【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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第二話:覚悟

 

1.

 

 

 アライJr.対猪狩完至。

 試合開始直前、闘技場の中心で二人は向き合っていた。

 合間に立つ一応の審判が、ルール説明を行なっている。

 最中だった。

 猪狩が、肩から力を抜いた。

 観客の目に、客席のどこから観ても、はっきりとワカるほどリラックスした姿勢になる。

 す、と右手を持ち上げた。

 手のひらが開いていた。

 

「握手だ、Mr.()()()

 

 にこやかに笑っていた。

 その動きで、言葉で、会場がわあっと湧いた。

 アライは、真顔であった。

 いや、顔に感情が現れる刹那──微表情においては、やや目を見開いているか。

 

()()()とは色々あったが……それは、今は置いておこう。お互い()()()()だ。フェアにいこうぜ」

 

 猪狩の言葉は、並ならぬ爽やかさに溢れていた。

 傍目で見ている人間は、有無を言わさず魅了される。

 審判すら、猪狩の言葉に意識を吸い込まれて、ルール確認の文言を失っていた。

 見入っていた。

 誰もが。

 だからこそ──アライJr.の行いに、怒りを爆発させた。

 

 友好とスポーツマン・シップに満ちた猪狩に対し、隙だらけでガラ空きの猪狩に対して、アライJr.は容赦なくジャブを打ち込んだのだ。

 猪狩の頬を、アライJr.の左拳が撃ち抜く。

 一発で、猪狩の膝が笑った。

 崩れようとする猪狩に対し、アライJr.はさらに追撃した。

 猪狩が膝から前のめりに落ちる一瞬の間に、アライJr.は七発ものパンチを撃ち込んでいた。

 

『こ……ッッ!!』

 

 アナウンサーが言葉を失っている。

 唐突で、一瞬の出来事だった。

 あっけなくダウンした猪狩は、膝を折りたたんでうつ伏せになっていて、ぴくりともしない。

 アライJr.は険しい表情で、猪狩を見下ろしていた。

 

『これはルール違反だあッッ!!』

 

 開始前の不意打ち──!!

 それは、友好を示し、その身を差し出した猪狩に対するアライJr.の非道な行い──に、観客の眼には映った。

 だから、会場の熱は、期待から導かれる興奮から一転して、期待を裏切った不埒物に対する嫌悪と増悪による刺々しさに変化()わり、アライJr.に叩き込まれていた。

 

「ふざけんじゃねェェェェッッ!!」

「アライJr.ッッ!! てめえにゃあプライドってモンはねーのかッ!?」

「反則じゃねーかッ! 退場させろッッ!!」

 

 罵詈雑言の嵐である。

 その全てを、三六〇度から浴びせられても、アライJr.は猪狩から視線を外さない。

 氷の視線であった。

 構えこそ解いているものの、誰の目から見ても警戒心が剥き出しであった。

 審判が問い詰めると、

 

「先ニパンチヲ当テタ事……弁明ハシマセン」

 

 アライJr.は粛々と口を開いた。

 たどたどしい日本語であった。

 

「シカシ」

 

 と続けた。

 

「アアシナケレバ、ワタシハ、ミスター猪狩ニ殺サレテイマシタ」

「──ッ!?」

 

 意味がわからなかった。

 審判にとっても、観客にとっても。

 猪狩は、正々堂々と握手しようとしていたじゃないかッ!

 猪狩は、あんなに隙を晒して、健全に試合をしようと語りかけただけじゃないかッッ!!

 それを、この男は踏み躙った。

 

 殺されると思っただと?

 

 アライJr.の言葉は、観客の怒りの火に更なる薪をくべた。

 

「退場だあーッッ!! 退場させろッッ!!」

「消えろッ! アライJr.ッッ!!」

アライ(父親)のツラ汚しがあッッ!!!」

「卑怯者ーっ!!」

 

 怒気が、殺意を孕み始めている。

 刃牙と加藤が戸惑っていた。

 マウント斗羽と、獅子尾龍刃は、

 

「やってくれるぜ、猪狩のやつ!!」

 

 心の底から楽しそうに、笑っていた。

 斗羽は腕を組んで目を閉じ、満足気に頷き、獅子尾龍刃は膝を打つほどに楽しんでいた。

 

「どっ、どーいうことだよ、オッサン!?」

 

 加藤は聞いた。

 困惑の表情の刃牙も、答えを求めていた。

 刃牙も加藤にも、ワカっている。

 あれは、アライJr.が正しい──と。

 

