【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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一回戦第八試合:加藤清澄vs純・ゲバル
第一話:獅子搏兎


 

1.

 

 

 帯を締めることで心が引き締まる。

 誰かがそう言っていた気がするが、なんとなくわかる。

 加藤清澄は心身を整えようとしていた。

 適度に柔軟をやって、適度に汗をかいて、深呼吸をたっぷりと行って、浅い呼吸に変化(かえ)ていき、心の振り子を真ん中に落ち着けていく。

 しかし、ザラつきが落ちない。

 

 泣き虫(クライベイビー)サクラが医務室に運ばれて、獅子尾龍刃は「少し、サクラをみてくる」と場を後にした。

 試合と試合の間──この、ほんのわずかな時間が、加藤の脳裏にあらぬ妄想を掻き立てる。

 自分は、本当に、あそこで闘争(たた)かうのか──

 自分は、本当に、あんな連中と闘争(たた)かうことができるのか──

 そんなことばかりが過ぎる。

 率直に言って、この後に及んで、加藤は不安であった。

 

 しかし、と反語を奏でる。

 あの場に立つ資格は十分だと、そうも思っている。

 あの、愚地克巳に勝ったのだから。

 身体も、自分の短い人生の中で、これ以上はないほどばっちり仕上がっている。

 獅子尾龍刃、ジャック・ハンマー、繰神怜一に鍛えられた心身。

 三ヶ月間、全く知らない世界を現役で浴び続けた心身が、今日、自分をここに立たせている。

 それでも、そんな自負心はちっぽけだと笑うように、ここまでの七試合は、まるで夢物語のようであった。

 

 おれが、本当に、あんな連中に勝てるのか──?

 

「暗ェ顔してんなァ」

 

 壁に向かって脚を上げ、蹴り足の柔軟を行っていた加藤の背後から、陽気な声がした。

 カビが生えそうだぜ、とそれは皮肉めいて言葉を続けた。

 どきりとする声で、言葉であった。

 振り返った。

 そこに──末堂厚が立っていた。

 試合でもないのに、空手衣を着ている。

 顔に、加藤の心境など他人事だと切り捨ててるような、やはり、にやりと皮肉めいた笑みを浮かべていた。

 

「末堂……」

 

 加藤が名を呼ぶ。

 末堂はくっ、と声を漏らした。

 惜しかったなあ、とわざとらしく呟く。

 

「今なら、背後(うしろ)から襲っちまえば──カンタンに倒せそうだったぜ」

「テメェ……」

 

 言葉が続かない。

 怒りが湧いてこない。

 生意気な口をきかれているのに、それがさもありなんと思って、納得している自分がいる。

 あれだけイキがって、

 オッサンにイキまいて、

 末堂にだって喝を入れられておいて、

 今更怖がっているのか、おれは──

 なんてみっともない。

 

「加藤ォ……」

 

 末堂は加藤の肩を叩いた。

 デカい手であった。

 

「オイシイじゃねェか」

 

 続けた。

 

「この会場にいる誰もが、おめえが勝つとは思ってねンだぜ?」

「──ッ! このっ……」

 

 跳び掛かろうとするが、動けなかった。

 肩が抑えられている。

 肩に置かれている手に、過剰なほど力が籠っている。

 困惑する加藤を無視して、末堂は笑っていた。

 

「つまりよ、加藤。おめえがこの試合に勝っちまえばよ……盛り上がるぜ。観客も、ここにいる連中も、おめえを見直す。そしたらよ、おれは会うやつ全員に、鼻高々にこう言ってやる。『加藤とおれは、竹馬の友だ』ってな」

「………………ッッ!!」

「だからよォ……」

 

 肩を掴んでいる末堂の手が、熱持っていた。

 少し、震えていた。

 

「うさんくせえ大統領なんざチャチャっとぶちのめしてよォ! 勝って、帰ってこい! 加藤!!」

「────オウよ!!」

 

 加藤は震えていた。

 末堂の肩を、末堂の腕を回り込ませて掴んだ。

 凄まじい力であった。

 体格的に勝る末堂に負けないほどの。

 

「ありがたく()()()()やるぜ、末堂」

 

 加藤の眼に力が走っていた。

 火が灯っていた。

 その火が、末堂の眼に飛び込んで、心を焦がしていた。

 もう、迷いはなかった。

 末堂は手を離した。

 加藤は歩き出した。

 歓声に向かって。

 

 途中、振り返った。

 

「たっぷり、自慢させてやる」

 

 笑って、そう言った。

 いい背中を見せて、いった。

 

 

2.

