1.
弓のような──
鉄砲のような──
大砲のような──
閃光のような──
雷鳴のような──
古今東西、パンチを讃嘆するにあたって、さまざまな形容詞が用いられきた。
拳──というものに、人はしばしばロマンを投影する。
時代も、人種も隔てなく、驚異的な破壊力を持つパンチに、人は夢中になった。
では、今しがた目の前を通り過ぎたゲバルのパンチは、なんと形容するべきなのか。
加藤は声を失っていた。
恐ろしいパンチだった──そうとしか言えなかった。
地面から、ほぼ垂直に振り上げられたそれは、加藤の胸を、髪を空気を焦がして天に昇り上がった。
掠ってすらいない。
文字通り、拳の余波で、加藤の胸の皮膚が火傷して、ヒリついていた。
なんなんだ、今のはッッ!?
パンチ──なのかッ!?
ゲバルは拳を振り抜いて、アッパーの硬直の状態にあった。しかし、加藤はそこに飛び込めなかった。
あんなもの……まともにもらっていたら、死ぬ。
拳は顎を砕き、衝撃は鼻を通り抜けて目からこぼれ出し、脳が破裂して、間違いなく死ぬ。
こんなパンチを、しかし、加藤は見たことがあった。
範馬勇次郎だ。
愚地独歩を殺した一撃だ。
鬼の一撃──
ただ疾く、ただ重く、ひたぶるに大迫力の
ゲバルのパンチは、そういう類のパンチであった。
観客は声を失っていた。
次第に、そのビッグ・パンチに対し、第三者の立場だからこそ吐き出せる興奮と感嘆を闘技場に吹き上げた。
格闘士たちにも、緊張と衝撃が走っていた。
比較的楽観の面持ちでモニターを観ていた刃牙や、愚地独歩の目つきが鋭く、真摯な色を帯びていく。
「ヤロウ……」
愚地独歩が言った。
ひとりごとのようであったが、刃牙が反応する。
「性格、ワルいっスね……」
「……だな」
賛意を示したのは、愚地克巳である。
三者の意と思は一致していた。
ゲバルの意図を察していた。
獅子尾龍刃が言葉にした。
「ワザとハズしたね、あれは」
恐怖を植え付けるため、ゲバルはワザとパンチを外した。
もちろん、加藤が咄嗟に跳び退いたからこそパンチは躱せたのだが、ゲバルとしてはあのパンチが当たって、それで終わらせてもいいし、できれば避けてほしいという気持ちがあった……という、どちらでも良かった──もっと言えば、どうでもよかった──的な意図を、パンチに含ませていた。
「ナメられてるぜ、加藤」
独歩が言った。
噛み潰すような声であった。
2.
加藤は思わず後ずさった。
ゲバルは、ほんの少し、肩を入れただけだ。
それにしては大袈裟に体を引いた。
両の拳が、顔の位置まで上がっている。
にこり、とゲバルが笑った。
「よかった……」
安堵の息だった。
朗らかに微笑していた。
やはり、その顔に、敵意や殺意は全くない。
「きみが、
今日は、死ぬ日ではない──
ゲバルは言った。
力強い声だった。
今日は、死ぬ日ではない。
ゲバルは顔をもたげた。
両拳を腰に当てて、顔を小さく振った。
間を、充分に保たせてから、言いづらそうに口を開いた。
「棄権するんだ」
加藤は震えていた。
腰が、肩が、心が上擦っている。
手が出ないと確信したのだろう。
その加藤の間合いに、全く躊躇なく、ゲバルは踏み入った。
加藤は
が、これ以上は
ゲバルのたった数歩で、加藤清澄は闘技場の柵を背負っていた。
たった数歩で追い詰められていた。
「────ッッ!!」
恐怖を顕にする加藤に反し、ゲバルは微笑していた。
加藤を包み込むような、優しい造りの顔であった。
だが、ゲバルの
眼が笑っていない。
加藤を見下す細んだ眼は、冷淡で、粛々とした鈍色の輝きを灯している。
これが、抱擁に見せかけた脅迫であることは、誰の目にも明らかであった。
「何も悪くない」
ゲバルは言った。
「強い相手から
言いながら、ゲバルは加藤に歩み寄る。
あくまで優しい歩みであった。
にこやかな表情は、そのままであった。
手を差し伸べた。
