【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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第二話:和気藹々

0.

 

 

 豪邸であった。

 正面に大きな門があり、そこから本殿に入るまでに広い庭がある。

 その先にある玄関をくぐり、更に少し歩いてやっと、大広間に出る。

 レッドカーペットを敷き詰めた床に、吹き抜けと思えるほど高い天井。

 通路と空間を繋ぐ楔のように、シャンデリアが点々と飾られている。

 そのシャンデリアが照らす廊下は左右と奥に広がりを見せ、それぞれの通路は直線に伸びているにも関わらず、一瞥しただけでは最奥まではとても見渡せなかった。

 上に向かって、道が登りゆく。

 大階段がそこにあった。

 階段は二階、三階までを跨いで一直線上に登って作られており、上階に向かうにつれ長方形の階の区切りに吸い込まれるようなデザインであった。

 言うまでもなく、家そのものが大きい。

 部屋と部屋を繋ぐための通路だけで、一軒家がいくつも入りそうなほどである。

 外観は西洋の城のようでもあり、要塞のようでもあった。几帳面にも等間隔の窓が幾つか並んでいる。

 

 拳願会“前“会長──片原滅堂の住処であった。

 

 広間の階段を登りきった先に、これまた大きな区切りとして客間があった。

 大型の(ヒグマ)ですら揚々と入れそうなほど大きな扉を開けると、一対の黒いソファが置いてあり、真ん中に黒いフレームで絞められたガラス製の四角形のテーブルがある。

 内装こそふんだんに豪奢な趣きではあるが、意外にも装飾らしきものはほとんど存在せず、これだけの金持ちにしては簡素な作りの部屋であった。

 

 この部屋に、今、五人の男がいた。

 上座のソファに座るのが、一見して枯れ木のような老夫だが、老いてなお秘めたる覇気は衰えず。長い口髭と和装に身を包んだ豪傑、“極東の風雲児“こと片原滅堂である。

 その背後に並び立つ大男が、片原の護衛である鷹山ミノルと王森正道である。

 ふたりとも『護衛者』の正装である黒スーツに身を包み、寡黙に──しかし、警戒心を張り巡らせて場にあたっていた。

 片原の正面のソファに、大男が座っている。その大男の纏う雰囲気──危険度が、ふたりの針を振り切っているのである。

 

 坊主頭より気持ち伸ばしたブロンドの短髪に、褐色の肌。

 陽気に吊り上がった眉と口角に、小さなダイアモンドを散りばめた、色の濃いメガネを身につけている。

 顔には至る所に老齢を示す深い皺が刻まれており、()()()()を見るならば、片原とそれほど歳が離れていないように見えた。

 だが、男の肉体は服越しにもわかるほど瑞々しく若々しい。

 男の体躯(からだ)の大きさは、滅堂の倍はあった。

 身長は二メートルを超え、体重は一〇〇キロを優に超える、王森やミノルと身体の大きさがほとんど変わらない。

 その重さ故か、ただ座っているだけでソファが軋み、擦れている細かな音がしていた。

 服はラフな柄物のシャツに、黒の長ズボン。

 胸元を大胆に開けているが、これは無礼でもなく、男の胸筋が体躯に反して発達しすぎていて、ボタンが締まらないのである。

 靴は、顔が映るほど磨かれたローファーを穿いていた。

 

 男は、名を、サクラと言った。

 アメリカ地下闘技界のドン。

 通称を『泣き虫(クライ・ベイビー)サクラ』と呼ばれる男であった。

 

 その背後に立っているのが、サクラの保有する地下格闘場を直接運営する、プロモーターのウォーケンである。

 中肉中背、白い肌に短い金髪のアメリカ人。黒いスーツを着て背筋を伸ばし、こちらは、緊張感のある面持ちであった。

 

「急な申し出を受けていただいて、感謝しています。ミスター・カタハラ」

 

 流暢な日本語で、サクラが言った。

 うん、うんと片原が頷く。

 

「サクラくん、唐突に連絡を入れてきたと思ったら、その日のうちに来るんじゃもん。仮にも拳願会(こっち)アメリカ地下闘技場(そっち)は敵対関係じゃというのに、大胆じゃのう」

 