 距離があるとはいえ、四人はアライJr.の正面の方角にいる。

 握手を求めた猪狩の背中越しに見る、アライJr.の顔が、ほんの一瞬、恐怖を浮かべているのを見ていた。

 仕掛けたのは、猪狩の方だ。

 おそらく、猪狩はアライJr.に対してだけ、殺気を放っていた。

 具体的な攻撃性を伴った、量感のある殺気だ。

 あのまま、アライJr.が素直に握手を取っていたなら、何をされていたのか──

 

 だから、これはアライJr.の正当防衛である。

 ましてや、闘技場に降り立った時点で、選手たちの独断による試合開始も、闘技場(ここ)では認められているのだ。

 現に、徳川光成は口を閉ざし、事の成り行きを静観しているではないか。

 アライJr.に非はない。

 だというのに、これではまるで……

 まるで……

 

「そう、完全に、アライJr.が“悪役(ヒール)“だよなァ」

 

 龍刃の言葉がスイッチだったか。

 刃牙と加藤が額から頬に向けて、つ、と冷や汗を流した。

 

 そうだ。

 これで、会場の──観客の意識は、完全に、"花形(ベビィ・フェイス)"を猪狩に定め、アライJr.を“悪役(ヒール)“と定めてしまった。

 

「いやァ〜ッ! 猪狩だわ〜ッッ!!」

 

 腕を組んで、頭をもたげて、獅子尾龍刃が歓喜に唸る。

 

「け、けどよぅ。この状況を作るために、猪狩のヤロウは八発ももらっちまってるゼ」

「ものの数ではない」

 

 加藤の疑問を、マウント斗羽がぶった斬った。

 斗羽は、葉巻を十分に吸って、もうもうと煙を吐いて、口角を大きく持ち上げて、ニタァーっと笑っていた。

 

「猪狩は既に、打たれることを承知していた。多少殴られすぎではあるが……手を差し出した時点で、数発は無防備に打たれると『覚悟』を決めていたのだよ」

 

 打たれる覚悟が先んじたならば、たとえ急所を射抜かれようとも、プロレスラーにダメージなどあるはずもない。

 アントニオ猪狩ほどのプロレスラーにとっては、この場合、軽微なダメージと引き換えに観客を味方につけたことのメリットの方が、遥かにデカいのだ。

 

 斗羽は言い切った。

 反論を許さぬ断固たる声だった。

 

「じゃあ、猪狩さんが倒れたのは……」

「そりゃあまあ、ワザとさ、刃牙くん」

 

 勧善懲悪のプロレスの基本さ。

 ヒーローは、最初、ヒールにいいようにやられる。

 やられて、

 やられて、

 やられてから──紙一重で逆転!!

 

 だから、お客さんが盛り上がる。

 だから、お客さんは夢中になる。

 だから──プロレスラーは強くなる。

 

 そう、それは、力剛山のプロレスそのものだ。

 力剛山の下で、誰よりも力剛山のプロレスに触れてきた、アントニオ猪狩だからこそ受け継ぎ、極めてハイレベルに行使することができる、勧善懲悪のプロレスのお手本。

 

 大衆を魅了する力剛山の魔術師ぶりを、真に受け継いでいるのは、やはり猪狩完至だったワケだ。

 

「ふふ、“力剛山の後継者“──という『プロレス』では、わたしすらも猪狩に、一歩先を譲らねばならんだろうね。ましてや、リュウさんに言われては、ぐうの音もでませんよ」

 

 自虐気味に語る斗羽であったが、口調は楽し気に弾んでいる。

 獅子尾龍刃が、目を輝かせていた。

 

 龍刃と斗羽の期待に呼応するかの如く、猪狩が立ち上がった。

 見目に、ダメージはない。

 龍刃には、猪狩の背中越しに、ギラついた眼の輝きが見えるようだった。

 

「さあ、猪狩劇場のスタートだッ」

 

 アライJr.が構えた。

 

「オッシャアアアァァッッ!!」

 

 猪狩が叫んだ。

 ファイティング・ポーズをとった。

 

 

2.

 

 

 時期を、少し前に戻す。

 

 最大トーナメントの、約三ヶ月前である。

 アメリカでのことだ。

 国際ボクシング協会──もとい、全米ボクシング協会は、紛糾の日々を重ねていた。

 役員たちの議題は、徳川光成の言う最大トーナメントに、現ヘビィ級統一王者のアイアン・マイケルを、どうやって()()()()()()()()である。

 

 まず、ここ数ヶ月の間に、ボクシング業界には三つの激震が走っていた。

 第一の衝撃は、世界ヘビィ級統一王者、“タイの闘神“ガオラン・ウォンサワットの突然の退陣劇である。

 タイ国王家──ラルマー十三世に仕えるガオランは、アジア人にしてボクシング四大団体の絶対王者であった。

 そのガオランが、本当に突然に、ボクシング協会に退陣を申し出たのである。

 事情を聞くと、『練習中の怪我で右拳を痛め、しばらくはこれの治療に専念する』という抽象的な答えが返ってきて、なんど具申しても具体的な答えは返ってこなかった。

 仕方なく、国際ボクシング協会は、ガオランの退陣を認めたのである。

 つまり、ヘビィ級の四大タイトル王者、四つの王位が一気に空席となったのだ。

 