「この手を取るんだ。そして、『わたしの負けです』と宣言しなさい。そうすれば、全てが無事に終わる──」
その通りだろう。
ゲバルと、加藤。
格の差は馬鹿馬鹿しいほどにある。
まともに
誰もがそれを
加藤が立ち向かえば、たちまち、倒されるどころか
加藤が棄権を
加藤に選択肢はなかった。
加藤は、手を伸ばした。
震えていた。
ゲバルはその手を掴み、引き寄せた。
その逡巡──何が加藤の脳裏を駆け巡ったのか……
「バカだぜ、アンタ」
加藤の帰着は、強かな笑みであった。
「キャオラァッッ!!!」
引き寄せられた左腕。
引っ張られる身体をまるごとぶつけるように、加藤は右の肘を打った。
顔面に向かって不意に放たれたそれを、ゲバルはすんなりと──いとも容易く、左の掌で止めた。
わっ、と会場が沸いた。
しかし、当の本人たちは、特に驚く様子を見せなかった。
「バカだなァ、きみは……」
加藤の笑みは苦笑であった。
脂汗が額に浮かび、眉と眼が、口元が、どう言う形を作っていいのか困惑に歪んでいる。
ゲバルは加藤の肘を掴んでいた。
ぴくりともしなかった。
そのまま、ゲバルの右拳が、加藤の腹筋を貫いた。
3.
「ゲハァッッッ!!」
加藤は闘技場を転がった。
ゲバルに打たれた腹を抱えていた。
吐瀉物を撒き散らして、背を過剰に逸らして、霰もなく転がった。
痛くて痛くて仕方がなかった。
臓腑が捻くれている。
だが──耐えられる。
まだ、意識ははっきりしていた。
まだ、闘志は萎えていなかった。
まだ、戦える。
それは、加藤の無様を見下ろしているゲバルにこそ、
それは、試合を観ていた幾人かの目敏い格闘士たちにも、
彼らは加藤の経験値を読み切っているのではない。
加藤のタフさを読み誤っていたわけではない。
彼らが確信を持つに至る原因は、ゲバルのパンチにこそある。
パンチの質が違った。
今のボディ・ブローも、とてつもない一撃だった。
それは間違いない。
しかし、先に放っていたアッパーとは明らかにパンチの『質』が違う。
もちろん、十分に力を溜めて、全身で伸び切ったアッパーと、超至近距離から腰や肩を十分に回せないボディ・ブローでは威力に差異が出るのは当たり前のことだが、今のボディ・ブローにはアッパーほどの『迫力』がなかったのだ。
アッパーは、当たれば死ぬ──と誰にも思わせる迫力があった。
しかし、此度のボディ・ブローは『めちゃくちゃな威力のパンチ』以上のものではなかった。
加藤清澄は、この手のパンチは散々浴びている。
獅子尾龍刃との特訓の初日に、加藤が真っ先にやられたことは、龍刃の強烈なボディ・ブローによる一撃KO負けであるのだから。
加藤は立ち上がった。
口の端から唾液が垂れていた。
砂埃が、頬や顎にこびりついている。
それでも、ゲバルを睨め上げる眼は、闘志に満ちていた。
「立ってしまったね……」
ぽつりと、ゲバルが言った。
笑みが消えている。
流し見る眼に、若干の哀しみを携えていた。
すっ、とゲバルは前に出た。
加藤は唇を噛み締めた。
覚悟を決めていた。
勝つ覚悟を、である。
4.
いいんだ、これで──
加藤は気力を振り絞った。
すると、心のどこかから、そんな言葉が湧き出てくる。
いいんだ、これで──
それは、諦観の言葉ではない。
あるがままを受け入れる、覚悟の言葉であった。
恵まれなかった。
自分は。
身長に、体重に、筋力に、骨格に、感性に、反射神経に──
おおよそ
末堂が羨ましかった──
末堂は恵まれていた。
日本人離れした身長。
日本人離れした体重。
それを十全に動かせる身体能力。
身体を大きくできるのも、言うまでもなく才能だ。
大きくした身体を自由に動かせるのも、もちろん才能なのだ。
末堂は恵まれた者だった。
だから、負けたくなかった。
末堂だけには負けたくなかった。
同期の中で、早々と頭角を表した末堂に負けたくなくて、自分にできることを探した。
体力では勝てない。
パワーでは勝てない。
なら、おれにできることは──?