 

 

 サクラの見舞いを終えた龍刃の前に、その男は現れた。

 スラリとした体躯。

 潮に当てられて、やや縮れた毛髪。

 よく灼けた肌に、張りのある筋肉がしなやかに包まれている。

 バンダナを巻いていた。

 黒のタンクトップに、グレーの長ズボン。

 足袋を穿いている。

 身長は、一八〇の後半か──

 アジア人系の顔立ちだが、彫りの深さがハーフ、あるいはクォーターであることを示していた。

 若い──!

 年齢(とし)は、二〇代も前半だろう。

 それにしては異様なほど貫禄があった。

 

 純・ゲバル──

 

 にこやかな笑みを携えるゲバルは、龍刃の行手を阻むように、真正面に立っていた。

 

「やあ、きみは確か──」

「純・ゲバルです。ミスター」 

 

 ゲバルは軽い会釈をした。

 間合いが遠い。

 その立ち位置は、龍刃の蹴りの間合いのギリギリ半歩外。

 攻撃を強く当てるには、深く踏み込まねばならない位置である。

 深く踏み込むために、予備動作が大きくなり、対応がしやすい距離である。

 半歩、龍刃がすり足で前に出ると、ゲバルはちょうどその歩幅の分、背後に下がった。

 わかっていてやっている。

 見事な見切りであった。

 ふふ、と龍刃は微笑した。

 

「え、と……それで、何のご用かな、ミスター・ゲバル」

「ン──いや、用ってほどじゃ、ないんだけど……」

 

 しいていうなら、とゲバル。

 

(かお)をみてみたかった──って、ところかな?」

「顔を? おれのかい?」

 

 ええ、とゲバルは言った。

 

「獅子尾龍刃──アナタの活躍は、我が国では定番の寝物語だ」

 

 ベトナム戦争で、武器もなく戦地を駆け抜けた男。

 アメリカと敵対し甚大な被害を与え、とうとう『世界最自由(アン・チェイン)』、ビスケット・オリバと戦い、互角に渡り合った男。

 すなわち、アメリカが誇る『武力』と真っ向から戦った男────

 

 アメリカと『国家』で敵対し、同じく無手で渡り合うゲバルにとって、それは共感できるエピソードであるし、尊敬するべきエピソードなのだろう。

 

「人気ですよ、アナタは。わたしの国で」

「え、いやァ……その……マイったなあ………」

 

 龍刃は口どもって、後ろ髪を掻いた。

 頬がかすかに朱色になっている。

 サインとか、いる? と聞かれて、思わずハハ、とゲバルは笑った。

 

「でも、アナタがあの時、アンチェインをぶちのめしてくれれば……もっと人気だったでしょうね」

「そりゃあ、ちょっと厳しいかなあ……オリバ、強いんだぜ?」

「知っている。()()()()()アナタに逢いたかったんだ」

 

 ぴり、と空気が張り詰めた。

 瞬時に、獅子尾龍刃は自らの裡からじっとりと熱を引き出した。

 力を、筋肉に染み込ませていく。

 前方に、自身の意識を広げていく。

 ゲバルの殺気──闘気が、ほんのかすかに漏れ出していた。

 それをぬりつぶすように、一部の隙もなく、世界を己の闘気で染め上げる。

 

 しかし、ゲバルはすぐに闘気をおさめた。

 闘気の拮抗さえ全くなかった。

 飄々と笑って、獅子尾龍刃に背を向けた。

 全く無防備な背中であった。

 両手を上に伸ばしている。

 攻撃の姿勢ではなかった。

 あくびをしていた。

 そのついでで、腕を伸ばしている。

 

 測られたか──

 