 次なる激震は、嬉しいものであった。

 四つのうち二つの団体で、速やかに新チャンピオンが誕生したのである。

 そのひとりが、マーベラス・バークレー。

 もうひとりが、アイアン・マイケルであった。

 このふたりは、元々からガオランを除けば所属団体の世界トップランカーであり、ガオラン本人に挑戦状を叩きつけていた猛者たちである。

 ふたりともにヘビィ級でも屈指のハード・パンチャーであり、経歴、実績、身体付き、ファイトスタイルに至るまで、生き写しのごとくそっくりであった。

 全ボクシングファンの想像通り、各団体のトップになったふたりは、ついこの間、今度はお互い同時に挑戦状を出し合うというサプライズをぶちまけた。

 これが第三の衝撃であった。

 ボクシング協会にとって、喜ばしいことこの上なかった。

 ガオランの退陣報告以降、四大タイトル統一ヘビィ級の王座の不在は、ボクシング興行に即ち大きな不審と影響を急速に伝播させ始めていたからである。

 絶対王者が原因不明の退陣を成したが、ガオランはラルマー十三世の庇護下にあるため、いくら協会でもその追求をすることさえ不可能な状態であったのだ。

 しかし、バークレーとマイケルという鉄人たちが、あっという間にボクシング興行を加熱させ、勢いを振り戻してみせた。

 そして、一ヶ月ほど前に行われたマーベラス・バークレーvsアイアン・マイケルの統一王者決定戦は、ボクシング史に刻まれる圧倒的な盛り上がりを見せた。

 全米視聴率は驚異の平均八〇パーセント越えを記録し、会場は千客万来の超満席。

 なにより、ふたりのファイトは見事に観客とファン、プロモーターたちの期待に応えた。

 結果は、アイアン・マイケルの七ラウンドKO勝利。

 勝利者インタビューで、マイケルは、

 

『これでワカっただろう? おれこそが世界最強の男……と言いたいが、まだヤってないヤツがいる。ガオラン・ウォンサワットッッ!! この放送を観ていないとは言わせないぜ!! 怪我が治ったら、真っ先におれに挑戦状を出すんだ!! どっちが真の最強ボクサーなのか……リングの上で、ハッキリさせようじゃないかッッ!!』

 

 と言い放ち、全世界のボクシングファンの更なる期待を煽ってみせた。

 

 だからこそ、アイアン・マイケルへの徳川光成の最大トーナメントの招待状は、ボクシング協会からすればありがた迷惑にもほどがあった。

 

 マイケルは試合を──激闘を終えたばかりである。

 身体は痛んでいる。

 マーベラス・バークレーも並の選手ではない。

 マイケルは無傷で勝ったわけでは当然ない。

 クリーンヒットすれば鋼鉄をへし折るとさえ言われるバークレーのパンチを、マイケルはたっぷり七ラウンド分貰っているのだ。

 マイケルの身体にも、ダメージはしっかり累積している。

 だというのに、最大トーナメントまで、たったの三ヶ月しかない。

 仮にマイケルを参加させるにしても、たった三ヶ月ではダメージが抜けきらないだろうし、何より、トーナメントに向けたトレーニングが積めないではないか。

 最大トーナメントが異種格闘技戦であることも、重大な懸念事項であった。

 ボクシング関係者の脳裏によぎるのは、一九七六年、日本で起きた『世紀の凡戦』の末路である。

 協会役員たちの背筋を冷やすものは、あの、アントニオ猪狩とかいうプロレスラーと、マホメド・アライの異種格闘対決によって、マホメド・アライだけではなく、ボクシング界の威信までもが地に堕ちかけた事実である。

 

 『ボクシング世界ヘビィ級チャンピオンこそ、世界最強の男である』

 

 プロボクシングが一〇〇年をかけて、世間一般に浸透させたこの概念(幻想)が、一九七六年の、あのたった一試合で破壊されかけたのだ。

 

 度重なる協議の結果、ボクシング協会はマイケルに最大トーナメントの辞退を促した。

 しかし、マイケルは断固としてこれを拒否した。

 

「ケンカ、売られてるンだぜ……」

 

 マイケルは、協会の意志を伝えに来た、専属プロモーターのサムの肩を掴んで言った。

 

「このおれがッッ! ボクシングがッッ!! ケンカを売られているンだぜッッ!!? 黙って引き下がれと言うのかッッ!!!?」

「────ッッ!!」

 

