色々購入してインプットしまくってたら時間がすぎるのが疾い疾い
1.
羽柴彦六と烈海王が闘技場で向き合った。
合間に立つ審判が、いつものようにルールの説明をしている。
羽柴彦六はTシャツにジーパンとスニーカー。
烈海王は上半身は裸で、黒いパンツにカンフーシューズ。
両者、身長はあまり変わらなかった。
目線の高さが釣り合っている。
にも関わらず──傍目から見ても、その
烈海王の肉体は、羽柴彦六とは比べ物にならないほど、分厚い筋肉に覆われていた。
いや、筋肉に覆われている──というのでは語弊があるだろう。
控室のモニター越しにすら、格闘士たちの目には烈海王の肉体が示す、圧倒的な密度が計り知れた。
烈海王のそれは、見た目ばかりを気にしたものではない。
大袈裟に筋肥大を起こしたハリボテでは断じてない。
これは、悍ましいほどの鍛錬の果てに備わった、極めてナチュラルな筋肉だ。
この存在感こそが、烈海王の修練と強さを思い知らせている。
だから皆、一様に口を閉ざしている。
「すげェな……」
と加藤がつぶやいた。
加藤の目から見ても、烈海王は圧倒的であった。
画面越しなのに、烈海王の出鱈目な強さが
いやはやと、隣に立つ龍刃が伏せ気味になり、首をふった。
「流石は白林寺出身……とんでもねえ
「!? ……ッ! おっさん、あの中国人のこと知ってんのかよッ!?」
「まあ、一応はね。一〇年以上前のハナシになるけど、おれ、大陸に渡って中国拳法の修行を積んでたのよ……言ってなかったっけ?」
「聞いてねーよッッ!? つかオッサン柔道家じゃねェのかよ!? プロレスやってたりすげェ空手家の知り合いいたりよォ……」
「失礼なこと言うねい。
ただ、と龍刃。
「柔道を極めるってことは、柔道以外の
「…………そうかァ?」
「そうだよ。っていうか、愚地さんだって若い頃はアメリカやヨーロッパでプロレスリングに上がったり、ボクシングとやり合ったり、それこそ中国に渡って武者修行してるじゃんか」
「そ、そりゃそうかもしれねェけどよ……今どき中国拳法なんざ覚えたって、あいつら、嘘っぱちだろ?」
加藤が眉を吊り上げて、蔑視の色を混ぜた眼で龍刃を見る。
龍刃はにやりと笑った。
加藤の言いたいことはわかる。
日本でも、散々語り継がれてきた中国拳法や古武術の虚構。
漫画や小説、映画などでたびたび映し出されるカンフー・アクションが作り上げた強さは、
松尾象山が打ち立てた
それは、あっという間に異種格闘における定番として広まり、空手、ボクシング、キックボクシング、そして
加藤が訝しむ根拠はそれである。
本当に中国拳法が強く、実践的であるのなら、中国拳法や古武術はレスリングや柔術のように、総合格闘家の必須科目となり、選手たちはこぞって自身の技術に取り込むべく習い始めるだろう。
加藤自身がつい数ヶ月前までヤクザの用心棒として、刃物や拳銃の飛び交う実戦の中にいた。
ヤクザの中にはレスリングやボクシング、柔道で慣らしたやつはそこそこ見かけたが、中国拳法や古武術をやっているやつはいなかった。
実戦の場でも、試合の場でも、それらを使うものを見たことがない。
「そもそもよォ! 中国拳法が不完全だから、
威勢よく、加藤は言い切った。
周囲の視線が、わずかに加藤に集まっている。
それらを睨み返すように、加藤は眼力を込める。
龍刃は笑っていた。
微笑ましいものを見る目であった。
小馬鹿にされているように感じて、加藤は龍刃を睨み上げた。
「加藤くん。それは、極めて一側面的な見方だよ」
余裕たっぷりに、龍刃は言った。
加藤はやはり小馬鹿にされてると思い、あん? と呼気を強めた。
龍刃は加藤の目を見て言った。
「中国拳法の多くが嘘っぱちなのは間違いないさ。……でもね、拳法家の中にも
「……あの烈海王が、そうだってことかい?」
「烈海王だけじゃないさ」
龍刃はモニターに視線を移す。
しかし、その視線はどこか遠くを──見えないものを想起している目であった。
加藤は訳がわからず疑問符を浮かべた。
しかたなく、羽柴彦六に視線を移した。
2.