 滅堂は弱々しく首を振った。

 片原滅堂が前会長を務めた拳願会は、日本の裏社会の一角を担う組織である。

 それは、日本国内の反社会的勢力に対する抑止力の一端という意味でもあり、それ以上に国外から日本の裏社会を狙う裏組織に対する防波堤の役割も担っていた。

 片原滅堂は第二次世界大戦後の混乱期から現在に至るまで、拳願会と護衛者という超級の暴力と権力、彼に賛同する任侠者たちを武器に、日本を裏社会の側から一手に守護(まも)ってきたのである。

 それを考えるならば、アメリカ地下闘技場のドンであるサクラはまごうことなき外敵であった。

 その外敵から、片原の元に連絡が届いたのが、ほんの数時間前のこと。

 サクラの要件は極めてシンプルであった。

 

 話をしたい──

 だから、会いたい。

 

 そうして、今、ふたりは顔を合わせているのである。

 

「お嫌いですか?」   

 

 サクラは陽気に、へらへらと笑っていた。

 ほうれい線と、それを囲むように蠢く小さなシワたちが、サクラの声に合わせて生き物のようにひくり、ひくりと動いている。

 

「アナタは、このような突飛な行動を好むと聞いていましたが……」

 

 ちろり、とサクラがウォーケンを見た。

 ウォーケンは無言でこくこくと頷いて見せた。

 それを知ってか知らずか、サクラは意識を片原に向ける。

 片原は一転して、笑顔になった。

 

「もちろん、ワシゃそーいうの、大好物じゃよ」

 

 滅堂はいやらしく笑った。

 それは、人を食ったような顔──というのが、まるで喩えにならぬほど、妖怪じみた表情であった。

 事実、滅堂の一言一句に部屋の空気がかき混ぜられている。

 冷たい妖気が、滅堂の身体(なか)から溢れている。

 一体、この枯れ木のようなか細い身体のどこに、これほどの気迫を秘めていられるのか。

 滅堂の妖気によって、部屋の気温が二度、三度と上がったり下がったりを繰り返しているのではないか?

 この圧力は、また、サクラの有する怪物性とは違う。

 ウォーケンは息を呑んだ。腹が痛む思いであった。

 いや、それはきっと、気のせいではない。

 凡人には、大妖怪の秘密の会合に居合わせるなど荷が重すぎる。

 しかし、臍の下にぐ、と意識を集めて、なんとか堪えていた。

 

 当のサクラはいかにもわざとらしく、滅堂の妖気を絡め取って、それと戯れるように「ワーオ」と唸って見せた。

 楽しそうな声であった。

 

「フフ、噂通りの傑物ですね。わたしも好きですよ、アナタのような人は……」

 

 サクラの言葉に、滅堂は微笑で返す。

 本題に入りましょう、とサクラは言った。

 

「スパーリング・パートナーの斡旋じゃな?」

 

 機先を制したのは滅堂であった。

 サクラは笑みを深めた。

 肯定の意をはらんでいた。

 

「ミスターカタハラには、来る最大トーナメントまでの間、ワタシと()()()()()()()()()格闘士を紹介していただきたい」

「…………」

 

 滅堂は黙した。

 サクラの意図はわかっている。

 この打診に、なんの裏もないことも既に知っている。

 サクラはただ単に、最大トーナメントまでの期間、自身のモチベーションを保てる格闘士を求めているだけだ。

 自身の元に訪ねたのも、この日本でサクラに見合うレベルの格闘者を知る者となれば、徳川光成を除けば片原滅堂に白羽の矢が立つのも当然の話である。

 サクラは強い。

 門をくぐり、その姿を一目見た時から、滅堂はサクラのおおよその強さを測っていた。

 

 歴代の『滅堂の牙』にも比肩しうる、と。

 真っ当に戦えば、あのアギトでさえ苦戦は免れないだろう、と。

 

「ふむ……サクラくんや。確かに拳願会には日本最高レベルの格闘士たちが名を連ねておる」

 

 その自負に疑いはない。

 選手のアベレージで言うなら、拳願会は地下闘技場すら上回っていると言い切れるほどに。

 サクラは黙って聞いていた。 

 滅堂は続けた。

 

「しかし、拳願会の闘技者たちは、フリーの者を除けば皆、自身の雇い主を持っておる。彼らは企業の要、金銭トラブルを解決するジョーカーでもあるのじゃよ。故に、おいそれと()()()()()()()()()仕合いに応じることはできん」

「それは承知しています。もちろん、スパーリングを務めてくれる相手にも企業にも、ワタシは相応の額は支払うつもりですとも」

「……このふたりではダメかの?」

 

 空気が止まった。

 サクラの顔から笑顔が消えた。

 緊張感が、ぴん、と張り詰めた。

 滅堂の意識だけが、背後に仕える王森とミノルに向いていた。

 ふたりはそれを受け取ると、どちらが言うでもなくしん……と心を一段深く沈め、不意の闘争に備えていた。

 

 沈黙を薙ぐように、ふ、とサクラが息を吐く。

 

「流石のワタシでも、そちらのふたりを相手にすれば、大会出場に差し支えるでしょうね」

 

 お世辞、なのか、これは?