 アイアン・マイケル──

 幼少期、貧困に喘ぎ元はいじめられっ子だったこの男は、自身のハード・パンチを自覚してから、ボクシングを含めて人生のあらゆる局面を、両の拳で乗り越えてきた。

 自身の強さを信じている。

 強さを振るうことにプライドがある。

 そしてなにより、ボクシングに対する恩義があった。

 ボクシングに喧嘩を売るヤツを、生かしてはおかないという、強い意志があった。

 

 だが、プロモーターとして、プライドがあるのはサムも同じだ。

 彼は、マイケルの眼を見据えた。

 あえて、マイケルを睨み上げながら、残酷な真実を、強い言葉で述べた。

 

「マイケルッッ!! きみが異種格闘をやることなどッ、誰も望んでいないんだッッ!!」

 

 アイアン・マイケルはプロボクサーである。

 武術家ではなく、競技者(ファイター)なのだ。

 その目的は、喧嘩に勝つことではない。

 その目的は、公然の場で、リンクの上で、健全にボクシングをすることによって、ファンたちに興奮と刺激的な体験をプレゼントし、想像以上の満足感を与え、その代価としてカネを貰うことである。

 

「わたしもッ! 協会もッ! ファンもだッッ!! マイケル! きみにボクシング以外を望んでなどいないんだッッ!!」

 

 選手とプロモーターの亀裂。

 意見は並行線をたどり、一向に着地点が見えず、収束の目処が立たなかった。

 二週間もすぎた頃には、一部の若い協会役員から、「マイケルの好きにさせたらどうか」などと、諦めの文句が出始める始末であった。

 

 そうして頭を悩ませるボクシング協会に、救いの手を差し伸べた男がいた。

 

 ある日、協会役員が、マイケルのジムに説得のために押しかけていた時である。

 アポイントなしで、その男は現れた。

 黒人であった。

 背が高い。

 ガタイがいい。

 縁の太く、黒より黒く、大きめのサングラスをかけていた。

 迷彩柄の、大きな帽子をかぶっていた。

 上は、チェック柄のTシャツ。

 下は、無地のジーンズ。

 顔が映るほど磨かれた革靴である。

 しゃきしゃきとした足取りであった。

 背筋が伸びている。

 身体の芯に、一本、幹が通っている立ち方であった。

 相応に歳の行った風情であった。

 入るなり、部屋の、全員の視線が自身に集まり切ったのを確認して、男は帽子とサングラスをとり、名乗った。

 

「マホメド・アライです」

 

 と──。

 

「チョット、口を挟ませて貰っていいかな?」

 

 その場にいた全員が、『神』の発言を聞くに、瞬く間にかしこまってしまった。

 

 

3.

 

 

 協会役員たちに緊張が走っていた。

 アイアン・マイケルにも、プロモーターのサムにも、少なからず動揺があった。

 

 目の前に現れた、神。

 マホメド・アライ。

 本物であった。

 難病に侵され、自宅で闘病を続けているハズのアライが、しゃきしゃきと歩みよってくる現実。

 夢ではない。

 これは本物のマホメド・アライだ。

 間違いない。

 アライ以外に、ただ歩くだけで、これほどのカリスマ性を放つ男など存在しないからだ。

 協会役員は全員ソファから立ち上がり、背筋を伸ばして両脇に並び、アライのために道を作っていた。

 アイアン・マイケルへの道を、である。

 アライは歩きながら、感謝の印とばかりに、彼らひとりひとりにひと懐っこい笑みを投げやった。

 その度に、心が解かれる暖かさを受け取って、役員たちの頬が緩んでいた。

 

 ただひとり、マイケルだけが、狼狽えながらも、迫り来るアライをキツく見据えていた。

 

「マイケルッ! 失礼だぞッッ!?」

「いいよ、サム。久しぶりだね、“鉄の男(ジ・アイアン)“」

 

 懐かしさを湿らせた言葉であった。

 マイケルを見るのは、優しい目であった。

 

 アイアン・マイケルとマホメド・アライは、これが初対面ではない。

 マイケルがデビュー以降、連戦連勝でスターダムを駆け上がり、全米のボクシングファンや専門家たちに注目され始めた時、テレビ局の企画でふたりは対談をしているのだ。

 何を隠そう、アライの『ザ・グレイテイスト(史上最高)』というニックネームは、その時の番組でアイアン・マイケルがアライを賛美する言葉として綴ったことで、確たるものとなった経緯がある。

 

 マイケルはアライを尊敬していた。

 心から。

 だから、この場でアライを見るマイケルの眼光は、深い失望と不安で揺れていた。

 

「あんたも、おれを止めに来たのかい?」

「ッ──おいマイケルッッ!! いい加減にしろッッ!!!」

 

