今年もよろしくお願いします
第一話:ちっとも
1.
小さい男だった。
子供の頃から、小さな男だった。
その男は、成人した今も、平均身長には届かない上背である。
堤城平──
小さな、粒のような眼をしていた。
どこを向いていても、眼前だけをまっすぐ射抜く眼であった。
黒目の大きな、力強い、純朴な眼であった。
取り立てて美丈夫でもなければ、特別不細工というわけでもない顔立ちであるのだが、堤城平を前にすると、その小さな黒点に引き絞られるように視線が動いてしまう。
誰を前にしても、態度も、言動も変わらない──
不思議な空気を纏った男であった。
それ故か、幼い頃、いじめられていた。
堤城平は、幼い頃からやると決めたら、全力でそれに取り組む男であった。
一〇〇メートルを走れと言われたら、五〇メートルの地点で全力を使い果たし、倒れてしまう。
ペース配分を考えないのである。
後先を考えず、今だけに全力を出すことができる男であった。
全力で──
倒れるまで──という言葉が、全く比喩にならない全力全開ぶりである。
いつもそうだった。
愚直を通り越し、愚鈍にさえ感じられた堤の不器用さと愚直さは、その外観の朴訥さも相まって、小学校の同級生にとって不気味でおかしくあったのだろう。
だから、いじめられていた。
そのことは、堤城平にとっては大した問題ではなかった。
いじめが過激化するに当たって一悶着ありはしたが、堤城平の人生をいっぺんさせるほどの出来事とは言い難かった。
堤城平の人生を変えた、決定的な出来事とは、やはり松尾象山と出会ったことだろう。
年齢を偽ってバーでバイトをしていた時、元締めのヤクザに絡まれたところを松尾象山に助けられた。
そこで、空手というものを知り、松尾象山という男に猛烈に惹かれ、導かれるがまま空手をやり始めた。
我慢強くタフな堤に、空手はあっていた。
気づけば、北辰館において、堤城平は姫川勉と並び、別格と評されるほどの位置に立っていた。
そして、ある日のこと、堤城平は丹波文七と
舞台は、FAWのグレート巽が用意した。
プロレスの
そこで、堤城平は丹波文七と激闘を繰り広げ、これに敗れた。
その後、しばらくの間を空けて、堤城平はグレート巽とも
この時も、負けた。
それどころか、この時は生死の狭間を漂った。
死の世界を前に、それでも戦うのをやめなかった堤を、丹波文七がこの世に呼び戻したのである。
直近に、都合二度の敗北を味わいながらも、しかし、堤城平は最大トーナメントに招聘を受けた。
理由があった。
堤城平を徳川光成に推薦したのが、なんとそのグレート巽であったのだ。
元々は、徳川光成はグレート巽に声をかけていた。
地上最強──プロレスラーでありながら、その名声こそを断固として譲らないグレート巽ならば、二つ返事で参加を了承するものだと光成たちは思っていた。
だが、グレート巽は堂々と参加を断った。
その時、自身の代わりにとグレート巽が推薦したのが、実績のあるFAWのレスラーの梶原年男や長田弘ではなく、なぜか北辰館の堤城平であったのだ。
松尾象山を経由してその話を聞いた時、堤城平の返事は至ってシンプルであった。
「館長がいいと言うのなら──」
そう聞いて、太い笑みを浮かべた松尾象山は、当然のように、
「
と答えて、堤城平の最大トーナメント参戦が決まったのである。
2.
