【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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インターバル②
インターバル②


 

【松尾象山&姫川勉】

 

 

 

 姫川勉は声を失っていた。

 たた、静かに佇んでいる。

 目の前で、医務室のベッドの上に、あの松尾象山が寝ているからだった。

 信じられぬ光景であった。

 あの松尾象山が、コルセットを身につけ、太い瞼を閉じて、寝息も静かに横になっているのである。

 いつもの太い気配はそこになく、ただ人のように寝転がる松尾象山である。

 想像もしたことがない景色であった。

 だが、心のどこかで、松尾象山の有様に納得している自分がいる。

 松尾象山が負けた。

 あの、松尾象山がだ。

 獅子尾龍刃の投げ技を喰らって、鎖骨と肋骨をへし折られて、負けた。 

 

「…………」

 

 ひとは、闘い続けていれば、いつかは負ける──

 そんなことは常識である。

 どんな古典英雄譚においても、完全無敵の存在などひと握りもいないだろう。

 『上には上がいる』の言葉が古くから知られるように、いち個人がどんな強者であっても、武功に優れ、どんな栄華を誇ったとしても、いつかは誰かに、あるいは()()()敗れさり、苦諦に塗れる時が訪れるのだ。

 それは世の理である。

 盛者必衰であり、諸行無常の理だ。

 人間では抗い難い、自然の──もっと言えば、宇宙の摂理と呼んでいいかもしれない、大きな流れのひとつだ。

 悔しいことに、人間が人間として生きていく中で、常に寄り添わねばならない【法】であり……あるいは、生きていく上で依存していかねばならないものだ。

 誰に負けなくても、ひとは、老いてしまう。

 ひとは、生まれた瞬間から、ただひとつの例外もなく、死に向かって歩いていく。

 その過程で、人生で少しづつ得たものが、ある一点を通り過ぎた途端に、少しずつ失われていく。

 老いて、枯れていくのである。

 そうして、少しづつ身体から肉と水が抜け落ちて、最期は何も持てず、金も名誉もほころび堕ちて、ひとりで死ぬのだ。

 その不可避の流れの中に、敗北というものが、やはり、路傍に転がる石ころのように霧散している。

 武術とはとりわけ、人生の歩みの中で、その石ころに躓かないように歩く術である──と、姫川は思っている。

 完璧な武術者とは、敗北を味わわず生き抜き、そして死ぬもののことだと姫川は思っているのだ。

 

 松尾象山が、そうだと思っていた。

 完璧だった自身の人生に、避けられぬ壁──山のように腰を下ろし、その道を妨げた唯一の男が松尾象山だからである。

 故に、この男を倒さねば、姫川勉の人生は進まないと思っていた。

 この山を崩さねば、道は見えぬままだと──

 

 その松尾象山が、自分以外の男に負けた。

 その事実をどう受け止めていいのか……姫川は心が落ち着かないのであった。

 

「よぉ、姫川ァ……」

 

 姫川の意識に、不意に、太い声が入ってきた。

 松尾象山の声だった。

 少し、震えていた。

 松尾象山が目覚めていた。

 まるまるとした眼が、姫川を見上げていた。

 

「館長……」

「姫川よぅ、失望したかい?」

「────ッ」

 

 相変わらず、真っ直ぐに、松尾象山の言葉は姫川の心を射抜いてきた。

 平静を取り繕う姫川の心中に、土足で踏み上がる行為──しかも、太く、剛直に、それでいて的確に、迷いを貫いてくる。

 実に、松尾象山である。

 姫川はふ、と細く息を吐いた。

 変わらない。

 松尾象山は変わらないのか。

 敗北を、なんとも思っていないのか。

 ──そんなはずはない。

 だが、その変化のなさには、姫川自身心当たりがあった。

 

「館長」

 

 聞いた。

 

「ワザと負けたでしょう?」

 

 ぐりっと、松尾象山の眼が見開かれた。

 それからううんと唸った。

 

「イヤなこというねい、姫川よう」

 

 照れているような声色であった。

 姫川の心が、ほっ、と安堵に落ち着いた。

 

「獅子尾龍刃のドレス──でしたか、あのワザは。館長は、あれを喰らってみたかったんでしょう?」

 

 ドレスとは、孤高の柔道家の範馬勇一郎から、獅子尾龍刃が受け継いた絶技である。

 勇一郎の生前、松尾象山が勇一郎を好いていたことを姫川は知る。

 範馬勇一郎と心からヤりたがっていたことも、象山の性格を良く知る姫川には察しがついている。

 自分が松尾象山の立場なら、まずそう想うだろうから。

 自分が、松尾象山とヤりあって勝ちたいように──松尾象山は範馬勇一郎とヤりあって、勝ちたかったに違いない。

 しかし、範馬勇一郎対松尾象山は、姫川の知る限りとうとう実現しなかった。

 それが、松尾象山には心残りだったのだ。

 

