【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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第三話:希死念慮

 

0-1.

 

 

 死ねばいいのだ。

 格好などつけずに。

 死に場など求めずに。

 ただ、挑み、己を出し切ればいいのだ。

 だだ、あるがままに、死ねばいいのだ。

 

 

0-2.

 

 

 夜であった。

 見上げれば、空は闇色の天幕に覆われている。天幕の端々が煌めいて見えるのは、月明かりを反射した星々が、灰雲の隙間から顔を覗かせて、チラチラとこちらを見下ろしているからだった。

 

 道場の中であった。

 古い武道場である。

 柱と壁に打たれた木々の塗装に、煤けた色がこびりついている。

 室内だというのに土の匂いが鼻をかき、一見静寂に見えて、心の隅にとんと耳に傾けると、木々の呼吸が夜の呼吸と混ざり合って、命の音が騒がしくひしめいているのがわかる。

 灯りは無い。

 星々のいたずらな木洩れ日が、穴の空いた屋根から降り注いでいた。

 静妙な闇の中で、その光をかき集めるように、ゆらりゆらりと羽柴彦六は舞っていた。

 自らの身体の中心──丹田に気を集め、それを円動作を基本とした動きで手先足先に巡らせていく。

 足で、道場の床を噛むように踏んでいる。

 套路(とうろ)──すなわち、太極拳の型の動きであった。

 脱力し切った腕が伸び切る寸前、素早い動きで掌を捻りながら、前に突き出す。

 同時に、足も、最後の一瞬だけ強く踏み込み重さを乗せる。

 彦六の動きに合わせて、パンッ、と空気が弾けた。

 彦六が行なっているのは、脱力と緊張による爆発力の獲得である。

 格闘技に限らず、スポーツや吹奏楽などにおいても研究される、瞬発力の発揮の要訣。

 これを突き詰める際に度々注視される、筋肉の弛緩と緊張の振り幅とタイミング。

 これが釣り合った時に生まれる、尋常ならざる爆発的破壊力。

 時間と空間を跨ぐ刹那的特異点。

 それを、武を通し──動きの中で掴もうととしているのだ。

 羽柴彦六の場合……というより、特に太極拳においてのそれは、自らが外から発する力と、自らの(うち)から発する力の合一によって見出さんとするものであった。

 同じ動作を、意識の向きを変えつつ、左右の手足で順々に行なっていく。

 内外の力が発揮される際の誤差を、動作のたびに少しずつ縮めていくのである。

 もちろん、動作を入れ替える時の動きは、丹田を起点として、やはり円運動を描いている。

 円動作を力の練りとすることを、太極拳では纏絲(てんし)勁と呼ぶのであった。

 この力の流れを掴み、支配するのが套路(とうろ)の目的である。

 掴んだ力を、徐々に、普通の状態からでも発することができるように磨いていく。

 特別な気を発するのに、特別な動きをする必要を無くし、常在的な技として転ずることが、即ち太極拳式の発勁なのだった。

 

 彦六がひと通りの動きを終え、両手を重ねて前に置く。

 呼吸は乱れていないが、凄まじい量の汗が全身に滴っていた。

 まだ、特異点を掴めていない。

 いい線はいったが──まだ、甘い。

 彦六が自問自答していると、背後から、太い音がした。

 手を叩いた音であった。

 それは、二度、三度と続けられた。

 彦六が振り返った。

 そこに、太い男がいた。

 

「いやあ、大したもんだ。元が太極拳の達人とはいえ、こうも短期間で覚えちまうなんてね」

 

 重低音の、しかし、朗らかな声であった。

 男が彦六の前に出る。

 身長、二〇〇センチメートルを上回るか。

 体重は一四〇キロは軽く超えているだろう。

 縦にもデカい。

 横にも太い。

 そして、身体の分厚さがとんでもない。

 例えるなら、ブーツのゴム底を何重にも重ね、同じ大きさになるまで圧縮したような弾性と超密度を兼ね備えた肉体だ。

 恐るべき存在の過密っぷりである。

 側から見ると、男の肉体は、彦六の倍は巨大(デカ)く見えた。

 顔も、巌のようにゴツゴツとしている。

 短く立てた髪は、男の表情をむき出しに見せてくる。

 にも関わらず、男が彦六に向ける表情は程よく解けていて、どこか、朴訥とは言いきれない愛嬌が見てとれた。

 広い肩に、猫が乗っている。

 漆黒の毛並みの猫である。

 猫はぴくりともしない。

 器用にもどうやら寝ているようで、男が彦六に歩み寄ってもまるで気にしないようであった。

 