 サクラの口調は軽い。

 対して、滅堂の意識はまだ、暗い。

 サクラは首をもたげて、軽く、左右に振った。

 もったいぶって、それに──と続けた。

 

「アナタから、側近の護衛を()()ワケにもいきませんから──」

 

 そこまで言って──

 一拍の間のあと、滅堂がぷ! と吹き出した。

 

「カカカッ! 面白いのう〜サクラくんは!!」

「ハハハハハハッ!! ミスターカタハラにはかないませんヨ」

 

 和気藹々とした盛り上がりに見えて、同席しているウォーケンにはふたりの身体から盛り上がった何かが、互いに舌なめずりをしている絵が見えていた。

 それはきっと、王森とミノルもそうだったろう。

 涙を拭うほど笑い呆けた滅堂が言った。

 

「ええじゃろう。ワシのできる範囲で、サクラくんの相手を見繕ってみるわい」

「感謝します、ミスターカタハラ」

 

 こうした流れがあって、片原滅堂からムジテレビの熱海久に話がいき、そこから大久保直也の同意を得て、サクラvs大久保の()()()()()()()成立したのであった。

 

 

1.

 

 

 サクラは測っている。

 大久保直也の肉体を。

 大久保直也の人生を──

 

 適度に腰を落とし、やや前傾に丸めた背。

 両手の持ち上げ方、これはスタンダードなボクシングのそれだ。

 かなりサマになっている。

 身体のリズムはやや上下に揺れている。

 その足が軽快である。

 一一六キロある体重が、大久保直也にとっては過剰ではないことを示していた。

 しかし、打撃系に構えられた上半身に対し、下半身の構えは組み技系のそれである。

 肩幅程度に広げたのち、前後に構えるスタンス。

 前足の母指球に乗る体重と、後ろ足に残る体重のバランスが、激しい前後への動き──つまり、タックルのための配置であることは明白だった。

 こちらも、かなりサマになっている。

 つまり、大久保直也は打撃系としてボクシングを使えて、組み技系としてレスリングを使えるということ。

 それも、かなりのハイレベルで。

 これは、総合格闘家にとって理想とも言える組み合わせだ。

 打で入ることができれば、組みから入ることもできる。 

 技術が互角程度なら、相手の技に、後手からでも十分対応できる。

 格上が相手であっても、手札の多さで戦局をいくらでもゴマかせる。

 良い選手だった。

 サクラの()()()()()()

 だが、実直なバランスが過ぎる。

 おそらく、大久保の初手は、ジャブを振ってからのタックル──

 ジャブはフェイントに使うが、当たってもいいという配分。

 あくまで、本命のタックルを成功させる繋ぎだろう。

 

 サクラが両手を持ち上げた。

 肩を、視線より少し持ち上げて、腰を落とした。

 打撃を警戒するフリである。

 腹から下への意識が散漫に見える構えだ。

 ジャブを無視し、タックルを上から切る。

 寝技の勝負に持ち込む。

 それがサクラの狙いであった。

 筋量は、自分の方が上だからだ。

 大久保直也の筋量も、ただならぬ鍛錬の賜物であろう。

 強く、しなやかで、適度な緩みがある。

 理想的な筋肉のひとつだ。

 しかし、そのパワーは、常人の二〇倍のパワーを誇る自身には劣る。

 これは確信であった。

 寝技に持ち込めば、有利に運べる。

 

 大久保が動いた。

 お手本のような左ジャブ。

 やはり、力が入っていない。

 サクラは少し、首の位置を下げる。

 それだけで、大久保の拳は届かない。

 拳を引くのに合わせて、大久保が踏み込んできた。

 低い姿勢で先んじる両手が狙うのは、前に出ている右足である。

 読み通り──

 サクラの意識はリングを滑る大久保に向いた。

 と──、

 

