1.
まいったゼ、こりゃあよ……
猪狩完至は思っていた。
打たれながら。
マホメド・アライJr.に。
打たれていた。
一方的に。
猪狩がファイティング・ポーズを取り直し、改めて猪狩とアライJr.の試合が始まった。
アライJr.は拳をややアップライトにおいているが、両腕共にガードをしっかり上げ、ステップを上下に振った、極めて正統派なボクサーの構えであった。
猪狩は中腰になり、前傾になっていた。
両の手を胸から迫り出すように前に出して、肘を曲げ、顔を前に出している。
掌は開いていて、軽く、指を曲げている。
重心は地にベッタリと着けて、とてもアウト・ボクシングに付き合える構えではない。
打撃、投げ技、タックルを意識した、正統派なプロレスラーの構えである。
打ってこい──と言っていた。
顔を。
猪狩の狙いは、最初からひとつ。
プロレスラーの覚悟を持って、アライJr.の拳を受け止めてから、技を仕掛ける。
一九七六年。
あの夜の、猪狩側の失敗は、猪狩に打たれる覚悟ができていなかったことではない。
アライのラッシュ力、アライの打つ覚悟、アライの、猪狩を倒さんとする気迫は、猪狩の打たれる覚悟を悠々と上回っていた。
リングの上で、アライと対面するやいなや、それに気づいた猪狩は、即座に寝転んだ。
猪狩アライ状態──これは、アントニオ猪狩にとっても、ただしく逃げの姿勢だったのである。
猪狩は、パンチを一発もらっても、掴みさえすればどうとでもなる──などと思っていた。
甘かった!
痛感した。
猪狩は寝そべって、苦し紛れにローキックを放ちながら、自身の自惚れを噛み締めていた。
いかなるブーイングも、その瞬間は聞こえていない。
ただ、目の前のマホメド・アライの圧倒的なデカさに。
マホメド・アライの凶器的な強さに、怯えていたのである。
結局、試合中に、アライの打つ覚悟を上回る打たれる覚悟を、猪狩が持つことが叶わなかったのが、あの試合の顛末であったのだ。
今回は違う。
このマッチ・メイクは猪狩が徳川光成に望んで実現したもの。
つまり、猪狩には準備期間があった。
覚悟を固める準備期間である。
当然、アライJr.側は一回戦の相手を知る由もない。
猪狩の勝つためのプロレスは、試合前、すでに仕掛けられていた。
だから、今回は寝そべらなかった。
当の本人である。
猪狩アライ状態の有用性を、猪狩が疑っているワケではない。
アライ流拳法なる使い手であっても、アライJr.のベースがボクシングであることに間違いはないし、だとすればあの状態を易々と破る方法を、アライJr.が持っているとは思えない。
しかし、一度は全世界から非難を浴びた技を、なんのヒネリもなくただ焼き回すだけというのは、猪狩のプロレス魂が断固として
だから、今度こそ
今度こそ、マホメド・アライにプロレスをさせてやる。
そして、猪狩完至は打たれるがままに打たれていた。
「──ッッ!!」
選手通路に立つ、獅子尾龍刃が息を呑んでいた。
その隣に並ぶ、マウント斗羽が、葉巻を吸うことを忘れて見入っていた。
「おいッ! オッサン!! これッほんとに……猪狩のヤツはワザと打たせンのかよッッ!?」
ふたりの動揺と眼前の光景を即座に結びつけて、加藤が唸った。
加藤の少し前に立つ範馬刃牙は、アライJr.の動きを真摯な視線で追いかけている。
「いや、こ、これは……ッ!」
獅子尾龍刃の言葉が詰まっている。
答えられないのだ。
予想外すぎた。
猪狩が、あのアントニオ猪狩が、ここまで何もできないとは……ッッ!!
