たぶん三話で終わらない気がすることを先に教えておく(土下座)
第一話:出会う
第一話:出会う
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暗い通路を、大きな男が歩いていた。
身長、一九五センチメートル。
体重は一一六キログラム。
試合用のトランクスを履き、上半身は裸。
それゆえに筋骨隆々とした肉体美が剥き出しであり、格闘技者にしては幼子のように白い肌が、いかにも健康的な、色気のある肉体を表現していた。
髪は丸めている。
顎は適度に角張っていて、そこから耳に至るまでのラインに無駄な肉付きが全くない。
男は飄々とした笑みを浮かべていた。
見目には三〇代にもなろう風貌の大男ではあるが、作り出す表情は童心に帰ったように、無邪気なそれである。
男──大久保直也の視線の先には、ひとつ、リングがあった。
広い試合場だった。
観客は誰もいない。
照明も、リングの真上に設置されているものと、会場の四隅に設置されている最低限のものしか灯っていなかった。
時間は夜であるが、会場には窓もなく、大久保が通り抜けた以外の扉は、硬く閉ざされている。
さながら、上映寸前の映画館といったところか。
まるで、外界との交わりを徹底して断つかのごとく、暗く、冷たく、寂しい雰囲気であった。
ここのオーナーは、相当なひきこもりだろう──煽るようにごちて、大久保は微笑した。
心を落ち着けると、ごごん、とうねる音がした。
ごごんと、また、静かに空気が震えている。
空調が作動している音だった。
外気が全くない以上、会場の気温や湿度は人工的に調節するしかないのだろう。
会場全体の広さは、ちょっとした公民館の多目的ホールぐらいはありそうだった。
その空間全域を、おそらく、一台か二台の大型空調機で賄っているのである。
中型のエアコンを数台買ってきて、方々に設置した方が金もかからないだろうし、空気の循環は細かく調整できるし、何より機械が長持ちするだろうに……金持ちのやることは、大久保にはてんでわからなかった。
ますます持って、ここのオーナーは病的なこだわりを持っているのだろうと、大久保は思う。
そして、そういう男は、大抵面白い。
こだわりがあるというのは良いことである。
そして、そのこだわりを、公の場で叶える金と力を持っている男は、大抵
大久保は、総合格闘技のチャンピオンである。
それも、世界最大の総合格闘技『アルティメット・ファイト』のヘビィ級王者だ。
日本でその運営を行い、放送権を持つムジテレビが、大久保のスポンサーでもある。
その関係で、大久保は芸能界にも知り合いが少なくなかった。
芸能界には、さまざまなこだわりを持ったヘンタイがいる。
例えば、それを知る前は、売れないバンドマンが口にすると笑っていた『音楽性の違い』というものも、本当にそれが理由で己の進退を
その、
最大トーナメント──
徳川光成は、近々『地上最強』を
当然、表格闘界最強と名高い大久保にも、光成の使者は訪れていた。
しかし、大久保はこれを断っていた。
即断であった。
主な理由は、ふたつ。
ひとつは、アルティメット・ファイトの防衛戦が近かったからだ。
アルティメット・ファイトは、ムジテレビにとって、特別な興行である。
この時代の少し前──日本において、総合格闘技というものは風前の灯火であった。
アントニオ猪狩。
アイアン木場。
そして、グレート巽というプロレスの巨頭たちが、テレビの中でこぞって異種格闘技をヤり、プロレスとしてもガチンコとしても勝ちを積み重ねていたからである。
挙句、アントニオ猪狩が一九八X年に提唱した『プロレス最強論』がトドメとなって、日本においては『最強の総合格闘技とはプロレスである』、という図式が多くの格闘技ファンの中で完成してしまっていた。
その実態は、現代においては笑えるほど杜撰な猪狩の持論ではあるが──格闘技者にとっても、この論は一理あってしまったのが、話をややこしくしてしまう。
現代の総合格闘技において、必須科目とされる武術こそ、柔術とレスリングだったからである。
寝技──つまり、タックルをはじめとした組み技、柔術の投げ技、レスリングの極め技の強さこそが、総合格闘技では特段重要なのであった。
その結論が出ていなかった時代こそ、ブラジリアン柔術が総合格闘技界を総なめしていた時期であり、ブラジリアン柔術の無双ぶりこそが、総合格闘技者に『柔術とレスリング』を学ぶことが必須だと結論付けさせたのである。
つまり、少し前まで日本では総合格闘技といえばプロレスのことであり、真に