 マイケルの失意は、サムの目にも明らかであった。

 しかし、アライはにこやかに頬肉を弛ませていた。

 ある意味では、と言った。

 

「ある意味?」

「マイケル。()()()()()()()()言えることがある。異種格闘をするなら、全てを失う覚悟が必要だ」

「…………」

「ハハ、そんなものは、とうにできている──とでも言いたげだね」

 

 若い──

 と、アライはつぶやいた。

 しみじみとした言葉が、アライの過去を搭載して、部屋の中に染み渡る。

 ここにいる誰にとっても、アライがかつて味わった喪失の実感を得た。

 その深い絶望は、瞬く間に、誰の口からも言葉を失わせた。

 

「マイケル、きみはまだ若い。君の心意気、その生意気さはわたしにとっては眩しく羨ましいものだ」

 

 だが、と。

 

「世界チャンピオンともなれば、時には先達の言葉に耳を傾ける度量も必要だよ。過ちを繰り返してはならないからね」

 

 学ばねばならない。

 過ちから。

 ボクシングはそうやって、それができたから、たった一〇〇年で旺盛を極め、超一流の格闘技へと変貌を遂げたのだから。

 

「しかし、ミスター。このおれが、売られたケンカから逃げたなら……それこそボクシング界にとって、避けられぬダメージに……」

「それはわかっているとも。だから、わたしが来たんだ」

 

 アライの言葉が、マイケルの胸を打った。

 動悸に押し出されて、マイケルの額に玉の汗が浮かぶ。

 

「まさか、アンタ……出る気か……?」

 

 アライは微笑みを浮かべ、首を左右に振った。

 わたしではない。

 アライは一層、笑みを深めた。

 

「わたしが推薦するのは、わたしの息子だ」

 

 

4.

 

 

 アライ訪問の、三日後のことである。

 マイケルのボクシングジムだった。

 地下に設置された、スパーリング用のリングの前で、マイケルがウォーム・アップに精を出していた。

 ジムには今、マイケルとサムのふたりしかいない。

 ジムの外には護衛を立てているが、マスメディアも、ボクシング協会の役員も、ジムに所属する選手も、コーチさえもいない。

 マイケルはトレーニングウェアである。

 サムはいつもの通り、ブランドのスーツにローファーである。

 サムの顔には脂ぎった汗が滲んでいた。

 不安であった。

 

 わたしの息子だ。

 

 数日前、アライはそう語った。

 その場にいる全員が驚きを隠せない。

 マホメド・アライに息子がいることは、別におかしい話じゃない。

 彼だってひとりの男だ。

 結婚だってすれば、子供だって作るさ。

 問題は、その息子が、アライが堂々と『アイアン・マイケル(世界最強の男)の代理』に指名するほどの、強者なのかという()()()である。

 協会役員は、その場で歩行(かち)を飛ばし、ボクシング協会にライセンスを持つボクサーたちを調べ始めた。

 彼らが記憶している限り、『マホメド・アライの息子』という経歴のボクサーは存在しない。

 

「……強いのかい?」

 

 と、マイケルは聞いた。

 

「強いよ」

 

 と、いささか挑発的に、アライは断言した。

 協会役員たちが、一斉に胸を撫で下ろした。

 あのマホメド・アライが、『強い』と太鼓判を押すボクサーがいる。

 しかも、世間的には全くの無名で、()()()があっても、ボクシング界には全く影響がないときている。

 

 素晴らしい!!

 という声が上がった。 

 さすがアライッッ!!

 と褒め称えた。

 

 ただひとり、マイケルは怪訝に眉を顰めていた。

 

「納得できねェ」

 

 強い敵意のこもった声だった。

 役員たちが一転、息を呑む。

 この日の彼らの態度の豹変は、実に忙しない。

 

「マイケルッ! 何を言い出すんだッ!?」

「納得できねェッ! 誰も見たことがない男が、このおれの代わりを務められるほど強いだとッ!? 悪いがアライ、今回ばかりはアンタを信用できねェ」

 

 マイケルのプライド。

 チャンピオンとしての尊厳。

 チャンピオン級にボクシングが強い、全く無名の男がいて──そいつが、ボクシングの看板を背負って異種格闘に挑む。

 アライの言葉は、アイアン・マイケルが備え、乗り越えてきた全てを、ことごとくをバカにしていた。

 マイケルだけではない。

 前統一王者のガオラン・ウォンサワットを。

 マイケルと死闘を興じた、マーベラス・バークレーをもバカにしている。

 アライの発言は、ボクシングに命をかける全ての選手をナメ腐っているのだ。

 マイケルには到底許容できるハナシではなかった。

 