アライJr.の動きはそれほど見事だった。
打って、打って、打っている。
拳が
アライJr.は、パンチをがむしゃらに打っているわけではない。
ただ速いだけでは当然なかった。
そのことごとくが、猪狩が肩を、腰を動かすたびに、その初動を潰す形で当たっていた。
全パンチが細かなカウンターとなっている。
武の世界に当てはめるなら、所謂『後の先』をやっているのであるが──その精度が尋常ではない。
何せ、あらゆる動作の初動を潰されるということは、猪狩はその場から一歩も動けないのだ。
ましてや動作の途中に打ち込まれるため、回避も防御も不可能に近い。
筋肉を固める暇も、固めた筋肉を弛緩させる暇もないのだから。
単純な拳の速度なら、音速拳を扱える宮沢熹一や愚地克巳の方が早いだろう。
しかし、それと比べるなら、パンチを有用に、効果的にあつかっているのは、間違いなくアライJr.である。
「猪狩ッッ! いったん寝そべれ!! あの状態を作るんだッッ!!」
獅子尾龍刃が叫んだ。
本音であった。
声量の迫力に、プロレス的な余裕がない。
その声が届いたのか否か、猪狩は後ろに崩れようとした。
そこに──アライJr.の右ストレートが伸びた。
その拳は、仰向けに倒れようとする猪狩の顎にまで届き、突き飛ばすような形で猪狩からダウンを奪ったのだった。
2.
冷や水を顔にぶっかけられ、アライJr.は気絶から目覚めた。
上体を持ち上げ、眼の焦点が定まるにしたがって、状況を理解する。
スモーキン・ジョーに負けたのだ。
KO負けだ。
その事実が、アライJr.の全身を悪寒となって駆け巡った。
怒りと、情けなさが込み上げて、吐きそうになっていた。
ボクが負けた?
あんなロートルに?
歯を噛み締めて、軋ませる。
今のは、何かの間違いなんだッ!!
そう言おうとした時に──背後からボスンと、柔らかいものを叩き合わせる音がした。
その柔らかく弾力のある音は、アライJr.には慣れ親しんだ音である。グローブを打ち合わせた音だ。
振り返ると、コーナーポストの前で、グローブを装着したアイアン・マイケルが立っていた。
「──ッッ!?」
「どうしたい、ボウヤ?」
唖然とするアライJr.に、マイケルは毅然と話しかけた。
「次はおれの番だぜ?」
「────なッッ!!?」
何を言っているのか!?
今、自分は、スモーキン・ジョーと一戦やり終えたばかりだ。
意識は戻っているが、肉体のダメージは、まだ全然抜けていない。
弱った相手に、追い討ちを仕掛けようというのか!?
それは、卑怯ではないのか!?
アライJr.が問い詰めると、マイケルは全く呆れたとばかりに、ふ、とため息を吐いた。
「徳川光成の最大トーナメントは、ワン・ディ・トーナメントだと聞いている」
そうだ。
だからなんだというのか──
「つまり、勝ち上がれば、負傷していようが病気になろうが、次の試合はその日のうちに行われるってワケだよ」
──────ッッ!!!
「ボウヤ……まさか、試合の前に、『ボクのケガが治るまで待つべきじゃないのか?』って、
「──そッ、そんなこと……ッッ!!」
「わかったなら、立てッッ!! カマン!!」
グローブを打ち合わせて、怒鳴り、マイケルが構えた。
肘を立て、グローブに顔を隠すように沈めて、小刻みに身体を振るピーカブースタイル。
誰がどう見てもヤる気だった。
アイアン・マイケルは、マーベラス・バークレーを相手にした試合と、同等以上の熱量で、アライJr.を相手にする気だ。
アライJr.が立ち上がった。
意を決したように見えて──その実、戸惑いの表情を隠しきれていない。
マイケルは鉄の目でアライJr.を射抜いていた。
リング外のジョーが、ゴングを鳴らした。
マイケルはいつもの試合どおり、アライJr.に向かって突進した。
速い──ッッ!!
ものすごい圧力であった。
筋肉の塊が、自身の密度を高めて、ぶつかってくるようだった。
一〇の距離を、一瞬で〇にすると言われる、アイアン・マイケルの突進である。
それでも、アライJr.が万全であれば、躱すことができたかも知れない。
しかし、身体が動かなかった。
スモーキン・ジョーの打撃をボディに浴びていたアライJr.のフットワークでは、満足な動きができるはずもなく。
苦し紛れに打たれたアライJr.の左ジャブを掻い潜って、マイケルの左フックが突き刺さった。
「ぐ、ゲハァッッッ〜〜ッッ!!!?」
重い!!