烈海王は憤っていた。
地下闘技場に降り立ってから──というより、この東京ドーム地下に案内されて以降、ひたすらに苛立ちを煮詰めていた。
烈海王が徳川光成の誘いに乗った理由はいくつかある。
ひとつはもちろん、自身の強さを証明するためだ。
中国四〇〇〇年の歴史において、最高傑作と自他共に認める自身の強さを持って、最強とは誰のことを指すのかを教え、最強の武術とは中国拳法であることを証明する。
中国拳法以外の武術が如何に未熟で未完成なものであるかを知らしめる。
自らの自負の心である。
もうひとつが、中国武術界に、ここ一〇年で起きた革命的恥辱を晴らすためであった。
ある日のことである。
中国政府の役人が、白林寺を訪れた。
慇懃無礼な態度で劉海王との謁見を果たした彼らは、中国政府が近く、『武術省』なる組織を作り、すべての拳法家を国家が管理する政策を
一方的にすぎる国の決定に、白林寺どころか中国拳法を教える各所の寺は憤り、反意を示したのだが、逆らうものは容赦なく投獄、処罰を下す国家権力に逆らえるはずもなく、中国拳法家たちはしぶしぶこれを受け入れたのである。
そこから、中国拳法の堕落が始まったのだと、烈海王──各地に点在する海王たちは確信していた。
とある寺の海王などは、失意のあまり気が狂い、自身の寺を自身の手で倒壊させた後、何処に消え去ったとまで聞いていた。
烈海王も同じ気持ちであった。
武術省が建てられてから、かつてないペースで何人もの海王が生まれていた。
中国拳法の秘境に国営のマスメディアが土足で入り込み、拳法家たちを見せ物のようにテレビに流し、金儲けの道具と消費されていく。
我慢がならない光景が続いていた。
テレビに刺激され、各地で入門者は激増したものの、所詮は武術家の心得も持たず、学ばないミーハーたちである。
厳しい鍛錬についていけず、ほとんどのものが逃げ出す始末であった。
しかし、烈海王がなにより憤っていたのは、その変化を良しとするが如く、無抵抗を続ける劉海王をはじめとした各地の海王たちにであった。
つまるところが、烈海王が真に激しい嫌悪を抱いたのは、政府にいいように流される中国武術界そのものであった。
未熟な
形式だけを理解し、表面をなぞっただけの愚物がテレビの向こうで達人ともてはやされ、それに満足している
そして、彼らはいざ他流派に勝負を挑まれれば、何かと理由をつけて勝負を遠ざけ、
そうして、中国拳法は嘘っぱちであると声高に語られて、それをテレビで見た凡人たちは信じ込むのだ。
なんという浅はかさなのか。
しかし、その浅はかさに対して、己が
四〇〇〇年をかけて研磨されてきた中国拳法の力と権威が、烈海王の眼にはたったの一〇年で、見るも無惨に崩れ去っているように映っていた。
そして、今──
烈海王は地下闘技場にいる。
目の前には、羽柴彦六がいる。
羽柴彦六は、日本人でありながら、太極拳の使い手であるという。
これはまさに、烈海王が待ち望んだ瞬間であった。
烈海王が、まさに、待ち望んだシチュエーションであった。
嘘っぱちの中国拳法をつかう外国人を、真の中国拳法家である自分が、公衆の面前で叩きのめす。
烈海王は全身に力を漲らせた。
鋭い眼光が、羽柴彦六を睨んでいた。
圧倒的に勝つ。
鮮やかに葬り去る──そんなことばかり考えている。
「こわいね」
と、羽柴彦六は言った。
審判がルールの説明を終えて、ふたりに元の位置に戻るように促した。
が、羽柴彦六はそれを無視していた。