 ごっ、と音がした。

 それは、サクラの眉間からだった。 

 正確に言えば、眉間と鼻の付け根の間である。

 両眼の間、鼻骨のやや上である。

 ここは、頭蓋骨の中でも特に柔らかい部分である。

 ここを拳で殴っても、手の骨はまず折れない。

 そこを、大きく弧を描いて、背中から這い登るような軌跡で飛んだ、大久保の拳が撃ち抜いていた。

 サングラスの縁がばきりと折れた。

 レンズが砕けた。

 が──そんなことは問題ではない。

 

 サクラの身体は弾かれるようにマットから浮いた。

 全く意識していない箇所、タイミングの打撃だった。

 予想だにしかなった。  

 大久保直也の肉体は、確かにタックルを狙っていた。

 いや、そう動いている。

 大久保は弾けたサクラの身体に追いすがり、片足をとって身体を寝転がしにきているのだ。

 タックルも、また、本命の動きだった。

 だから、騙された。

 咄嗟の拳だったのか?

 それとも、こうも自然に『繋げる』と言うことは、大久保にとっては手慣れた攻撃ということか。

 

 足を取られ、捻られる。

 ヒールホールド。

 見事な動きであった。

 咄嗟に、サクラは身体を大きく捻ってエスケープを測る。

 マットに投げ出すように身を転がした。

 うつ伏せになったサクラの胸に向かって、大久保の蹴りが跳んだ。

 当たった。

 衝撃に、サクラの身体がふわりと浮く。

 大久保は足を戻せなかった。

 ふくらはぎと足首を、サクラが握っていた。

 大久保は慌てない。

 両手が塞がっているということは、顔面はガラ空きである。

 上半身を大袈裟に振って、拳を打ち下ろす。

 ロシアン・フックのような、刈り取るパンチであった。

 それが、サクラの顔に当たる。

 当たる。

 当たる。

 しかし、ろくに効いていない。

 サクラは拳に合わせて軽く、顔を回していた。

 スリッピング・アウェーである。パンチが当たった瞬間に、拳の流れに沿って拳より早く首を回すことで、ダメージを逸らす技術だ。

 流石のサクラも、見え見えのテレフォンパンチをもらうほどではない。

 が、それが布石であった。

 

「グウッ」

 

 大久保は三度目のパンチを戻さなかった。

 サクラの身体に覆い被さるように身体を丸めていく。

 大久保の身体が、自身の足を握る、サクラの背にのしかかった。

 ちょうど、丸まったアルマジロのような光景である。

 大久保は、そのまま手を伸ばし、サクラの足首を取った。

 そのまま身体をふって、捻っていく。

 ここまでの動作を、いっさい澱みなく行っていた。 

 全て、サクラがスリッピング・アウェーをやめて、握る手に力を込めるまでの刹那の出来事である。

 そのまま、寝技の応酬になる。

  

 上等だと、サクラは思った。

 自身に寝技で勝負を挑んできたのは、生涯でただひとりしかいない。

 獅子尾龍刃──自身に匹敵しうる特別(スペシャル)な肉体を持った、あの男だけだ。

 あの、グレート巽でさえ、自分との寝技は嫌がった。

 自身よりパワーの劣る大久保直也が、いったい、寝技でどうしようというのか──

 

 ぼこっ、と音がした。

 ぼこ、

 ぼこっ、

 三度、続けて鳴った。

 サクラは大久保の右手首を取っていた。

 その手首を、大久保自身を囲むように回させて、ツボを押さえながら締め付ける得意技をやろうとしたはずだった。

 しかし、今のサクラの位置は、大久保の下であった。

 マウントポジションを取られている。

 いつのまに──!?

 そこから、大久保の拳が落ちてくる。

 違う、これじゃない。

 さっきの三連打は、パウンドのこれじゃない。

 ずきりと、いまさらに痛む。

 脇腹だ。

 これは、脇腹から肋骨の内部に潜り込むように、拳を打たれている。

 あの寝技の中で、大久保直也が放ったものに違いない。

 

 継ぎ目がない──ッッ!!

