【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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9/5 挿絵追加


第三話:変わったよ【挿絵有り】

 

1.

 

 

 動かなくなった。 

 松尾象山と、獅子尾龍刃が。

 殴り合いをやめ、ある程度距離を詰めてから、両者は息を合わせたように、ぴたりと止まった。

 お互いに、構えがない。

 松尾象山も、獅子尾龍刃も、足を肩幅に広げ、背筋を伸ばし、顎を引き、手は、あるがままに伸ばしていた。

 力が入っているのか、いないのか──

 ふたりともに、緩やかな笑みを浮かべている。適度な脱力が全身から伺えた。

 

 しかし、隙がなかった。 

 いっぺんたりとも、隙間などなく、松尾象山も獅子尾龍刃の意識と意識が、濃密にぶつかり合っていた。

 

「──ッッ!!」

 

 闘技場にたどり着いた加藤清澄は、踏み込んだ瞬間にふたりの世界に飲み込まれて足が止まった。通路際に入った瞬間、異次元空間に突入したかのような心地だった。

 過密すぎる熱に当てられて、湧き出る疑念はまたたくまに、胎の内に押し込めざるを得なかった。

 

 今、観客の中には、ふたりがどういう死闘を繰り広げているのか、わかっていないものも多い。

 それでも、罵声は愚か、不満の息ひとつ溢れていないのは、ひとえに伝説の男、松尾象山への期待感からだった。

 

「無構え──」

 

 愚地克巳が言った。

 控室で、克巳はモニターを食い入るように見つめていた。

 険しく目を細め、額からつぅ、と冷たい汗が滴った。 

 

「そうだ、克巳よ。あの構えの意味がワカるかい?」

 

 問いかけたのは、愚地独歩であった。

 独歩は克巳と違って、その態度にも声にも余裕があった。

 克巳は気難しそうに口を結んだ。

 答えを持たないわけではない。 

 答えを話したくない──自らが言葉にすることを、認めたくないそぶりであった。

 

「行住坐臥ってェことだねェ」

 

 うずきを秘めた声が、克己の背後からした。

 克巳と独歩が視線を投げると、そこに、嬉々とした表情の渋川剛気が立っていた。

 

「……渋川先生」

 

 独歩が会釈をする。

 渋川は片掌を見せて、ええよええよと軽く振った。

 

「つまりよ、あのふたりは()()()()()()ってワケだね」

 

 カカ、と笑いながら、渋川が続けた。

 克巳はやはり……と確信を深めた。

 同時に、自らの言葉としてそれを出さなかったことを、恥じた。

 

 結論から言うと──松尾象山と獅子尾龍刃にとって、これは、日常の延長なのだ。

 もっというと、治安の悪い時間に、治安の悪い場所に吹き溜まっている、喧嘩の一部であり、その延長なのである。

 構えない、というのは、決して相手をナメているわけではない。

 ケンカというものは、何が起きるかわからないものだ。

 いつ、どこで、だれと開始(はじ)まるのかも、わからない。

 もっと突き詰めると、武の本懐を日常に降り注ぐ非日常の鎮圧、排除とするならば、武術者とは二十四時間、三六五日、常に『その瞬間』に闘争(たたか)いに移れる心構えでいなければならない。

 気の身着のまま──武の姿であれ。

 それは、ある種の武の到達点である。

 それを、あのふたりは造作もなく体現している。

 恐ろしい武の次元であった。

 

 今、松尾象山と獅子尾龍刃は、お互いの機微を探り合っているのではない。

 お互いを含めた、闘技場の隅々までの機微を探り合っているのだ。

 観客の微かな吐息、刃牙や加藤の重心の位置、審判たちの心音、徳川光成たちの好奇の視線──

 それら全てを、自らの世界に溶かし込んで掌握せんとしている。

 

 極端な例を言うなら、もし仮に、『この瞬間』に、ふたりに向かって四トントラックが時速六〇キロで突っ込んできたのなら──あのふたりは即座に武的動作を用いて、『不意の暴力』を回避するだろう。

 もし、加藤清澄が、範馬刃牙が──範馬勇次郎が今、『この瞬間』に闘技場に足を踏み入れ、ふたりに襲いかかったならば、あのふたりは驚くこともなく、淡々と、それを迎撃せんと拳を振るえるのだ。 