段違いに。
破壊力が、スモーキン・ジョーの拳とは比べものにならない。
吐瀉物を撒き散らして、アライJr.が膝から落ちた。
ボクシングなら、まごうことなきダウンである。
が──マイケルは膝立ちになったアライJr.の顔に、右ストレートを打ち込んだ。
パンチの勢いに逆らえるはずもなく、アライJr.は背面からリングに叩きつけられた。
あっけなく、気を失ったのだった。
3.
目が覚めてから、アライJr.は泣いた。
リングの上で、泣いた、泣いた。
かろうじて声は殺していたが、みっともなく、顔をくしゃくしゃに歪めて、泣いた。
次の日も、その次の日も。
アライJr.はスモーキン・ジョーとアイアン・マイケルと戦った。
初日のダメージを引きずっていたために、二日目から三日目は、たった二日でジョーに七回もKOされた。
しかし、おとなしくKOさせてくれるジョーはまだいい方で、マイケルの場合アライJr.がダウンしようが意識が飛ぼうが、たとえ涙を流して許しを乞おうが、関係なく髪の毛を掴んで引き起こし、その顔に鉄拳を叩き込んだ。
その時のマイケルの形相は悍ましいものがあり、マネージャーのサムはおろか、時にはジョーが止めに入るほどであった。
アライJr.は、嫌になっていた。
弱い自分が。
弱くなっている自分を、躊躇なく打ちのめしてくる二人が。
一週間を超えた頃、アライJr.の闘志はすっかり萎えていた。
すると、マイケルはアライJr.からすっかり興味を失ったのか、一切手を出してこなくなった。
冷静になる時間が増えると、アライJr.の脳裏には、数々の疑問が浮かんでいく。
なぜ、スモーキン・ジョーを倒せないのか?
なぜ、マイケルの拳はあんなに重いのか?
この一週間、アライJr.とてやられっぱなしだったワケではない。
スモーキン・ジョーは特にそうだが、ちゃんと打たれる以上に何発も打ち返していたし、なんならスモーキン・ジョーとの試合は、必ずと言っていいほど最初は自分が優勢なのである。
しかし、ツーダウンを取ってから、人が変わったように、スモーキン・ジョーはタフになる。
パンチは見えなくなり、重くなり、逃げようと思っても、ベタ足のハズのジョーが、アライJr.にまとわりつくように追い縋って、コーナーに追い詰められてしまう。
なぜだ?
パワー、スピード、スタミナ、ディフェンスワークにフットワーク。
自身がふたりに劣っている要素など、何ひとつないハズだ。
強いて言うならパンチの重さはマイケルには劣るだろうが、自分のパンチは人間対人間を考えるなら、十分な重さと迅さを併せ持っているハズなんだ。
そうやって考え出すと、アライJr.は自分がみっともなく思えてくる。
数値的に、負ける要素が無い相手に、なぜ勝てないのか──?
最初の試合から、一〇日が経った。
シャドウ・ボクシングに精を出すスモーキン・ジョーに、アライJr.は問いかけた。
4.