 サクラは気づいた。

 大久保直也の攻防には、打と極めの間に全く継ぎ目がない。 

 肉体は、確かに打撃の動きをしているのに、そこからナチュラルに組みにくるのである。

 組みに、極めに来る動きの中で、ごく自然に打撃の動きが混ざってくるのである。

 肉体の動かし方が、サクラの戦ってきた誰とも違った。

 

 サクラは両脚を持ち上げた。

 膝を立たせている。

 それで、大久保の背中を強く押した。

 大久保の重心が前に落ちる。

 手が、バランスを保とうと伸びる。

 いや、違った。

 バランスを崩しながら、大久保はパンチを打ってきた。

 二発、もらう。

 もらいながら、サクラは大久保の手を取った。

 右腕を伸ばし、大久保の脇の下に差し込んで、脚と共に身体を持ち上げる。 

 この際の抵抗力もなかなかのものだったが、さすがはサクラである。あっさりと大久保の身体がサクラから引き剥がされた。

 

 体位が入れ替わる。

 それを嫌って、大久保はサクラを突き飛ばした。

 身体が入れ替わる際に、投げるような動きになり、大久保とサクラの身体が離れる。

 立ち上がった。

 サクラはけろりとしていた。

 サングラスがなくなったことにより、眼窩が剥き出しになったサクラの顔が、重心を低く構える大久保を見下ろしていた。

 

「スバラシイ……」

 

 ほれぼれとした物言いだった。

 大久保はにやりと笑った。

 

 

2.

 

 

 バケモンが──!!

 

 というのが、大久保の率直な感想であった。

 打撃も、極めも、急所を攻めた。  

 結構な数を当てて、手応えもあった。

 攻防の有利──流れは自身が掌握している。

 だと言うのに、『押されている』という感覚が拭えない。

 圧されていた。

 初手から、打絞極投の複合攻撃を余儀なくされた。

 それ以外に優位性を作りだせる方法がなかった。

 おそらく、打撃か組み技かの一本でいっていたら、もう沈められている予感があった。

 なんと恐ろしい相手か。

 

 素直に認められる。

 この圧力は、加納アギトに匹敵する。

 

「エエやんけ……」

 

 冷や汗が滴る。

 総毛立っている。

 適度な緊張と弛緩が肉体に行き渡っている。

  

 試せる──

 この男が相手なら、()()()

 遠慮なく。

 この男なら、おそらく、よっぽど変な姿勢で、ピンポイントで刺さらない限り、全力で蹴っても死なないだろう。

 だから、試せる。

 大久保は微笑した。

 

 気持ちが前傾を促している。

 すり足で、再び、大久保は距離を詰め始めた。

 す、と細く、息を吸い込んだ。

 

 

3.

 

 

 打。

 打であった。

 大久保の動き、攻撃は、打撃に集中した。

 それは、サクラに取っては予測できていたことだ。 

 重心が前に出ていた。

 アップライトに構えた手が、適度に握られていた。

 脚の幅が短い。

 これではタックルには入れない。

 打撃──

 サクラは待ち構えた。

 

 それが、失敗だった。

 

 大久保の打撃は疾かった。 

 拳が走っているとは、まさにこのこと。

 くるとわかっている拳を、掴めない──

 サクラには経験がないことだった。

 なぜ、掴めないのか?

 なぜ、受けれないのか?

 答えは『継ぎ目の無さ』である。

 

 大久保の打撃は、継ぎ目がなかった。

 拳での攻撃というのは、ある程度パターンが決まっている。

 そのパターンとは、単に角度やタイミングの話ではない。

 最も有名なパンチによるパターンは、ボクシングの『ワン・ツー』が挙げられるだろう。

 左ジャブを打ち、右ストレートを打つ。

 この単純な動作が、世界チャンピオンクラスになると、そのまま必殺のコンビネーションになるのだが、それにしたってコンビネーション──つまり、誰であろうと、例えばマホメド・アライであろうとも、ワン・ツーの攻撃のパターンは『ワン(左)・ツー(右)』でひとまとめなのである。

 つまり、ワン・ツーを一度やってしまうと、次のワン・ツーを打つためには、継ぎ目ができてしまう。

 それは物理的な継ぎ目というよりは、心の隙間と言ったほうがいい。

 リズム感──そう言い換えてもいいかもしれない。

 とにかく、人間が連続して同じ動作を続けることは不可能に近い。

 