 松尾象山は、ドレスは受けてはいけないワザであることを知っていた。

 それでも、受けてみたかったのだ。

 かつての世界最強の男の、世界最強の男にしかできなかった絶技を。

 この機会を逃せば、もう二度と味わえないかもしれない秘技を。 

 受けてはいけないワザだと理解(ワカ)っていて、だ。

 獅子尾龍刃に腕を取られたとき、松尾象山にはいくらでも反撃が可能だった。

 獅子尾龍刃の腕に、肘を落としても良かった。

 拳を掴んでいる獅子尾龍刃の腕を逆関節に捻り上げて、肩を壊しても良かった。

 十分に振りかぶって、頭突きだってできたはずだ。

 正面に向かって神速の膝を飛ばしてもよかったのだ。

 だが、そのどれをも、松尾象山はやらなかった。

 松尾象山の好奇の心が、危険だと理解(ワカ)っていながら、ヤバいのだと思いながらも、むざむざドレスをやらせてしまった──

 

 ならば、悪いのは間違いなく松尾象山である。 

 こんな『たられば』は、勝敗の決した今となってはなんの意味もない。

 命を賭す武術の実戦では、結果に対する『たられば』など入り込む余地は皆無なのだからさもありなん──……、

 

 ────あ。

 

 と、姫川は気づき、細い声を上げた。

 

「だから、受けてみたかったんですね」

 

 嬉々とした姫川に対し、松尾象山は、いやらしく笑っていた。

 少し、困ったように眉を八の字に曲げていたのだが、それが松尾象山らしからぬ、妖美な表情を作っている。

 

 地下闘技場は、命のやり取りにはならない。

 目つき、金的ありという、格闘技としては前代未聞のルールの地下闘技場においても、意図して相手を殺害せしめたならば、普通は当然失格となる。

 如何に実戦に近かろうが、地下闘技場は所詮『試し合い』の場だ。

 つまり、松尾象山はその甘みにつけ込んだ。

 

 路上の──実戦の場において、獅子尾龍刃からドレスを食らったならば、獅子尾龍刃は確実に殺す風に仕掛けるだろう。 

 例え殺意はなくとも、再起不能程度にするのは造作もないワザだ。

 つまり、食らってしまえば次はない。

 しかし、地下闘技場であるならば、獅子尾龍刃は殺さない。

 再起不能はあり得るにしろ、だ。

 

 獅子尾龍刃はルールを破らない。

 そんなやつではない。

 ルールを破ってまで勝利を求める漢ではない。

 卑怯は良しとしても、卑劣を良しとする漢ではない──という獅子尾龍刃に対する確信が、松尾象山の中にあったのだ。

 松尾象山なりの、松尾象山らしい信頼があったのだ。

 

 姫川とて、象山の口からも、さまざまな文献からも、獅子尾龍刃という漢については折に触れる機会があった。

 だからこそ腑に落ちる。

 ふ、とまた息を吐いた。

 落ち着いた──いつもの姫川らしい吐息であった。

 

「でも、それで本当に負けたんじゃ、格好つかないですよ、館長」

「わかってるよ、ンなこたァよう」

 

 松尾象山は嬉々として言った。

 本来なら呼吸すら辛いだろうに、全くそんなそぶりを見せない。

 松尾象山は笑っていた。

 口角を広げて、太い唇が上下に別れていく。

 形作るものは、いつもの、松尾象山の、太い笑みであった。

 

「姫川よう、これはタイヘンなことだぜぇ……」

 

 松尾象山は、拳を作って眼前に掲げた。

 その拳に向かって、その先を見据えて、語り出した。

 

「負ける余地があったってことはよ、この松尾象山が、もっと強くなれるってことだからな。リュウちゃんとの試合だって、ドレスの前にも『アレができたなァ……』『コレもやれたなァ……』って、色々反省点ってヤツが浮かんでしょうがねェンだ。範馬勇次郎だってよ、この松尾象山が、全力でヤりあって不足はない野郎だったしな」

 

 新しいオモチャを与えられた子供のように、松尾象山は眼を輝かせていた。

 今度は、その新しいオモチャを壊れるまで遊び倒す決意を秘めていた。

 くすり、と姫川勉は微笑する。

 同時に、軽く、嫉妬していた。

 