「アライ。かつて、アンタがレスラー・イガリと闘い、全てを失ったのは──裏を返せば、アンタがボクシングの全てを背負って立つにふさわしいファイターだったからだ」

 

 敬意と増悪が並び立つ言葉であった。

 その比率は、果たして。

 

「おれだって、そうなのさ」

 

 マイケルの覚悟であった。

 絶対に勝つ、という。

 ボクシングの全てを背負って、異種格闘に臨み、そして、勝つという覚悟。

 

 そうか──

 

 と、サムだけが気づいた。

 マイケルが、真に怒っていた意味。

 断固として協会の意向に逆らっていた意味。

 マイケルにとって、協会の言動は、アイアン・マイケルの強さを信用していないと受け取られても仕方のないものだったのだ、と。

 マイケルから見れば、協会の態度は矛盾している。

 自ら、世間には『ボクシング世界ヘビィ級チャンピオンこそが世界最強の男』と風潮しておきながら、当の世界チャンピオンであるマイケルが、負けることばかりを考えていたじゃないか。

 

「マイケル。きみならそう言うと思っていた」

 

 アライは、マイケルに軽く頭を下げた。

 信じられない光景であった。

 目を伏せたまま、アライは言葉を紡ぐ。

 

「わたしの息子と、闘ってみてくれ」

 

 そうして、三日後、このジムで決闘を行うことが決まった。

 アライJr.対、アイアン・マイケルのスパーリングが。

 

 

5.

 

 

 現れた。

 マホメド・アライJr.。

 地下に入るなり、アイアン・マイケルに、若々しい笑顔を向けている。

 マホメド・アライにそっくりだった。

 顔立ち、身体つき、雰囲気。

 若かりし頃のアライが、そこに立っているようだ。

 だだし、決定的に違うのは、アライJr.は()()であることだ。

 

 マイケルは汗だくであった。

 細かな息を整えて、アライを見る。

 今にもパンチが飛び出しそうである。

 サムの心臓が、不安で高鳴っていた。

 

 アライJr.は汗をかいていない。

 身体も温まっていなさそうである。

 

「さて、開始(はじ)めましょうか」

 

 太々しく、アライJr.はジャージの上着を脱いだ。

 いい肉付きである。

 持参したリュックからグローブを取り出して、はめようとして、マイケルに止められた。

 

「ボウヤ、これは試合じゃねえぜ」

 

 マイケルの言葉に、サムは心臓が止まる心地であった。

 アライは少し眉を上づらせて、

 

「ハハ、お気になさらず」

 

 と言って、グローブをはめた。

 十六オンスのグローブだった。

 

「──ン? どうしました、チャンプ? リングに上がらないのですか?」

 

 マイケルはリングに上がっていない。

 アライJr.は、眼下にチャンピオンを見据えてなお、飄々とした態度を崩さない。

 マイケルは口角を少し持ち上げた。

 

「ボウヤ、自分が、いきなり世界チャンピオンとヤれると思ってたのかい?」

「……意外ですね。アナタが、そんな建前を気にする人だったとは」

 

 陰険な空気が、ふたりの間をよぎっていた。

 地下室の扉が開いた。

 

 現れた男を見て、マイケルが不遜に笑みを浮かべた。 

 その男は、アライJr.にも見覚えがあった。

 黒人ボクサーだ。

 世界ランカーで、ヘビィ級。

 それにしては小柄で。

 それにしては、人を圧する貫禄を備える男。

 

 ジョー・クレーザー。

 ボクシングファンからは、『スモーキン・ジョー』と呼ばれる男であった。

 

 

6.

 

 

 スモーキン・ジョーがリングに上がった。

 彼は、すでに十分な汗をかいていて、身体もほぐれていた。

 ヤル気満々のジョーを見て、アライJr.は苦笑した。

 

「チャンピオン」

 

 リングの下の、アイアン・マイケルに問う。

 

冗談(ジョーク)にしては、笑えないですよ」

 

 マイケルの顔は真剣だった。

 日本刀のような鋭い眼光が、アライJr.の問いかけを薙ぎ倒す。

 アライJr.はふう、と息を吐いた。

 

「オーケイ……」

 

 気だるげに、スモーキン・ジョーに振り返った。

 

「チャンプ」

 

 ジョーが、マイケルに聞いた。

 

「この男を倒せば、おれの挑戦を受けてくれるンだな」

「モチロンだ、ジョー。例えガオランが挑戦状を出してきても、おれはアンタの挑戦を最優先すると、約束する」

「オーケイ。それが聞けりゃ十分だ……」

 

 スモーキン・ジョーはグローブを叩き合わせ、両腕を前面に立てて並べ、ステップに合わせて、顔を細かく降り始めた。

 

 ふ、とアライJr.は息を吐く。

 