 だから、加藤の足は止まったのである。

 ふたりの姿が肉眼で見えた時、すでに、加藤の位置はふたりの殺傷可能圏内だったのだ。

 それ以上進めなかった。

 殺される──まではないにしても、やすやすと、顔から地面に叩きつけられる未来予想図が、加藤の細胞を震わせていた。

 

「ウラヤマシイですなあ」

 

 独歩が言った。

 克巳が疑念に眉を顰めた。

 渋川がうん、うんと軽く頷いていた。

 言った。

 

「松尾さんも獅子尾さんも……濃密な時を過ごしたんだねェ」

 

 独歩と渋川は、互いに同じ歴史を思い浮かべていると確信していた。

 全ての始まりは、およそ三〇年以上前の、あの日だ。

 『昭和の巌流島』────

 あそこから、あの時代に生きていた武術者は、否応なく『道』の選択に迫られた。

 あれは、今なお在り続ける、日の本に集う全ての武術者にとって、分岐点だった。

 多くが、武を見直すことになった。

 武と、社会と、己の関係性を、見つめ直す必要に駆られた。

 

 中には、武を捨てたものもいる。

 武を、諦めたものもいる。

 武に失望したものもいる。

 それでも、嘘を吐き続けたものもいる。

 

 そして、あのふたりだ。

 松尾象山。

 そして、獅子尾龍刃……

 もちろん、愚地独歩だってそうだ。

 渋川剛気だって、そうだ。

 最強を諦めなかったバカヤロウたちだ。

 武を極めんと、ただただ進み続けたバカヤロウたちが、ここにいる。

 

 その事実が、渋川剛気には嬉しかった。

 愚地独歩もまた、嬉しかった。

 いや、きっと、あの時代を通ってきた、全ての武術者がそうに違いなかった。

 

 愚地独歩がモニターを見た。

 その先で、光の下で向かい合うふたりは、自分たちと同種の、格別な笑みを浮かべていた。

 

 

2.

 

 

 動かなかった。

 動かない。

 しかし、緊張感があった。

 引き絞られていったからだ。

 ふたりの意識が、お互いに向かって。

 松尾象山の世界から、音が、光が、静かにカタチを失っていった。

 観客の姿も声も消えた。

 徳川光成たちも、いなくなった。

 無辺に広がりゆく松尾象山の無空に、ただひとつが残った。

 そこに、でかいものが、ごろりと残っていた。

 松尾象山の意識の正面に、それは鎮座していた。

 獅子尾龍刃であった。

 他は、誰もいない。

 他は、何もない。

 嬉しくなった。

 抱きしめたくなった。

 愛おしくてたまらなかった。

 だから、松尾象山は、獅子尾龍刃に向かって真っ直ぐに歩き出した。

 

 

3.

 

 

 松尾象山が、獅子尾龍刃の間合いに軽々と踏み込んだ。

 しかし、獅子尾龍刃は微動だにしなかった。

 松尾象山は、龍刃の蹴りが伸び切る距離より、前に詰めた。

 松尾象山は、龍刃の拳を避けれないほど近くに詰めた。

 関節技に入るのに、一手すら必要ないほど、鼻と鼻が、あと五センチで触れ合う距離で、止まった。

 松尾象山も獅子尾龍刃も、お互いから目を外さなかった。

 

 観客がざわついた。

 刃牙と加藤もざわついた。

 何をしているのか、あのふたりは。

 本部以蔵が目を見開き、全身をぶるりと震わせた。歯を、カチカチと鳴らしていた。

 

 静寂は刹那に沈んだ。

 一瞬の交差があった。

 松尾象山が、この超至近距離で、それでも出した技は正拳突きであった。

 胸に向かって、それは飛んだ。

 獅子尾龍刃はそれに対し、避ける動きをしなかった。

 獅子尾龍刃は、松尾象山の右腕と交差するように、やや遅れて右腕を突き出していた。

 松尾象山の拳が胸に突き刺さる。

 代わりに──獅子尾龍刃は松尾象山の袖と、襟を掴んでいた。

 

「せいやああアアあァァッッ!!!!!」

 

