【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

62 / 102
更新再開しますッッ
8/6 誤字修正(どうやら紛らわしかったらしいので呼び名を変えました)


第二話:猛獣伝

 

0.

 

 

 静かな夜であった。

 星の灯かりが乏しい夜である。

 ペンションハウスの前の広間に、獅子尾龍刃は立っていた。

 強い風が吹いている。

 そのせいで、玄関の隣に吊るしてあったサンドバッグが、ぎりぎりと揺れていた。

 

 最大トーナメントを三日後に控え、各々の心の整理のためと、龍刃は朝にはジャック、加藤と別れていた。

 加藤たちに気取られないように、繰神怜一にもたんまりと御礼を渡してから、別れている。

 その日の夜であった。

 猪狩完至のものであるペンションハウスの鍵は、獅子尾龍刃が預かっていた。

 午前中は、部屋とリングに箒と雑巾をかけ、トイレや風呂、冷蔵庫と冷凍庫。使ってはいなかったが、暖炉などを丁寧に掃除した。

 あれだけあった食料は、すっからかんであった。

 龍刃は、掃除を終えると今日のためにあらかじめ取っておいた少量の食事を済ませ、ペンションハウスから出る前に部屋に一礼して、柔道着に着替えて外に出た。

 

 涼しかった。

 龍刃が出てから、急に、風が吹きはじめた。

 山間に吹き込む風は、都会のそれに比べると、いかにも無造作な動きで龍刃の身体にぶつかって来た。

 龍刃は帯びを掴んで背筋を伸ばし、顎を引いて、顔だけを伏せていた。

 目を閉じて、その心を夜に溶かすように落ち着ける。

 そうすると、音が聞こえてくる。

 山の中に住まう、命の音だ。

 虫の囁き、木々の呼吸、風に吹かれて舞う、かすかな土埃のせせらぎすらが、獅子尾龍刃の身体を通り抜けていく。

 なんと騒がしいことか。

 笑みが溢れる。

 あたたかい。

 山中に木霊する命の喧騒は、都会の無機的で刺々しく、良くも悪くも意志を刺激する雑多なそれとは違う。

 自然の中に身を溶かすということは、心象世界においてはとくに、ゆりかごの心地よさによく似ていた。

 自然に己を溶かしつつ、自己を保つ。

 この矛盾をすんなりと行えるほど、獅子尾龍刃は行住坐臥、()()()()()()()()()心的境地に立っているのだった。

 

 そこに、異質なものが入り込む。

 獅子尾龍刃の身体を通り抜けない音だった。

 これは、足音か──

 

「忘れ物ですか、繰神さん」

 

 獅子尾龍刃は背後に語りかけた。

 ペンションハウスの隣の雑木林から、その影はするりと歩みでた。

 繰神怜一であった。

 獅子尾龍刃は振り向かない。

 それを、繰神は気にも留めない。

 

「獅子尾さん」

 

 言った。

 

「立ち会いが必要でしょう?」

 

 意味の繋がらぬ言葉であった。

 が──その言葉は、獅子尾龍刃の心にほんのわずかな波紋を生じさせた。

 その波紋のささくれ音を、繰神怜一という男は聞き逃さない。

 やっぱり、と肩をすくめた。

 

「……なんで、わかったんですか?」

「獅子尾さん。わたしは武術家だよ」

 

 ジャック・ハンマーは選手(ファイター)である。

 加藤清澄は、単にその領域(レベル)に達していない。

 朝の時点で、いかにも普通に振る舞っていた獅子尾龍刃の身体から、ほんの僅かに滲み出ていた好奇の匂い。

 待ちきれぬ幸福に歓喜する、心の疼き。

 クリスマス・プレゼントを待ち受ける童心にも似る焦燥。

 視覚の無い、見えないものを見る世界に生きる、繰神怜一だから気づいたこと。

 獅子尾龍刃は、すぐ近くの未来に幸福を待ち合わせているのだと。

 そして、武術家たる獅子尾龍刃が、それほど胸焦がす出来事といえば、容易に想像がつく。

 

 決闘──

 

