気づいていた。
そうか……とお猪口に酒を注ぐ。
プロレスの練習は楽しかった。
確かに、バットで殴られたり、竹刀で殴られたりは、痛い。
だが、獅子尾龍刃という男は、天性の肉体を持って生まれた。
鉄アレイの一撃や、バットで殴られ続けても、悠々と耐えうる強靭無比な肉体をだ。
そこに今は、力剛山の過酷なトレーニングが加わっている。
トレーニングをやればやるだけ、龍刃の肉体は比例して強くなって行った。
それが、楽しい。
強くなる実感が楽しいのである。
力剛を乗せての腕立て伏せは、もう一〇〇どころか二〇〇回を楽々とこなせる程である。
竹刀やバットに叩かれ続けた肉は、いつしかその力に抗う為に肉が皮膚ごと分厚くなり、龍刃の身体を一回り以上大きくしていた。
力剛のトレーニングは徹底した筋力鍛錬と体力鍛錬に傾倒している。
力剛山の考えるプロレスのリング、メーンエベントは一試合九〇分であった。
ボクシングが一ラウンド三分で、一九八二年の世界タイトルマッチまでは計十五ラウンド──つまり四五分だったことを考えるなら、驚異的な試合時間の長さである。
もちろん試合によってはKOなどもありうる為、何がなんでも九〇分やり続けるわけではない。
だが、力剛山の理想として、プロレスラーは最低九〇分間は客を飽きさせないパフォーマンスをしなければならなかった。
己の肉体と、相手の肉体で。
小道具や凶器の使用も可能だが、あくまでそれは自身の肉体を引き立てるための端役にすぎない。
リングも、そのための道具だ。
力剛山の理想の究極は、いつ、どの瞬間でも「プロレスをやれ」と言われた瞬間に、プロレスをやり切り観客を魅了するレスラーの育成であった。
過酷なトレーニングの全ては、そのための土台作りである。
それを、獅子尾龍刃は本能的に理解していた。
「天城さん」
龍刃が言った。
天城は焼き鳥をつまんでいた。
きょろりと、視線だけを龍刃移す。
「俺に、柔道……教えてくれませんか?」
ネギを飲み込み、ほう、と天城は言った。
くっ、とお猪口の酒を飲み干した。
深い息を吐く。ほんのり熱く、酒臭い。
「それは、力剛への裏切りではないかな?」
「強くなりたいんス」
真っ直ぐであった。
龍刃の言葉は、何の飾り気もなく、最短距離で天城六郎の心に届いた。
力剛山への恩はある。
だが、それはそれとして、強さへの興味があるのだ。
それはそれとして、強くなることに貪欲なのだ。
おとなしい顔で水を飲んでいる癖に、その実、プロレスラーになるために虐待に等しいトレーニングを積んだ男たちを秒殺してみせた、天城六郎の強さに興味津々なのである。
なんだったら、今か今かと飛びかかる隙を窺っているかのようでもあった。
この男、なんとわかりやすく、純粋なのだ。
純粋すぎる……
「おれはね」
ため息のように深い吐息。
天城はぽつぽつと語りだした。
「おれは、ここにはある人を探しに来たんだ」
「……先生っスか?」
「いいや、違うよ。力剛じゃない……でも、結果的には力剛山に用があったのも事実だ」
測りかねる言葉であった。
龍刃が首を傾げる。
こういう動きには、まだ幼さが残っていた。
「だが、どうも力剛には会えそうもない。なにせ、彼は時の人だものな。一介の柔道家が、会いたいから会うができる話もなかったわけだ」
今度ははっきりと、ため息と共に吐かれた言葉であった。
そうか、と龍刃は行き当たる。
この間先輩レスラーたちをのした時、わざわざ仕返ししたければ力剛言え、と語りかけていたのは、そうすることで力剛と『合法的に』会うためであったのか。
だが、力剛は弟子たちを破門に処したことで、この一件はカタがついてしまった。
「なら──」
そこから思いつき、龍刃が口にしたことは、若さゆえの純朴さであった。
「先生を襲えばいいンじゃないっスか?」
天城の眼がまるまると見開かれ、じろりと龍刃を睨みあげた。
