0.
使命を悟った。
この名を、
野見宿禰──
神の名である。
古代相撲の神だ。
剛力で知られていた。
豪胆で恐れられていた。
生き人の身でありながら、世人の信仰を集め、神となった漢であった。
しかし、豪奢極まる今の相撲界──現代社会においては、半ば、忘れられた神であった。
野見宿禰を祀った祭壇は各所に存在する。
しかし──野見宿禰が真に眠るとされる墓は、惨憺たる有様なのだ。
まず、場所がひどい。
現代社会から隔絶させるように、千年階段を登り切った場所に追いやられている。
野見宿禰は『神』なのだから、下界を鳥瞰できる場に墓があるのは、当然だという意見もあるかもしれない──が、ここは明らかに意図が違う。
土地に、手入れがされていない。
雑草が野放図に生えている。
枯れ木、枯れ枝、枯れ葉がそこかしこに散らばり、墓石と石畳を蜘蛛の糸が繋いでいる。
直近に、人が訪れた気配がなかった。
まるで、野見宿禰の存在を、現代から突き放すために建てられた場の様である。
現代相撲の本拠地、両国国技館の華やかさ、豪奢さとは比べるべくもない。
相撲に。
いや、力士たちには、いつしか気位が必要とされた。
世間は、相撲取りに品格を求め始めた。
古来では──それこそ、野見宿禰の時代から、力士とは剛力豪胆なものであった。
野見宿禰の相手であった当麻蹴速も、豪放極まる漢あったに違いない。
この伝説の立ち合いが、そもそも当麻蹴速の、当時の権力者に対する『物言い』によって生まれたのだから。
しかし、いつしか、力士は品格と気位が求められ始めた。
何故か──?
いつからだ?
相撲が、お上品を気取り始めたのは?
相撲は、その裏に、必ず、暴力団の存在があった。
タニマチである彼らは、力士が相撲を行うに必要な金を出資し、相撲を行うべき場所を確保する役割があった。
江戸時代には、すでにそうだった。
力士は、その地方の部屋ごとに、土地の有権者と繋がりを持っていた。
戦国時代であっても、そうだった。
各地の戦国武将たちは、相撲を愛していた。
いつだって、相撲は『時の暴力』と繋がりがあった。
そりゃあ、最低限度の気品はいつだって必要だっただろう。
だが、現代ほど厳格かつ繊細ではなかった。
力士──つまりは、力を司るものたちだぜ?
荒っぽくて、ワルっぽくて、デカくて、強い。
それが、それに、
世間というやつは、いつしか“お上品さ“を求めるようになったのだ。
そうなりゃあ、当然。
当麻蹴速や野見宿禰みたいな乱暴者を、祭り上げられるハズもない。
当の力士たちが、である。
力士が、ヤクザと付き合いがある──という、至極当然の話が表に出るだけで、連日スキャンダルとなって、誌面を飾るのが
野見宿禰?
古代相撲?
殴ってよくて──
蹴ってよくて──
マウントとってもよくて──
目ん玉を突いてもよくて──
きんたまを蹴ってもいい──
なんて、
そんなものを、いらないものだと
だから、隠したのだ。
だから、遠ざけたのだ。
だから、我々は、忘れ去られることを望まれているのだ。
卑怯者どもめ。
いらないなら、いらないと言えばいい。
消えて欲しいなら消しにくればいい。
勝手に萎えて、勝手に消えて、勝手に滅んでくれるのをただ待つなどと、軟弱極まりない選択肢しか取れない弱虫どもめ。
何が力士だ。
何が現代相撲だッッ!!
怒りを通り越し、その腰抜けっぷりに呆れてくる。
だから──この若者は、日々鬱屈とした想いを重ねていた。
社のすぐ側で四股を踏む、後の、二代目野見宿禰である。
『宿禰の社』と呼ばれる深林の中で、四股を踏み続ける毎日の中で、空虚な力士と組み合って、力を蓄えて何になる?