「まだまだですよ。身体の裡から湧き上がる力を制御するのにせいいっぱいで……このままじゃ、誰かと戦うなんて、とてもじゃないができません」

「まあ、その力で普通人を殴ったら、いっぱつで死んじまうだろうさ。でも、それは彦六の未熟じゃない。元々からそういう技なんだよ、それは。この短期間で、よくぞここまで仕上げたもんだ」

「乱蔵さんの指導がうまかったんですよ」

「そういうことにしておくかね」

「ええ、そういうことですからね」

 

 乱蔵と呼ばれた男は、その場に腰を下ろした。

 ずしり……と、ただそれだけの動作で、大地が傾いたようである。

 乱蔵の肉体は、彦六の間合いにしっかり入っている。

 乱蔵の顔は、今、彦六が掬い上げるような前蹴りを放てば、乱蔵の顔を顎から蹴り上げられる、ちょうどいい位置にあった。

 彦六は微笑みを浮かべた。

 す、と自身もその場に腰を下ろした。

 乱蔵はふ、と笑みを浮かべた。

 

「さっきも言ったが、その力は本来、常人に向けていいモンじゃねえ」

「相手が、武術家の場合は?」

「並大抵の相手じゃ、やっぱりダメさ。もっとも、羽柴彦六なら、並大抵の武術家なら()()()()でも叩きのめせるだろう?」

「それは、かいかぶりすぎですよ」

「そうは思わないね。これは、単純な武の練度とは少し話が違ってくる。その打撃に耐えられるかどうかの話は、そいつの生まれ持った資質と性質の問題だからな。肉体そのものを改造しちまってるような……例えば、海皇のじいさんや範馬の一族や、呉の一族ならともかく、今の彦六の発勁を、そんじょそこらの武術家が抑え込めるわけもないさ。彦六の練功におれ直伝の発勁が噛み合えば、ただのパンチでもそこらの熊ぐらいなら、そのまま倒せちまうぜ」

「おれは動物虐待はしませんよ。漫画じゃないんですから」

「ああ、おれも、彦六がむやみやたらとその力を振るう男じゃないことは、わかってるさ」

 

 にい、と男の口角が持ち上がる。

 獰猛で、愛嬌があって、堀が深く、柔和で暴力的という、世の矛盾を煮詰めたような微笑であった。

 そう、この男──九十九乱蔵は俗世とは違う次元で生きている。

 羽柴彦六に言わせるなら、九十九乱蔵とは仙人のような男であった。

 それは、単に人並外れた肉体を指すのではない。乱蔵の鷹揚かつ繊細な、人界を鳥瞰してやまない精神性のことを指している。

 乱蔵は陰の気を祓う力を持っている。

 陰の気とは、人間の心(うち)に巣食う闇であり、『(まが)』のことだ。

 他人を害する凶暴性や、呪い怨む病理を、この九十九乱蔵という男は自らの陽気を持って、祓ってしまえるのだ。

 だから、強い。

 根源的なところで、彦六のような武術家とは、強さの質が違う男なのである。

 このような男に『武』の一端を習えることは、彦六にとって幸運に違いなかった。

 

 しかし、あまりにも強すぎる力である。

 彦六の拳は、蹴りは、それまでですらやろうと思えば、容易に人を殺せるシロモノだった。

 それが、乱蔵の教えで気脈を整え、整った気を武として扱うだけで、これほどの破壊力を生み出してしまうとは。

 

 乱蔵が顔を迫り出した。

 その眼が、太い輝きを放っていた。

 

「条件をつけるぜ」

「条件?」

「ああ。小周天をはじめとする、おれの発勁を使用(つか)っていい相手を教えておく」

 

 心に『(きょう)』を宿す男だ──。

 

 と、乱蔵は言った。

 