見るものをすくませる迫力があった。
目に見えて殺気が混じっている。
一瞬、龍刃はたじろいだ。
すぐに「しまった」と思った。
それを見て、心を察し、天城は殺気をおさめた。
「それでカタがつくような甘い相手ではないんだよ、あの、力剛という男は。……あれで中々、喧嘩が上手い」
「じ、じゃあ。俺が先生にお願いして……」
「やめておきなさい。そんなことをすれば、きみが力剛に殺される。仮にそこで殺されなくても、プロレスの世界でも柔道の世界でも、もう生きていけなくなるぞ」
「…………」
なんとか力になりたかった。
この天城とは、まだ出会ったばかりだ。
天城がどこに住んでいるのか、何が好きで嫌いなのか、どういう人生を歩んできたのか──
龍刃は天城のプライベートを何も知らない。
なんとなく知っているのは、天城六郎という男の強さである。
鍛え上げた柔道家というものの強さ。
そして、もうひとつ。
それは、この男の腹の中に潜む、暖かさと恐ろしさであった。
からん、とゲタを鳴らして、天城が立ち上がる。
それにね、と言った。
じわりと傷口に染みるような、
「おれの実力を知りたいなら、ここでかかってくるといい」
「──ッ!」
立つと、流石に座っている龍刃より、天城の視線が高い。
ぎょろりと転がした目玉が、龍刃を斜めに見下ろしている。
ごくりと、龍刃が喉を鳴らした。
がたん、と立ち上がった。
立ち上がるつもりはなかった。
恐怖に突き上げられ、反射的に立ち上がってしまった。
天城はふ、と笑みを浮かべ、カウンターに金を置いて外に出た。
広場で、龍刃と天城は向かい合った。
2.
転がされた。
転がされている。
確かに掴み掛かった。
力いっぱい襟を掴み、引っ張った。
引き寄せて投げるつもりであった。
だが、地面に頭からぶつかったのは、天城を投げていたはずの龍刃であった。
つう、と鼻から血が出てくる。
鼻が潰れた。
擦れた皮膚が赤みを帯びた。
「きなさい」
見下ろす天城が言う。
とろけるような甘言である。
待っていた、誘っていた。
龍刃は立ち上がった。
「らああッ」
引いてダメなら、今度は押した。
天城の胸に、張り手を打ち込んだ。
地面を窪ませるつもりで強く踏み込んだ。
相撲で言うところの鉄砲のようであった。
常人がまともに食らえば胸筋が沈み、胸骨が砕ける一撃である。
しかし、胸に当たったハズの龍刃の掌に、まるで感触がない。
量感がないのだ。
確かに触れているのに。
筋肉の弾性も、硬さも、重さもない。
まるで空気を打ったようだった。
あるいは、真綿の塊に手を突っ込んだようだった。
そして、その真綿の塊に、グンと引っ張られた。
倍の速度で、龍刃の身体が前に泳ぐ。
受け身を取る暇もなく、顔から、正面から、龍刃は地面に突っ伏した。
「──ッッ!?」
「これが、柔道だよ」
何をされたのか。
尋ねても、その理屈を天城は答えなかった。
ただひとつ、
「これは柔道で言うところの『理合』だ。これが、柔術を柔道へと変えた、嘉納治五郎先生が打ち立てた柔の道なんだよ」
「────!」
柔の道。
やわらのみち。
それは、龍刃が初めて聞く言葉であった。
太い言葉だと龍刃は思った。
その言葉の裏に、どれほどの歴史と研鑽があるのか、今の自分には計り知れない。
そんな広大なものの一端を、今、天城六郎という男は自分に授けてくれたのだ。
「ま、これは餞別というやつだ。おれはもう、地元に帰るからね」
爽やかに、静かに、天城は笑った。
邪気のないそれを見ていると、龍刃の目に、涙が浮かんできていた。
両掌を地面につけた。
頭を、額を地面にぴたりとつけた。
「ありがとう……ございますッ!」
それを、天城はしっかりと受け止めた。
「ありがとうございますッ! ありがとうございますッッ……!!」
龍刃は涙が止まらなかった。
みっともなく泣くその顔は、少年らしい幼さでしわくちゃになっていた。
3.