 まだ、自分は松尾象山に追いつけていないというのに、松尾象山はさらに先に行こうとしている。

 やる、と言い出したら、松尾象山は本当にやる漢だ。

 つまり、強くなると言い出したら、本当に、今の何倍も強くなってしまうだろう。

 その太く、大きな背中が、あっという間に、見えなくなるほど遠ざかるのは容易に想像できる。

 

「まあ」

 

 と、姫川は言った。

 

「三段論法になりますが──とりあえず、この大会で優勝して、松尾象山越えをさせていただきますね」

 

 姫川は、美麗な笑みを浮かべて言った。

 

 

 

【花山薫&範馬刃牙】

 

 

 

「花山さん」

 

 と刃牙が声をかけて、花山は振り返った。

 折れた右腕はギプスをつけて吊るしてあった。

 とても、花山らしくない装いである。

 

「一回戦突破、オメデトウ」

 

 屈託なく、刃牙は言った。

 花山はしばし沈黙する。

 花山のそばに控える木崎が、くっ、と肝を冷やしていた。

 

「つえぇな……」

 

 ぼそり、と花山はつぶやいた。

 え? と刃牙がこぼすと、花山は刃牙の正面に立った。

 外観の荘厳さに相反する、乙女のように澄んだ眼が刃牙を見下ろしている。

 

「この大会……喧嘩師と武術家の闘争……意地の張り合いだ……って、そんなことを考えてたンだがよ……どうやらそうじゃねェらしい」

 

 泣き虫(クライ・ベイビー)サクラ。

 とんでもない漢だった。

 あれは、どちらが勝ってもおかしくない闘争(たたか)いだった。

 勝てたのは──喧嘩師の意地があったからではない。

 そんな表面的な意地の張り合いで勝てる相手ではなかった。

 なんせ、意識を飛ばされていたのだから。

 普通なら、そこで終わっていた。 

 肉体は戦闘不能に追い込まれてしまっていた。

 生まれ持った『強』だけでは、花山薫は泣き虫サクラに勝てなかったのだ。

 勝てたのは、旅の博徒のおかげであった。

 意識を失っても立ち、立って、反撃できたのは、花山薫が花山家に(はぐく)まれたからこそであった。

 サクラが、際の際で、勝負に対して純粋(きれ)いではなかったのも大きく影響している。

 サクラは、あの土壇場で、別の何かに意識を取られていた。

 だから、立ち上がる花山に気付けず、反撃を防げなかった。

 サクラの心が最後まで勝負に純粋(きれ)いであったなら、話は変わっていたかもしれない。

 

「花山さん」

 

 刃牙が、苦い顔をしていた。

 花山が顔を上げて、少々驚きを滲ませた眼で、刃牙を見た。

 

「そりゃあ、花山さんの気持ちがアマいよ」

 

 刃牙は苦笑いであった。  

 続けた。

 

 今日、今夜、ここに集まっている武術家はさ、どんな人生を歩んできたかは別にして──たったひとつだけ共通していることがあるんだぜ。

 そう、全員が全員、超一流の超一流ってことさ。

 街の喧嘩自慢とはワケが違う。

 全員が、相手に負けたくなくて──相手をやっつけたいから、武術をやり続けてきた大バカヤロウどもだぜ?

 花山さんみたいに、生まれついて強かったやつばっかりじゃねえ。

 全員が全員、()()()()()()()()()やっつけたくて、負けたくなくて──そのために、あらゆる小細工を使い倒すスペシャリストさ。

 

「…………」

「花山さん、()()()()の武術家を、ナメちゃいけねえさ」

「……だな」

 

 花山は俯いて言った。

 自嘲気味な音であった。

 刃牙はに、と笑って見せた。

 

「花山さん、また、今度は上で会いましょう」

 

 そうして振り返り、その場を跡にした。

 

 

 

【愚地独歩&宮沢尊鷹】

 

 

 

 口笛を吹いていた。

 気を紛らわすように。

 高揚する気を鎮めるがために、ワザとらしく、高音に奏でている。

 愚地独歩であった。

 上機嫌に柔軟運動を行っている。

 その身体から、異様な熱と臭いを発していた。

 愚地独歩は、自分の試合はまだ後も後だというのに、いてもたってもいられなくなっていた。

 

 最大トーナメント。

 ジッちゃんにしてやられた思いだった。

 一回戦第一試合から、やってくれるゼ。

 範馬刃牙──

 伽羅──

 マホメド・アライJr.──

 葛城無門──

 羽柴彦六──

 獅子尾龍刃──

 花山薫──

 そして、加藤清澄──

 勝ち上がったメンツの名前だけで、よだれが止まらなくなるラインナップだ。

 

 ヤりてェ……!!