 獅子尾龍刃の技は、一本背負いであった。

 袖を引き、襟を胸元に引き寄せ、身体を密着させた状態から、全身の力で松尾象山の足を引っこ抜いた。はらい足が綺麗に伸びて、松尾象山は凄まじい速さで闘技場に叩きつけられた。

 凄まじいキレであった。

 一瞬の出来事であった。

 これが柔道の試合なら、文句なしの一本勝ちだろう。

 松尾象山は仰向けに倒れている。

 だが、身を整えて、素早く身体を起こした龍刃は、追撃をせずに距離をとった。

 

「なんでだよッ、おっさん!?」

 

 無意識に固めていた握り拳を解いて、加藤が言った。

 刃牙は、鋭い視線を闘技場に向けたまま、

 

「いや、あれでいい」

 

 と言った。

 加藤が刃牙に振り返って、なんでだよ!? と聞いた。

 

()()()()てるな」

 

 と、加藤の疑問に答えたのは、控室の愚地独歩であった。

 ただし、この時の質問者は愚地克巳である。

 加藤と同じ疑念を、克己は吐き出していた。

 

「あれは、松尾さんが自分から投げられてる」

「そうじゃな。松尾さんが自分から跳んで、獅子尾さんの投げを手伝っとる」

 

 それはかつて、範馬勇一郎が力剛山にやったことであった。

 松尾象山はあの一瞬で、自らにかかる獅子尾龍刃の引き付けの強さを悟った瞬間に、自ら跳んで、投げを加速させていた。

 それによって、本来発揮される破壊力を、ものの見事に避けていたのである。

 投げられるタイミングも、投げられる場所も、打ちどころさえも、松尾象山はある程度、自分の思うように操っていたのだ。

 なんなら、きっちり背を丸めて、打ちどころに手を差し込み、受け身の姿勢までとっている。

 だから、投げのキレがあまりにもキレすぎていた。

 だから、松尾象山は大したダメージを受けていない。

 あのまま、何も考えずに追撃していれば、獅子尾龍刃は手痛いカウンターをもらっていたことだろう。

 

 松尾象山が立ち上がる。

 けろりとしていた。

 それどころか、感嘆に身を浸し、龍刃の投げのキレを吟味してさえいた。

 

「いいねえ」

 

 言った。

 太い声だった。

 

「範馬勇一郎直伝の投げ……堪能したぜ」

「……言っとくけど、勇一郎さんの投げは、こんなもんじゃないよ」

「おいらが華麗に躱したからって、謙遜すンなって。超一流の超弩級。()()()()範馬勇一郎となら、大差ないぐれェだと思うぜ?」

「そりゃあね。あの時期の勇一郎さん、手を抜いてたからね」

「プロレスやってたからかい?」

「……まあ、そりゃあもう」

「リュウちゃん。今は、プロレスじゃないぜ?」

「わかってるよ。でも、松尾さん。一度は味わいたかったンでしょ?」

「……まいったゼ。気を使わせちまってたかい?」

「いや────」

 

 会話の途中で、今度は獅子尾龍刃から仕掛けた。

 大外刈り。 

 松尾象山の身体が、また、軽く持ち上がって背中から闘技場に叩きつけられた。

 龍刃は、今度は追撃した。

 倒れた松尾象山の顔を起点に、身体をぐるりと回して、顎の下に掌を置いた。

 狙いは首。

 しかける技は首挫きである。

 エゲツない技であった。

 人を、容易に殺しうる技である。

 松尾象山は、左手を真上に振りかぶった。

 その手が、獅子尾龍刃の後頭部に回り込んで、髪の毛を上から掴んだ。

 そのまま、力づくで振り下ろす。

 すると、龍刃の足が、ほんの数センチ持ち上がった。

 寝ている姿勢で、左腕の筋力だけで、松尾象山は一二五キロの龍刃を身体ごと持ち上げたのである。

 恐ろしい膂力であった。

 龍刃が一瞬恐れ慄いた。

 その隙に、松尾象山はさらに腕を自身へと巻き込んでいく。

 龍刃の顔が、首から無理やりうつ伏せに向けさせられた。

 龍刃は姿勢を保つために、反射的に闘技場に手をついた。

 結果、顔が、松尾象山の胸の位置までズレ込んでいた。

 次いで、龍刃の肩に、松尾象山の太い足の指が引っ掛けられた。

 松尾象山は仰向けのまま腰を持ち上げて、折りたたむように脚を伸ばしていた。

 足の親指と人差し指で、柔道衣を無理やり摘んでいる。 

 龍刃は踏ん張った。

 さらに身体がずれた。

 松尾象山の腕の、ちょうどいい位置に、龍刃の胴体が登った。

 ガラ空きの脇に、松尾象山の右の鉤打ちが突き刺さった。

 

