【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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ちょっと短いです
彦六は格別に好きなキャラすぎてずっと書いてしまうから区切るのが難しい……


一回戦第五試合:烈海王vs羽柴彦六
第一話:友は語らう


1.

 

 

 ゆたりとした動きであった。

 選手通路の途中である。

 羽柴彦六が、腰を落とし、ゆらりゆらりと手足を動かしている。

 そのすぐ傍に、鳴海俊男が立っていた。

 ジャージを着ている。空手家である鳴海が戦うための、戦いに赴くための服ではない。

 羽柴彦六は、無地のTシャツに、ところどころ破れたジーンズを穿いている。

 おしゃれのためにワザと破られたダメージ・ジーンズではなく、穿き潰した結果、ボロボロになっているものだった。

 靴は白のスニーカーである。

 軽くて丈夫で動きやすく、どこにでも売っていそうな安物だ。

 この装いが、今、この瞬間の羽柴彦六にとって、戦いの正装であった。

 鳴海の眼には、不安の色が浮かんでいる。

 それを知ってか知らずか、傍目には気にも止めず、羽柴彦六はゆるゆると身体を動かしている。

 緩やかではあるが、漫然とした動きではない。

 彦六は、仕方なくこの遅さで身体を動かしているのでなく、意図的に、この遅さで身体を動かしていた。

 彦六は、自らの身体に尋ねているのである。

 動けるか?

 と、

 いけるのかい?

 と。

 彦六の意志に従って、彦六の手先がしなやかに伸びていく。

 彦六の意志に従って、彦六の足先が重心の位置を変えていく。

 澱みない力の流れが、彦六の身体に巡っていた。

 足先から、腰へ。

 腰から肩へ。

 そして、頭頂部に至るまで、気が行き渡る。

 手が伸び切る瞬間、彦六は英俊な動きで拳を作っていた。

 彦六の腕が、弾けるように伸びた。

 彦六の身体が、鞭の引き際に似る、瞬発力を放つ。

 それは、まともに急所にあたれば、人を容易に殺しうる鋭さを帯びていた。

 彦六はふ、と息を吐いた。

 じっとりとした汗が、皮膚の上に溜まっている。

 

 まずまずといったところか────

 

 呟いて、彦六の口元は緩んでいた。

 ゆるやかな、愛嬌のある笑みを浮かべていた。

 

 羽柴彦六は、かつて、久我重明との決闘にて敗北し、車椅子生活を余儀なくされた。

 そこから、まともに身体を動かすのに、二年かかった。

 世間一般でいう、軽い運動ができるまでに、もう二年が必要だった。

 その間──いや、その後の生活においても、当たり前の話だが、彦六は戦いというものをやっていない。

 元々、最大トーナメントの参加者として、徳川光成が招聘したのは鳴海俊男であった。

 鳴海俊男は、もともと、名門の空手道武林館の妙手である。

 元々武林館の本部に在籍していたが、ある日を境に独立し、鳴海塾を立ち上げた。

 武林館の主催するトーナメントでも、たびたび優秀な成績を収めている。

 本人の性格も、真面目で誠実で、人あたりもほどほどに良く、悪い噂とはとんと無縁の男だった。

 最初は、芥菊千代とふたりきりで始まった鳴海塾も、いつしか塾生が増え、空手道場としていっぱしの構えとなっていた。

 鳴海の現在の名声がどれほどかと言うと、おおよその空手の大会においては『鳴海俊男がいるなら──』と噂があれば、それだけで他流派の有力選手を呼べるほどであった。

 鳴海俊男がいる、と言うだけで、神心会や北辰館、六真会館などの超メジャー団体が規模の如何に関わらず、大会への参戦を決めるのである。

 だから最初、徳川光成は鳴海俊男に声をかけていた。

 

 しかし、鳴海の返事は芳しくなかった。

 いくら構えが立派でも、世間的には鳴海塾は武林館の傍系であり、小さな道場である。

 塾生の月謝で家計が回るようになった今でも、道場主の鳴海が直接、塾生の指導を行っている。

 一番弟子の芥菊千代も、最近ようやく指導する側に立つようになってはいるが、空手選手としては、まだまだ血気盛んな年頃には違いない。

 自分がいなくなれば、鳴海塾は立ち行かなくなる。

 最大トーナメント。

 すごい、と鳴海は思った。

 概要を聞くに、出たい! という気持ちが先に疾った。

 しかし、鳴海は振り返る。

 自らが背負っているものを、である。

 最大トーナメントに参加して、負けるのはいい。

 鳴海俊男の空手道は無敵ではない。

 武林館のトーナメントでも、武林館最強と言われていた、麻生誠にしてやられたのは一度や二度ではない。

 武道の世界に生きる以上、負けることはある。

 負けたら、またやり直せばいい。

 だが、もし、やり直せなくなったら?