「気合いが入ったよ……アリガトウ獅子尾さん」

 

 あくびの最後に、けひ、と声が漏れていた。

 何の企みを孕ませているか──

 喜びとも、怒りとも違う音であった。

 

 そのままゲバルは立ち去った。

 背を向けっぱなしで、隙だらけのまま。

 ゲバルの姿が見えなくなって、ようやく、獅子尾龍刃は自分が思うように()()()()()()ことに気づいた。

 間を、抜かされていた。

 見事な緩急だ。

 へ、と息が漏れた。

 同時に、肉体の隅々に行き渡った力が身の裡にするっと引っ込んでいった。

 

「ウマいなあ……」

 

 感嘆の音色であった。

 若くして、一国の大統領になった。

 たった二万人の国で、アメリカと渡り合っている。

 その指をひとつ鳴らすだけで、自身の精鋭部隊がアメリカ全州をまたたくまに制圧してしまうというケレン味が、決してハッタリではないと実感させる分厚さを、ゲバルは備えている。

 

 そこから連想するのが、加藤清澄の姿であった。

 一回戦──というか、次の試合がふたりの試合だ。

 龍刃は頬をかいた。

 

「こりゃあ、一回戦突破もキビシイかもしれンなあ……」

 

 冷や汗を垂らし、龍刃は闘技場に向かった。

 

 

3.

 

 

 闘技場には、加藤清澄だけがいた。

 試合開始時間になっているのに、ゲバルが現れない。

 会場がざわついていた。

 加藤もまた、少々困惑していた。

 気配がない。

 闘技場にはもちろん、対面する通路の奥からも、何の気配もないのだ。

 逃亡(にげ)たのか?

 それもアリではある。

 純・ゲバルが、本部以蔵のように『死ぬぐらいなら負ける』という類の哲学を持っているなら、戦いの場から息を潜めて逃亡(にげ)だすというのも、今の加藤には理解(わか)る話ではある。

 しかし、何かがおかしい。

 そう思って仕方がない。

 何がおかしいのか、言葉にすることはできないのだが──何か引っかかる。

 加藤の心は緊張と弛緩を繰り返していた。

 

 と──

 通路から、何かがふわりと闘技場に投げられた。

 それは、ふわりと弧を描いて、闘技場の中央に縦に刺さった。

 風車であった。

 紙の風車を、割り箸か何かの棒に糊でつけているだけの簡単な作りのものである。

 

 武器の攻撃には見えなかった。

 戸惑いが伝播した。

 当然、加藤も戸惑った。

 

「なんだ──?」

 

 控室で、刃牙が言った。

 その隣で、宮沢熹一が

 

「へえ、ゲバルって男は風使いなんか」

 

 と呟いた。

 

 風が吹いた──

 地下闘技場で、自然風は発生しない。

 人の密度と動きによって生じる風はあれど、東京ドームをはるかに降る場にあるここに、自然風は流れてこない。

 空調設備が適度に働いているが、それも吹き荒ぶような風量ではなく、場を適度な温度で満たすように仕組まれている。

 だから、地下闘技場に風が流れ込むことはまずない。

 

 そのはずであった。

 

 が、風車が回っている。

 羽が、ひとりでに回り始めたのである。

 それは徐々に速度を増しいく。

 風車の速度が増すに従って、観客の眼に見えるほどの風量が、通路から加藤に向かって流れていく。

 

 風を起こした──!?

 

 風塵の中から、ゲバルはぬうっと出てきた。

 微笑みとも哀しみとも、憐れみとも言い切れぬ表情を携えていた。

 闘技場の中央まで歩くと、風車を拾った。

 優しい手つきであった。

 風車を眼前に持ち上げて、ゲバルは加藤と向き合った。

 ふっ、とゲバルが風車に息を吹きかけると、一瞬、速度を上げて風車が回り──そして、慣性を無視するように、ぴたりと止まった。

 ハハ、とゲバルが笑いかけた。

 加藤は、ゲバルの奇行に汗を滲ませた。

 

「地下とはいえ、存外──いい風が吹くものだ」

 

 風車を審判に預けて、ゲバルは加藤の前に立った。

 

 

4.