「
アライJr.の問いに手を止めて、スモーキン・ジョーは言った。
「オール……」
「そうさ。勝てば全てを得る、負ければ全て失う。それがボクシングの基本理念だ」
スモーキン・ジョーはポツポツと語り出した。
おれたちは、全てを得るために戦ってる。
勝つことは、全てなのさ。
負けることは、最悪なのさ。
モチロン、自分の両の拳だけを
今でこそ、ボクシングの世界ランカーともなれば、勝っても負けてもファイト・マネーは最低限保証されてる。
だが、黎明期のボクシングは、勝つことが全てだった。
負けたら、選手はカネをもらえないばかりか、人格や存在まで否定される。
だから、オール・オア・ナッシング。
今だって、プロのリングに上がる連中は、みんなそうさ。
この言葉を、骨の髄まで染み込ませている。
負ける気でリングに上がるバカはいない。
何があろうと、おれが勝つ。
その気概でリングに上がる。
その気持ちをパンチに込める。
なにせ、負けたら全てを失っちまうからな。
とはいえ、おれなんかは勝ったり負けたりだが──マイケルは違う。
あいつは、勝って、勝って、勝ちまくった。
だって、あいつはチャンピオンだからな。
勝って、全てを手に入れ続けた。
もし、マイケルが、試合をひとつでも落としていたら、あいつはチャンピオンにはなれてないだろう。
「しかし、ジョー。それならば、アナタのファイト・スタイルは矛盾している」
スモーキン・ジョーのスタイルは、ベタ足のインファイト。
ボクシングの時流から完全に外れている。
昨今のボクシングの流行りは、足を使って、パンチを貰わず、中間距離を保ったまま制圧して勝つことだ。
ベタ足のインファイトなど、パンチをもらいすぎて、イタズラに選手生命を縮めるだけでなく、勝率そのものも大きく下げてしまう。
ヘビィ級ともなれば、ハード・パンチャーを数えればキリがない。
相手に打たせるボクシングとは、そのまま相手にKOチャンスを与えているに等しいのだから。
アライJr.の問いに、ジョーはふ、と微笑した。
「じいさんの教えでね」
前を向け、ジョー。
振り返るな。
だから、前を見て、前に進め。
だから、おれは、相手が誰だろうが
たとえ、象を倒すと言われたハード・パンチャーが相手でも、
未来は──つまり、勝利は、前にしかないからだ。
だから、前に出て、追いすがり、不格好でもパンチを出し続ける。
「アライJr.……あんたを追いかけるのだって、おれは必死なのさ」
「────ッ!」
スモーキン・ジョーの言葉は、重かった。
今まで、教育の面で、アライJr.が聞いてきたどんな演説よりも、彼の心を深く貫いた。
考えたこともなかった。
自分は、恵まれている。
生まれに、血に、場所に──。
マホメド・アライという偉大なる父の元に生まれた。
トレーニングにも困ったことはない。
食うに困ったこともない。
いじめになど、あったこともない。
仮に、ここでジョーとマイケルに再起不能にされても、帰る家があるし、迎えてくれる使用人や、父がいる。
それらが無い世界など、考えたこともなかった。
負けたら全てを失うなど、思ったこともなかった。
勝って得られる身の安全や金、心の安寧の実感など──全くなかった。
ああ、これか。
アライJr.の心は、すとんと腑に落ちた。
理解が納得に追いついた。
それはすなわち、なぜ自分がスモーキン・ジョーやアイアン・マイケルに歯が立たないのかであり。
なぜ、アイアン・マイケルが父のアライの提案に怒りを感じていたのかの実感であり。
なぜ、彼らのファイトがファンを魅了するかへの理解と納得であり。
なぜ、彼らの拳が重く、自分のパンチでは倒れないのかの理解と納得であり。
そして、自身が如何にボンクラで世間知らずであったのかの、理解と納得であった。
「お、おお……ッ……ッ!!」
アライJr.は涙をこぼした。
次々と、大玉の涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。
今まで、敗北に嫌気が刺し、無様に流していた涙とは意味が違う。
熱い──!!
「ボクは……なんて……アマい…………ッッ!!」
アライJr.は声をあげて泣き始めた。
それを、口元に微笑を添えた、スモーキン・ジョーが見守っていた。
ジムの一階。
応接室にも、その声は轟いていた。
それは、産声であった。
アライJr.という少年が、真に男となるための慟哭であった。
アライJr.という少年が、『獅子の門』を潜る覚悟を決めて、
その声を聞いて、応接室にてコーヒーを嗜む男は、なんともいやらしく、歯を剥き出しにして、眉を下品に吊り上げて、目を丸くして、笑っていた。
マホメド・アライその人であった。
5.