無視して、眼前に手を持ち上げた。
右手である。
攻撃の意思はない。
肘を曲げ、指は自然体に、力を入れない状態で、軽く曲げている。
差し出された手の意味を、烈海王は悟る。
「ナマイキな……」
烈はボソリと言った。
審判が困惑の表情で静止を訴えている。
しかし、助けを求めて徳川光成に振り返り、その光成自身が首を縦に振り、審判に退場を促すと、審判はそそくさと闘技場から立ち去った。
そのまま、『
烈海王は、差し出された彦六の右手に合わせるように、自身の右手を差し出した。
お互いに腰を落とし、左腕が相手から最も離れた場所に落ち着く。
鏡合わせの構えになった。
お互いの右手の甲が、薄皮一枚で触れ合っていた。
これは、太極拳の
対手とも言われる。
太極拳独特の練功法(気を錬る修行のこと)であり、お互い差し出した手の甲を合わせた状態から、組み手を始める練習法である。
中国拳法において、勁(体内から練られる力のこと)とは単にパンチやキックに乗せる力のことではない。
自らの体重を操作する軽身功。
自らの肉体を硬く(あるいは柔らかく)する硬気功。
感覚を鋭敏にし、接した部分から相手の動作を察知する
そのほかにも内臓そのものに勁を練り上げて強靭にする内功などもあり、発勁とはただ打撃に乗せるだけではなく、身体操作の延長、身体能力を増幅させる使い方があるのだ。
このうち、推手に用いられるのは聴勁である。
お互いに接した手の甲から、相手の機微を探り、後の先を取る動きの鍛錬を行うのである。
お互いの手を前に出した状態で始めるため、攻撃に移る側の手間は増しているのに対し、攻撃に対応する側の手間は減っていることがこの構えの妙味であり、ゆえに攻撃する側にとっても、聴勁を用いて相手の隙を探ることも重要になってくる。
守るに
それが、この構えであった。
「しっ」
膠着を破ったのは彦六であった。
自身の右手で烈の右手を身体の外側に押し倒すようにどけて、左手の突きを放った。
狙いは顔である。
烈の身体はガラ空き。
左手は体を挟んだ向こう側。
当たるか?
当たらなかった。
烈は、押し倒された右手を、恐ろしい力で自身の身体に引きつけ、それでそのまま彦六の拳を内側から弾いた。
不思議なことに、彦六の右手は烈の右手に張り付いていた。
烈の力は恐ろしく、彦六の身体がそのまま前に向かって泳ぐほどだった。
「ふん」
彦六の動きは早かった。
泳いだ勢いを乗せてさらに踏み込み、烈の脇目掛けて肩から体当たりを行った。
どん、とぶつかった。
烈海王は、ぴくりともしなかった。
重────ッッ!!
岩?
巨木?
おれは、一体何に身体を預けているッ?
烈海王がふ、とため息を吐く。
それが、彦六の頭頂部にやさしく降り注いだ。
落胆の熱を持っていた。
「くだらん」
と烈海王は言った。
「こともあろうに、わたしに対して功夫で勝負を挑もうなどと……」
見下ろす彦六の背に向かって、烈海王は続けた。
控室。
モニター越しに、格闘士たちがそれを見てざわめいていた。
烈海王の力を悟っていた彼らは、一連の動作を見て、その悟りが嘘ではないと確信したからだった。
ただ、その中で何人かの心象は違っていた。
特に、その中でひとり、嘲笑するように口を歪めている男がいる。
腕を組んでモニターを見ている男である。
黒いタンクトップを着て、ライオンのたてがみを思わせる黒髪の男。
左眼を覆うように、酷い火傷の痕がある。
「バカめ……」
と笑っているのは、伽羅であった。
3.