 

 

「強いな……」

 

 控室のモニターの前。

 獅子尾龍刃が呟いた。

 改めて、その立ち姿を見て、思わずこぼれ出た言葉であった。

 

 良い貌をしている。

 だが、あのくらいの貌は探せばいる。

 立ち姿がいい。

 あの立ち姿はレアだ。

 身体に一本軸が通っている。

 その軸が、大地に向かって真っ直ぐに伸びている、良い立ち姿をしていた。

 純・ゲバル。

 ()()()()()を前にしても、微塵も気が緩んでいない。

 ()()()に立ってなお、気負いがまるでない。

 ただ、この場に、このままで立つ。

 この瞬間に、ただ、全力で()()ある──

 あの年齢(とし)で、それが自然体になるまで心身共に練り込まれている。

 強い──!

 

「強い、っスね……」

 

 龍刃の言葉に呼応して、範馬刃牙も同じ言葉を吐いた。

 

「それはそうだろう」

 

 ふたりの言葉を溌剌と肯定したのは、ビスケット・オリバであった。

 振り返った刃牙は、オリバの肉体を見た途端に衝撃を受けた。

 

「────ッッ!!!?」

「オーガのせがれか……フフッ、勇次郎には全然似ていないな」

「オリバ、ゲバルって男を知って……るわな、そりゃあ……」

 

 にい、とオリバは笑った。

 当然だよ、と返した。

 

「わたしの元にもね、CIAだのFBIだのからしょっちゅう依頼が来ているのだよ。『ミスター・ゲバルを始末しろ』とね」

「やらない理由は?」

「強制されるとやる気が失せるだろう?」

「確かに」

「第一、ゲバルはわたしの自由を積極的に侵害しているワケでもない。小さな世界で、小さな幸せを噛み締めて生きようとしているだけ──に、わたしには見えている。ゲバルの幸福にとって、()()()()アメリカが邪魔で、()()()()アメリカが世界最強の国家だったというだけで……仮に、わたしがゲバルの立場でも同じことをしていただろう」

「ン──……相変わらず、むつかしいこと言うなァ、あんたは」

 

 太い男たちの、太い会話であった。

 敬意があった。

 それは、ゲバルに対する敬意である。

 強大な、アメリカという国家に対する自負と、それに立ち向かうゲバルに対する敬意。

 

「勇次郎が好きそうなヤツだなあ……」

「オッ、その視点は考えたことがなかったよ。言われてみればそうかもしれねェ」

「ってか、その勇次郎はどこいったんだろうね? 薫くんとサクラの戦いまでは観てたっぽいけど……」

「オーガのことだ。闘技場の気にアテられて、どこぞでつまみ食いでもしているのだろう」

「……いや、それマズくない?」

「普段だったらネ。ただリュージン、()()()()──だよ? マズいと思うかね? ()()()?」

「…………」

 

 うむうと、龍刃は唸った。

 側から見ていた刃牙には何が何だかわからない。

 なんの話をしているのか。

 範馬勇次郎が、どこぞで誰かを襲っているならば、自分こそが止め──られるかどうかは別として──なければならない。

 

「あ、刃牙くん。たぶん大丈夫だから。心配しなくてもいいよ」

「?」

「いざとなったら、おれが止めるしね」

「────ッ!」

 

 にこやかに、唐突に、爆弾発言であった。

 獅子尾龍刃は、とんでもないことを、刃牙が嫉妬するほど軽やかに言い切った。

 

「止めれるンですか──範馬勇次郎を、アナタが?」

「あ、いや……正確には止めれるように努力する、だな。うん、うん……ごめん……」

「あっ、いや……な、なんかスミマセン……」

「…………」

 

 ふたりが押し黙る。

 すると、オリバが声をあげて笑い出した。

 

「仲が良くてなによりだ」

「仲、いいかなあ、これ?」

「しかし、リュージンよ。あまり刃牙とイチャイチャしてたら弟子に嫉妬されるのではないかな?」

 

 オリバは拳を握り、親指でモニターを指した。

 弟子──とは、加藤のことだろう。

 オリバには、この三ヶ月加藤を鍛えていたことは話していないハズだが……流石、相変わらずの謎の情報収集能力の高さであった。

 

 モニターに視線を向ける。

 試合開始の合図が鳴っても、加藤とゲバルは動こうとしていなかった。

 

 

5.