「兇、ですか」

「そうだ。己の力を人を傷つけんために扱い、その力を使用(つか)って自分より弱い者を脅かす心を持っている、一定以上の乱暴者だけにしておくんだ」

「根本的なところは、武術と変わらないですね」

「そりゃあそうさ、武術は元から仙術に通ずる。自ずと同じ道を歩み、同じ先にたどり着くものよ」

「……たどり着いた人を、乱蔵さんは知っているんですか?」

「…………ひとりだけな」

「ひとり、いたんですね」

「まあな……実を言うと、おれは今、そいつを追っかけてるところなのさ」

 

 乱蔵が目を細めた。

 苦諌的な物言いは、自分の言葉の行く当ての苦労を見据えているようだった。

 

「よかった」

 

 彦六は息を吐いた。

 

「何がだい?」

 

 と乱蔵は聞く。

 

「あなたの言う『武の先』に、実際たどり着いた人がいるのなら──あなたは詐欺師ではない……ってことですからね」

 

 正直、乱蔵さんって、普通に考えて胡散臭いですから。

 

 と、彦六は忌憚なく続けた。

 じゃれつくような笑みを携えて。

 乱蔵は頭を掻いた。

 

「ははは、こいつめ。いいやがるぜ」

 

 男ふたりはくつくつと笑いあった。

 

 こうして、彦六は乱蔵にいくつかの仙術を学び、最大トーナメントまでの間、その内のいくつかを実戦レベルまで磨き上げていたのだった。

 

 

2.

 

 

 殴り合いであった。

 烈海王と羽柴彦六が殴りあっていた。

 蹴りあっていた。

 全力で。

 闘技場の中央に陣取っていた。

 そこに、目に見えない土俵を作っているように、ふたりがふたりとも、その円の中から押されない、退がらない。

 軽く足場を踏み変えてはいる。

 だが、ふたりとも、見えない円の外には決して足を出さないのである。

 足運びはしなやかで、特に、烈海王を軸に、羽柴彦六が回るように動いているか。

 烈海王は、羽柴彦六がどう動いても、必ず、その身体を正面に座していた。

 後出しにも関わらず、羽柴彦六の動きの全てを逃さぬように動いている。

 追い縋るように繰り出される烈海王の拳や蹴り──神速のそれらを、羽柴彦六はなんとか捌いている。

 捌く合間に拳をねじ込む。

 それを、烈海王がはたき落とす。

 はたき落とした拳が翻り、返しに打たれた拳と合わせた二連打……いや、三連撃が、彦六の胸と肩を撃ち抜いた。

 しかし、彦六は怯まない。

 伸ばした拳を翻し、裏拳を烈の頬に当てる。

 顎を狙った一撃であったが、狙いが外された。

 彦六の身体は動くたびに、全身が不自然なほど脈動しているのが、傍目からでも分かった。

 当然、烈海王にも。

 

 無理をしているな。

 羽柴彦六は、この状態を維持するために、相当の負担を身体に強いている。

 彦六の動きは速い。

 が、烈海王から言わせて貰えば、速く動いているとは言い難かった。

 どちらかといえば、速く()()()()()()()と言える動き方であった。

 どこか、ぎこちないのである。

 答えは単純、小周天の法による気の練りに、彦六の身体が十全についていけていないのだ。

 彦六の体内を巡り、拳や足先から螺旋状に練り出される発勁。

 そのコントロールが完全ではない。

 だから、烈海王の視点からすると、彦六の動きは節々に不自然な間があった。

 速いことは速いが、彦六の動きは不規則に、錆びついた義足が曲がるように鈍くなる。

 もちろん、それを眺めている格闘士たちも、観客の中のめざといものたちも、羽柴彦六の異常に気づき始めていた。

 

 中でも──加納アギトが彦六のそれを見て想起するものは、アギト自身にある種の嫌悪を抱かせるものであった。

 羽柴彦六が使っているもの──これは、前借りか?