「猪狩ィッッ!!! なんかしろォッッ!!!」
「つ、つえー……ッ!! アライJr.ッ、つええッッ!!」
「猪狩さんッッ!!!!」
観客にも、ようやく、目の前の状況が把握でき始めていた。
プロレスではない。
これは本番だ。
アントニオ猪狩が、なすすべなくアライJr.に打たれている。
倒れていないのが流石といえる点以外、何ひとつ猪狩に加点ができないほど、ただただ圧倒されている。
それでも、徳川光成は止めの合図を出さなかった。
獅子尾龍刃も、噛み合わせた歯を軋ませて、見守っていた。
斗羽正平も、葉巻を噛み砕いて、黙って見守っていた。
誰もが、アントニオ猪狩を信じているからだ。
このまま終わる男では無い。
アントニオ猪狩は、観客の前でヤられたい放題で済ます男では無いと、確信しているからだ。
「ダッシャアアァァァァァアッッッッ!!!」
猪狩が吠えた。
ほんのわずか、それに気圧されたか、アライJr.のパンチに間が空く。
バックステップで距離を取った。
アライJr.は猪狩の機微を探ることに、試合が始まってから今まで徹頭徹尾、全力を注いでいる。
猪狩が笑っていた。
口周りの血と吐瀉物を指で拭って、アライJr.を見据えた。
まだ、その眼がギラついている。
勝つことを諦めていない。
観客が盛り上がった。
「いい〜ィプロレスだなァ、オイ!」
猪狩は顎をしゃくった。
観客席に、わずかに意識を向けている。
アライJr.は警戒を解かない。
「礼を言うぜ。お客さんを、こんなに温めてくれてよォ……」
強がりだ、とアライJr.は思っていた。
しかし、あれだけ打ちのめして、立ち上がってからの猪狩はまだ一度も倒れていない。
なんというタフさなのだろうか、プロレスラーという人種は。
「しゃあッッ! もう一番、温めてやるかッ!!」
と──信じられないことをやり始めた。
猪狩は、その特徴的な顎を前に出した。
人差し指で、その先を軽く叩き出したのである。
ここを打ってこい──ッ!!
そう言っている。
観客が波打った。
地下闘技場に地鳴りが打ち上がり、うねりをあげている。
「いいぞッ! 猪狩ィ!!」
「流石だーッ! アントンッッ!!」
「アライJr.ッ! テメェ逃げンじゃねーぞッッ!!」
猪狩コールが湧き上がる。
なんという男か、アントニオ猪狩。
攻撃でも無い、防御でもない動きひとつで会場をまとめ上げ、熱気を倍にできるのか。
アライJr.の表情に、流石に怪訝な影が浮かぶ。
こうまで煽られたなら、打たねばならないだろう。
いや、アライJr.はもう打つ気満々ではある。
しかし──猪狩の思惑が掴めない。
いくらプロレスラーがタフでも、ピンポイントで顎先を打てば一瞬で脳が揺れて、倒れるだろう。
もし、仮に一発で倒れなかったとしても、倒れるまで追撃を打てばいい話である。
顎先を打ったなら、倒れないとしても、その後の対応はできなくなる。
勝ちを捨てているのか──猪狩完至!?