「ぐうっ」

 

 と龍刃が唸った。

 身をよじろうとしても、松尾象山の左手と足の指が、龍刃の体の向きを固定していた。

 そのまま二発、三発と脇を打たれた。

 

「ぐぐっ」

 

 龍刃の表情が不気味に引き締まる。

 所詮地に足のついてない手打ちではあるが、あの松尾象山の手打ちである。

 本来なら、身体ごと真横にぶっ飛ばされるシロモノだ。

 もらいすぎるのはまずい。

 龍刃はバランスが崩れることを承知で、象山の頭頂部に膝を見舞った。 

 びくともしなかった。

 が、それでいい。

 膝を起点に、あえて松尾象山の身体に倒れ込む。

 親指を立てていた。

 狙いは、肋骨と肋骨の間の急所。

 そこを貫けば、呼吸困難になり、身体が痺れて力が入らなくなる。

 だから、龍刃はそこに向けて、遠慮なく親指を捩じ込んだ。

 

「ぐむっ」

 

 と今度は象山が唸った。

 龍刃は捩じ込んだ親指をさらに捻って、象山の体内に沈めた。

 肉を割くぶつぷつとした音と、生ぬるい湿り気が、親指の上を撫でた。

 松尾象山は手を離した。

 脚を、思い切り振り回した。 

 獅子尾龍刃ごと、である。

 それに、龍刃は逆らわない。

 蹴り飛ばされるように、闘技場を転がった。

 松尾象山が立った。

 笑っていた。

 道着の、左胸の下部に、朱色の斑点が浮かんでいた。

 

「エゲツねえ技、覚えたんだねえ」

「それは、磯村くんに教わったんだよ」

「磯村露風にかい? へぇ、アンタ、リュウちゃん。あの磯村露風とやり合ってたんだ」

「いろいろあって、喧嘩売られちゃったからね」

「どっちが勝ったの?」

「言うまでもないでしょ?」

「だろうねえ。あいつ、エゲツないからなあ」

「……いやいや。松尾さん、そこは、おれが勝ったことにするべきでしょう」

 

 会話の中で、松尾象山は息を整えていた。

 それを、獅子尾龍刃は理解した上で付き合っていた。

 加藤清澄には理解不能なやり取りだった。

 興奮する光成の隣で、範馬勇次郎が、静かに笑っていた。

 

 獅子尾龍刃が顔を叩いた。

 目に、いっそう力が灯っていた。

 覚悟のともしびであった。

 それを見て、松尾象山の眼の色が、愉悦に輝き出した。

 

 ヤるんだな?

 と松尾象山は尋ねた。

 ヤるよ。

 と、獅子尾龍刃は返した。

 ヤるさ。と、もう一度言った。

 

 最初(ハナ)っから、松尾象山を相手に、無傷で勝てるなんて思っちゃいない。

 仮にそれができるとして──そんなもったいないこと、やりたいとも思わない。

 

 ──怖くないのかい?

 怖いよ。

 ──でも、リュウちゃん、ヤるんだな?

 でも、ヤるしかないんだよ、松尾さん。

 

 だって、その瞬間、きっと楽しいから。

 だって、その瞬間が、おれは、いちばん幸福(しあわせ)だから──

 というか、おれが松尾象山に勝つってことはね。

 何もかもを搾り出して……

 何もかもをぶつけ合ってェ……

 何もかも、身体ン中から無くなって、そこまでやって、それで、ようやく、おれは松尾象山に勝ったって、ムネを張って言えるんだよ。

 

 ──付き合うぜ。

 ──とことん、ヤろう。

 ──とことんヤれるんだから、おれたちはよ。

 

 そうだね。

 でも、お手柔らかにね。

 

 

 

4.