 鳴海の脳裏によぎるのは、羽柴彦六と久我重明の戦いであった。

 あの夜、ふたりとも、素晴らしい顔をしていた。

 お互いの肉体を壊し合いながら、ただそれだけの行いの中で、あのふたりは笑っていた。

 素晴らしい戦いであった。

 あの時、ふたりは愛し合っていのだろうと鳴海は思う。

 あの時、羽柴彦六と久我重明は、月明かりだけが標となる世界で、確かに心から繋がっていた。

 しかし、その結果、羽柴彦六は車椅子になった。

 あの戦いの神聖さの代償として、羽柴彦六は、満足に歩くこともできなくなった。

 一時はもう二度と戦えないと言われるほどに、痛めつけられてしまった。

 自分がそうなることはできない。

 鳴海俊男には、もう、守るものがあった。

 背負ってきたものがあった。

 背負い続けなければならないものがあった。

 今ここで、塾長の自分がいなくなれば、塾生はどうなってしまうのか。

 最大トーナメントを辞退することを、あるいは塾生──芥菊千代は特に、非難するだろうか。

 世間に、臆病者だと言われるだろうか。

 徳川光成に失望されるだろうか。

 だが、それらを全て飲み込んで、鳴海俊男は勇気を出して、最大トーナメントの辞退を表明した。

 鳴海は自身の武の好奇よりも、守るべきものを護る武を選んだのである。

 

 そこで、自分を代わりにと名乗り出たのが、羽柴彦六であった。

 

 羽柴彦六は、久我重明との戦いの後、ひとりで歩けるようになるまで鳴海の元に身を寄せていた。

 だんだんと、元の運動能力に近づくにつれて、彦六は外出が多くなり、そしてある日、鳴海の前から去っていったのだった。

 それを、鳴海は責める気はない。

 羽柴彦六という飄々とした男は、風だからである。

 風は、一箇所に留まることはない。

 風は、吹き遊び、流れ続けるからこそ風なのである。

 羽柴彦六という男を、その生き様を、他人がピンで留めることはできないのである。

 だから、鳴海は、彦六との別れを悲しむことはなかった。

 ただ、寂しいと思った。

 

 その彦六が、どこから話を聞いたのか、トーナメントの辞退を決めた後日、突然、鳴海を訪ねてきたのである。

 そして、おれがでる、と言ったのだ。

 おれが、鳴海俊男の代わりに、鳴海塾を代表して出る──と。

 

 その日の夜、鳴海は彦六と鍋を囲んだ。

 芥菊千代も同席させた。

 彦六は、ひとりで座布団に座れるまでになっていた。

 身体の扱い方は、もう、普通人と変わらない。

 熱燗を煽り、身体と心をほぐし、野菜をたっぷり煮込んだ鍋をつつきながら、程なくして鳴海は聞いた。

 

「彦六さん」

 

 彦六はつ、と顔を持ち上げた。

 澄んだ眼が、鳴海を見る。

 彦六は相変わらずであった。

 その眼の色と形は、鳴海の記憶にある羽柴彦六と、寸分の狂いもなく重なった。

 

「なんで、おれたちのために……」

「借りをね」

 

 彦六はお猪口を口に当て、熱燗をちびちびと呑んでいる。

 熱い息を吐き出した。

 

「借りを返そうと思っただけさ。おまえには世話になったからな。もちろん、菊千代にも」

 

 彦六はいつもの調子であった。

 声が、静かに、ゆるやかに、鳴海の耳に届く。

 恩着せがましさなどない。

 むしろ、彦六の機微は、感謝の念を発していた。

 彦六は感謝している。

 機会を与えてくれた鳴海に。

 自分と()()()()()()と、魂を鍔迫り合わせる場に、立たせてくれていることに。

 それは雄弁な語りであった。

 

「彦六さん……」

 

 鳴海は、座布団を退けて、畳の上に正座となった。

 彦六は鳴海と向き合った。

 菊千代が、慌てて、鳴海の斜め後ろで正座になる。

 彦六はかぶりをふった。

 だが、鳴海俊男の生真面目さをよく知る男として、彦六はこの謝辞の念を優しく抱き締めた。

 

「よろしく……お願いします」

 

 鳴海は頭を下げた。

 菊千代も、また。

 彦六は微笑していた。

 照れ隠しのように、口に含ませていたおちょこの酒を、舌に染み込ませた。

 

 

2.

