第一話:血肉沸き踊る
0.
劇画『空手バカ一直線』原作、K.I氏による松尾象山についてのインタビュー
松尾象山と、猪狩完至だね。
このふたりが、ぼくが出会ってきた男たちの、格闘技者の中で、特に印象に残ってる。
ぼく、こう見えて、これまでいろんなマンガや映画の原作をやらせてもらっててね。
特に──格闘マンガ、スポーツマンガに関しては、第一人者の自負があるんだよね。
いわゆるスポーツ根性もの……スポコンを昭和のブームにしたのは、たぶん、ぼくが
空手、柔道、プロレス、ボクシング、野球、ゴルフ……色々やったなあ。
そのツテでね、ぼく、いろんな格闘技者や武術家やプロレスラー、プロスポーツ選手と実際に会ったことがあるの。
彼らの自伝ものを書く場合にね、いわゆる『原作チェック』ってのを、本人にしてもらうんだ。
まあ、あたりまえの話だけどね。
原稿用紙持って、マンガ家と編集と一緒に、その人の事務所とか道場にお邪魔して、お時間いただいてさ、原稿の内容に目を通してもらう。
原稿って言っても、平たくいうと、この時点ではネームだよ。
そこで、『もっとこうして欲しい』とか『ここは削って欲しい』とか、いろんな修正をしてもらうのさ。
だからさあ、自伝って言いながら、内容がウソだらけになることもしょっちゅうあったんだよね。
なんなら、全体を見ればウソの割合が圧倒的に多いぐらいさ。
でも、当時はね、それでもよかったのよ。
読者はもちろん、作者の側も、あんまり整合性を気にしないのよ。
面白ければそれでいい!
なんて言ってね。
結果的に自伝とか言いつつ、内容がほとんど荒唐無稽なウソばっかりになるのはありがちだったのさ。
今だったら、確実に炎上待ったなしになるようなものでも、全部まかり通ってた。
インターネットなんて全然はやってないころの話だからね。読者側も確認のしようがないワケさ。
まあ、言って、マンガだからね。
ウソだらけでも面白ければいいのよ。
整合性や物語の精密さより、荒唐無稽でファンタジーな展開の方が売れるのは事実だし、史実の地味な話をそのまま出力したって、売れるわけないからね。
ぼく自身、この手のエピソード自体をネタに、何本か長編を書けるぐらいには面白い話がゴロゴロあるよ。
んで、そうやってぼくが出会ってきた男たちの中で、ふたり……特に印象に残っている人がね、松尾象山と猪狩完至なんだ。
猪狩さんは言うまでもないよね。
人生プロレスなひとで、根っからのエンターテイナーで、業界のカリスマで、何よりすっごい愛嬌あるんだよ。
こう、突っ立ってニコニコしてるだけで、椅子に座ってるだけでさ、後光が挿してるみたいに全身ピカピカに輝いてるひとでね。
ああ、これがひとを夢中にさせるカリスマだって、否応なく
でも、おもしろいのがさ、そんな天使みたいな顔で──
ザ・カリスマって顔でね。猪狩さん、悪魔みたいな指示を出してくるわけよ。
猪狩さん──ウソばっかり言うの。
ぼくが手がけた『スーパープロレス猛烈伝』とかの、アントニオ猪狩のエピソード。
いっぱいあるけどね、あれ、ほぼウソです。
例えば、アントニオ猪狩が興行でアメリカにいた時、外国人レスラーと揉めて、ジムで乱闘騒ぎになった展開があるじゃない。
ほら、アンドレアス・リーガンとギャラで揉めて、ケンカになりかけた話だよ。
あれ、本当は斗羽さんの話なんだよね。
普通に考えればわかることでさあ。
猪狩さん、アメリカのジムを拠点にして興行したことないんだよ。
だって、日本人で、当時のアメリカでプロレスやる権利持ってるの、斗羽さんか、斗羽さんの麾下の団体のレスラーだけだったんだよ。
斗羽さんが首を縦に振らないと、他の団体の日本人レスラーは、アメリカでプロレスさせて貰えなかったんだ。
そして、斗羽さんは他団体潰しにはヤクザじみてエゲツない手を使う人だから、菓子折り持って頭下げに行ったところで、興行を許可するワケがないじゃない。
だからね、ぼくの作品に出てくる猪狩さんの外国での武勇伝、実はほとんどウソなんだよね。
元になった話は、斗羽さんとか巽さんとか……あとは、どこか別の団体の、マイナーなレスラーの話だったりするの。
だけどさあ、不思議なんだけど、アントニオ猪狩が
猪狩さんがね、身振り手振り、表情まで作って作品の展開やきめゴマの指示を出すんだけどさ、それだけでめちゃくちゃ面白いんだよ。