常人ならざる力を秘めていた。
比類なき力だ。
そして、倒れた相手を躊躇なく踏み抜ける心も持っている。
全て──この社会に必要がないものだ。
必要がないから、こんな森の中に追い立てられている。
『お前たちはいらない』と後ろ指を刺されつつも、その力を知るものたちからは恐れられているから、『宿禰の社』などと大層な名だけを授かり、
ここは、神の地だと言われている。
邪気を寄せ付けぬ神秘の地だとも。
この、薄暗い森の中がだ。
冗談を。
この社が、真に寄せ付けないのは、人であろうが。
光であろうが。
野見宿禰の名そのものは、もう二七〇代を跨ぐ。
しかして、日の当たる世界に羽ばたいたものは、初代を除き、皆無であった。
おれの力を示したい。
満天下に、おれがいることを知らしめたい。
光の世界で生きていきたい。
人の波に揉まれて呼吸をしたい。
空虚に、力士を想う。
身長は、二三〇センチメートル。
体重は、二五〇キログラムの横綱だ。
全方向に、その力を発揮する強敵だ。
それと、組む。
組んで、倒す。
全身の筋肉を余すことなく
しかし──空虚だ。
所詮は、妄想と組み合っているに過ぎない。
そこに存在しないものを相手に勝ち誇る。
存在しないものを相手に、力を発揮する。
なんと虚しいことか。
勝てば勝つほど、力をつければつけるほど、虚しさが増していくだけじゃないか……!!
野見宿禰となる青年は、時が一刻過ぎるたびに、自らの骨と肉が腐りゆく音を聞いていた。
このまま、
おれはどこにも行けず、
朽ち果てるしかないのか──
四股を終えて立ち上がる。
その時、青年は気づいた。
見上げた先。
正面である。
そこに──神が立っていることに。
その神が、自分を見上げていることに。
中華服を来た漢だった。
髪は金髪で、総髪に結っている。
短い無精髭が生えていて、顔の作りは東洋人のそれである。
身長は一八〇センチメートル強。
体重は重く見積もっても一〇〇キロ程度だろう。
外見で比較するなら、男は宿禰の半分ほどの大きさに見える。
だが、圧倒されていた。
存在の圧が違う。
目の前に在る男は、直感的に感じ取れる人間の分厚さ──とでもいうものが、まるで違う。
その量感は、力士どころではない。
分厚く、大きな人間を『山』と喩えることは多いが、宿禰の目の前にいる男は、紛れもなく『山』の様であった。
山が、人の大きさ、人の形に収められている。
深い眼をしていた。
宿禰を見上げる眼の中に、大海が浮かんでいる様であった。
「──……ッッ!?」
「きみが、二代目野見宿禰かい?」
男は軽い口調であった。
宿禰の元に歩み寄る。
足音がない。
重さがない。
自然体にも関わらず、幽鬼のような足取りであった。
「ふうん。歳の割に、よく練り上がってるじゃないか」
どちら様ですか、と宿禰が聞いた。
声が、無意識に震えていた。
「わたしは、かつてのきみだよ」
と、男は言う。
宿禰は耳を疑った。
唖然とする様子を見て、男が自分の発言の抽象性に気づき、うむ、と小さく唸ったあと、言葉を変えた。
「ああすまない。わたしは野見宿禰とは呼ばれていなかったか。
────!?
タケミカヅチ!?