 今、この場で、獅子尾龍刃は互いの命を掛け合うような──

 お互いの尊厳と人生を拳に乗せて殴り合うような──

 ()()()()()()()をやろうとしているのだ。

 ()()獅子尾龍刃が、それほどの覚悟を持って闘争(たた)かわねばならぬほどの相手と──

 

「まいったなあ。一生懸命隠したんだけど……あっさりバレちまうなんて、おれもまだまだ未熟だぜ」

「そこに関しては落ち込む必要もあるまい。獅子尾さんが未熟なのではなく、わたしが優れているだけのことだよ」

「ンまあ、実際そうではあるんだろうね」

 

 軽口を叩き合う。

 間合いの外で。

 獅子尾龍刃の背中に向かって、繰神怜一はしゃべりかけている。

 獅子尾龍刃は、微動だにしていない。

 意識だけは繰神に向けているが、重心も、視線も、体捌きに関わるあらゆる要素は不動の姿勢を貫いている。

 

 それほどのものか。

 と、繰神は思った。

 あの獅子尾龍刃が、他者の存在に一分の気しか払えぬほどに、優れたる使い手が来るというのか。

 

 と、

 獅子尾龍刃が首を持ち上げた。

 強い視線が、正面を射抜く。

 首を、ゆっくりと、左右に振り始めた。

 警戒網を張り巡らせている。

 近いのか?

 しかし、まだ、繰神には何の気配もつかめていなかった。

 時間か?

 時間で待ち合わせていたのか?

 違う、と考えを捨てる。

 獅子尾龍刃は時計を身につけていない。

 そして、繰神が知る限り、獅子尾龍刃はもう、三時間はここに立っている。

 時間で待ち合わせているわけではない。

 出会った瞬間に、()()は始まるものだ────

 

 刹那、繰神怜一は、死んだ。

 背後から、頭を貫かれた。

 後頭部から、まるで抵抗なく頭蓋に入り、脳髄を切り開いて、それは眉間から飛び出した。

 得物は刀であった。 

 日本刀。

 本身の部分が分厚く、長く、そして鋭いものだ。

 繰神の、無いはずの眼球が、感情に歪められてぐりっと丸くなった。

 目が見開かれた。

 そこに、血が滴った。

 

「オワアッ!!!」

 

 繰神は慌ててかがんだ。

 頭を抱えるようにして、膝を曲げて、二.三歩と躓くように前にたたらを踏んだ。

 全身から汗が吹き出していた。

 粘性の強い汗だった。

 

「────ッ!!?」

 

 顔を触った。

 身体を弄った。

 大地の方向を確かめた。

 心臓の鼓動に耳を傾けた。

 確かに、それらはあった。

 血は流れていなかった。

 刀は、どこにもなかった。

 

 生きているッ!?

 物理的なダメージは……ない!?

 バカなッッ!?

 確かに、刀の感触があったッ。

 確かに、冷たいものが、頭部に忍び込んで、この命を終わらせたッ!

 血のみずみずしさと錆臭さがあったッッ!!

 だが、それが、ない。

 まさか、イメージ……だとでもいうのか。

 あれが……ッッ!?

 

 獅子尾龍刃が振り返っていた。

 ただし、その視線は、伏せる繰神の頭上を飛び越えて、その先を睨んでいた。

 

 影があった。

 男の影であった。

 身長一八五センチメートル。

 体重は一〇〇キロを越えようという、大男の影。

 短い髪をざんばらに立てている。

 漆黒の闇より深い黒で塗られたロングコートを纏っていた。

 迷彩のズボンに、ゴム底の分厚い軍用ブーツ。

 首元に巻いているのは、大仰なサイズの数珠である。

 途端に、凄まじい獣臭が漂った。

 繰神怜一は、その臭いから距離をとった。

 獅子尾龍刃の側に跳び、身を翻して男と対面する位置に着いた。

 それは、肉体の反射で行われたことだった。

 肉体が警告を発したのだ。

 あのままあそこにいれば、死んでいた──と。

 

 ひゅう、と男が口を鳴らした。

 賛嘆を交えた軽々とした音だった。

 

「流石は繰神怜一。流石は、獅子尾龍刃ってトコかねぇ」

 