衝撃があった。
腹に、である。
烈海王の、と前置く。
雷鳴の鋭さと叫びを持って、烈海王の腹部を衝撃が貫いた。
烈海王が大口を開けて、身体をくの字に曲げて、吐瀉物を吐いた。
「ガ……ハ……ッッ!?」
烈の身体が、目の前にある彦六の身体に被さるように倒れ込む。
膝が笑っていた。
顎が前に出ていた。
彦六は、肩を少し引いて、烈の顎と自身の身体の間に、小さな空白を作った。
その小さな空間を縫うように、彦六のショート・アッパーが駆け抜けた。
彦六の拳が烈の顎を真下から撃ち抜いた。
ごろんと、烈海王が尻から地面に落ちた。
何が起こったのか──ッッ!?
羽柴彦六が何をしたのか、理解している男たちがいる。
ひとりは言うまでもなく伽羅である。
ひとりは愚地独歩である。
ひとりは渋川剛気である。
ひとりは久我重明である。
そして、ひとりは加納アギトであり。
格闘士以外なら、それは片原滅堂であった。
『龍弾』。
それは滅堂の牙、加納アギトの必殺技である。
相手と接触するギリギリの距離から放たれる寸勁のことだ。
これを食らった相手は、ゼロ距離から突如発生する最大火力の一撃に、防御姿勢を整えることもできず崩れ落ちる。
着弾状態から射出される故にモーションそのものがなく、密着故に回避は不可能。
唯一の弱点は発勁故にわずかな
事実、この隙を突いて加納アギトの『龍弾』を破ったのは、唯ひとりしかいない。
羽柴彦六がやったのは、この『龍弾』と全く同性質の発勁である。
推手を跳ね返され、相手に身体を預けたのはわざとであった。
烈海王の身体は強靭極まる。
押しても引いてもびくともしないのはわかっていた。
そして、烈の腹を掴むように乗せていた掌から発勁を打った。
烈の身体を、彦六の発勁が突き抜けた。
それが内蔵を激しく揺らし、烈の気脈を乱したために、烈の身体から一気に力が抜けて、崩れ落ちたのだ。
「すまないね、烈海王」
彦六は、身体を持ち上げる烈に向かって蹴り込みながら、言った。
「おれが、あんたを倒すには、あれを狙うしかなかった」
烈の顔に彦六の踵が打ち込まれた。
烈は、しかし、彦六の足を跳ね除ける。
彦六は羽上げられた足の、膝の部分に手を添えて、一気に振り落とした。
さながら、四股を踏むように、烈の足の甲に向かって踵を落とした。
「ぐあッッ!!?」
彦六の狙いは足首である。
足首を破壊する。
最低でも捻挫させる。
「最初、向かい合って、あんたがおれを舐めているのが
膝立ちになった烈の顔に、拳を打つ。
すんなりと入った。
「海王が、今、
彦六は烈の目元を擦った。
それは避けられた。
だが、それは囮である。
本命は、右腕。
一本拳で、鎖骨と肩を繋ぐ根本を打った。
村雨──急所である。
鋭い痛みが烈を襲った。
これで、しばらくは右腕に力が入らなくなる。
「おれが、アンタとまっとうに戦うためには、このぐらいやらなきゃダメだってのも、すぐにわかったさ」
烈の腹に、彦六の足刀が刺さった。
烈は苦悶に身を捩る──
──が、
烈海王は立っていた。
殺気だった眼が、彦六を睨み上げている。
会場がざわめいていた。
観客たちが唖然とした表情を浮かべていた。
彦六は、だよな……と呟いた。
「見誤っていた」
烈海王は言った。
軽く、頭を下げた。
「太極拳をおさめたと聞くが、所詮は日本人。本質に至ってはおらぬと──表面だけをなぞっているものだと──タカを括っていた」
すまない。
と烈海王は言った。
なんともなく腹を撫でている。
彦六が打った部分だ。
烈海王が靴を脱いだ。
腰を落とし、膝を曲げ、膝を掴むように手を乗せて、体重を下ろして地を掴んだ。
剥き出しになった足首は、赤く、倍の太さに腫れ上がっている。
だが、そんなものなんでもないように、烈海王の表情は強い意志を孕んでいた。
「全力を出そう」
烈海王の言葉が、彦六を射抜いた。
ごくりと、彦六は唾を飲み込んだ。
その顔が、恐怖を滲ませながらも、微笑んでいた。
4.