 あるいは『憑神』か。

 呉一族の使う『外し』にも似ているが、身の内から湧き出る力を使いこなせていない──かつ、それで自爆になっていない──のを見るに、そちらではないだろう。

 いずれにせよ、羽柴彦六が自身の肉体に相応の無理を強いているのは間違いない。

 

 にしても、にしても烈海王よ。

 あの打撃を捌けるのか。

 捌きながら、打ち込めるのか。

 烈海王の手足が打ち込まれた、羽柴彦六の手足に、血が滲んでいるではないか。

 あれは、羽柴彦六の血だ。

 烈海王のパーリングが、彦六の手足を裂いている。

 見覚えのある光景であった。

 感嘆が深みを増す。

 なんという鍛錬の結晶なのか。

 なんという速度なのか。

 この密度で、あれほどの使い手を相手に、こうも有利に攻防を組み立てられるのか……!!

 驚嘆の想いであった。

 加納アギトの目から見て、烈海王は『先の先』を使っていない。

 使えないのか、あえて使っていないのかはわからないが、現時点の烈海王は先読みの類ではなく、視認しながら──つまり、()()()()()()()にあの攻防を行えている。

 眼も、手足も、全く人ならぬ速力だ。

 反射神経だけでなく、その反射に間に合う肉体操作能力がとてつもない。

 かつて、護衛者のひとりから聞いた話で、海王の試練には打岩と呼ばれる訓練があるという。

 素手で、凹凸の激しい巨岩を球状に削る訓練だと言う。

 海王の地位にあるものたちは、この一見不条理な武技を、己の手足を全く痛めずに行えるのだと。

 彼らの手足は、硬く、尖った岩を、まるでバターのように切り裂き、左右対称の滑らかな真球を作り出すのだという。

 果たして、加納アギトが知る闘士の中に、それができる男が何人いるだろうか。

 候補は思いつく。だが、ひとりを除いて、いずれもできると断言はできない。

 確実にできると断言できるのは、あの男──“魔槍“黒木玄斎だけだろう。

 

 その、ある種の疑念が腑に落ちた。

 この手速があるからか!

 この速さを得ているから、海王たちは、巨岩を素手で切り裂けるのか。

 この速度を御し切るからこそ、巨岩を真球に変える精密さを備えているのか。

 なるほど、これでは並の格闘士では相手にもなるまい。

 海王の打撃とは、一打一打が必殺のそれなのだ。

 五体の凶器化、四肢の武器化。

 そこに至る道が、速力の獲得と部位鍛錬の違いはあれど、術理の帰着としては、海王の()()は黒木玄斎の武的到達点に、よく似ているのだろう。

 つまり、それを体現する打突だけならば、烈海王とは()()()()()なのだ。

 これが、海王。

 これが、中国拳法かっ!

 加納アギトが笑っていた。

 目の前の光景に、奇しくも重なる強敵の姿──

 否応なく、身体が疼いていた。

 戦いたくて、しょうがなかった。

 

 

3.

 

 

 羽柴彦六は夢想の境地にあった。

 強い──

 烈海王、なんと強いのか。

 小周天の法は、仙人と呼ばれる男から習った技だった。

 元より太極拳の達人であり、内功家としてある種の極みにあった彦六にとり、自身の不完全な外功を補完する術として、使いこなせれば、小周天の法は最適であった。

 問題は、習熟の難易度だった。

 全身の気を一度に隆起させ巡らせるこれは、単純にコントロールが難しいのである。

 元より、練り上げた内功を攻撃に転ずるためには、外的に発する力と内的に生ずる力のタイミング(呼吸)を合わせなければならない。

 所詮発勁と呼ばれる力の伝導とは、この「内外合一」の果てに正しく破壊力と転換されるのであって、このタイミングがコンマ一秒ずれたならば、発勁は手間がかかる分、単なる打突にも劣ってしまいかねない。

 それでも戦いが成立しているのは、ひとえに烈海王の心に宿る『兇』のおかげであった。

 

 烈海王の心の中には、他者への嫉妬と憤慨がある。

 その心に、自負の裏返しとしての凶暴性、攻撃性があった。

 強すぎる殺気は己の気を半減させ、ザラついた心の棘は、肉体の力の流れを阻害する。

 ほんのわずかに『力み』が出るからだ。

 それが、本来伝わるべき力のタイミングを微妙にずらしてしまう。 

 だから、この試合において、烈海王の打撃の威力は本来の半分も発揮されていない。

 思い通りに倒れない敵──と見えて、その実、思い通りに動かぬ自身に苛立ち、その身体にはさらなる無駄な力みが加わり、内外の気の流れはますます澱んでいく。

 これは間違いなく烈海王の未熟であった。

 その未熟に、羽柴彦六は救われている。 

 しかし、それでも、羽柴彦六は烈海王に押されていた。

 

 半分で、半分の力でこれなのか──ッッ!!