末堂厚にできなくて、加藤清澄にできること。
それは、相手の眼に、指を突っ込むことだった。
パワーで勝てないから、小細工に走った。
小細工が、うまくいってしまった。
自信がついた。
それが、できたから。
ヤクザと喧嘩しまくって、勝ちまくった。
残虐ファイトをやりまくって、実戦で勝ちまくって、愚地独歩のカラテを、加藤清澄なりに実践し続けていたと思っていた。
おれは、自分の
『これが実戦のカラテだ』と調子のいいことを言って、その実、末堂とまともにぶつかることを避けていただけだ。
その末堂が、カラテの大会で負けた──
範馬刃牙に。
真っ当な戦いで。
おれより小さい範馬刃牙に。
おれよりガキの範馬刃牙に。
カラテのルールで、末堂は負けちまった。
おれのちっぽけなプライドは、あの時点で砕けかけていた。
そして、範馬勇次郎と愚地独歩との戦いで──完全に砕け散った。
もう、何もない。
加藤清澄の強さを証明するものは、何もない。
ここは、加藤清澄が小細工に走った言い訳が、もう通用しない世界だった。
愚地独歩にさえ、おまえじゃ無理だと言われた。
言い返せなかった。
悔しかった。
獅子尾龍刃──
あいつだけが、おれを、強くしてくれた。
無理だと、
それでも、三ヶ月だけとはいえ、オッサンとジャックと、繰神だけが、真っ当におれを鍛えてくれた。
ああ──
そうか、おれは、今、何を考えていたのかわかった。
今、戦いのど真ん中で、何を想っているのかわかった。
初めて──いや、これは二度目だ。
人生で、二度目に想っていることだ。
ありがとう──
ありがとうって、思っているンだ。
ここに、立たせてくれて、ありがとうって……
オッサン。
まずは、基礎だったよな。
ローキックだ。
どうせ、フットワークなんて死んでる。
だから、できることをやるぜ。
左のロー。
当たった。
硬いな、コイツの足。
鉄棒みてェだ。
まるで、大地に差し込まれた、鉄棒だな。
びくともしねェ。
でも、ローを打つ。
硬てェ。
でも、打つ。
打つ。
打つ。
打つ。
打…………
ちょっと、待て。
なンか、おかしいぞ。
こいつ、なンでブロックをしねェンだ?
ゲバル──いくらおれのローキックが効かないからって、全くブロックしねェのは、おかしくないか?
逆か──?
ひょっとして、逆なのかッ!?
ブロックしないことが、ゲバルにとってはブロックできてるってことか──ッッ!?
5.