それは、神話の話だろう。
野見宿禰と当麻蹴速と同一視もされる、神話の神のひと柱のハズだ。
「……いや、いやいやいや。ありえないでしょう。古代のハナシですよ。じゃあ、何? あなたは今、二〇〇〇歳なんですか?」
「さすがに、肉体的にはそこまでではないかな。この身体も相応に歳はとっているが……だが、
「────?」
言っている意味がわからなかった。
意味はわからなかったが──男の発言は、宿禰には嘘だと思えなかった。
男の存在の分厚さが桁違いだからだ。
まるで端が見えない。
それは深度で言えば底なしの深さ。
至高さで言えば、まるでてっぺんが見えない。
一体、どんな鍛錬を積めば、人生を過ごせば、人間はここまで──
「わたしはね、蹴速くんにね。二代目の宿禰くんを励ましてほしいと言われて来たんだが……」
タケミカヅチは、じろりと宿禰を見た。
どきりと、宿禰の心が跳ねた。
「なるほど。どうやらきみは、有り余る力の解放を求めている……と言うところかな?」
「──なッ!」
見透かされた。
まだ、男がここに現れて、数分も経っていないと言うのに。
まだ、ひと言ふた言しか、会話を交わしていないと言うのに。
一瞥しただけで、想いを見抜かれた。
「うん。わたしができることなど知れているが、これだけは言わせてもらおうかな──きみの人生で大事なのは、きみの意志だ。きみが生きる上で尊重されるべきは、きみの
諭すような口調であった。
なんの裏もない。
思っていることを、思ったまま口にしている。
「ついでにもうひとつ。わたしも、それだけ練り上げられた力が無為に死ぬのは惜しいと思う。一度……思い切って、山を降りてみてはどうかな?」
しかし、タケミカヅチ。
しかし、タケミカヅチよ。
わたしには、戦える場所がないのです。
みな、今更、古代相撲など目もくれない。
華やかで、上品で、見た目ばかり豪奢な相撲を求めているんです。
「いや、そんなことはないよ」
宿禰の弱音を、タケミカヅチは一刀両断する。
「今の相撲──今の、
龍金剛。
確か、そんな名前だったか。
二千年前の約定。
わたしが、生涯、ただ一度だけ味わった敗北がある。
その汚名を濯ぐために、わたしを信奉していたものたちが集まっている。
彼らは、日本武道に復讐を望んでいるらしい。
「復讐も、生きる力だ。きみがもし『そう』望むなら、誰になんと言われても『そう』生きたらいい。他人に、自分の人生のオールを任せてはいけない」
────ッッ!!
涙であったか。
眼からこぼれ落ちる、熱い雫の名前は。
涙を流しているのか、おれは。
望んでいた言葉を与えられて。
あったばかりの『神』の言葉に、感動しているのか、おれは。
「いいかい」
手で、涙を掬う宿禰に、タケミカヅチは言った。
「今度、地下の……なんとかという裏格闘大会があるそうだ。そこに、間違いなく、今の相撲も声を掛けられるが、まあ、中々返事はしづらいだろう」
だから、きみが代わりに
相撲を代表して。
きみにはその資格がある。
だって、きみは……
「相撲の神、二代目野見宿禰なんだろう? きみが出るなら、誰も文句は言わないさ」
微笑んでいるのかいないのか──
淡々とした言葉ではあった。
だが、その言葉は、瞬く間に宿禰の全身をめぐり、彼の心の奥底から、味わったことのない力を引き出していた。
血が、肉が、脈動している。
身体が大きく膨らんでいる。
熱を発していた。
独特の熱を。
酔い溶けるほどの、熱を。
かくして、二代目野見宿禰は山を降りた。
かくして、二代目野見宿禰は大日本相撲協会に降臨した。
その身姿、その力。
現代力士どころではない躍動する心を見て、嵐川将平と金竜山はたちまちのうちに、野見宿禰の最大トーナメント参戦を認めたのである。
1.
「似てるよねぇ」
と切り出したのは、斑目貘であった。
視線のすぐ先には闘技場があり、すでに、伽羅と野見宿禰が入場している。
その視線を追って、自らに疑問符を立てたのは、隣に並ぶ徳川光成、片原滅堂、不知火検丈。
そして貘の背後に控える、お屋形様お付きの立会人、夜行妃古壱である。
「お屋形様……失礼ですが、お疲れでございましょうか?」
「えっ!?」
貘は、訝しむ夜行の目線に苦笑いを浮かべる。
「違っ! 違うって!! 伽羅さんがお相撲さん体型とかそういう話じゃなくって……」
「嘘喰いよ。なにを寝ぼけてんだおめえは」
「確かに、気構えは似てなくもないとは思うがのぅ」
「ホッホッ、ケンちゃんもめっちゃんも厳しいのう!」