 そういう気持ちが、ひと試合ごとに大きくなっていく。

 ヤりてェ……!!

 不肖の弟子、加藤清澄が武術家としてひと皮剥けたのを見て、どうしようもなく迸る熱を、鎮める必要に駆られている。

 

 生きてきてよかった、とコレほど思ったことはない。

 範馬勇次郎に敗れて、殺されても、まだこの道の上にあれて良かったと思っている。

 真の幸福とは、確実に訪れる幸福を待つ時間にこそ存在するのだとする論があるが──今、愚地独歩はそこに納得がいく状態だった。

 

 範馬勇次郎に殺されて、最大トーナメントの誘いを受けた時は、これを現役最後にしようとさえ考えていた。

 鏡の前に、ふんどし一丁で立った時、心の中が妙な静けさに満たされていた。

 肉体のピークだと思っていた。 

 精神もピークだと思っていた。

 諦観の念だったのだろう。

 優勝できたら、チャンピオンベルトの代わりに、神心会のことは克己や加藤に託すのもアリとさえ思っていた。

 そんなものが、範馬刃牙対宮沢熹一を見た瞬間──つまり、とっくのとうにぶっ飛んでしまっていた。

 

 ヤりてェ……!!!

 気づけば、拳に力が入っていた。

 勝ちてェ……ッッ!!

 ただ、それだけを想う。

 自らの獣臭を嗅ぎ取れるほどに、愚地独歩は激っていた。

 

 そこに、ひと筋の風が通る。

 和やかな風であった。

 一見すると、そのたゆたいっぷりは、撫でた者の心を落ち着かせる凪っぷりであった。

 しかし、愚地独歩の歴戦のカンは、その風の中に一抹混ぜられた殺気に気づく。 

 隙を伺う獣の視線──

 独歩は開脚の姿勢から、ひと息で跳び上がった。

 着地と同時に、しかし──仕掛けない。

 ゆらりと上体を脱力させ、天地上下に構えた状態から、警戒網を三六〇度に張り巡らせた。

 適度な脱力と緊張を保つ。

 これで、どこから打ち込まれても、即座にカウンターを打てる。

 

 その警戒網のギリギリに、それは踏みとどまった。  

 ふと、独歩の背後に、殺気がゆらめいた。

 左足を軸に、身体をぐるりと反転させる。

 まだ、手は出さない。

 これは、空手道としての矜持である。

 独歩は、拳よりも視線を、視線よりも意識を先に飛ばし、探らせた。

 そして、そこに誰もいないと気づいた。

 ──残気!!

 

 すぐさま重心を戻す。

 右脚をすり足に動かして軸足に引きつける。

 そうして向いた正面に、誰もいなかった。

 

「────チイッッ!!」

 

 二重残気だと────ッッ!!

 そこに澱む気の塊が、独歩の意識の発露とともに消えていく。

 やられたッッ!!

 振り向きざまの、左の上段回し蹴り。

 空を切った。

 躱された。

 見切られたッッ!!

 

 蹴りの軌跡の目と鼻の先に、男が立っていた。

 

 壮年の男であった。

 背は、独歩より少し高い。

 忍び装束にも似た服を着て、足袋を穿いている。

 髪は総髪に纏め、黒髪の中にちらほらと白髪が目立つ。

 荘厳な面向きに反し、イヤに澄んだ眼が敵意なく独歩を見つめている。

 顔に刻まれた無数のシワが、男の、一筋縄では無かっただろう深い人生を現している。

 

 覚えがあった。

 宮沢尊鷹──

 独歩の、一回戦の相手である。

 

「愚地独歩さんですね……」

 

 矍鑠とした声であった。

 不相応に若く、ハリがある。

 よく通る音を奏でていた。

 慌てず、オウよ、と独歩は答えた。

 構えは解けど、心身に備えた臨戦態勢を崩さない。

 宮沢尊鷹の身体は脱力していた。 

 肩が、やや前に出ている。

 重力に逆らう気力が感じられない気の抜けた立ち姿であった。

 到底、ここから力んで強いパンチや蹴りが出せるとは思えない。

 だからこそ、独歩は警戒する。

 脱力が効き過ぎている──

 だから、却って怪しい。

 宮沢尊鷹は灘神影流の使い手。 

 つまり、刃牙と互角以上に渡り合った、あの宮沢熹一と同門だ。

 宮沢熹一は武の極地にある『瞬間の脱力』と『瞬時の緊張』を自在に使いこなせていた。

 独歩は、刃牙とキー坊の戦いを脳裏に反芻すると、警戒レベルをそっ、と一段階あげた。

 