 男が前に出た。

 星の明かりが、男の正体を暴いていく。

 黒い、丸眼鏡が光を飲み込んでいた。

 にやりと口角を広げ、白い歯を見せて笑っていた。

 無骨さと愛嬌のバランスが取れた表情であった。

 片手に、ほとんど斬馬刀と呼んでいいような、大太刀を握っていた。

 

 繰神は息を呑んだ。

 目が見えているわけではない。

 しかし、目以外の感覚が、繰神の脳内に男のイメージを剥き出しのままに映し出していた。

 

 明王──

 

 多頭多腕、巌のような表情に、人肌ならぬ神々しい色を纏い、その背に陽光を携え、その手に直刀の仏剣を備え、あらゆる仏敵を薙ぎ倒す武の化身。

 そう、武の化身が、そこに立っていた。

 

 薬師丸法山であった。

 

 

1.

 

 

 闘技場を、不安と困惑と、期待感が支配していた。

 全ては、現れたこの男──範馬勇次郎のせいである。

 観客も、審判も、格闘士たちも、VIP席に座るものたちも、範馬勇次郎が次に何をするのかを凝視していた。

 目が離せなかった。

 それほどの存在感、それほど異常性。

 当の範馬勇次郎は、獅子尾龍刃と松尾象山の両者を俯瞰して、鬼のような笑みを浮かべている。

 

「間に合ってねえよ、勇次郎」

 

 沈黙を軽々と破ったのは、獅子尾龍刃であった。

 勇次郎の視線が龍刃に移り、つられるように、会場の意識が龍刃に集まった。

 

「刃牙くんの試合、もう、終わっちまってるぜ」

 

 獅子尾龍刃はふ、と息を吐いた。

 まるで臆していない。

 範馬勇次郎はにぃ、と笑みを深めた。

 

「いまの倅の試合など──前菜にもならんわ」

「いやあ、凄かったぜ。なんせ、相手が灘神影流の宮沢熹一だったからな。勇次郎、おまえさんがあの場にいたら、相当に()()()()()と思うぞ」

「ホゥ……」

「その後の試合もすげェもんばっかりでよォ。どれもこれもが名試合……だから、ぜんぜん間に合ってねえぜ、勇次郎」

「…………」

 

 普通であった。

 その会話は、ある意味、観客たちの度肝を抜いていた。

 普通の会話だ。

 獅子尾龍刃の口調は、親しい親友(とも)に語りかけるそれである。

 それに対し、憤るでもなく反発するでもなく、範馬勇次郎は普通に応対している。

 ここの観客にとって、範馬勇次郎のイメージといえば、武神、愚地独歩を圧倒的な暴力で葬ったあの試合である。

 嬉々として独歩の肉体を破壊し、蹂躙し尽くした範馬勇次郎の形相(かお)は、まさに、人間離れした超然さに満ちていた。

 

 それが、そのはずが、この落差をどう受け止めればいいのか──

 

 同種の困惑は、範馬刃牙の心中にも渦巻いていた。

 慌てて闘技場に引き返して来たはいいものの、刃牙の中に常置される範馬勇次郎のイメージと、目の前の範馬勇次郎のイメージがズレすぎている。

 故に、足が止まっていた。

 闘技場の出入り口の前で、刃牙は唖然として成り行きを見守っていたのだった。

 

「話ィ挟んでもいいかい?」

 

 と、勇次郎と龍刃の間に、太い手が伸びて来た。

 二人がそちらを見る。

 いうまでもなく、手の主は松尾象山であった。

 松尾象山は、松尾象山らしい太い表情で、勇次郎を見ていた。

 

「お初に目にかかるぜ、範馬勇次郎。おいらァ松尾象山ってんだ」

「知ってるぜ」

「勇次郎って呼んでもいいかい?」

「……スキにしろ」

「そうかい、じゃあよう勇次郎。今から開始(はじ)まるのはよ、おいらと、そこの獅子尾龍刃の試合なンだよなァ」

「…………」

「つまりよ、勇次郎。おめェさんは今、邪魔なンだよねえ。試合を観にきたってンなら、大人しく観客席に行ってもらわねェと、巻き込まれてもしらないよ」

「……ホゥ、松尾象山。このおれに『邪魔だからどけ』と言っているのか?」

「別にどかねンならそれでもいいんだぜ? リュウちゃんはともかく、おれは勝手におっぱじめるからよ。流れ弾が当たっても、文句は言わねェだろ? おめェさんは『地上最強の生物』なんだし」