「違うんだって! おじいちゃんたち……あっ、夜行さん。コーヒーはマジでいらないから……」
「しかし、お屋形様……眠気覚ましに私のコーヒーはうってつけでございます。淹れたてをご用意できないのは心苦しいのですが、味は心配いりません。最近はアルミ製のボトルに入れることで温度を保ったままホットコーヒーを携帯可能になっておりまして、多少鮮度は落ちますが、いつでもどこでも淹れたての風味を……」
「いやっ、だからさ。違うんだって」
貘が(殺人)コーヒーを前に冷や汗を垂らしながら、言う。
「俺も、今思ったんだけどさ。夜行さん、相撲って、號奪戦に似てない?」
「號奪戦……?」
「徳川様、ご説明させていただきますと、號奪戦とは……」
倶楽部賭郎の立会人には、零から百號まで一〇一の位がある。
號とはゴウと読み、それは立会人の優秀さを示す『豪』。
強さや武力を現す『剛』や『強』。
極まった希少性を現す『毫』。
務めを果たすという『業』。
など、一文字に多数の意味を併せ持つ。
そして、號奪戦とは、下位の號数を持つ立会人が、上位の號数を持つ立会人に、號数を賭けた尋常な勝負を挑むことである。
この場合、ひと目でわかる通り、挑まれる側には例え勝っても一切メリットがない。
だからか、せめてもの公平性を保つためなのか、厳格に敷かれたルールがあった。
それは、
「ホラ、號奪戦って、制限時間が『一〇秒』じゃない。で──相撲もさ、だいたい『一〇秒』で決着しちゃうモノじゃない?」
それだけではない。
號奪戦は、一〇秒以内に、挑む側が相手を斃せなかった場合、その時点で負けとなる。
そして、挑まれた側は全力を持ってそれを排除しなければならず──つまり、結果的には殺すことになる。
故に、防御が介在する余地がない。
全ての攻撃を受け、その上で相手を攻め殺す。
それが號奪戦なのだ。
「でさ。相撲って……言うじゃん。『押さば押せ、引かば押せ』って。俺は、そっちはあんまり詳しくないんだけどさ。それがいわゆる相撲の極意なんでしょ?」
「……なるほど。確かに似ているのぉ」
“押さば押せ、引かば押せ“。
“押しは相撲の極意なり“。
これは、相撲に限らず武道の真髄である。
相手に対して、動きを変えるのではない。
相手がどう動こうが、立ち合いとなれば、やることは決まっている。
攻めの一手。
ただ、どんな状態でも自分であれ。
ただ、勝つためには攻めあるのみ。
押して押して、押しまくる。
そして、勝つ。
相撲は、わずか四.五五メートルの土俵に、大男がふたり入り込んで、相手を外に押し出す武道なのである。
回避の暇などない。
その隙間すらない。
相手が押すなら押し勝つ。
相手が引くなら、やはり押し勝つ。
故に一〇秒。
故に相撲。
「……なるほど。確かに、お屋形様のおっしゃる通りでございますね」
「でしょでしょ?」
ついでに、と獏は続ける。
「お屋形様になって、そりゃあもういろんな本を読めって読まされたんだけどさ。織田信長って、賭郎の初代お屋形様に取り立てられたから死んだんだってあるじゃん」
「左様です。初代お屋形様──切間陽炎ノ助は、本能寺の変にて織田信長の首を取り立てた……とされています」
「でさ、織田信長って、有名なハナシで相撲をすごく愛していたワケじゃない?」
貘の言うことは事実である。
織田信長は、戦国武将の中でも、はなはだしく相撲を愛していた。
幼少から自身も相撲を取り、成人して権力を得てからも、諸国の有力力士を集めた相撲大会を九度、自ら開いている。
そこに、自身の配下であるヤスケ──なんと、外国人を参加させていたりもするのだ。
そのヤスケは、元は
身の丈一九〇センチメートルを超え、『十人力の剛力』と呼ばれていたヤスケを、信長はいたく気に入り、宣教師の男から譲り受け、どんな相撲をとるのか期待して大会に参加させたのである。
そこで、信長の目の前で、圧倒的な力で二〇人抜きを果たして優勝したヤスケを、信長は糾弾するどころか褒美をとらせ、ヤスケの言を聞き入れて京に使者まで送ったという。
なんと、信長は自ら開いた『国技』の相撲大会で、配下とはいえ外国人──黒人が優勝を掻っ攫っても構わなかったのだ。
それほどに、信長は相撲を愛し、また相撲に強き人──力士を好んでいた。
「だからさ、もしかすると……もしかするとだよ? 初代お屋形様って、信長に影響を受けて、相撲を参考に、號奪戦を思いついたんじゃないかなあってさ」
號奪戦とは、初代賭郎の頃から存在する、『力を示す
そして、相撲にとっての大一番とは、まさにそれである。