 

 

「いこうか」

 

 彦六は鳴海にそう言った。

 鳴海が頷いて、彦六が歩き出す。

 しなやかな足運びであった。

 何気なく歩いているのに、忍び足のように音がない。

 気配も、重さもない。

 彦六のそれは、武の歩き方であった。

 日常を、これすべからく武の姿とする、天性の才を持つ男だけが、この歩き方ができる。

 この大会で、彦六以外にそれができるのは、渋川剛気ぐらいだろう。

 

 彦六が止まった。

 鳴海も、足を止めた。

 彦六の視線の先に、男が立っていた。

 黒い男であった。

 鋭い視線の男であった。

 全身から、刃物の気を発する男であった。

 

 久我重明────

 

 鳴海の心臓が高鳴った。

 警戒心がぐっと上がった。

 しかし、彦六はいつもの調子であった。

 馴染みの友に語らうように、口を開いた。

 

「重明」

 

 名を呼ぶ。

 久我重明は微動だにしない。

 

「応援してくれるのかい?」

 

 にこやかに言った。

 言いながら、久我重明の間合いに、普通の歩みで踏み込んでいく。

 重明の間合いの半歩前で、彦六は止まった。

 遠い間合いの蹴り技なら、十分に効果を発揮する距離だ。

 腰を落とし、肩を入れて拳を打てば、十分に威力が乗る距離である。

 

 久我重明は、口角を、ほんの少しだけ持ち上げた。

 笑っているのかもしれなかった。

 

「よかったよ」

 

 鉄面皮からこぼれたのは、安堵の声であった。

 重明らしからぬ砕けた口調である。

 冷たく、暗い色ではあるが、確かに彦六への想いがのっていた。

 

「重明。おまえこそ、よかったなあ」

 

 彦六の声もまた、堪えきれぬ久我重明への想いをのせていた。

 

「あの時、おれは、この世でおれたちみたいな男は、おれたちだけだと勝手に思ってた。だから、重明。おまえに負けた時、おれはおまえをひとりぼっちにしちまったと──」

 

 だけど、違ったんだよな。

 徳川光成、道田薫、片原滅堂。

 この世には、やばい男たちが大好きで、そいつらに出会いの場を提供する、ヘンタイたちがいたんだよな。

 だから、おれのこれは、無用の心配だったわけだ。

 あの時のおれは、この業界じゃあまだまだ無知蒙昧のたぐいだった。

 

「重明、おれがいなくても、楽しかっただろう?」

「…………」

 

 今日までの、久我重明の歩み。

 彦六が脱落してから、久我重明が歩んできた人生は、ひとりではなかった。

 おびただしい戦いと、出会いと、ときめきの中で生きてきた──久我重明の立ち姿は、彦六には精悍で、壮絶な歴史を感じさせていた。

 さびしくなかったんだな、重明。

 よかったなあ、重明。

 

「おれも、やっと、戻ってきたぜ」

 

 彦六がそこまで言うと、久我重明は彦六に身体の面を向けたまま、つ、と後ろに下がり、通路の壁沿いに背を置いた。

 彦六に道を譲ったのである。

 それを見て、彦六は微笑んだ。

 

「沁みるよ。ありがとう、重明」

 

 これは、久我重明なりの激励なのか。

 羽柴彦六と久我重明の間にある、ふたりにしかわからない世界。

 鳴海は嫉妬していた。

 いいなあと、心の中で思っていた。

 本人たちにしか、あの戦いをやり遂げた男同士にしかわからない、静謐なる領域でのやり取りは、今なお鳴海の心を焦がしている。

 

 彦六が重明の前を歩いていった。

 そこから、久我重明の間合いの三歩外で、足を止めた。

 顔だけを振り返る。

 

「ところで、重明。おまえの目から見て、烈海王は武道家かな? それとも……武術家かな?」

 

 重明はく、と息を吐いた。

 笑っているようだった。

 

「おまえと同類だよ」

 

 と、静かに言った。

 彦六はうん、と頷いた。

 重明の言葉に後押しされて、彦六の中の微かな疑念が晴れたのである。

 腑に落ちた表情となって、彦六は闘技場に向かっていった。

 

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