 スモーキン・ジョー。

 ジョー・クレーザー。

 ゴールデン・グローブで優勝をおさめ、プロ入りしてから勝ったり負けたりしてキャリアを積んでいる。

 現役選手としては高齢で、今どきベタ足のインファイターで、ヘビィ級ボクサーとしては戦績は並も並。

 不思議とファン人気は高く、専門家にも好かれているが、判官贔屓だとアライJr.は思っている。

 低い身長に比例するように才能は乏しいから、試合となれば弱いものを応援したくなるファン心理に過ぎないと。

 

 アライJr.は三度のため息をつく。

 幼少から、父たるマホメド・アライに英才教育を施された自分とは、スペックに差がありすぎる。

 自分は、父より強い。

 全盛期の父が、ついに果たせなかったアライ流拳法を完成させた。

 単純な身体能力においても、最新鋭のトレーニングによって創造(つく)りあげられた自分は、父とは比べ物にならないほど高スペックだ。

 

 アイアン・マイケルならいざ知らず。

 スモーキン・ジョーかァ……

 

 Jr.の心に挿すのは落胆であった。

 速攻で終了(おわ)らせようと決めた。

 

 コングが鳴った。

 開始(はじ)まった。

 

 

7.

 

 

 スモーキン・ジョーの一度目のダウンは、ジョーのコンビネーションの右ストレートに合わせたアライJr.の左のカウンターによってもたらされた。

 

 ジョーの拳は空を打った。

 何ひとつ、アライJr.をとらえない。

 華麗なステップワークは、ベタ足のジョーでは追いきれない。

 ジョーが膝を着くに、アライJr.はマイケルに振りかえって、ロープに腕をもたれかけて、言った。

 

「さあ、チャンピオン。アナタの番です」

 

 しかし、マイケルが顎を振る。

 Jr.が不審に思い、マイケルが顎をしゃくった先を見る。

 

 スモーキン・ジョーは、立ち上がっていた。

 

「────ッ」

 

 アライJr.は目を見開いた。

 ベストなタイミングであった。

 確かな手応えがあった。

 顎の先端をピンポイントで刺した。

 ジョーの脳は、自らの頭骨の内壁に何度も叩きつけられ、脳震盪を起こしているハズ──

 

 ジョーは、ファイティング・ポーズを取った。

 グローブの間から覗く眼に、静かで、重たい色の炎が灯っていた。

 

 仕方ない、とアライJr.はジョーと向き合う。

 

 そして、スモーキン・ジョーの二度目のダウンは、ベタ足故に、正面から飛び込んで打たれたジャブに対する、クロスカウンターによって引き起こされた。

 アライJr.は飛び込み気味に打ち下ろしの左をジョーの頬に突き刺した。

 確かな感触があった。

 ジョーの脳は揺れ、膝は笑い、腰に、拳には力が入らない。 

 

 終わった。

 アライJr.が再びマイケルに向き合った。

 しかし──

  

 スモーキン・ジョーは立ち上がった。

 

「────ッッ!?」

 

 なぜ立てる?

 物理的に、立てないハズだ。

 脳が揺れているんだぞ。

 足に、力が入っていないんだぞ。

 今、スモーキン・ジョーの身体には、何百何千の黒蟻が這いずって、地面に引きずり込もうと蠢いているような状態のハズだ。

 なぜ、立てる。

 なぜ、立っている?

 

「どうした、ボウヤ」

 

 マイケルが言った。

 先ほどと違って、その声は、アライJr.には空恐ろしい音色を奏でて聞こえている。

 

「まだ、ツーダウンだぜ?」

 

 アライJr.は、顔を顰めた。

 恐怖や不安が裏返って、苛立ちになっていた。

 荒っぽく振り返る。

 スモーキン・ジョーは、変わらず顔を、小刻みに振っている。

 

「オーケイ……」

 

 アライJr.は、怒りを静かに震わせた。

 自分から踏み込んでいった。

 

 速い。 

 滑らかなフットワークで、ジョーの顔にジャブを当てた。

 二度、三度と、グローブの隙間に的確に滑り込み、面白いように当たる。 

 だが、ジョーは倒れない。

 倒れないが、姿勢は崩れている。

 ボディ、顔、ボディボディ、顔、ボディ。

 アライJr.は上下を綺麗に打ち分ける。

 ガードの空いたスペースへ、迷いなく拳を打ち込んでいく。

 

 そして、トドメとばかりに一層深く踏み込んで、ジョーの左頬にJr.の右ストレートが食い込んだ瞬間。

 

 アライJr.は、初のダウンを飾っていた。

 

 

8.

 

 

 何が起きた!?