ましてや、日本でプロレス以外にテレビの放送権を持つ格闘技は空手、ボクシングぐらいのもので、おおよそ総合格闘技では視聴率は見込めないと判断されていた。
そこに現れたのが、大久保直也であった。
大久保は関西弁でしゃべりが面白く、テレビ受けする性格で、身体が大きく芸達者であった。
強さも見るにわかりやすく、何より『日本人がヘビィ級で世界最強の男』というのは看板としては文句なしに話題を集めた。
結果として、大久保直也の圧倒的な強さのお陰で、総合格闘技界はプロレスに追い縋るほどの地位をメディアの中で確立させ、ムジテレビの主力番組へと成長を遂げたのであった。
その、アルティメット・ファイトの防衛戦と、最大トーナメントの時期が被っていた。
これはまずいことだった。
それでも、大久保直也なら、
挑戦者が並の格闘家なら、
ムジテレビの代表の熱海久に頼られたなら、
大久保直也はぐちぐち言いながらも、どちらも軽くこなすほどの超人ぶりをみせたかもしれない。
だが、今回の挑戦者は並の相手ではなかったのだ。
今回の相手は鈴木ミノルだった。
鈴木ミノルは総合格闘技の本場、
ミノルは打、絞、極、投、全ての水準が高いオールラウンダーであり、戦闘スタイルや身体つきが大久保自身とよく似ていた。
ただひとつ、決定的に違うことは、ミノルは『風当身』なる謎の遠当てを得意としており、これがそのまま先述の字名を決定づけていることだ。
試合のVTRを観た大久保の感想は、「さすがにトリックやろ!?」と唖然としたものだったが、ミノルがこの技を
また、日本で先に行われた記者会見で相席した際には、ミノルの纏う空気が、決して大道芸人のそれではなく、大久保の知る範囲で照らし合わせても闘技者に近い『濃い臭い』を纏っているとわかった。
会見場で、ミノルは、
「まいったなァ、関西弁の男を見ると……思わず、ぶっ殺したくなっちゃうんだよね」
とキレッキレの煽り文句を吐いて、大久保はそれに
「悲しいこというやんけ。俺はおまえみたいな大道芸人は嫌いやないで? ええ風
と煽り返し、記者たちを盛り上げる見事なプロレスを演じてみせた。
最大トーナメントの誘いは、その直後だったのである。
再三言うが、アルティメット・ファイトの防衛戦と、時期が丸かぶりしていたのだ。
それが、ひとつ目の理由。
しかし、実は、大久保としてはそれは大したものではない。
ふたつ目の理由こそ、大久保が最大トーナメントを袖にした本心である。
ファイト・マネーが出ないのだ。
地下闘技場は、表の試合はもちろん、拳願試合とも違い、試合に対するギャラがない。
これは地下闘技場で大前提の話であり、いかなる試合であろうと、対戦者たちがどんなに格が高かろうと、一律でノーギャラなのである。
大久保は、プロ格闘家の自負がある。
自分はチャンピオンである。
試合をして、勝って、ファンを盛り立てて、対価としてカネや名誉を得ている。
ムジテレビの代表闘技者として『絶命トーナメント』に出場したのも、ムジテレビから頼まれたからというのは当然として、大久保自身に帰ってくるメリットが計り知れないほどあったからだ。
最大トーナメントにはそれがない。
戦うのは好きだ。
勝つのは、たまらなく好きだ。
だが、プロとして、なんのメリットもない──どころか、デメリットの方が多いまである──試合をやる意義はない。
後で、いろんなやつに、いろんなことを言われるかもしれない。
「大久保は逃げた!」と後ろ指をさされるかもしれない。
だが、大久保にとって、そんなことをされても痛くも痒くもない。
だって、勝てば良いからだ。
アルティメット・ファイトで、変わらず、勝ちまくればいいからだ。
アルティメット・ファイトは、表の世界最大の総合格闘技である。
大久保のバックにいるのは、日本最大級のメディアであるムジテレビである。
つまり、世間一般的に『強い』と評される格闘家であれば、大久保とムジテレビはそいつを指名してカネを積み、リングにあげることだってできるのだ。
だから、無理をしてまで最大トーナメントに出る必要が微塵もない。
最大トーナメントで活躍するような一流どころを、こっちのリングにあげればいい。
大久保は、王者である。
挑戦者を選ぶ権利だって持っているのだ。
愚地独歩だって、松尾象山だって、アントニオ猪狩だって、テレビ放送されるリングで異種格闘技をやっている。
だから、彼らがアルティメット・ファイトのリングで戦えないなどと言うはずがない。
大久保直也と愚地独歩が、リングの上で
なんというビッグ・イヴェントだろうか。
千客万来、立ち見までいっぱい。
想像するだけで、会場に満ちる観客の大歓声すら生々しく聞こえてきそうではないか。
では、なぜ今、大久保はリングへの道を歩いているのか?