お互いの位を賭け、位の違う相手がぶつかり合う、史上唯一の無差別格闘技が相撲なのだから。
貘の論説に関心する徳川たちを尻目に、貘はさらに、イタズラに笑った。
「それどころか……ひょっとすると、初代お屋形様って、織田信長の専属立会人だったんじゃないのかな〜ってさ」
現代の賭郎において、お屋形様は立ち会いも取り立ても基本行わない。
立ち会いはあくまで立会人の使命であり、取り立てもまた、しかり。
しかし、初代お屋形様である切間陽炎ノ助は、わざわざ延焼真っ只中の本能寺に忍び込み、手ずから信長の首を取り立てている。
聞くものにとって、特に、賭郎内部の話を初めて聞く徳川、滅堂、不知火の三人にとり、貘の言葉には充分な説得力があった。
夜行が口を開く。
その言葉は、固く、氷のようであった。
「……お屋形様。とてもユニークな論説でございます。この夜行、感服いたしました」
「フフフ、でしょう? 夜行さん、徳川さんたちも、これ、俺が考えたって言いふらしてもいいんだよ?」
「しかし、確たる証拠は何もございません」
夜行が貘に、頭を軽く下げながら言った。
悪びれない口調にそぶりである。
いいよいいよ、と貘は笑った。
「気にしないでね夜行さん。俺の、ただの……
「…………」
夜行はまだ、頭を下げていた。
まるで表情を悟られたくないかのように……。
「しかし、それならば面白いことになってきたの〜!」
針を刺すような緊張感を、炯々とした声で破壊したのは滅堂であった。
眼が輝いている。
「伽羅くんは、元零號立会人と聞いておる。つまり……伽羅くんは、その『號奪戦』を何度か乗り越えておるんじゃろう?」
「そういうことになります」
「では夜行よ。伽羅なる男もまた、ベテランの相撲取りと言えるのではないか?」
凝縮された『一〇秒』の死闘。
防御不要の戦いこそ相撲であり、號奪戦と言うならば、力士たる宿禰は当然として、伽羅もまた、その心を備えているに違いない。
『打たれる覚悟をした力士は倒れない』
という言葉があった。
ここに並ぶ怪人たちがそれを知るのは、徳川光成が宿禰の参加を決めた際に、宿禰自身から聞いた言葉を伝えたからである。
これと全く同じ言葉を、固有名詞を『プロレス』に入れ替えた上で、徳川はアントニオ猪狩から聞いたことがあった。
今なら、その理由が
アントニオ猪狩の師である力剛山もまた、元は関脇までいった力士であるのだから。
賢しい力剛山は、相撲の格言を、さも自分が考えた、プロレスが発祥の言葉であるかのように、風潮していたのだろう。
とにかく、伽羅もまた、その心構えと同じものか、類似する覚悟を持っていると考えて良さそうである。
「始まるぞォ」
少年の冒険心を踊らせて、光成が言った。
2.
『
と太鼓が打ち鳴らされた。
少し遅れて、闘技場の中央で、宿禰と伽羅がぶつかりあった。
宿禰は、腰を割っていた。
両の腕を前に出していた。
蹲踞の姿勢──力士の立ち合いの構え。
対する伽羅は、自然体だった。
開始の合図とともに、鉄砲の如く、両者は飛び出した。
そして、突撃する宿禰の額に、伽羅の肘がめり込んでいた。
一秒経過────
宿禰は当初、ぶちかましをするつもりはなかった。
『両者相踏み』の古代相撲に倣い、ぶちかましの勢いを乗せて、蹴るつもりだった。
しかし、伽羅の接近速度が尋常ではなかった。
伽羅の使った歩法は、中国拳法の絶招歩法、
踏み出した前足を土踏まずを相手に向け、後ろ足から腰、肩をひねってその場で溜めを作り、相手に向かって解放する。
それによって、術者は身体ごと、打ち出された矢のような勢いで相手に向かっていく。
それに拳や肘を突き出すと、打点に術者の全体重が乗るために、凄まじい破壊力を生むのである。
これを、伽羅は外門頂肘と合わせて放った。
肘打ちのことだ。
宿禰は咄嗟に蹴るのをやめ、持ち上げかけた脚で、さらに強く地面を蹴っていた。
カウンターの形で、伽羅の肘が頭部にめり込む。
額が割れて、血が吹き出した。
だが、勢いが止まらない。
伽羅の肘が突き刺さったまま、血を流したまま眼も閉じず、宿禰は諸手打ちによる突き上げを、伽羅の顎に向けて打った。
二秒経過────
諸手打ちによって、伽羅は大きく打ち上げられた。
が──宿禰は驚愕していた。
感触が、ない。
伽羅の顎を撃ち抜いた感触である。
確かに当たっている。
だが、その手応えは、宙を舞う紙切れを叩いたそれである。
事実、伽羅はゆったりとした動きでバク転している。
自分から跳んでいる。
だが、あり得るのか!?