 

 拳が疾い。

 蹴りが、重い。

 流石は中国四〇〇〇年。

 流石は中国拳法の集大成、烈海王ッッ!!

 

 彦六が右拳を打った。

 烈海王が跳んだ。

 恐るべき光景があった。

 烈海王が、彦六の右拳の上に立っていた。

 

「ウッソだろう……ッ!?」

「マジかよッッ!!?」

 

 と観客席から声が上がった。

 烈海王は、自身を見上げる彦六の腕を悠々と歩き、その首に自身の脚を回した。

 彦六の首を足で巻き上げ、あぐらを掻いた。

 

 まずい──ッッ!!

 

 彦六が思った瞬間、烈海王の背が、ゆっくりと反時計回りに傾き始めた。

 彦六は跳んだ。

 烈海王の自重によって加速する向きに、さらなる加速を加えるべく全身で跳び、回った。

 振り解くように、叩きつけるように、地面に向かって落ちた。

 彦六は肩から闘技場に突っ込んだ。

 突っ込んだのは彦六だけだった。

 烈海王が消えていた。

 

 慌てて腰を上げた彦六の視界から、烈海王は完全に消えていた。

 しかし、彦六は慌てなかった。

 

「ふんッ!!」

 

 彦六は左肩に右手を添えて、そのまま腰を捻って背後に肩から体当たりを打った。

 鉄山靠(てつざんこう)である。

 それは、今まさに打突を放とうとしていた烈海王を突き飛ばした。

 烈海王は彦六の背後に回っていたのである。

 まるで影のように、動作はおろか呼吸までを完璧に合致させていたために、鉄山靠を当てた彦六に、その実気配すら掴ませていなかっただろう。

 彦六は、あのままでは有無を言わさず必殺の一打をもらっていたが、烈海王が姿はおろか気配までも完璧に消し切っていたため、逆に、烈海王は彦六に自身の居場所を教えてしまっていたのである。

 

 彦六は首をなぞる。

 一瞬、死を覚悟させられた。

 とんでもない技をやられかけた。

 その後も、なんと抜け目のない。

 

 烈海王の形相が、悪鬼の如く歪んでいる。

 烈は、ここまで思い通りにならぬ敵に対し、敬意を上回る煩わしさを感じ初めていた。

 つまり、心のザラつきが、第三者にも隠せなくなってきていた。

 

 彦六は、飲み込まれそうになる意識を張って立たせる。

 しかし、身体が重い。

 今気づいたことだが、無意識に脚を引きずっていた。

 セコンドの鳴海の表情が苦悶に満ちている。

 鳴海が背後にいても、彦六にはわかっていた。観客席にいる芥菊千代の悲しみの顔も、彦六には手に取るようにわかっていた。

 

 ──大丈夫だ。

 と、声にならぬ声を、彦六は発していた。

 大丈夫さ。

 もう、同じ轍は踏まないよ。

 おれだって、あの時より──すこしばっかり、強くなってるんだぜ?

 

 彦六は、鳴海たちに、心で諭した。

 途端に、烈海王の顔が、更なる敵意を孕んだ。

 観客の視線が、彦六の顔に集まっていた。

 愛嬌のある雰囲気で──

 人を和ませる、柔らかくて解けた緊張感で──

 

 彦六は笑っていた。

 

 

4.

 

 

 ──なぜ笑えるッ!?

 羽柴彦六ッッ!!?

 

 烈海王は苛立ちのピークを迎えていた。

 羽柴彦六の強さは不思議であった。

 強いは強い──が、この強さは本来、ここまで自分が手こずるモノではない。

 これは自惚れではない。

 自身の見立ては間違っていない。

 羽柴彦六は強いが、烈海王とは()()()()ッッ!!