“この人、言ってることを、本当にやってるのかも……“
思わず、そう思っちゃう。
猪狩さん、言葉や思想を、ひとの心に潜り込ませる力がすごかったんだよね。
言ってることもやってることも、割と最低なのにね。
でも、猪狩完至の言葉として受け取ると、いかにウソくさかろうが荒唐無稽だろうがね、途端に真実だと思っちゃうんだよ。
ひとにウソを信じ込ませる能力の高さ……いやあ、カリスマだよねえ。
プロレスだよねえ。
アントニオ猪狩だよねえ。
だから、猪狩さんはすごい印象に残ってるよ。
そして、もうひとりが松尾象山。
こっちはね、もう、すごかった。
初対面の時の話をするね。
ぼくと、作画家の人と、編集とで北辰館の本部道場に行ってね。
応接室に案内されて、ぼくたち三人が座ってるソファの前に、松尾象山がでっかいソファに座ってる。
びっくりしたね。
ほんとに太いんだよ、松尾象山。
身体が──じゃなくて、全部が。
首とか拳とかは当時からよく言われてたし、めちゃくちゃムキムキなのはみんな知ってた。
だから、ぼくの目から見て、それとは違うところを言うとね、まず顔がデカい。
視線がぶっといのよ。
唇も分厚くてね。
松尾象山の意識──というか、存在の密度というか、とにかく纏う雰囲気が人間のそれじゃない。
デカい岩が、こう、ごろんと、無造作に転がってて──それが、たまたま松尾象山って人間のカタチに切り取られてる……そういう感じなんだ。
その松尾象山がね、ソファをみちみち軋ませながら、顔だけは笑ったまま、ぼくの原稿をじっくり読んでいくの。
ぼくね、身体の芯から汗が吹き出してきててさあ。
松尾さんが一ページめくるたびに、部屋の気温がね、どんどん上がってる気がしたよね。
生きた心地がしなかったよ。
蛇を前にしたカエルの心地だよ。
食われる──って、細胞が警鐘を鳴らすんだけど、一歩も動けない。
そんな感じ。
松尾象山が原稿から目を離す。
ぎょろっとした目が、ぼくたちを見る。
呼吸が止まりそうになる。
んで、松尾象山が太い声で言うんだ。
「おもしろいじゃないの」
ひと言ね。
にこりと笑みを広げて、からころと言葉と目玉を転がしながら言うのよ。
それで、ぼくたちは胸を撫で下ろすの。
肩にのっかかってた重たいものが抜けて、舌が水分を思い出して、ホッとする。
そっからの松尾さんの話が、またおもしろくてね。
いろんな修正点をもらったよ。
例えば、『ヤクザと喧嘩したくて、ワザと連帯保証人になって、ヤクザに狙われるようになった話』を足して欲しいとか、『アメリカの酒場で用心棒やってた時に、現役ヘビィ級ボクサーの拳を正拳突きで壊した話』を入れて欲しいとか。
風変わりにおもしろい話とかもあってね。
借金苦の友人の代わりに、松尾さんがヤクザにワザと捕まって、組事務所でケンカしようと思ってたら……その友人が囚われてると思った、その友人の空手家が組事務所に助けに来て、松尾さんが出るまでもなくヤクザたちを全員ぶちのめしちゃって、松尾さんの出番がなかった話とかもあるよ。
いや、これも、すごい話だよね。
んで、その空手家の人とも、松尾さんは
あっ、今、ゾッとしたでしょ?
そうなんだよ。
松尾さん、興が乗るとね、とてもじゃないけどマンガで描けないような話をたくさんしてくれるんだ。
で──これも、不思議なことにね。
松尾象山がそう言ってると、どんな荒唐無稽なことも、全部、本当のことに聞こえるんだよね。
え──? それだと、猪狩と変わらないじゃん。って?
うーん、確かにそうなんだけど……違うんだなあ。
松尾さんの場合、猪狩さんとはニュアンスが違うんだ、全然違う。
松尾さんの場合はね、むしろ、過少申告してるんじゃないかって思っちゃうんだ。
いろんな話をね、ぶっそうな話だよ、血なまぐさい話だ。
それをね、松尾さん……ほんとうに楽しそうに語るんだよね。
目をキラキラさせて、子供みたいに無邪気でさ。
語り口に脚色を全然感じないんだ、不思議とさ。
“あ、このひと、全部ほんとにやってるな……“
ってさ。
聞いてる方が、すっ、とそう思っちゃう。
松尾象山を象徴する、牛殺しの話も聞いたよ。
松尾さん、なんてことない顔で『ほんとだよう』って言い切った。
あれ、やっぱり、おれは本当だと思うね。
北辰館本部道場の一階には、松尾象山が殴り殺したっていう、牛の剥製があるでしょ?