 

 会場がざわめいた。

 範馬勇次郎が俯いて──そこから、悍ましい気が放たれていた。

 見るまでもない。汲み取るまでもない。

 それは怒気である。

 松尾象山はそれを観て、いっそう、無邪気に、太く、笑って見せた。

 

「なんだったらよう。三人でヤらねえかい? 範馬勇次郎vs松尾象山vs獅子尾龍刃で、バトル・ロイヤルさ。勝ったヤツが一回戦突破で──」

「キサマが、このおれの相手になるとでも?」

「なると思ってるよ? だって、勇次郎。おめェさん愚地さんは襲ったくせに、おいらンとこにゃあ来なかったじゃねェの──」

 

 瞬間──空気が爆発した。

 それが、範馬勇次郎の無造作に放たれた拳と、松尾象山の拳の爆圧であることは、多くのものが後から気づいた。

 松尾象山は、勇次郎の拳と自らの拳を打ち合わせていた。

 伸び切ったふたりの腕が、まるで溶接された天橋のように釣り合っていた。

 お互いに、打突点に一ミリのズレもなく、お互いの拳めがけて真っ直ぐに飛んだのだ。

 威力が釣り合い、威力の炸裂するタイミング──点と点が、綺麗に重なったから、破壊力が見事に相殺されてしまったのである。

 

「────ッ!!」

 

 息を呑んだのは、刃牙であった。

 無造作に放たれたものとはいえ、あの、範馬勇次郎の拳を正面から止めてしまった。

 松尾象山──なんという漢なのか。

 

「ふふ、たまらねェなあ」

 

 松尾象山が拳を引いた。

 腕が痺れていた。

 拳は、全くの無事であった。

 範馬勇次郎が口角を釣り上げている。

 勇次郎の拳もまた、全くの無事であった。

 

「勇次郎ォォォッ!!」

 

 刹那の沈黙に、鋭い声が入り込んだ。

 徳川光成であった。

 勇次郎が、光成を見下ろした。

 光成は拳を握りしめていた。

 額から、大粒の汗が流れていた。

 しかし、その目が、恐怖に震えながらも──勇次郎を睨んでいた。

 

「勇次郎ッ! こ、この場は……この大会はッ! わ、わしのものじゃッッ!! 今から行われるのは、あ、あくまで『松尾象山vs獅子尾龍刃』。……参加選手でもないおヌシが、闘技場に踏み入ることは許されんッッ!!」

「許せねェなら……どうするよ、ジジイ?」

「──わ、わしは、闘技場の主として……わしの動かせる全ての力を行使(つか)って、おヌシを排除せねばならんッッ!!」

 

 たとえ、それが叶わなくとも──やらなければならないッ!!

 

 光成は、断固とした意志で勇次郎に対峙した。

 範馬勇次郎が、黙って、それを見下ろしている。

 獅子尾龍刃は、実のところ、いつでも勇次郎に掴みかかれるように構えていた。

 松尾象山もそうである。

 VIP席の、片原滅堂もそうであった。

 彼の背後に控える王森とミノルが、臨戦態勢に入っていた。

 斑目貘の前に、夜行妃古壱が凛と立っていた。

 

「──フフ」

 

 勇次郎は笑った。

 

「カン違いするな、ジジイ」

 

 勇次郎は笑っている。

 

「つい、つまらぬ挑発に乗っちまったが──元よりおれは観戦のつもりよ。このおれを抜きにせよ、仮にも『最強』を決定(きめ)るトーナメントだぜ? このおれ(地上最強)がその場に立ち会うこと……そう不思議な話でもあるまい」

 

 そう言うと、勇次郎はちらりと龍刃と象山を見やって、

 

心ゆく(死ぬ)までやり合え。興を削ぐなよ」

 

 そう言って、光成に案内させ、歩き出した。

 

「親父ィ……」

 

 眼中にも入れられず、しかし、その事実に安堵を覚える自身に苛立ちながら、範馬刃牙はたちすくんでいた。

 

 

2.