 もっと圧倒的に倒せるハズだ。

 もっと鮮やかに倒してしまえるハズなのだッ。

 だというのに──なぜ仕留めきれないッ!?

 急所に、何度も当てているではないか。

 本気で蹴っているではないか。

 羽柴彦六のダメージは目に見えるではないか。  

 なのに、なぜ、こんなにも耐えられている!?

 なぜ、このわたしがッッ!!

 ここまで手古摺っているのだッッ!!?

 

 焦燥──、

 憤怒──、

 それを超えて、もはや増悪に脚を踏み入れている。

 烈海王よ、おまえは何をしにトーキョーに来たのだ?

 中国拳法の素晴らしさを教えるためではないのか?

 中国拳法の、真の強さを知らしめるためではないのか?

 『海王』の真価を示すためではないのか──ッッ!!?

 

 それが、なんという()()()()()だ。

 

 挙句、笑われているだと!?

 何がおかしい羽柴彦六ッ!?

 ブラフの笑みではない。

 強がりの笑みではないッ。

 これは、心から弛緩し、心を許容(ゆる)している者の笑みではないか。

 戦う者に対する表情ではないッ。

 屈辱──ッッ!!

 

「わたしをッ……侮辱するかッッ!!!!」

 

 烈海王が叫んだ。

 空気を裂いて、闘技場につんざく怒声を浴びて、観客たちは心が震え上がった。

 彦六は、

 

「まさか……」

 

 と、かぶりをふった。

 

「あんたを尊敬しているよ。本当に……ほれぼれするほど強い……」

 

 抱きしめてやりたいよ。

 と、彦六が言った途端。

 烈海王の怒りは天を衝いた。

 

 強い踏み込み。 

 重い上段蹴り。 

 固めた足先で、狙いは喉──

 力みすぎて、遅い。

 彦六は身体を右に逃し、烈のすねを、左手で上から抑えた。

 次いで、右手を下からふくらはぎに添えた。

 言った。

 

「すまない、烈海王」

 

 彦六の呟きの刹那、烈海王のふくらはぎが爆発した。

 

 

5.

 

 

 握撃──ッッ!?

 

 というが範馬刃牙の感想であった。

 超絶の握力を持つ、花山薫だけが扱える、ワザと呼べぬ技。

 腕や脚を上下から強く握り、行き場を失わせた血流や筋肉の爆縮で部位を破裂させる超技である。

  

 無寸雷神──!?

 

 というのが、葛城無門や神奈村狂太の感想である。

 両手で挟み込んだ対象に向けて、ほぼ同時に打ち込む発勁によって生ずる衝撃で内部を破壊する技のことだ。

 

 加藤清澄は虎王だと思った。

 上顎になぞらえた手足で対象を固定し、下顎になぞらえた一撃で対象を噛み砕くのが虎王だ。

 

 結論から言うと、烈海王の脚が、ふくらはぎから破裂していた。

 羽柴彦六がスネとふくらはぎを挟み、発勁を行った結果であった。

 が──それにしては威力がおかしい。

 打ち込まれた烈海王の脚は、内部から破れるように破裂した。

 ズボン越しにもはっきりわかるほどの爆発であった。

 あの姿勢から、あれだけの威力の発勁が打てるものなのか!?

 

「"双勁"だ──」

 

 加藤の背後でそう言ったのは、肩で息をする本部以蔵であった。

 

「戻ってきてたのかよッッ!!」

「両腕で挟み込んだ物質に練り上げた勁を浸透させ、内部から破壊する技だ……」

「あ、あのワザも中国拳法かよ……」

「元はその原型……仙術だ。古代中国拳法が日本に伝わった時、時の天皇家に仕えていたとされる、御傍守(おそばもり)の扱っていた須玖根(スクネ)流に取り込まれ、“無寸打ち“として昇華された技とも言われている……」

「な、なんでも知ってンなァ、相変わらず……」

「しかし、並大抵ではあれほどの威力にはならんハズ……羽柴彦六、なんという功夫だ」

 

 本部が息を呑んだ。

 加藤は額に冷や汗をしたらせる。

 モニターを見直した。

 

 

6.