 

 

 松尾象山と戦うということ。

 それは、どういうことなのか──?

 それは、松尾象山の拳に、蹴りに対して、どう動くかということである。

 

 松尾象山の拳は、真っ直ぐだ。

 標的と定めた箇所に、真っ直ぐに飛んでくる。

 右にも、左にも、上下にも、距離さえもが一ミリもズレない。

 それが、身体のど真ん中に、最短距離で走ってくる。

 だから、避けられない。

 当てどころが身体のど真ん中だから、左右のどちらに避けても身体のどこかしらに当たってしまうのだ。

 そして、拳そのものの威力が尋常ではない。

 なんせ、松尾象山の拳はたった一発で牛の頭蓋を砕き、殺してしまうほどなのだから。

 だから、松尾象山の拳は防げない。

 それが、連続して飛んでくる。

 だから、後ろにも後退(さが)れない。

 さがってしまうと、松尾象山はこれ好機とどんどん突っ込んでくるのである。

 そうなると、完全に勝機はなくなる。

 おかしな話だが、防御(うけ)に回った瞬間、松尾象山の攻撃に対処することはできなくなるのだ。

 そうして攻勢の機会を失い、じきに押しつぶされる。

 

 だから、松尾象山と戦うと言うことは、松尾象山の拳に対してどういう捌き方をするべきか……という、至極シンプルな話に帰結するのである。

 そして、その対処法も、極めてシンプルなところに落ち着くのである。

 同じ数だけ殴る。

 恐れず、向かっていく。

 松尾象山の拳に、蹴りに──

 

 それが一番だと、少なくとも、獅子尾龍刃は思っている。

 なぜなら、それは松尾象山ですら、そう思っていないからだ。

 松尾象山の拳はあまりにも強すぎる。

 だから──敵対者は、いかにその拳を避けられるか、当たらぬように動くかに注力する。

 しかしながら、対峙する一〇人が一〇人そうしてくるモンだから、松尾象山にとってその対処は慣れたものである。

 だから、向かっていく。

 松尾象山が思いもよらない挙動はそれしかない。

 自分の拳に向かってこられることに、松尾象山は慣れていない。

 ほんのわずかに、身体が緊張する。

 一〇〇〇分の一秒、肉体が驚く。

 当てどころも見失う。

 腕を伸ばしきれない。

 あとは、松尾象山の拳に力負けしない肉体と、松尾象山の拳の疾さに負けない体移動ができればいい。

 それで受けられる。

 もちろん並の肉体ではできない。

 しかし、幸運なことに、獅子尾龍刃は並ではない。

 だから、止められる。

 だから、真っ直ぐに突っ込んでいく。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 また、壮絶な殴り合いになっていた。 

 最初の時と違うのは、素人目で言うなら雰囲気である。

 格闘士の視点から言えば、重心の位置である。

 お互いに、防御など考えていない。

 全体重が母指球に集まっている。

 攻撃しか頭にない。

 全身の細胞が行うことが、己の拳を相手に届けることしかない。

 それほど前のめりであった。

 それほど──相手に身体を預けて、倒れてしまいそうになるほど──ふたりは拳を先頭に、前へ前へと突き進んでいる。

 肉が、肉を、力任せに叩く音がする。

 恐ろしいまでの風切り音が吹き荒ぶ。

 血が舞う。

 飛び散っている。

 休まない。

 それどころか、攻撃はどんどん激しくなっている。

 殴る。

 殴る。

 殴る。

 殴る。

 殴る。

 殴る。 

 殴る。

 殴る───

 

 息を呑んでいた。

 誰もが、息を呑んでいた。

 いままでの、どの殴り合いとも、これは違った。

 なんの色もないのである。

 勝ちたいとか、負けたくないとか、相手をボコボコにしてやりたいとか、そういう不純なものが、一切見えないのだ。

 拳を当てやすくする工夫もない。

 少しでも身体を休ませようとか、ダメージを減らそうと言う動作もない。

 真っ直ぐに手を出して、それが当たる。

 そこにあるのは信頼であった。

 相手が、目の前にいるという信頼。

 だから、真っ直ぐに手を出せば、当たるという確信。

 その期待に応える意気だけが、唯一の不純物だろうか。

 これが、おれだ!