ズバリ、大久保的には『風のミノル』と戦うためのスパーリングのためであった。
ミノルは強い。
大久保も、さまざまな強者と出会い、立ち会ってきた男である。
経験則から、観るだけで、そいつがどのぐらい強いのか目安はつけられる。
大久保の目から見て、ミノルは絶命トーナメントに参戦できるレベルであった。
死闘が予想できた。
ミノルの全盛期とも言われ、唯一の敗北であるハイパー・バトルのVTRを観て、その確信は深まっていた。
だから、大久保はムジテレビ代表である熱海に、「めちゃくちゃ強い」スパーリングパートナーを求めたのである。
並の相手では物足りない。
思わず、喰ってしまいたくなるような、猛烈な男がいい、と。
ただし、「人間であること」と念を押して条件をつけた。
すると、熱海は……
「ちょうどいいかもしれませんね」
と、半ば呆れたように呟いた。
そして、事情を話した。
今、日本にアメリカの地下格闘界のドンが来ている。
そのドンが、スパーリング・パートナーを探しているらしく、アルティメット・ファイトのスポンサーであるムジテレビにコンタクトをとってきている──と。
大久保はその場で了承した。
ふたつ返事、大久保らしい快刀乱麻の即断であった。
熱海は慎重を期す声色であったが、大久保は大久保らしく、飄々とした態度であった。
──そう、
今、大久保が向かうリングの上に、その男がいるのだ。
大久保を待ち受けるのが、アメリカ地下格闘界のドン。
通称、『
0-1
リングに昇り、相対した。
『
一九五センチある大久保を、完全に見下す位置に頭部がある。
身長は二メートルを超えているか……
がっしりとした体躯が、ガウン越しにも感じられた。
静かに、顔を俯かせて佇む姿が、巌のようである。
髪は坊主頭より少し伸ばしている短髪。
ギラギラした装飾の目立つサングラスを掛けていた。
これから試合をするというのに、サングラス──?
だが、それを咎めるような真似を、大久保はしなかった。
「嬉しいやん」
大久保が言った。
声が、少し、震えていた。
「地下格闘のドンや言うけど、所詮、拳願試合のバケモンどもに比べりゃ、アメちゃんみたいなモンやて思っとったんやが──」
サクラの口角が、大久保の言葉に反応して、ゆっくりと開いていった。
顔が持ち上がる。
笑っていた。
笑っているはずの顔が──大久保には、悪魔のように見えていた。
「こりゃあ、トンデモないバケモンやで。さしずめ、ショッカーに改造されたネームド二歩手前の怪人……って感じやないかい」
「ワタシも、少し、感動していますよ。ミスター・ナオヤ」
サクラの声に、重たい感情が乗っていた。
大久保が構えた。
両腕を持ち上げて、腰を落とす。
サクラがニコリと白い歯を見せて笑った。
ガウンを脱いだ────
「うおっ……めっちゃエエ身体しとるやん……」
サクラの肉体は、それはもう、見事なものだった。
首が、顔より太い。
胸が、顔の位置より前に迫り上がっている。
肩が大きく、そこから伸びる腕が太く、日本人と比べると、わりかし長く見える。
腰も尻も引き締まっていて、皮膚のたるみやシワが全くなかった。
顔は、歳相応に老けている。
サングラスの下から覗くシワは、路面地図のようにくっきりと刻まれている。
だというのに、首から下はまるで三〇代の瑞々しさに溢れていた。
文句なしや──
強い。
バケモン級やで。
これこれ。
こーいうのがエエんや。
ピリつく空気で熱がぶつかり合う──そんで、俺が勝つ。
負ける気はさらっさらない。飲みに誘ったオネェちゃんの飲み残したミネラル・ウォーター程もない。
「さて」
と大久保は不敵に笑った。
「今日の俺はさながら仮面ライダーや。華麗に『怪人退治』といきまひょか」
飄々と言うと、大久保はすり足で間合いを詰めていった。