烈海王が踏み込んだ。
腫れ上がった足首を存分に回している。
速い。
左の前蹴り。
足の側面を当てにくる、テコンドーの蹴りに似ている。
彦六が左に躱わす。
皮一枚だ。
烈の身体の内側に向かって滑り込むように足を動かす。
と──その身体が止まる。
止められた。
彦六が視線をやる。
服を掴まれている。
掴んでいるのは、烈海王の足の親指と人差し指だ。
烈が、蹴り足を戻す。
彦六はなすすべなく引っ張られていった。
抗えなかった。
ものスゴい力であった。
そのまま姿勢が崩れて、顔が前に突き出る。
崩れゆく彦六の顎を迎えるように、烈海王の蹴りが伸び上がった。
つま先を結ぶように立てている。
中国拳法の蹴り──
烈の脚に押し上げられ、彦六の身体が一気に跳ね伸びた。
かろうじて手を挟んで、直撃は避けている。
だが、凄まじい衝撃が彦六の脳を揺らした。
烈の攻撃は止まらない。
差し込んだ彦六の左手小指を、蹴り足の指が摘んでいる。
そのまま、地面に叩き落とした。
彦六は顔面から闘技場に叩きつけられた。
地に落ちた彦六の延髄に、烈は覆い被さるように穿脚を打ち下ろす。
彦六が転がってそれを避けた。
避けた先に向かって、全く継ぎ目もなく、打ち下ろしの姿勢から捻って打ち出された烈の右足が彦六の胸を穿った。
「けえっ」
胸骨の中心やや上を貫いたそれは、一瞬で彦六の全身を痺れさせた。
力が抜け、そのまま転がっていく。
うつ伏せになり、立ちあがろうとするが、手足が震えていた。
ダメージのせいではない。
これは、経穴を突かれている。
「彦六さんッ!!」
セコンドの鳴海が叫んだ。
烈海王の足が、立ちあがろうと顔を上げていた彦六の喉に突き刺さった。
5.
「つ……つえェ……ッ!!」
加藤が言った。
声が低い。
モニターを見る眼が開いている。
表情に、畏怖の念が滲んでいた。
モニターの向こうでは、立ち見下ろす烈海王の前で、羽柴彦六が血を吐きながらのたうち回っていた。
中国拳法。
これほどかッッ!!
強い。
疾い。
しかし、それだけならこれまでの試合でも全然負けていない。
加藤の目から見て、烈海王がこれまでの格闘士たちと根本的に違うところは、肉体の耐久力と回復力であった。
烈海王、なんとタフなのか。
羽柴彦六は、確かに烈海王の足を破壊している。
右腕も使えなくなっている。
烈の右腕は以前として、力なく地面に向かって伸びているのだ、力が入らないのは間違いない。
急所をあれだけ一方的に打たれ、蹴られてなお、もうピンピンしているではないか。
「復元……って言ったっけな、中国拳法じゃあ」
加藤が振り向いた。
龍刃は言う。
人間が、己の肉体をとことんまで追い詰めた果てに至る境地がある。
現代のスポーツ生理学において、トレーニングにせよ競技の本番中にせよ、肉体を極度に酷使することは愚行とされている。
肉体を鍛える、肉体を行使するという状態は、極論、肉体を一度破壊している最中なのである。
だから、人間の肉体には、生物の本能として命の危機に迫る痛みや疲労に接する時、悲鳴を上げる──つまり、限界だと警告する機能が備わっている。
しかし、この警告をあえて無視してトレーニングを続ける。
そうして肉体を丹念に追い込み続けて、苦痛があるラインを突破した時、不思議なことに、苦痛はとてつもない快楽へと変貌を遂げるのである。
苦痛を味わい続けた肉体の防衛本能は、脳からの指令に抗い続ける意志に屈した時、自死を避けるために苦痛をハネ退ける爆発的な体力を肉体に与え始めるのだ。
かつて、マラソンランナーは走り続けることによって、この境地に触れていたという。
古代においては、神の言葉を賜るシャーマンたちは、自傷の果てにこの境地に至っていたと言う。
神に許しを得る敬虔な信徒たちもまた、この領域に達することで、神に許し(つまり快楽)を与えられたものだと解釈していたという。
もちろん、これも行き過ぎれば自滅を招くのは言うまでもないが、それでも選ばれし天才の肉体と言うものは、しばしば常識からかけ離れた行いを成してしまうものである。
そして、古代から中国拳法においてはそれを『復元』と呼び、真の中国拳法家は復元を日常訓練と化すことを修行の第一段階とするのだ。
「現在においては、これは
あらゆるダメージも、疲労も、全て快楽に変換される。
動けば動くほど多幸感に包まれるわけだから、まあ、無敵だわな。
「つ、つまり……中国拳法家って連中は、とんだドMのヘンタイ集団……ってことか……?」
「うーん、言い得て妙だねェ。間違っちゃいねえが、こう……やっぱ加藤くんって現代っ子だよなァ」
6.