 

 

 烈海王は、それでもなお、構えを解かなかった。 

 血塗れの足で、しかし、大地を踏んでいた。

 あっという間に、地面にこぼれた血の池ができた。

 闘技場のドクターが慌てて徳川光成に試合中止を訴えている。 

 が、光成は一切を黙して、烈海王と羽柴彦六の試合を見つめていた。

 ドクターの命令で審判たちが闘技場に入ろうとした。

 それを、

 

「邪魔をするかあッッ!!!」

 

 怒鳴り上げて止めたのは、烈海王であった。

 

「出ていきなさいッ!!」

 

 烈海王は、門前で戸惑う審判たちに向かって、毅然とした態度で訴えた。

 覇気が増している。

 この時ばかりは意識して、殺傷可能圏を彼らの方に向けて伸ばしていた。

 だから、その手前で彼らは詰まっていた。

 彼らは、ここから一歩でも踏み込めば、烈海王の魔拳が振るわれるのが心で理解(わか)ってしまっていた。

 

 彼らの煮え切らぬ足取りを見届けて、烈海王は羽柴彦六に向き直った。

 清々しい表情であった。

 

「礼を言わねばなるまい」

 

 真摯な視線が彦六を射抜く。

 それが、彦六には恐ろしかった。

 

「これで──()()()()なくなった。わたしの中の『兇』が、きみの発勁で、今、血と共に押し流されている」

「……これ以上は、死ぬかもしれないぜ」

「わたしはかまわん!」

 

 烈海王が腰を落とした。  

 圧力のかけられたふくらはぎから、また、血が吹きこぼれている。

 

 彦六はふ、と息を吐いた。

 その熱は諦めのような、呆れたような、敬意のようなものを孕んでいた。

 

 ──おまえと同類だよ。

 

 久我重明の言葉を思い返していた。

 久我重明の慧眼に感心していた。

 ああ、そうだよ、重明。

 烈海王は武道家じゃない、武術家だ。

 武道のような──美徳や礼儀のためだけではなく、武術のような──剥き出しの暴力と卑怯さを、強さと言い切れる胆力を持ち合わせている。

 そして、いやなことに、()()()そうなんだ。

 

 だから──やるしかない。

 やるしかないじゃないか。

 お互い、それを()()()人間なんだから。

 ここからは、もう、武道じゃない。

 でも、お互い納得の上でやることだ。

 ただ──死ぬために殴り合う。

 格好などつけずに。

 死ぬ場など求めずに。

 ただ、殴り合って、己を全て出し切って、そして、ふと死ぬ。

 それでいいと、お互い納得している。

 そういう闘争(たたか)いだ。

 

 いくぞ、烈海王。

 来てくれ、烈海王。

 おれは全部出し切るから。

 おれは全部を受け止めるから。

 おれに全部を出し切って。

 おれの全部を受け止めてくれ。

 

 心のままに──

 

 ただ、先に、感謝だけはしておくよ。

 いや、ずっと、感謝をして─────

 

 

7.

 

 

 壮絶な殴り合いであった。

 凄惨な光景のハズであった。

 

 羽柴彦六と烈海王が、血を撒き散らしながら殴り合っている。

 もはや中国拳法とは思えないほど、不格好で、無様で、泥臭い殴り合いだった。

 

 だが、それに、魅了されていた。

 会場が──

 観客が──

 格闘士たちが──

 鳴海俊男が──

 

 すごい。

 鳴海の心は震えていた。

 やっぱり、羽柴彦六はすごい男だ。

 こんな──人間は、こんな風に戦えるのか。

 羽柴彦六は、烈海王になんの恨みも怒りもないはずだ。

 烈海王だって、羽柴彦六には、何が何でも殺したいほどの怒りも憎しみもないはずだ。

 なのに、こんなにも苛烈に殴り合えるものなのか。

 怒りや憎しみだってエネルギーだ。 

 発揮し続ければ枯渇するし、疲れ果てる。

 憎しみだけでは、むしろ、ここまで殴り合うことはできない。

 じゃあ、いったい、羽柴彦六と烈海王は、なんでこんな闘争(たたか)いを行えているのか──?

 みんな、あのふたりの表情を見てくれ。

 どう思う?