この脱力振り。
伽羅の攻撃から宿禰の攻撃に転ずるのに、かかった時間は一秒未満。
あの刹那に、これだけの脱力を発揮できるものなのか!?
いや──
考える必要などない。
相手がどうであれ、自分がやることを変える必要はないのだ。
“押さば押せ、引かば押せ“。
相撲はそうだ。
それでいい。
躱されたのならば、躱わせなくなるまで押すのみ。
伽羅が着地する。
宿禰は、再びぶちかましを行った。
速い。
今度は、伽羅が体勢を整え切る前に、ぶつかった。
伽羅の身体に、両腕を巻いている。
掴むッッ!!
背骨──あるいは、肋骨ッ!!
あるいは、肩甲骨をッ!!
伽羅は、宿禰にしがみつかれる中で、綺麗に手足を縦に折り畳んでいた。
そして、わずかな空間で、恐ろしい威力の掌底を、宿禰の顎に打った。
だが、びくともしない。
そうくることはわかっていた。
打たれる覚悟をした力士は倒れない。
伽羅の体勢に構わず、そのまま、宿禰は突き進む。
五秒経過────
宿禰の顎が跳ね上がった。
足が、止まった。
3.
伽羅は、掌底を放った手をそのままにしていた。
その上で、立っている自身の肘に向かって、自身の膝を思い切り打ち込んだのである。
こうすることで、片手の設置面に、伽羅の腕と脚の力が全て乗り切る。
接触状態故に、もらう側は躱すこともできず、打撃がそこから伸びることも意識できない。
意識外からの不意打ちに等しい。
これに過敏な反応を示したのか、滅堂であった。
その技は似ていた。
加納アギトの必殺の一撃に。
零距離から行われる発勁、『龍弾』の性質にそっくりだった。
宿禰の顔が持ち上がる。
上半身がわずかに持ち上がる。
足が止まる。
だが、腕はまだ、伽羅の腰を掴んでいる。
それで、充分だった。
立ち合い開始から七秒時点。
伽羅の裡門頂肘が、宿禰の胸部──心臓を、強く、穿った。
4.
心臓部をピンポイントで強打すると、一瞬で人は落ちる。
心臓が一瞬止まるからだ。
もちろん、そう簡単にはできない。
原理上は可能だが、人の力では不可能とされている。
それを実現するためには、打撃にコンクリートを貫くほどの破壊力と、針の穴を通すような精密性とを併せ持たなければならない。
もし仮にそんな力があったとしても、それほどの力で心臓部を強打した場合、肋骨をへし折り心室細動を起こして、ほぼ確実に殺してしまうだろう。
だが、極まった武術家というのは、この不可能を可能にしてしまう。
例えば、一回戦で刃牙と戦った宮沢熹一の扱う灘神影流。
まさに、刃牙を一度深いダウンに追い込んだ『破心掌』が、この技の類型なのである。
そして、伽羅は古今東西の武を収め、あらゆることを実戦で経験した猛者中の猛者である。
ましてや伽羅の相手は力士である野見宿禰。
その性質上、直進的に動いてくることはわかっていた。
凄まじい馬力を誇るのは見てわかる。
その上で、強く、深く踏み込んでくることも想定できた。
横や、上下の動きが激しい相手に比べると、真っ直ぐ向かってくる分、心臓打ちは狙いやすい。
かくして、伽羅の心臓打ちは成功した。
開始九秒に差し掛かる頃、すでに、宿禰の意識はなく、心臓は止まっていたのだ。
一〇秒経過────……?