彦六は立ち上がった。
しかし、息も絶え絶えであった。
両膝に手をついて、支えにしないと顔を上げられない。
体力がごっそりと奪われてしまっていた。
無理もない。
彦六は、ここに至る約一〇年、まともに戦いの経験を積むことができなかった。
格闘の攻防自体はセンスで代用はできる。
筋力などなくとも、立って歩く程度の力を保てるなら、人は倒せる。
だが、凡人にとって、体力の絶対値はトレーニングによってのみ培われる。
例外はない。
花山薫や範馬勇次郎は、もともと有する体力が桁外れにデカいのであって、彼らのそれは努力によって培われたものではないのだ。
だから、羽柴彦六の体力は急激に衰えていた。
それに反し、烈海王の体力は万全近くまで快復しつつあった。
「負けを認めろ」
烈海王が言った。
彦六が顔を上げた。
「ここでわたしに負けても、きみが烈士に足る武術者であることを疑うものはいないだろう。懸命な判断をするんだ」
彦六は微笑した。
それが、鳴海にはわかった。
「しょ、しょうがないな……」
彦六は言った。
諦めを孕んだ呼気ではなかった。
「しょうがない?」
「この大会じゃあ、使うつもりはなかったんだけど……相手が烈海王だもんなあ……」
ぐぐっと、彦六は背筋を伸ばした。
鼻から息を吸って、口から、細く、静かに息を吐いていく。
両手をへそのやや下に置き、そこに球状のものがあり、それを撫でるように指を曲げている。
彦六の眼が細まり、烈海王から視線が外れた。
どこを見ているのかわからない、上の空のようである。
ぞくり、と烈海王の背筋に悪寒が走った。
彦六の気が、増している。
彦六の体内を巡る『気』が、丹田で大きく練り上がって、全身に巡って体外に放出されているのである。
それは、熱を持っていた。
羽柴彦六から烈海王の間の空間に彦六の気が満ちて、じわりじわりと熱をかき混ぜているのであった。
これは、中国拳法の技である。
だが、伝説の技だった。
烈海王の知る限り、御伽話の類である。
元は、仙道(仙人が使う術)として知られている。
小周天の法────
彦六がゆっくりと眼を開いた。
もう、呼吸は乱れていない。
その肉が、静かに脈打っていた。
気が、余すことなく全身に行き渡ったのである。
「キサマッッ!! 一体どこでそれをッッ!?」
「ちょっと前にね。尋常ならざる男に出会って、これだけ教わったのさ」
烈海王が腰を落とした。
一転して殺気だっていた。
もう、油断も何もない。
対して、羽柴彦六の顔は、優しさを帯びていた。
どこか神々しい──人間離れした光を放っているようであった。
烈海王が踏み込んだ。
拳が、恐ろしい速度で回転しながら、彦六の顔に向かって飛んだ。