ある日のことであった。
龍刃はジムで、いつものようにトレーニングをしていた。
もちろん他のレスラーたちもである。
力剛山はいなかった。
興行の話をするために外に出ていた。
龍刃のやっているトレーニングは、スクワットである。
しかし、それをゆっくり、時間をかけてやっていた。
ひとつ屈伸して伸びるのに、三〇秒はかけている。
さらに、肩にかけるようにして一〇〇キロのバーベルを持っていた。
今で言うネガティブワーク(縮める運動)とポジティブワーク(伸ばす運動)を丁寧にやっていた。
見た目の筋量を肥大化させやすいトレーニング法であった。
汗が流れている。
呼吸は深く吸い、浅く吐く。
筋肉を動かしている意識を持ちながら、深く強く噛むのである。
こうすることで、鍛えている部位に意識的な圧力がかかり、筋力トレーニングはより効果的になる。
と、龍刃の動きが止まった。
彼だけではない。
ジム内の男たちの視線が一箇所に集まって、その動きを止めていた。
そこに、太い肉の壁が現れていた。
ジムの玄関に、太い男が立っていた。
帽子を深くかぶっていた。
つばが両端から伸びる、パナマハットである。
紺色のスーツを着ていた。
ネクタイはしていない。
中のワイシャツの第一、第二ボタンはとめられていなかった。
胸元が露出している、奔放な格好である。
だが、それも納得するしかない。
男の肉の量は、ただごとではなかった。
身体が太い。上背が高い。
だが、骨格に反して明らかに筋肉量が多すぎる。
肩幅の広さが尋常ではなく、故に、男は縦にも横にも広くて太い。
遠近感が狂いそうな
プロレスラーと比較しても──力剛山と比較してすら、圧倒的な肉であった。
ジムの、コワモテの男たちの中に入り込んでいるのに、その佇まいには微塵も緊張が感じられない。
だから、みんな目を奪われて、離せなくなっていた。
男は、まるで光輝いてさえいるようであった。
「な、なにモンだい……?」
ようやく、コーチが尋ねた。
ややうわずった声であった。
男の纏う空気は、プロレスジムに入門したい……という空気ではなかったからだ。
となれば、道場破りか?
男は少しだけ顎を持ち上げた。
まだ、目元は見えない。
太い唇と、太い鼻が見えた。
口が、ゆっくりと開く。
「いやァ……力剛に会いに来たンだがね」
声は、やはり太い。
コーチの表情が、一気に怪訝なものへと変わる。
男に対する恐ろしさや戸惑いは消えて、敵意が浮かんでいた。
「アンタ、道場破りかい?」
「はは……今どき、そんなワケないだろう?」
「どうかな……ズイブンご立派な身体をしてらっしゃるが、入門してェって気じゃなさそうだぜ?」
「入門じゃ、ないよ」
楽しんでいた。
男は、この含みのある会話を。
あるいは敵意を向けられることを。
コーチの目に怒りが満ち始める。
からかわれていることに気づいたのだ。
「はいりな」
コーチが言うと、男は靴を脱いで、ジムに踏み出した。
ぬう、となめらかな歩き方であった。
あっという間に、男はジムの中央までたどり着いた。
つまり、ジムの中央に配置してある、リングの上の、ど真ん中に。
「おい、誰かこのデカい人の相手をしてやれ」
「おれがいきます」
即答したのは龍刃であった。
ぐるりとジムの視線が龍刃に集まった。
コーチは流石に狼狽えた。
龍刃は身体はデカい。
身体能力もハンパではない。
だが、まだ十四歳になったばかりだ。
試合経験もない。
道場破りの相手をさせるには若すぎる。
「いきます」
だが、龍刃は断固たる意志を見せつけた。
目が、意志に呼応して黒く輝いている。
それは、このジムに入門した時に力剛山に負けなかった、強い目であった。
「……わかった。ただし、腕でも足でもいい。極めたらすぐに折れ」
ぼそりと言って、コーチは龍刃をリングに上げた。
男と、龍刃が対峙した。
4.