 

 

 眼だ──

 覗き込まれている。

 中央で向かい合い、加藤は浅く腰を落として構えていた。 

 対するゲバルは、普通であった。

 普通に、二本足で、そのまま立っているだけ。

 だというのに、隙が無かった。

 見下ろす視線が、加藤の心を射抜いている。

 動けねえ。

 と加藤は思った。

 ゲバルの眼には、敵意がない。

 その眼が見ているものは、加藤の敵意や、闘気ではないと思えた。

 動きを、先んじて読もうと探る眼でもない。

 

 敵と見做されていない……?

 可能性があるとすれば、それだった。

 加藤の頭に、血が、かーっと昇った。

 舐めるなッッ!!

 拳に力を入れた。

 踏み込んだ。

 左のローキック。

 これが、今の状態で自然に出せる、一番強く、相手にとってイヤな攻撃だった。

 当たった。

 受けるそぶりすらない。

 下腿部にまともに入った。

 ぐら、とゲバルの軸が揺らいだ。

 ゲバル自身が驚いている。

 どうだ!

 おれだって、そこそこはやるだろう。

 加藤は続け様に、ローキックを放った。

 二度、三度と、それはまともに入った。

 ぐらぐらと、ゲバルの軸がブレていく。

 よしっ!

 効いているッッ!!

 おれの三ヶ月が効いているッッ!!

 そりゃあそうだ!

 このローは、愚地克巳だって揺らがしたんだ!

 効かないはずがないッ!!

 おどかしやがってこのヤロウッッ!!

 

 立て続けにローキックで攻めていく。

 その一切を、ゲバルは防御しなかった。

 そのままことん、と仰向けに倒れた。

 派手なダウンに、観客には見えただろう。

 会場がうねった。

 

 しかし、加藤の足は止まった。

 追撃をしなかった。

 倒れた顎や喉向かって、かかとのひとつ落としてしまえばそれでケリがつく場面である。

 だが、むしろ、加藤は半歩後退(さが)った。

 もう一歩分、後退(さが)る。

 

 控室で、愚地独歩が険しい顔をしていた。

 獅子尾龍刃が、ほっ、と息をついた。

 範馬刃牙がよしっ、と内心頷いた。

 オリバがほう……と感心したように呟いた。

 

「……オヤ、追撃の大チャンスだろうに?」

 

 倒れたまま、天井を向いたまま、ゲバルは言った。

 まるでなんともない声であった。

 

「勝ちを、棒にふるのかい?」

 

 顔を持ち上げた。

 肩も離した。

 まだ、腰は地面についている。

 加藤は攻めなかった。

 ゲバルの言葉を、心に留めない。

 それでも、言葉が通り抜けた跡から這い出たゾッとするものが、背中に纏わりついている。

 その、ひやっとするものに覚えがあった。

 獅子尾龍刃との訓練の中で、こういうシチュエーションが、何度もあった。

 倒れた龍刃に意気揚々と追撃をして、手足を絡め取られて、寝技に移られて、あっさり絞め落とされる──

 だから飛び込まなかった。

 イケイケのリズムが、すっと引いた。

 経験が、加藤を救ったのである。

 それを察したのか、ゲバルは嬉しそうに口角を持ち上げた。

 

「ナルホド、ただのケンカ好きのチンピラではないようだ……」

 

 ゲバルは立ち上がった。

 なんともなく。

 ズボンの土を払って、顔を持ち上げた。

 ダメージが見えない。

 

 あの眼が、また、加藤を見下ろしていた。

 

 

6.

 

 

 関係ねえ。

 関係ねえッッ!!