正拳突きを受けた、額のところが割れてるやつ。
松尾さんの話を聞いた後だとね、あれ、すっごく怖く見えるんだ。
同じような話でね、ぼく、神心会の愚地独歩さんの愚痴を聞いたことがあってね。
酒の席で、愚地さん、『松尾さんの牛殺しは信じる人も多いのに、おれの虎殺しは、誰も信じちゃくれねンだよなあ……』って、寂しそうに言ったんだ。
結構酔ってたから、心からの言葉かはわからないけど、愚地さんの虎殺しは、実際かなり猜疑の目を向けられてるからね。
テレビ番組でも、たまーに取り上げられるでしょ?
『人間は本当に素手で虎を倒せるのか?』って、科学的な検証するヤツ。
大抵、無理って結論つけられるんだよね、あれ。
だけど、愚地さんのそれも、ぼくは本当だと思ってるよ。
話が脱線したね。
とにかく、松尾象山が牛を殺したり、マンガで描けないようなヤバいことをしまくってたのは事実なんだよ。
でも、その松尾さんが、唯一勝てなかった相手がいるって言ってたんだよね。
正確には、一勝一敗で、今のところ引き分けてるらしいひとがいるってさ。
アブナイからって、名前は教えてくれなかったんだけど、あの松尾象山と引き分ける男……一体、どんなヤツなんだろうね?
きっとヒグマみたいな大男なんだろうなァ。
ちょっと、ぼくには想像もつかないや。
1.
獅子尾龍刃は柔道着の上からガウンを羽織っていた。
ウォーム・アップらしいウォーム・アップは柔軟しかしていない。
その顔は穏やかな表情であり、目はふやけるほど緩んでおり、首をコキコキと鳴らしてコンディションを整えている。
「オッサン」
加藤清澄が言った。
ん? と獅子尾龍刃は振り返った。
加藤の表情には不安が滲んでいた。
それは、龍刃の放つお気楽な空気ゆえか、龍刃がこれから戦う相手のヤバさを、ある程度知るゆえか──
松尾象山──
加藤清澄にとって、その名は正しく伝説であった。
ある意味愚地独歩より先に、幼い頃から、加藤は松尾象山のことを知っていた。
それは、なにも加藤に限った話ではない。
ほんの一〇年、二〇年前の劇画、漫画、小説、映画、その他諸々のメディアで、松尾象山の伝説は幅広く流布されていた。
『力』に憧れを抱く少年たちのハートを、全世界規模で、松尾象山は鷲掴みにしていたのである。
やがて神心会が台頭し、六真会館や武林館などで旺盛を極める現代日本空手においても、『史上最強の空手家は誰か?』と一般人が議論を交わす場合、松尾象山は愚地独歩より多くの者から名が上がることだろう。
その伝説と、獅子尾龍刃が戦うのだ。
だと言うのに、獅子尾龍刃の顔には緊張感というものがない。
まるで、休日にそこらの公園にでも散歩に出かけるような顔つきと雰囲気である。
加藤の不安を、龍刃は見透かしていた。
だからこそ、笑った。
「わ、笑うなよ! オッサン、おれァマジメに……」
「加藤くん」
龍刃の言葉は、不思議な熱を持っていた。
龍刃の口から放たれ、加藤の耳に届くまでに、言葉の熱が何倍にも膨れ上がり、太い響きとなっていた。
思わず、加藤は口を閉ざした。
「松尾さんは、愚地さんとはまた少し違った空手家だけど……ある種極まった空手を
実感のこもった声色であった。
それが、加藤の
もしかして……オッサンは、松尾象山と
言葉には出なかった。
想像する
その迫力に、加藤は気圧されてしまっていた。
加藤は、獅子尾龍刃の人間離れした戦闘力を、その身で味わっている。
松尾象山と、獅子尾龍刃の
これからやるそれを、既に起きた過去のものとして夢想する。
たまらなかった。
その気持ちが顔には出ていたようで、龍刃はいっそう太い笑みを浮かべた。
「だから、試合の結果がどうあれ、松尾さんの一挙手一投足、見逃さないようにね。必ず、加藤くんのためになるハズだからさ」
「お……押忍……ッ……ッッ!!」
そう言って、獅子尾龍刃は振り返った。
歩き出した。
いつもの歩みだった。
斗羽に見送られ、入場門に近づくにつれ、闘技場で渦巻く光と歓声が、龍刃の身体に向かって立体的にぶつかってくる。
そこに、範馬刃牙が立っていた。
龍刃は思わず足を止めた。
「やあチャンピオン。激励してくれるのかい?」
飄々とした龍刃の言葉に対して、刃牙は真摯的な視線を投げやった。
しかし、やはり、どこか戸惑いを孕んでいる。
口を開いた。
「あなたが、おれにとってなんなのか──この試合で見極めさせてもらいます」
そう言って、刃牙は軽く会釈をした。
視線が外れてもなお、全く隙がない構えであった。
龍刃は、おおらかに近づいて、刃牙を抱きしめた。
「──ッッ!!?」
「ありがとう……」
背中をぽん、と叩いて、龍刃は闘技場に向かった。
見上げた刃牙の目に、その背中はとてつもなく大きく見えていた。
遠くに向かう大きな背中が、見覚えのないはずの広い背中が、なぜか、飛びつきたくなるほど、愛しいものに思えて仕方がなかった。
2.