猪狩の思惑に気づいたものが、会場の中にも何人かいた。
ひとりは、獅子尾龍刃。
ひとりは、斗羽正平。
観客の中にもいる。
ひとりは、グレート巽。
ひとりは、カイザー武藤。
ひとりは、関林ジュン。
ひとりは、長田弘。
ひとりは、梶原年男。
全員が、元を含めてプロレスラーであった。
特に、グレート巽の口角が不気味に吊り上がっている。
「しゃあッ!! こいッッ!!」
猪狩は変わらず誘っている。
気持ちが前のめりになりすぎなのか、いつの間にか猪狩は右肩が前に出て、半身になるほど身を乗り出している。
アライJr.は覚悟を決めた。
打った。
ジャブではなく、右のストレート。
当たった。
なんの障害もなく、真っ直ぐに。
しかし、猪狩は倒れなかった。
「──ッ!?」
「そんなもんかッ!? バカヤロウッ!!! もっと、おれをブッ飛ばす気で来いコノヤロウッッ!!」
倒れないどころか、ピンピンしている。
それどころか、一歩たりとも下がっていない。
つ、とアライJr.の額から、この試合で初めて、冷たいものが滴る。
もう一発、打った。
渾身の右ストレート。
続け様に、右のフック。
十分な手応えがあった。
だが──
「どうしたどうしたあッッ!? もっと思いっきりこいコノヤローッッ!!」
「────ッッ!!?」
しかし、猪狩はピンピンしていた。
これには、流石に刃牙と加藤も驚いた。
「な、何をやりやがった……ッ!?」
「…………!」
「顎を固定してた」
ふたりの疑問に、龍刃が答えた。
「固定……?」
「そうだ。顎を肩に固定していた」
斗羽が笑っている。
龍刃はものは試しと、斗羽に声をかけて実演してみせる。
龍刃が斗羽と向き合い、半身になり──
そして、顎を突き出した右肩に乗せるように設置した。
あッ! と加藤が声を上げた。
斗羽が、軽くとは言え龍刃の顎を手のひらで叩く。
龍刃の頭は動かない。
「そう。こうすることで、顎が身体に固定されるから、いくら殴られても脳が揺れないってワケ」
「そ、そういうことかァ〜ッ!!」
「おれでこんだけ固定できるんだ。顎の長い猪狩にとっちゃ、身体に根を張るようなモンだろうぜ」
半身になることで、殴る方向性も、きっちり限定させている。
パンチが見えなかろうと、打ってくる方向と威力が分かっているなら、アントニオ猪狩なら、打たれる覚悟を固めるのも容易いのである。
そして、何発殴っても倒せず、煽られ続けたアライJr.は、知らず知らずと肩に力が入り、入り身が深くなっている。
とうとう、目に見えて、アライJr.のパンチが大ぶりになった。
猪狩は、その時をまっていた。
あれだけ殴られたのだ、猪狩はすでに、アライJr.のパンチのタイミングを盗んでいた。
身体を前に出す。
踏み込む。
アライJr.の視界のほとんどを、猪狩の特徴的な顔が埋める。
だから──その拳は、アライJr.には見えない。
拳を、相手と身体に水平に引いている。
弓を引き絞るように構えたそれは、アントニオ猪狩の必殺技とも言われる鉄拳。
カウンター気味に、ナックルアローが放たれた。
6.
こッ、このガキ……ッッ!!
猪狩は混乱の中にあった。
この距離ッ!
このタイミングでッッ!!
見えない拳を……躱しやがったッッ!!!
ナックルアローが伸びる。
そして、アライJr.は拳の伸びた分だけ、綺麗にバックステップを行った。
密着に近い状態から、見えないところから飛んできた拳を、あっさりと見切って躱したのだ。
猪狩は、一瞬で覚悟した。
打ち終わりの姿勢であるが、覚悟した。
打たれる覚悟を。
しかし──打たれなかった。
猪狩の認識では。
飛びかかるような姿勢の猪狩を無視して、アライJr.はさらにバックステップを行い、距離を取った。
猪狩は、打たれなかったことに安堵と謎を覚えながらも、姿勢を整えるために足を一歩、踏み出した。
「──!?」
すると、不可解なことが起こった。
地面が競り上がって、猪狩の顔に向かってぶつかってきたのである。
ワケも分からず手足をばたつかせてもがくが、立ち上がれない。
ようやく仰向けになった時、猪狩は自分がアライJr.に見下ろされていて、カウンターをもらってダウンしたことを知った。
7.
理解できない光景であった。
少なくとも、加藤には。
アライJr.が躱したのはわかる。
分からないのはその次。
アライJr.のカウンターを、猪狩が防げなかった理由であった。
アライJr.のカウンターは、左のジャブであった。
丁寧で、如何にも教科書的なそれに、猪狩は何の反応も示さずまともにもらった。
加藤の眼にも、はっきりと軌跡がわかるほど丁寧で、遅いパンチである。
猪狩の目の前で行われた動作である。
だというのに、仰向けになった猪狩の表情は驚愕を浮かべており、自分が何をされたのか、まるで理解していない風だった。
「な……何をしやがった……ッ!?」
「殺気が……」
加藤の疑問に答えたのは刃牙だった。
刃牙自身、狼狽えていた。
「殺気が、なかった……ッッ!!」
────ッ!?