 

 

「やれやれ、水をさされるとこだったよ」

 

 元の位置に下がり、龍刃はそこにいた刃牙に軽々と話しかけた。

 話しかけてはいるが──意識の大半は、松尾象山に向いている。

 

「あの……」

 

 刃牙が言った。

 ん? と龍刃が向く。

 

「あなたは、オヤジの……勇次郎の……」

 

 なんなのか。

 ただそれだけの言葉に、詰まった。

 龍刃は眼を細めて、微笑した。

 ガウンを脱いだ。

 柔道着が顕になる。

 その胸に染め抜かれた文字を見て、刃牙は息を呑んだ。

 喉元に詰まっていた言葉が、一気に、体内に落ちていった。

 

「行ってくる」

 

 見送る刃牙の眼に映る、獅子尾龍刃の背中は──とてつもなく大きかった。

 

 

3.

 

 

 会場が湧いていた。

 獅子尾龍刃の道着に書かれていた名前に、過敏な反応を示していた。

 

 範馬。

 

 獅子尾龍刃の道着には、確かに、その名が刻まれていた。

 使い古された道着である。

 全体的にボロボロで、色落ちしていて、袖口はバラバラにほつれている。

 相当年季が入ったものである。

 その道着に、『範馬』の文字。

 

「ど、どういうことだよ……」

 

 加藤は通路に向かって駆け出した。

 愚地独歩がモニターを見つめていた。

 ビスケット・オリバが深い笑みを浮かべていた。

 泣き虫(クライベイビー)サクラが、子供のように笑っていた。

 

 解説が叫んでいた。

 獅子尾龍刃の、その過去を。

 

 範馬勇一郎の存在を。

 力剛山の存在を。

 『昭和の巌流島』のことを。

 

 獅子尾龍刃は、そんなことを気にしていない。

 松尾象山だけを見ていた。

 松尾象山もまた、そんなことは気にしない。

 獅子尾龍刃だけを見ていた。

 

 ふたりは、開始の合図を待たずに歩き出した。

 同じような歩幅で、同じような歩き方だった。

 つまり、それは、散歩にでも出掛けているような、真っ直ぐで、普通の歩き方である。

 ふたりとも、笑っていた。

 とても、これから殴り合いをしようという人間の顔でも、動きでもなかった。

 

 闘技場の中央に、ふたりが達した。

 歩みが、変わった。

 重心が、過剰なほど前に出ていた。

 

 ふたりは、まったく同じタイミングで、お互いの顔面の中心を殴り合っていた。

 

 

3.

 

 

 壮絶な殴り合いが始まった。

 のっけから、全力の殴り合いのようであった。

 殴る。

 とにかく、殴る。

 たまに、蹴る。

 息を合わせたように、ふたりは手と足を出していく。

 そして──それを、防御(うけ)ない。

 あるがままに、とんできた拳に殴られていた。

 味わうように、時には自ら拳に向かっていった。

 

 松尾象山の顎が跳ね上がった。

 獅子尾龍刃のショートアッパーが入った。

 松尾象山は、そのまま右拳を撃ち下ろした。

 松尾象山の身体は一ミリも浮いていなかった。

 つまり、しっかり地面に重心を乗せて、渾身の力で撃ち下ろしていた。

 牛を、一撃で殺す拳が、獅子尾龍刃の頭蓋に降り注ぐ。

 頭頂部を打たれて、龍刃は鼻血を出した。

 目からも、血が溢れた。

 しかし、龍刃は痛みにうめくのではなく、その左腕がすでに、攻撃動作に入っている。

 龍刃の左鉤突きが、松尾象山の脇腹を抉った。

 しかし、松尾象山はその場から動かなかった。

 獅子尾龍刃の拳が軽いのか──そんなはずはない。

 しかし、松尾象山という漢は、山のようにそこに鎮座している。

 前蹴り──

 返しに放たれた前蹴りは、この超至近距離で、いつも通りを匂わせる無造作なそれであった。

 そこに向かって、獅子尾龍刃はパンチを振り落とした。

 松尾象山の脛に、それは当たった。

 当たって、龍刃の拳の方が弾かれた。

 正確には、松尾象山の脚は、龍刃の拳を腕ごともちあげて、龍刃の鳩尾の辺りにめり込んで行った。

 がは、と龍刃が吐瀉した。

 それが顔にかかるぐらい、松尾象山のデカい顔が、龍刃の目の前にあった。

 