「大地だ」
と、獅子尾龍刃が言った。
範馬刃牙が龍刃の顔を見上げた。
刃牙の隣にいるキー坊が、腕を組みながら頷いた。
「オッチャンの言う通りや。あのゲバルってヤツは、大地と自分をくっつけとる」
「だ、大地と自分をくっつける──?」
「刃牙くん。柔道の世界だと、相手を投げる、相手に投げられないためには『重心を落として大地を噛め』とか言ったりすンのよ」
自身の重心を、大地と一体化させる。
地の底の底にまで、自分の身体を沈み込ませたなら、誰に投げられようか。
極論──というか、理想論に過ぎないが、大地と一体化した肉体を投げると言うことは、地球を投げるに等しいことなのだから。
「おそらく、ゲバルの下地の武術は古武術だな、これは」
「せや。さっきのとんでもないアッパーも、言ってしまえば発勁の一種やな。めちゃくちゃな脚力はもちろんやが、大地をとんでもなく正確に踏んで、その力を真っ直ぐにぶち上げとるからこそあの威力なんや」
たぶん、撃ち方を覚えたら幻突も撃てるで、あいつ。
とキー坊が続けた。
そこに、すっ、と男が割り込んだ。
「クク、なかなか良い眼の奴らがいるな……」
伽羅であった。
したり顔に怪しく微笑しつつ、意外にもフランクな雰囲気を纏って、しかし、視線は龍刃たちに合わせず、若干独り言のようであった。
「三合拳だよ。気と地と拳を点と線で結んで、力を獲得している概念だ。あの男は
「三合拳?」
「中国拳法だよ、知らんのか獅子尾龍刃。
「へえ……あんた、伽羅くん……だっけ、物知りだなァありがとう」
「…………」
じとり、と伽羅があきれた視線を龍刃に投げた。
龍刃は頭を掻きながら、ニコニコと笑っていた。
「獅子尾さん。つまり……あの爆発的なパンチは、アッパー以外には適応されないってことですか?」
「アッパーというか、縦方向のパンチ以外には適応できないハズだよ。大地を面と捉えているからこそ、あの威力が出せてるンだろうし」
「まっ、そんなことせずとも超威力のパンチを打てるワシって、やっぱりスゴイわけよ」
「……絡む相手を間違えたか?」
てんやわんやとする刃牙たちであったが、裏を返せばまだ、誰も、加藤が負けるとの確信は持っていないということでもあった。
6.
刃牙たちの気づきに、加藤も達しようとしていた。
ゲバルの異常な攻防力は、
もし、あのアッパーと同威力のパンチをどこからでも出せるなら、ボディ・ブローで終わっていた。
いや、それ以前の話として、適当なジャブからストレートを打つだけで、当たるかはともかく、加藤は手が出せなくなる。
それを、ゲバルはしない。
なぜか?
できないからだ。
事実、加藤はもう、何度かゲバルのパンチや蹴りをもらっていた。
どれもこれもとてつもない破壊力ではあったが、それは加藤の肉体に刻まれた獅子尾龍刃や、ジャック・ハンマーのそれと比べると、突出しているワケではなかった。
あれは、縦にしか打てないのか。
「──などと、考えているのかな?」
加藤の思考に割り込むように、ゲバルは言った。
びくりと、加藤の心が跳ね上がる。
見透かされていた──ッッ!?
ゲバルが微笑を造った。
してやったり、と無邪気さが滲んでいる。
「正解だとも。ミスター加藤」
あっけらかんと言い放った。
裏のない口調──が、却って怪しい。
「つまり、逆立ちしても、勝てないことはわかっただろう?」
やはり、ゲバルの結論は変わらなかった。
棄権しろ、と言ってくる。
加藤はその度に震えが走った。
ゲバルの圧力は言葉のたびに、徐々に、徐々にではあるが──増していたからだ。
しかし、加藤は笑っていた。
これでいい──と、その度に、心のどこかから、謎の、暖かい気持ちが溢れていた。
モニターの前で、愚地独歩が笑っていた。
「加藤……よかったなァ、オイ」
独歩のひとりごとに、愚地克巳は信じられぬと目を見開いた。
愚地独歩が太い指で、鼻の頭を掻いた。
「武の本懐──そのど真ん中に、今、オマエはいるんだゼ……うらやましいなァ、加藤……」
武の本懐。
克巳にはピンとこない言葉であった。
いや、理屈の上では理解はできる。
だが、相反する気持ちが、どうしてもあった。
父も愛読している『五輪書』。
史上最強の侍、宮本武蔵の著書には、こう記してある。
『必勝の武とは、勝てる相手とだけ戦うことである』
──と。
勝てる相手と戦うこと。
逆に言えば、勝てぬ相手とは戦わぬことである。
相手を選ぶ。
五輪書に従うならば、戦力差を見定める『眼を磨く』ことを、宮本武蔵は武力を極めるよりも大事としていたのだ。
ならば、加藤清澄の現状は、武の本懐に反している。
神心会館長としては、ここは、叱るべきところのハズだ。
しかし、空手家の愚地独歩としては──
「うらやましいぜ、加藤よォ……」
この言葉が、全てなのだろう。
愚地克巳は今また、父の知らぬ恐怖の一面を眺めていた。