その瞬間、恐ろしいことが起こった。
「おいしゃあぁあッッ!!!!!」
宿禰が叫び、伽羅を投げたのだ。
既に白眼で、意識もない。
心臓が止まっているにも関わらず。
にもかかわらず、宿禰は声を張り上げて、掴んだ伽羅の腰を引き寄せて持ち上げ、顔から闘技場に叩きつけたのである。
脱力が間に合わず、伽羅の身体が闘技場を跳ねた。
が、すぐさま膝立ちとなり、顔を持ち上げて宿禰に向き合う。
血に染まる顔が、狂喜を浮かべていた。
だが、一瞬で、手も足も止まった。
表情に正気が差し込む。
宿禰は──立っていた。
だが、首は前倒しに、ことんと倒れていて、腕は、だらりと力無く伸びている。
やはり、意識はない。
すでに戦闘不能だ。
それでも──宿禰は立っていたのだ。
伽羅の顔が、再び狂喜を纏い始める。
トドメをささんと笑う。
拳を振るう。
が、
──伽羅さん。
伽羅にだけ、その声は届いていた。
名を呼ばれた。
伽羅が、この地上で、最も信頼する男の声。
伽羅の足が止まった。
拳も止めた。
宿禰の顔の、わずか二センチ手前だった。
『勝負ありッッ!!!』
そのコールが聞こえたのは、試合開始からたっぷり三〇秒が経過してからであった。
「チッ」
と、舌打ちする。
宿禰が伽羅を投げた時、既に、一〇秒が経過していた。
そして、受け身が取れなかったが、伽羅が無事でいられたのは下が比較的柔らかい、闘技場の砂地だったからだ。
もし、アスファルトや石畳であったなら、顔から落とされた時点で戦闘不能は免れない。
下手をすれば死んでいる。
即ち、これを號奪戦と考えれば、伽羅の負けである。
相撲だったとしても、伽羅をぶちかまして寄り切り、最後まで脚の裏以外を地につけなかった、宿禰の勝ちである。
だが、試合に勝ったのは、伽羅だ。
「────フン」
片鼻を抑え、鼻血を吹き出した。
真っ赤な血が闘技場に落ちる。
まだ、宿禰は倒れない。
伽羅が、宿禰を睨んでいた。
「『打たれる覚悟をした力士は倒れない』、か……」
クク、と笑う。
「まあ、そこだけは、認めてやるぜ」
そう言って、伽羅は振り返った。
どこか、満足そうな背中であった。
「アハっ」
と、拍手の中を立ち去る伽羅の背に向けて、嘘喰いが笑っている。
怪しさのない顔で、少年のような童心を潜めた眼であった。
「伽羅さん──」
言った。
「嘘つきだね」
一回戦第二試合:勝者、伽羅!!
5.
「ありゃりゃ、負けちまいましたね」
「そうだな」
「いや、そうだな……って、アンタって人は……」
「仕方ない。わたしの目から見ても、相手の方が一枚も二枚も上手だった」
「いや、一応あいつはアンタが焚き付けた上に、アンタの身内みたいなモンでしょうが。もっとなんかこう……言うことあるんじゃないですか」
「東京ドームのツマミは美味いな」
「せめて試合の感想を言えよ!?」
「そうだなあ、宿禰くんは単純に試合経験不足すぎる。まあ、その分伸び代はすごいだろうけど」
「そこは、まあ。初の実戦でこれなら、及第点じゃないですかね」
「おまえの部下に、
「ナイダンのことですかい?」
「そうそう。彼と一年ぐらい揉み合ったら、もう二段ぐらいは上のステージにいけると思うよ」
「アイツは今、煉獄にいますけどね」
「……なんでそんなところに?」
「色々あるけどな! 大元はアンタのクローン回収するためだろうが!?」
「そうか、大変だな」
「人ごとがすぎねェか!? もういやだこの人……」
「さて、もう一杯頼むとするか」
「どんだけ飲むんだよ!? つーかアンタ金持ってんだよな!?」
「え? 払ってくれないのか?」
「ふざけんなよボケが」
次回、第三試合:猪狩完至vsマホメド・アライJr. 開始