 頭突きを打った。

 顎に当たった。

 龍刃がのけぞっていく。

 しかし、その姿勢から、今度は龍刃の前蹴りが飛んだ。

 掬い上げるような蹴りではなく、突き飛ばすような軌跡を描いた。

 松尾象山は、それを避けない。

 いや、避けられなかったのだ。

 あまりにもまっすぐな蹴りであった。

 身体の、人体の中心線を、下からまとめて突き破る軌跡であった。

 右にも、左にも避けられない。

 下がっても、これは急所に届く。

 だから、松尾象山は抱きしめるように前に倒れ込んだ。

 突き放す龍刃の蹴りを拒絶するように、腕力で無理やり抱きしめて、押し潰した。

 寝転んだ姿勢から、龍刃が象山の顔に頭突きを見舞う。

 二度、三度と打ち合って、額が割れた。

 血が混ざり合って、飛び散った。

 火花のようであった。

 マウントから脱出せんと、獅子尾龍刃が身を翻す。

 松尾象山が、その手を取っていた。

 龍刃の折り曲げた腕の隙間に自身の腕を通し、背中から押しやるように地面に潰す。

 右腕は龍刃の顔を巻き上げるように回して、左手でクラッチする。

 そのまま、獅子尾龍刃の顔を左腕に引き付けるように巻き上げていく。

 

 チキン・ウイング・フェイスロック──

 プロレスの技であった。

 ゴキキ……と龍刃の首が軋んだ。

 松尾象山の腕力で締め上げるのだ。

 この時点で、常人なら即死だろう。

 だが、首を巻き上げる途中で、象山の腕が止まった。

 

 特殊なことをされているわけではなかった。

 獅子尾龍刃は、首と背中の筋力だけで、松尾象山の腕力(かいなぢから)と渡り合っていた。

 松尾象山は即座に極めを解いた。

 寝転ぶ龍刃の横っ腹に向かって、渾身の足先蹴りをはなった。

 サッカーボールのように、獅子尾龍刃が転がった。

 

 死んだ。

 いや、これは、死んだだろう?

 

 ボロクズのように横たわる龍刃を見て、誰もがそう思った。

 刃牙も、加藤も、他の格闘士も、観客も、光成たちも──

 しかし、その中でも、笑っているものたちがいた。

 ボロクソにやられ、倒れ伏す龍刃を見て、強かな笑みを浮かべるものたちがいる。

 

 それは、愚地独歩であった。

 それは、渋川剛気であった。

 それは、久我重明であった。

 それは、猪狩完至であった。

 それは、斗羽正平であった。

 それは、泣き虫サクラであった。

 それは、ビスケット・オリバであった。

 

 それは──範馬勇次郎であった。

 

 獅子尾龍刃はあっさりと立ち上がった。

 血まみれの顔で、汗をたらふくかいていた。

 細めた眼が、愛おしそうに松尾象山を見下ろしていた。

 息をふうふうと吐いていた。

 す、と鼻から吸っていた。

 

「いやァ〜あったまったなァ……」

 

 白い歯を見せて、龍刃が笑っていた。

 松尾象山が、同じように汗をたらふくかいて、血まみれの顔を拭って、太い笑みを浮かべて、眼を見開いて、頷いた。

 

「おれもさ、リュウちゃん」

 

 皆が知っていた。

 獅子尾龍刃を知るものたちは、皆。

 

 獅子尾龍刃は、ここからが強い!

 獅子尾龍刃は、ここからが怖い!!

 獅子尾龍刃との闘争(たた)かいは──ここからが楽しいのだッッ!!!

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。