 相手がどうとか、関係ねえ。

 

 自分にそう言い聞かせる。

 攻撃して、まともに入って、ダメージがない。

 それは、想像以上の徒労感を、攻撃したものにもたらす。

 最初に、『おれの攻撃は効かないのではないか』──と思ってしまう。

 次第に、『何度攻撃しても、倒せないのではないか』──と思ってしまう。

 側から見ると、冷静になると、決っしてそんなことはなかったとしても、ヤりあっている当人にはそうは思えない。

 心に迷いが生まれる。 

 踏み込みが浅くなる。

 拳が、真っ直ぐに飛ばなくなる。

 そういう心理戦が、戦いの中では重要になってくる。

 そういう積み重ねが、土壇場で活きてくる。

 だから、痩せ我慢でも『効いていない』アピールというのは大事なのである。

 『弱気な顔を相手に見せるな』というのは、いかにも精神論じみているものの、近代格闘技においても鉄則中の鉄則なのである。

 

 ゲバルはそれをやっている。

 ──と、加藤は思いこむ。

 ひょっとすると、実際に効いてないかもしれないが、関係ない。

 自分の攻撃がまともに通らないことも、初めてではない。

 獅子尾龍刃は、その気になれば防御動作だけで、加藤をあっさりコーナーに追い詰めることができた。

 いくら殴って蹴っても、ジャック・ハンマーは構わず殴り返してきた。

 理解(わか)ってるさ──

 自分の拳が小さいことぐらい。

 それでも、勝つためにはパンチを出すしかない。

 玉砕の気持ちじゃない。

 負けるつもりでやるんじゃない。

 勝つためにヤる。

 勝つために、必要なこととして、手を出し続ける。

 だから、今この瞬間に、相手が効いているか効いていないかは考慮する必要がない。

 

「オッシャアアアッッ!!!」

 

 加藤は地を踏み締めた。

 雄叫びと共に、身体の底から力を引き出す。

 必勝の気持ちを眼にみなぎらせて、ゲバルを睨み上げた。

 

「……ひょっとして」

 

 ゲバルが言った。

 

「きみは、わたしが思うより……はるかに優秀な戦士(ウォーリア)なのかな……」

 

 加藤が挑みかかった。

 また、ローキックがゲバルの脚を叩いた。

 

 

7.

 

 

 めった打ちにされていた。

 ゲバルが。

 加藤の蹴りも、パンチも、すんなりとゲバルの身体にめり込んでいく。

 ゲバルが身を縮めた。

 身体を丸めて、防御姿勢を取った。

 

「すンげえ攻撃ィッ!!」

「いけェッッ加藤ォッッ!!」

「ワッショイ!! ワッショイ!!!」

 

 観客が、加藤の攻撃にノっている。

 それが、加藤の拳に一層力を与えていた。

 

 勝てる──ッッ!!

 その想いが、加藤の脳裏にちらつき始めた。

 この、とんでもねえ怪物を、おれが打ちのめしているッッ!!

 おれが勝つ──勝てるッッ!!

 効いてるッッ!!

 これは演技じゃねえッ!!

 効いてるッッおれの拳がッッ!!

 見てるか? オッサン!?

 見れるか!? ジャックッッ!?

 おれが勝つぜ!!

 見ろよ、こいつ、こんなに背を丸めてよ。

 両手で頭を庇ってよ。

 反撃なんてできなくてよ。

 審判、止めてもいいンだぜ?

 おれは、油断しねェ。

 倒れるまで打ってやる。

 倒れるまで──

 倒れ……ッッ

 

 そこで、ようやく、加藤は自分の滑稽さに気づいた。

 第三者が見た場合、自分が如何にバカなことをしているのかに気づいた。

 途端に、高揚感が恐怖に裏返った。

 反射的に跳び退いた。

 

 次の瞬間、加藤の頭があった場所を、風が通り抜けた。

 その風の余波が、加藤の頬を撫でた。

 ずきりと、遅れて痛みがあった。

 皮膚が切れていた。

 かまいたちに出会したように、綺麗に。

 かまいたちの正体は、ゲバルの拳であった。

 

 縮こまり、膝を落として、重心を大地に預けて、急所を完全に隠して、防御姿勢の極まった状態から放たれたゲバルの拳が、圧倒的な破壊力の残滓を空気に滲ませながら、加藤の目の前で打ち上げられていた。

 

 

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