 だが、その継ぎ目が、今の大久保にはないのである。

 サクラが、視力以外を動員する相手の解剖よりも速く、大久保の拳が走っている。

 だから、当たる。

 来る場所はわかっている。 

 顔だ。

 特に、顎を狙っている。

 だが、防げない。

 距離を取ろうにも、全く同じ瞬間に、大久保が前に出てくる。

 頭で考えていない──

 見て、考えて、間に合うことではない。

 人間の反射神経から成り立つ運動能力を超えている。

 つまり──

 

 ミスターナオヤ。

 アナタは今、反射だけで動いているのですね。

 

 打撃にさらされながら、脳を揺らされながら、サクラの結論は芯を得ていた。

 

 恐るべき技だ。

 いや、能力と呼ぶべきかもしれない。

 スバラシイ──心からそう思う。

 

 だが、これは、サクラが望んでいたものではなかった。

 

 打たれながら、サクラが拳を打った。

 それは空を切った。

 大久保がバックステップで躱したからだ。

 サクラのパンチはフックのように、大きく横から回り込むものだった。

 だから、それを避けるためには大きく踏み込むか、大きく跳び下がるかしかない。

 どうやっても大きく動くことになる。  

 それを、サクラは続けた。

 もちろん、かなりの数、打たれた。

 

 だが、迷わず拳を振り回した。

 大久保はその度に、躱していった。

 

 そして────

 

「ガハッ!!!?」

 

 大久保が咳き込んだ。

 肺が、酸素を求めて大きく口を開かせた。

 全身から、どっと汗が吹き出した。

 大久保が見上げた。

 顔を殴られて凹凸のできたサクラが前にいる。

 

 そして、大久保の背後には、コーナーがあった。

 

 

4.

 

 

 無酸素運動による反射攻撃。

 それにはふたつ、重大な欠点がある。

 ひとつは、肉体にかかる負荷が大きいと言うこと。

 

 世界タイトルを十三度防衛した、とあるボクシング世界チャンピオンの言葉がある。

 

 ──攻める時は、息を止めるんだ。

 ──息を止めて、無我夢中で打つ。

 ──そこでKOするつもりで攻める。

 ──だって、KOできなかったら、負けるんだもん。

 ──もし、こっちが息を止められなくなるまで相手が立っていたら、こっちはもう、動けなくなっちゃうから。

 

 人間が、意識的に引き出せる全力を出し切れば、疲労するのは当然の話だ。 

 そして、戦いの場においては、その疲労は致命的にもほどがある。

 

 もうひとつの欠点が、反射運動状態になった側が、周囲の環境を見ることができなくなることである。

 

 思考を捨ててまで肉体運動を最適化するために、肉体が行うことはシンプルな攻撃に限られる。

 つまり、動きが読みやすい。

 攻撃にせよ、避けるにせよ、単純かつ最短距離を動くことを優先するために、猛攻に耐えられるタフさを備えてさえいれば、反射運動を使う側の動きを操作することなど造作もないのだ。

 

 受ける覚悟で耐える相手を崩すためには、受ける覚悟を固めさせる前に打ち込めばいい。

 しかし、ただ打つだけではそれは叶わない。

 ましてや相撲やレスラーのように、打たれること、投げられることに耐え忍ぶことが本職の人間であれば、如何に拳が速かろうが、キレていようが、己の肉体を行使して捌き切ることはできるのだ。

 意があれば、まっすぐ受けられる。

 意がなければ、受けられるカタチに誘導する。

 

 最速最強の拳──それで受けの達人とされる、あらゆる格闘士を真っ向から打ち砕けるのは、範馬勇次郎を除いて存在しないだろう。

 

 だから、大久保はたやすく誘導された。

 コーナーポストを、致命的に疲弊した状態で背負ってしまった。

 

 大久保は軽く混乱していた。

 息がまとまらない──

 何より、サクラの表情が、如何ともしがたい。

 浮かべているのは、悲しみなのか……?