リングの中央で、デカい男が向かい合う。
獅子尾龍刃、一九一センチメートルで九八キログラム。
男の体格もそれに全く負けていない。
いや、肩幅の異常な広さの分、男の方がひと回り大きくさえ見える。
男はジャケットを着ていた。帽子もそのままだ。
泰然とした態度で、構えてさえいない。
だが、それを誰も指摘しない。
誰もが感じていた。
男の、異常極まる戦闘能力を。
「りゅ、龍刃! 極めちまったら躊躇するなよ!! 折れ!! すぐ折るんだ!!」
龍刃は腰を落とす。
足を肩幅より広く広げて、踵までベタ足でリングにつけている。
顔を沈めて、軽く開いた両手を目線と同じ高さに並べていた。
額に、汗がべっとりと浮かんでいた。
この場にいる誰よりも、正面に対峙している龍刃が、男の力を一番その身に浴びている。
飲み込まれそうだった。
この力は、天城とは違う。
最も近い力は、力剛山であろうか。
退がりたい。
という気持ちと、
退がるなバカッッ!
という気持ちが心中に渦巻いていた。
その緊張を、まるで無視して、男が歩み出した。
泰然とした、ジムに入った時と、変わらぬそれである。
あまりにも無造作であり、龍刃は反応が遅れた。
「じゃッッ!!」
拳を固めて振り抜く。
が、空を切る。
龍刃の頭に、上から、男の手が被さった。
掴まれている。
龍刃の背筋に薄寒い感覚が刺さり──
そのまま、意識を失った。
5.
「範馬さん、来られたのなら一本連絡をくださいよ」
ジムの外であった。
とある旅館の、和室である。
テーブルの上に豪勢な料理と、酒の入った小瓶がずらりと並んでいる。
プロレス興行を盛り立てるパートナーである興行師の永井筆夫を挟んで、男にそう言ったのは力剛山であった。
とても力剛らしくない、謙虚な物言いである。
力剛山のテーブルの向かい側、範馬と呼ばれた男はにこりと太い笑みを浮かべた。
「ワルいね、リキ。だけどよ、おれのことぐらいは、門下生には教えておくべきだろう」
「範馬さん。それはまだ先の商売の話で、あいつらが今知ることじゃあないんですよ」
「でも、そのせいでおれはさっき、襲われかけたンだぜ?」
「それについては謝りますがね……」
苦い言葉を漏らしてはいるが、やはり力剛山にしては明らかに覇気が無かった。
「ままま! 範馬さんもケガは無かったことですし、さすがは孤高の柔道家です。お見それしましたなぁ! なぁリキよ」
すかさず永井筆夫が間を取り持った。
中背で肥えた体躯に禿頭。丸メガネが特徴的な男であった。
人と人の関係を紐づけて金に換える力を持つ男でもある。
プロレス興行のテレビ進出を企む力剛山には、今最も必要な力を持つ男であった。
そして、この太い男。
名を、範馬勇一郎と言った。
孤高の柔道家。
鬼の範馬勇一郎。
日本最強と謳われる武道家であった。
力剛山は、自分より先にブラジルとアメリカに渡ってショープロレスを行っていた、この範馬勇一郎に目をつけていた。
柔道最強の看板を持つ範馬勇一郎の名は、武道に興味がある日本人ならば知らぬものはいない。
勇一郎とタッグを組めば、余所者を嫌い堅苦しくせせこましい日本武道界に、プロレスの名を売れる──
そういう目論見であった。
「彼、名前はなんて言うんだい?」
勇一郎が言った。
誰のことか、力剛にはすぐに見当がついた。
「獅子尾龍刃です。まだまだ半人前のペーペーですがね、なかなかいい身体をしとるので、私がじきじきに鍛えとるんですよ」
「ふうん、獅子尾龍刃くんね……」
範馬勇一郎はその名を反芻した。
にこりと、その口に太い笑みが浮かんでいた。