 キャンバスに膝をつき、ぐらぐらとふらつく頭の中で、アライJr.は今の出来事をできるだけ鮮明に振り返る。

 ボロボロのジョー。

 圧倒的に攻めていた。

 すでに、ジョーのパンチの距離、速さは覚えていた。

 何発も打ち込んだ。

 ジョーの身体が崩れた。

 たまらずガードが下がった。

 だから、顔に打ち込んだ──

 途端に、顎先に鈍い衝撃があった。

 

 カウンターか!?

 見えなかった!?

 どういうことだ!?

 そもそも、ベスト・ショットを打ち込んだんだぞ。

 まさか、スモーキン・ジョーは、ベストショットをもらいながら、相討ち上等でカウンターを打ったのか!?

 いや、それなら理屈は通る。

 攻撃の瞬間、その真っ最中に、当たった瞬間に、攻撃している者は避ける動きは取れない。

 攻撃と回避を、全く同時にこなすことは不可能だ。

 だから、打たれながら打つ──というのは、当てるための理に適っている。

 だが、それならば、なぜ──?

 

 なぜ、スモーキン・ジョーは立っている?

 自分がダウンするほど、深く踏み込んで打たれた。

 相討ちなのだ。

 すなわち、スモーキン・ジョーも相応にダメージが入っているハズなんだ。

 

 なのに、なぜ──ボクは倒れて、スモーキン・ジョーが立っている!?

 

 セブン、エイト……

 

 マイケルのカウント!?

 立たねばッッ!!

 

 立った。

 途端に、顎が痛み出す。

 スモーキン・ジョーの顔が、キュビズムのように歪んで見える。

 だが、足にはしっかり力が入る。

 まだやれる。

 

 ファイティング・ポーズを取る。

 スモーキン・ジョーがグローブを打ち合わせた。

 そして、変わらずピーカブー気味に構える。

 小刻みに頭を振っている。

 ベタ足で近寄ってくる。

 

 アウト・ボクシングだ。

 もう、一発も当てさせない。

 一方的に当てる。

 一方的に打ちのめす。

 カウンター主体でいく。

 ジョーと同じことを、よりハイレベルにやってやろう。

 

 アライJr.は戦法をヒットアンドアウェイに切り替えた。

 打っては離れ、離れては打つ。

 ジョーが手を出したら、順次、そこにカウンターを合わせる。

 何発もらっても、ジョーはベタ足で追ってくる以外できない。

 アライJr.の作戦は上手く行った。

 ジョーは、面白いように打たれていった。

 だが、一度も倒れない。 

 ずるずると、ベタ足で追ってくる。

 その度に、アライJr.は軽快なステップでジョーを突き放した。

 

 そして──あっけなく、アライJr.はコーナーを背負っていた。

 

 ────ッッ!?

 

 なぜ!?

 なぜ、ボクが、コーナーを背負っているンだッッ!?

 ちゃんと、全てを警戒していた。

 パンチにカウンターを合わせたし。

 危険なものは全て避けた。

 まさか、誘導されたのかッ!?

 ジョーの、肩や、腰の不格好なフェイントは、確かにいくつかあった。 

 リングの中央付近は、ずっと、ジョーに位置取られていた。

 まさか、まさか──

 ボクの動きは全て、操作されていたのかッッ!?

 

 ジョーが踏み込んできた。

 スピードは変わらない。

 ただ、今までとは、まるで違う迫力を伴っていた。

 

 逃げなければ──

 

 左にステップを踏んだ。

 すると、待ち構えていたかのように、スモーキン・ジョーの右フックが、アライJr.の左脇腹を抉った。

 

「ぐえッ!?」

 

 ならば、右に──

 

 すぐさま切り替えた。

 すると、追い縋るように、二打目の左フックが伸びてきて、アライJr.の右頬を殴り飛ばした。

 

 見えない──ッッ!!

 

 パンチが見えない。

 いかに反射能力が高かろうと、見えないものは躱わせない。

 姿勢がズレた。

 スモーキン・ジョーはもう、アライJr.の真正面に、額が擦れるほど近くに陣取っていた。

 三打目の左フック。

 返しの右フック。

 返しの左ストレート。

 そして、トドメの右ストレート。

 

 アライJr.の脳内は、一瞬でぐちゃぐちゃになった。

 物理的に景色が歪んでいる。

 思考が定まらない。

 照明が、イヤに明るく感じた。

 前向きに倒れゆく。

 そこに、掬い上げるようなアッパーが撃ち込まれた。

 

 再び顎が、身体ごと打ち上げられ、上体が海老反りに伸びて、アライJr.は天井を見上げた。

 

 膝が崩れる、腰が、顔がずり落ちる。

 ぴったりのタイミングで、落ちてゆくアライJr.の顔面に、スモーキン・ジョーの右ストレートが突き刺さった。

 

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