 尊鷹は無構えのまま、口を開いた。

 頭を下げながら──

 

「ありがとう、愚地さん」

「お、オイオイ……なにしてンだい、アンタ?」

「勇一郎さんの仇を取ってくれて──」

「────!!」

 

 尊鷹の言動で、愚地独歩の中であることが想起された。

 点が、線で繋がった。

 範馬勇一郎に関する、ある噂である。

 

「アンタか」

 

 言った。

 

「勇一郎さんが、ブラジルで戦った日本人ってェのは」

 

 それは、範馬勇一郎がブラジルにいるときに起こった戦いであった。

 

 まだ、範馬勇一郎が力剛山と組み、プロレスリングを立ち上げるより前の話である。

 範馬勇一郎は柔道で生計を建てるために、ブラジルの地に赴いてプロレスじみた興行を行っていた。

 そこで、現地の柔術家であるエルオ・グライシーと戦い、これに勝っている。

 ここまでは公然の歴史であるが、範馬勇一郎を追っかけていた、当時の()()()()()()()たちには、興味深い噂があった。

 

 範馬勇一郎はブラジルで日本人の青年と闘争(たたか)い、これにかろうじて勝利したのだ──と。

 

 愚地独歩もまた、範馬勇一郎の熱狂的なファンであった。

 だからこそ、『昭和の巌流島』において範馬勇一郎に失望し、その仇討ちとして地下闘技場で力剛山に『制裁』を加えている。

 その『制裁』によって、力剛山の所業は世間に暴かれたのだが……日本武道の価値を地に落とした範馬勇一郎の暴挙は、当時の日本武道者たちにとり到底容赦(ゆる)されることはなく──範馬勇一郎は『昭和の巌流島』を境に、歴史の表からも裏からも消えてしまったのだった。

 

 その日本人が、宮沢尊鷹なのだ。

 宮沢尊鷹が範馬勇一郎と闘争(たたか)い、彼のファンになっているのだ……と言うのは言い過ぎではないだろう。

 あの太い笑みが、妙に人懐っこい範馬勇一郎の顔が、ありありと独歩には浮かんでいる。

 

「あなたがやらなければ、私が仇を討つつもりでした」

 

 やはり、そうだった。

 宮沢尊鷹──

 元から、愚地独歩には知らぬ名ではなかった。

 尤も、独歩が知っていたのは別の異名──『バトル・キング』であるが。

 アメリカにとんでもなく強ェ男がいる。

 そういうハナシは聞いていた。

 アメリカの『影の大統領』が主催するハイパー・バトルにおいて、無敵の男だと。

 

「大したことじゃねェさ」

 

 独歩は構えを解いた。

 にこりと、太い口角を持ち上げていた。

 おどけるように肩を揺らす。

 

「力剛のヤロウは、おれがやらなくても、誰かがヤっちまってたよ。たまたま……たまたま、おれが()()()()だったのさ」

「…………」

 

 尊鷹は目を閉じた。

 何かを想っている、切なさを飲み込んでいる顔であった。

 独歩はへ、と息を吐いた。

 微笑していた。

 

「それより、そのハナシを聞いちまってよ、おれはますます気持ちが盛り上がってきちまったよ。範馬勇一郎が『強かった』と認めた男とヤりあえるンだからなァ……」

 

 拳を目の前に持ち上げた。

 微かに震えている。

 武者震い──には到底思えない。

 歓喜のあまり、震えているのだ。

 

「……手加減はしませんよ」

「手加減させねェでくれよ?」

「…………あなたは、面白いひとですね」

 

 尊鷹は頭を下げ、振り返った。

 その背が遠ざかって、ようやく、独歩は最後の緊張を解いた。

 

 握り拳の中に、じっとり汗が滲んでいた。

 

 尊鷹の立ち姿は、見えなくなる最後の最後まで、一切の隙が無かった。

 

「おっ?」

 

 ぶるりと身体が震えた。

 

「オッ、オッ? おおッッ!?」

 

 自らを抱くように、独歩は腕で肩を掴んだ。

 身体が芯から震えている。

 恐怖で。

 怖がっていたのか、このおれが。

 宮沢尊鷹に──?

 

 独歩の眼が見開かれた。

 黒点が小さく引き絞られていく。

 その口は、白い歯を見せて、口角を大きく広げ、太い笑みを作っていた。

 

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