「はァ!?」
加藤は驚きに目を見開いた。
獅子尾龍刃も、斗羽正平も、同様であった。
格闘士が戦った場合、攻撃に転ずる瞬間は、まず持って相手を倒そうとする意識がある。
それは、常識──というより、それよりもっと前の、本能的な話だ。
喧嘩をする時に、相手のことを気遣う奴はいない。
よほどの実力差がある場合でもない限り、戦う相手に殺気や敵意を含まず攻撃するのは不可能である。
しかして──今のアライJr.のジャブには、殺気がなかった。
ただ、最短距離を、まっすぐに打たれたもの。
そうとしか呼びようがない一撃。
だからこそ、猪狩は全く反応できなかったのだ。
そもそも、パンチが見えてさえいないのだ。
「そん……そんなのッ! そんなのできんのかよッッ!?」
「わ、分からない……」
「……だ、だが。意図せずともあの状態になったッ!!」
加藤がどよめき、刃牙が答え、龍刃が苦笑している。
龍刃の言う通り。
地下闘技場には、厳密には格闘技にあるダウンがない。
倒れていようが勝負は続行なのである。
審判が何も言っていないのはそういうことだ。
猪狩はすでに、戸惑いから切り替えて、反撃の意思を発している。
猪狩アライ状態。
猪狩からすれば不本意であろうが、なっちまったモンはしょうがねェ。
利用するぜ、遠慮なくッッ!!
アライJr.は……、
寝転ぶ猪狩に向かって、跳んだ。
8.
その瞬間、猪狩の不利を悟ったのは、獅子尾龍刃と範馬刃牙だった。
獅子尾龍刃は、かつて、自身が泉宗一郎と戦った際に、寝転んだ宗一郎を相手に、全く同じことをやったと思い出していた。
そして、刃牙は────
「猪狩さんッッ!! 立ってくれ!!
「!? ……は? ば、刃牙。おめェ、何を言ってンだ……?」
ボクシングに蹴り技?
しかし、刃牙の表情は真剣そのものだった。
アライJr.は、猪狩の手前に降り立った。
たまらず、猪狩は両手でアライJr.の足に組みつこうとした。
そして、猪狩の胸部に、アライJr.の足が落とされた。
「グハァッッ!!!?」
猪狩が血混じった吐瀉物を吐き出した。
アライJr.は、空に向かってアッパーを打ったのだった。
当然空振りのそれは、綺麗な技後硬直を生み出して、観客の視線を集めていた。
ねころぶ猪狩に放たれたものは、その際に使用される
猪狩は、白目を剥きながらも、胸に落ちたアライJr.の足を掴もうとした。
と、アライJr.がその足を持ち上げた。
猪狩の身体も持ち上がった。
胸骨の下に、沈み込んだアライJr.の足先が引っかかっていたのだ。
持ち上げた猪狩の顔に向かって、意趣返しのように、弓を引いたアライJr.の拳が突き刺さった。
猪狩の手が、宙に投げ出されていた。
アライJr.がめり込んだ拳を引くと、静かに──猪狩は崩れていった。
うつ伏せになり、血を吐き、意識を失っていた。
突如として荒々しく変貌したアライJr.のファイト・スタイルに、観客もまた、プロレスを忘れて声を失っていた。
『し……勝負ありッッ!!!』
静寂を破って、太鼓が打ち鳴らされた。
アライJr.はうつ伏せになった猪狩に、丁寧にお辞儀をすると、踵を返し、強い足取りで──決して振り返らず、闘技場から去っていった。
猪狩の元に、獅子尾龍刃と斗羽正平が駆け寄った。
第三試合:勝者、マホメド・アライJr.ッッ!!
次回、一回戦第四試合、本部以蔵vs葛城無門 開始ィィッッ!!