闘技場の真ん中で、松尾象山と獅子尾龍刃が立ち並んだ。
太い──というのが、観客の第一印象である。
この男たち、太い。
単に身体が大きいというわけではない。
その身体に纏わせる匂いが──
雰囲気が──
あるいは発する気が──太い。
遠近感が狂ってしまいそうだった。
ふたりの間に立つ審判が、実際以上の体格的差異を感じさせ、小人のように見える。
松尾象山は、笑っていた。
獅子尾龍刃も、笑っている。
ふたりの男が睨み合う。
ただそれだけの光景に、闘技場の視線と意識が釘付けになっていた。
「松尾さん」
龍刃が言った。
「あなたとまた、こうして──こういう場所で
松尾象山は笑った。
龍刃の言葉はやや不自然であった。
なぜ不自然なのか、察している。
獅子尾龍刃は、今、この瞬間を心から喜んでいるのだ。
嬉しすぎて、嬉しすぎて、言葉が自然と不自然に
それがおかしくて、嬉しくて、松尾象山は笑った。
巨岩が割れ、狭間に深淵を覗かせる、クレバスのような笑顔であった。
「おれもさ、リュウちゃん。ずっと、ずうっとだよ。夢見てたんだ──」
「どんな夢です?」
「決まってンだろう────ッ」
松尾象山は言葉を飲み込んだ。
言葉を溜めた。
呼気と共に溜めて、溜めて、溜め抜いた言葉を、愛おしそうに解き放つ。
「おめえさんを、今度こそ、完膚なきまでに、このゲンコツでぶちのめす夢をさ」
持ち上げた拳を龍刃の胸にぽん、と当てて、言った。
戦いたい、のではなく、ぶちのめしたい。
いかにも松尾象山らしい思惑に、龍刃は呆気に取られ目を丸くし、次いで、感嘆に胸を鳴らした。
流石は松尾象山。
全く変わっていない。
流石は松尾象山。
それでこそ、勝ちたくなる。
審判の命に従って、ふたりが、元の位置まで下がろうとした。
──その時である。
たまらない獣臭が、闘技場を駆け抜けた。
それは、一瞬で地下闘技場全域を満たし、溢れかえるほどの量感で降り注いだ。
殺意──?
敵意──?
憎悪──?
愉悦──?
警戒心──?
いや、これは、この圧は、存在力とでもいうべきものか?
溺れるほどのそれを全身に叩きつけられ、圧力に沈められながらも、松尾象山と獅子尾龍刃が空を見上げた。
照明が落ちてくる。
いや、ライトの中に、
それは、恐ろしい速度と質量で落ちてきた。
それは、悍ましい存在感を全身から放っていた。
例えるなら、隕石であった。
人間サイズの隕石が、宇宙から大気圏を突き破って、闘技場に落ちてきたのだ。
徳川光成の全身から汗が吹き出した。
通路を、控室に向かって歩いていた範馬刃牙の足が、ぴたりと止まっていた。
刃牙の毛髪が、その力に引き寄せられるように唸っていた。
目を見開いて、刃牙は振り返って、走った。
松尾象山と獅子尾龍刃の間に、それは落ちてきた。
ふたりの視線を、掛け値なしに、会場にいるすべての生命体の意識を向けられてから、
風もないのに、血のように紅い毛髪が揺らいでいた。
獅子尾龍刃と、さほど変わらぬ身長であった。
上から下まで全身黒い服を着ていた。
カンフージュースを穿いていて、服飾に飾りが一切ない漢だった。
飾りを必要としない圧力を、全身から放っている男であった。
金属の光沢を思わせるハリのある肌に、仁王像のような筋肉のシルエットが立ち上がる。
眼光が鋭い。野獣の光を放っていた。
「どうやら──」
勿体ぶるように、あるいは、歓喜に身を捧げるように、男は松尾象山と獅子尾龍刃を俯瞰して、嬉々と声をこぼした。
その声ひとつで、空間が歪んでいるようだった。
「間に合ったようだな」
その男とは、『
その男とは、『地上最強の生物』と呼ばれる漢であった。
その男とは、獅子尾龍刃と、奇妙な縁がある男だった。
その男とは、すなわち、範馬刃牙の父であった──
その男とは、すなわち──範馬勇次郎である。
「勇次郎ォォォォォオオッッ!!!!」
刃牙の慟哭が、闘技場に響き渡った。