 一撃ごとに、そういう気持ちが弾けている。

 どうだい?

 と松尾象山が殴る。

 こうだよ!

 と獅子尾龍刃が殴る。

 だから、殴り合いが止まらない。

 だから、見るものは視線を外せない。

 会話している。

 どっちが耐えられるか、比べあっている。

 これは──勝ち負けを競っているのか?

 どういう勝ち負けを?

 そういう疑問が頭をよぎる。

 何を持って勝ちと呼ぶのか?

 負けるとはどういうことなのか?

 会話しているんだ、あのふたりは。

 じゃれあっているんだ、あのふたりは。

 じゃれあいに、勝ち負けがあるのか?

 相手を想って、愛と勇気を振り絞る行いに、勝ち負けがあるのか──ッッ!?

 

 思考はそれぞれだった。

 だが、ひとつ、思念は共通している。

 

 見届けよう。

 どっちが勝つとかじゃない。

 見届けよう。

 そう想っていた。

 

 

5.

 

 

 ──怖いさ。

 松尾象山のパンチだぜ?

 当然、怖いよ。

 痛いし。

 だけど、我慢する。

 我慢できなくても、する。

 視線を逸らさない。

 今度は、松尾象山の眼を見る。

 最後の最後まで、見るんだ。

 (はら)に力を込める。

 松尾象山の眼を、睨み返す。 

 勇気を振り絞って、前に脚を出す。

 おれの身体には感謝しかない。

 おれの身体を造ってくれた親には感謝しかない。

 おれの身体と心を磨いてくれた、力剛山先生に、勇一郎さんには、感謝しかない。

 おれをここまで育んでくれたあらゆる人に、感謝しかない。

 松尾象山には、感謝しかない。

 だから、進める。

 前に、前に。

 

 松尾象山以外、その瞬間、獅子尾龍刃の世界から消えてしまう。

 あの時は──無我夢中だった。

 途中から、覚えていなかった。

 ただ、松尾象山はデカくて、太くて、ごろんとした岩のような男だったことを覚えていた。

 血まみれになりながらも、松尾象山が己の全てを受け止めてくれることが、楽しくてしょうがなかったことは、はっきりと覚えている。

 あれから、三〇年か。

 松尾さん、何もかわっちゃいない。

 相変わらず拳は痛い。 

 相変わらず、太い。

 相変わらず、デカい。

 ああ、松尾象山だ。

 目の前にいる。

 

 どうだい、松尾さん。

 おれは、ちょっとは強くなっただろうか?

 それとも、なにも変わってないんだろうか?

 打ち返してくれるってことは、そうなんだろうな。

 打ち返してくるってことは、そうなんだろうな。

 前は、ここで満足しちまった。

 だから、負けた。

 それでもいいって、やっぱり、今回もちょっと思ってる。

 けど、今回は、それだけじゃない。

 

 おれも、『門』を潜ったからね。

 獅子の門を──

 勇次郎のおかげで、おれは、ちょっとだけ、ワガママになっちまったからね。

 松尾さん。

 あんたに勝ちたい。

 ほんの少し、そう想ってる。

 だから、あの時よりちょっぴり、意識を保ててる。

 だから、あの時より全力でぶつかれる。

 だから、あの時より、松尾さんの拳に耐えられてる。

 

 松尾さん。

 おれ、勝つよ。

 今度は、勝つよ。

 いくよ。

 これは、松尾象山だから、使用(つか)うんだ。

 他の人には使用(つか)えない技なんだ。

 範馬勇次郎ぐらいにしか使用(つか)えないモノなんだ。

 でも、松尾さん、やっぱり特別だからさ……

 

 だから──死なないでくれよ、松尾さん。

 

 

6.