 おれは、あのふたりの眼にあるのは、愛だと思うんだ。

 怒りじゃない。

 憎しみじゃない。

 むしろ、慈しみの眼をしていないか? 

 あのふたりは、会話をしているんじゃないか?

 おれたちにはわからない世界で。

 あのふたりは、今、ここにいるけど、今、ここにいないんじゃないか?

 ふたりだけの世界で、何か、こう、特別なことを語り合っているんじゃないか?

 その世界で、楽しくて、嬉しくて、話が弾んでいるから──話すのをやめたくなくて、ずっと、殴り合っているんじゃないか?

 

 うらやましい。

 うらやましいです。

 彦六さん。

 あなたは、また、先に行ってしまうんですね。

 いや、おれは、最初っから、あなたには追いつけないのかもしれない。

 おれは、あんな風に戦えるだろうか。

 そんな相手と、出会えるんだろうか。

 武に、命を賭けられるだろうか──?

 

 鳴海は拳を握りしめていた。

 見惚れてしまっていた。

 悲しくもあった。

 ボロボロになっていく彦六を見るのは辛い。

 だが、それ以上に羨ましかった。

 目が離せなかった。

 視界が歪んでいた。

 涙が溢れていた。

 涙が止まらなかった。

 

 涙が止まらなかった。

 

 

8.

 

 

 彦六が倒れ込んだ。

 烈海王の胸の中に。

 烈海王は天を見上げていた。

 照明が落ちてくる。

 その眩しさも、もはや曖昧なのか。

 全てを受け入れるように、彦六を抱きしめた。

 力が入っていた。

 最後の力だった。

 彦六の身体から、みち、と音がした。

 彦六は、もう、鼓膜が破れていた。

 ぼそりと、言った。

 ありがとう、と。

 また、強くなれた。

 と。 

 

 彦六の手が、烈海王の身体を挟むように回っていた。

 烈の身体を、彦六の発勁が打ち抜いた。

 

 烈海王が崩れ落ちた。

 膝から。 

 彦六の身体に持たれるように倒れた。

 その身体を支えられず、彦六は押し倒された。

 倒れた衝撃で、彦六は口から血を吹いた。

 

 烈海王を抱きしめるように、背に手を回していた。

 

 烈海王は、微笑んでいた。

 憑き物が落ちた表情で、意識を失っていた。

 太鼓が打ち鳴らされた。

 審判が入ってきた。

 烈海王をふたりがかりで持ち上げた。

 ずるりと、彦六の手が烈の身体を離れた。

 

『勝負ありッッ!!! 勝負ありッッッ!!!!』

 

 歓声が上がっていた。

 鳴海が入ってきて、彦六の脇に手を回した。

 

 立ち上がった彦六に、担架で運ばれる烈海王に、惜しみない拍手が送られていた。

 

 

9.

 

 

 彦六は鳴海に支えられ、脚をもつらせながら、通路を歩いていた。

 後方でまだ轟いている拍車喝采が、遠い世界の出来事のように感じていた。

 鳴海は彦六を半ば引きずって、医務室へ向かっていた。

 

 と、そこに、闇が現れた。

 ゆらりゆらりと闘気を放ち、闇色の髪が煽られて揺れている。

 久我重明であった。

 

 鳴海は息を呑んだ。

 久我重明──ッ!?

 まさか、今、ここで、彦六を襲おうというのかッ!?

 

 鳴海の警戒心が跳ね上がった。

 しかし、重明は意に介さない。

 彦六が、もそりと動いた。

 顔を上げていた。

 

「重明……」

 

 言った。

 久我重明は、静かに、本当に最低限、口を開いた。

 

「まってるぜ」

 

 それだけだった。

 それだけを言って、重明は踵を返し、そのまま歩き去った。

 

 彦六がくく、と笑った。

 あーあと、まるで子供のように、悪戯に苦笑した。

 

「ひどいやつだなあ、重明……こりゃあ、もう……ゆ、優勝するしか、ないじゃないか」

 

 彦六は笑っていた。 

 流れる血が目元を撫でて、血涙のようになっていた。

 

 

 一回戦第五試合、勝者:羽柴彦六 

 

 




次回、一回戦第六試合 松尾象山対獅子尾龍刃 開始ィィッッ!!
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