 

「それではダメです」

 

 サクラは、『黄金の八秒』の欠点を、つらつらと述べた。

 それを、体力を回復させながら、大久保は黙って聞いていた。

 納得のいく話だった。

 

 サクラは、ふ、と息を吐いた。

 

「ミスターナオヤ。アナタはスバラシイファイターです」

 

 しかし、と続ける。

 

「ワタシが求めているのは、粘り強く、お互いをじっとり味わえる相手なのですよ。アナタにはその才能も実力もあるのに……これでは……モッタイナイことです。これでは、ワタシが得るものがない……」

「せやかてなあ……俺からしたら、サクラはんは理想のスパーリング・パートナーなんや」

 

 風のミノルは打、絞、極、投の全てが高次元にまとまったコンプリート・ファイターである。

 そして、サクラもまた、そうなのである。

 それどころか、サクラは老齢でありながらパワー、スピード、タフさは大久保より上であり、『仮想風のミノル』どころか、『仮想加納アギト』にすらなり得るポテンシャルがある。

 

 しかし、スパーリングとは練習試合である。

 あくまで、目的はその先にある。

 自身の糧とするための鍛錬であり、目的と合致しない以上はやる意味がない。

 この試合だって、お互い殺す気では拳をふるっていないのだ。

 それは、手を合わせているふたりともに、理解(わか)っていることである。

 

「うーん、どないしましょか?」

「ワタシとしては、スパー前半までのアナタと続けたいところなのですが……」

「せやかて、それやったら今度は俺が、今までと変わらんのやでェ。俺としては欠点もわかったことやし、『黄金の八秒』を詰めていきたいところなんやが……」

 

 リングの上で、お互いに頭をひねる。

 もうすっかり、戦いの雰囲気ではなくなっていた。

 気まずい雰囲気が足を広げていく。

 そこに、救いを投じたのは、全くの第三者であった。

 

「じゃあよ。お互い落とし所を定めて、交互にヤり合えばいいさ」

 

 野太い声が響いた。

 ふたりが、そちらを見た。

 

 そこに、太い男が立っていた。

 

 禿頭の、背の高い男であった。

 恰幅の良い男で、白のワイシャツに黒の長ズボンというラフな格好である。

 顎のラインが適度に弛んでいるのは、歳のせいだろうか。 

 歳は、五〇代にも差し掛かろうという貫禄と、習熟した空気を纏っている。

 

「マダラウシのおっちゃんかい!?」

 

 大久保が驚きの声を上げた。

 男は、名を伊達(だて)潮男(うしお)と言った。

 通称が『斑牛(まだらうし)の伊達』である。

 元FAWの雇われプロレスラーであり、レスラー引退後は北辰館に雇われて、四〇代になってから総合格闘技に転身したその道の重鎮である。

 過去、アルティメット・ファイトにも参戦し、大久保に挑んだこともあった。

 もちろん大久保は圧勝したのだが、当の大久保は伊達の『いいオヤジ』っぷりは嫌いになれず、比較的良好な関係を築いていた。

 

「なんで伊達はんがここに……!?」

「熱海さんに頼まれたんだよ。『大久保が泣き虫サクラとスパーリングするから、立ち会ってほしい』ってよ」

 

 伊達潮男は、伝説のレスラーである。

 格闘士としては老齢に差し掛かる今であっても、並のレスラーとは体力もパワーも一段違うものを持っている。

 全盛期は、『真剣勝負(ガチンコ)でやったら最強のレスラーは誰か?』というプロレスオタクの夢の与太話には、グレート巽やアントニオ猪狩より先に、名が上がるほどの男だった。

 熱海の心配の解決──つまり、ヒートアップした大久保とサクラがトコトンやり合う前に、ふたりの間に入り込めつつ、ふたりを諌められる程度の体力のある立会人として、伊達が選ばれたということだ。

 

 大久保は苦笑を浮かべて頭を掻いた。

 伊達は、サクラを見やった。

 

「あんたが巽にベソかかせたっていう、『泣き虫(クライ・ベイビー)』サクラかい? 会いたかったぜ」

「ワタシも会いたかったですよ、ミスターダテ。なんなら、どうです? アナタもリングに上がりませんか?」

「遠慮しとくぜ。おれはおまえさんたち化け物どもと違って、老いりゃあそのまま衰えるんだ」

「ちょうまてや伊達はん! その化け物って、おれも入っとるワケやないやろな!?」

「あたりめェだろうが」

「そりゃよかったワ」

「入ってるに決まってんだろうが」

「いやそっちかい!!!」

 

 とにかくよ、と伊達は言う。

 

「お互い、身のためになる程度の実力はあるんだ。ケガさせそうになったら止めてやるからよ。やりてェようにやりあいな」

 

 こうして、サクラは大久保、伊達と、あとひとりと共に、最大トーナメントまでの蜜月を過ごしたのであった。

 

 

 なお、大久保vsミノルの試合は大変盛り上がったらしい。

 

 

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