 

 

 拳を掴んだ。

 松尾象山の拳を。

 獅子尾龍刃が。

 それで、一瞬、動きが止まった。

 お互い、顔が凸凹になっていた。

 道着が鮮血で染まっていた。

 青あざだらけだった。

 肩で息をしていた。

 松尾象山は、ほんの一瞬止まってしまった。

 だが、反射的に、次の拳を出していた。

 

 それが、からぶった。

 松尾象山の身体が、ぐ……と浮いていた。

 拳を起点に、足が持ち上がっていた。

 ゆっくりと。

 恐ろしい光景が現れた。

 

 獅子尾龍刃は、松尾象山の拳を起点に、片腕で、松尾象山の身体を持ち上げていた。

 すぐさま肘を曲げて落ちようとする象山の腕を、龍刃はもう片方の腕で跳ね上げた。

 

 ざわ……と闘技場が湧いた。

 範馬勇次郎が苦い顔でそれを睨んでいた。

 範馬刃牙が、唖然としていた。

 一瞬──獅子尾龍刃と目が合った気がしたからだ。

 

 次の瞬間、松尾象山の身体は宙を泳いだ。

 ものすごい速度で、空に弧を描いた。

 それを、獅子尾龍刃はもう片手で御していた。

 それが、続いていく。

 それが、重なっていく。

 次第に速度が増す。

 次第に、松尾象山の姿が透明になっていく──

 

 

 それは、範馬勇一郎の技。

 人間をヌンチャクとする秘技。

 

 ドレスであった。

 

 

7.

 

 

 松尾象山の身体が空を舞う。

 獅子尾龍刃は、実に緻密に、松尾象山の身体を操作している。

 手首を取り、足首を取り、振り回し、身に纏う。

 やがて、松尾象山が獅子尾龍刃の身体を覆い尽くす、透明なドレスへと変容(かわ)っていく。

 

 エネルギーが密になっていく。

 闘技場に篭るエネルギーは、獅子尾龍刃に急速に集い、それが松尾象山を振り回すことによって、ゆっくりと放散されていた。

 観客が逃げ惑っていた。

 それほど、ゆるやかにも関わらず、爆発的なエネルギーが客席に叩き込まれていたし、そのエネルギーが真に爆発する瞬間は、この何倍もヤバいことがおきると誰の脳裏にも正確によぎっていた。

 

 徳川光成を引き剥がそうと闘技場のスタッフが身体を引っ張っている。

 が、テコでも動かぬと、光成はガンとしてその場から動かなかった。

 この場において、平常を保つのは範馬勇次郎ただひとり──

 

 獅子尾龍刃が、範馬勇次郎を一瞥した。

 しかし、すぐに、松尾象山へと意識の全てを向けた。

 

 そして──

 

 龍刃は、象山を叩きつけた。

 闘技場の柵に向かって、上から、象山の肋骨を削ぎ落とすように側面から振り抜いた。

 頑丈な柵が、松尾象山という特大の武器によって剥ぎ取られていった。

 そのまま、龍刃は松尾象山を反対の柵に向かって投げた。

 

 地面と水平に、松尾象山が飛んだ。

 反対側の柵にぶつかり、それを凹ませて、ようやく止まった。

 もたれかかるその身体に、力がなかった。

 

 だが、獅子尾龍刃は警戒心を解かなかった。

 解くわけにはいかない──

 

『しょ……勝負ありッッッッ!!!!』

 

 勝利者コールが轟いた。

 審判たちが慌てて、松尾象山へと駆け寄った。

 それを見て、獅子尾龍刃は叫んだ。

 

「バカッッ!! まだ近づいちゃダメだッッ!!!」

 

 龍刃の怒号に、象山に駆け寄っていた審判たちの動きが止まった。

 その瞬間、

 

「ちえりゃあああッッ!!!!」

 

 気合い一閃。

 松尾象山は飛び上がり、恐ろしい拳が空を切った。

 それは、審判のひとりの顔の寸前で止まった。

 松尾象山は、正拳突きの姿勢のまま、意識を失っていた。

 口から、ゴボゴボと血が滴り落ちている。

 それを見届けて、鎬紅葉が闘技場に飛びこんだ。

 この血の吐き方は、肋骨が内臓に刺さっているからだと悟っていた。

 担架に乗せられて、松尾象山が退場していく。

 

 獅子尾龍刃は泣きそうな目で、それを見届けていた。

 

 

 

 一回戦第六試合:勝者、獅子尾龍刃

 

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