丹波文七は歩いていた。
身体が疼いていた。
試合の熱にアテられていた。
これまでのどの試合も、素敵で、観ているだけで胸が熱くなるものだった。
特に、松尾象山が敗れたことが、丹波文七に多大な衝撃を与えていた。
松尾象山──
丹波文七が知る限り、地上最強と言える男だった。
少なくとも、その称号にイチバン近い男だと思っていた。
しかし、その象山が、負けた。
担架で運ばれる松尾象山を見て、文七の中で走り抜けるものがあった。
あいつだ。
おれのなかに住む、獣のことだ。
やつが、おれの身体の中で爪を立てている。
人間の狂暴性を煮詰めたような──
人間の暴力性を詰め込んだような──
時たま、おれ自身を救ってくれる、おれに、この生き方以外を捨てさせた獣が。
はやく、自分の番がこないものか──
はやく、おれもヤりてェんだ──
背筋が凍りそうになる恐怖をも押し潰して、その獣が、そう言って爪を研ぎ、肚の中で唸りをあげているのだ。
恐怖や感動よりも、大きな衝動が突き上げている。
クリスマス・プレゼントを待ちきれぬ子供のように、丹波文七は疼いていた。
その疼きを少しでも誤魔化そうと、無心を心がけながら、水でも飲んで落ち着くべきだと、自販機に向かって通路を歩いていた。
通路の分かれ道に差し掛かって、その先に、見覚えのある男が立っていた。
堤城平であった。
空手着を着ている。
適度に汗をかいているのかわかる。
堤を囲むように、ふたりの大男がいた。
どちらも大柄で、ただならぬ太い肉を有している、熊のような大男だった。
ふたりの大男は、堤の前に立ち塞がるように囲んでいた。
堤を見下ろす目線が、無用の怒気を孕んでいるのが、文七の目にも見えた。
ふたりとも出場選手ではない。
今、地下闘技場には、出場選手以外にもその関係者や近親者のアスリートや武術家が、多く出入りしている。
このふたりも選手関係者か──
肉付き、立ち姿、臭いからして、ベテランのプロレスラーのようである。
出場選手でもないベテランのプロレスラーが、ふたりがかりで堤城平に因縁をつけている構図であった。
ふ、と文七は笑った。
意図はともかく、誰の仕込みかは見え見えであった。
す、と静かに、文七はそこに向けて足を踏み出した。
「ヨォ、面白いことをしているじゃないか」
文七が言うと、二人の男の視線が、文七に持ち上がった。
堤城平は文七に背を向けたままである。
つまり、レスラーたちから視線を外さない。
意識だけが、微かに、こちらに向いていた。
流石だった。
「なんだあ、てめえは?」
「あっ、おい! こ、こいつ──丹波文七だぜ!?」
「なにっ!? あ、あの丹波文七だってェ? ……こ、こんなガキが……?」
見るに狼狽出した。
大仰すぎて、やや演技くさかった。
クス、と文七は息を漏らす。
やはり、FAWのプロレスラーか。
つまり、グレート巽の仕込みか──
「感謝してくれよ。おれが止めなきゃ、今頃ふたり揃って病院送りだぜ?」
ぬるりと、文七は堤の隣に立ち、ふたりのレスラーを見上げた。
レスラーたちの顔は青ざめていた。
その胸に、やはりFAWのワッペンが(ワザとらしく)縫ってあった。
「覚えてやがれッッ!!」
そう吐き捨てて、レスラーたちはすごすごと歩き去っていった。
「茶番だな」
文七は吐き捨てた。
あれじゃあ、ゼニは取れない。
年齢的に前座か中堅、あるいは練習生のレスラーであろうが、あんな大根役者では客を満足させるような、まともなプロレスはできないだろう。
そんな出来損ないふたりを、なぜ、今ここで、堤城平に絡ませたのか──
グレート巽のことだ。
何か、悪どい考えがあるに違いない。
「丹波──」
「礼はいらないぜ、堤」
考えを打ち切って、文七は堤と向き合った。
その瞬間、木綿のような、柔らかな量感のある熱が、ふあっと文七の目の前に立ち昇った。
デカくなっている──
落ち着いた闘気はそのままに、放出される熱量が増している。
堤城平、またデカくなっている。
グレート巽とヤりあった時よりも、半回りは身体に厚みが出ている。
特に、首が太い。
強くなっている。
おれとヤった時より、はるかに──
グレート巽とやり合ったときよりも、この堤城平は仕上がっている。
ごく、と文七は唾を飲み込んだ。
出そうと思っていた言葉も、腹の中に落ちて行った。
本当は、松尾象山の敗北について、聞いてみたかった。
だが、いざ相対してみると、堤城平の熱量は丹波文七の意識を飲み込んでいた。
ふ、と微笑する。
そうだった。
堤城平とは、こういう男だった。
勝ち負けに拘泥しない男だった。
自身のそれにすら、執着しない男だった。
松尾象山の敗北は、ショックではあるだろう。
しかし、堤城平に言わせれば、それもまた試合の結果に過ぎない。
つまり──松尾象山が
「堤──」
だから、文七は質問を変えることにした。
「お互い、勝ち上がったら、またヤれるぜ」
丹波文七の試合は、この次であった。
つまり、ここで堤城平が勝ち、次の試合で丹波文七が勝てば、二回戦でふたりはぶつかることになる。
文七は、それを望んでいた。
この大会に至るまでに、自身の中に、言いようのない、発露の仕様のない
それを、吐き出せる相手を求めていた。
それは、ここにいた。
堤城平だ。
堤城平と
あれは幸福だった。
楽しかった。
また、あれを味わいたい──
丹波文七は、堤城平を求めていた。
堤は、黙っていた。
ただ、言葉にせずとも、その肉体から熱がほとばしって止まない。
歩き出した。
小さな背中が、少しづつ遠ざかる。
止まった。
「丹波」
言った。
「おれもだ──」
おれも、おまえとヤりたい。
丹波文七の顔に、正面から、がん、とぶつかるものがあった。
愛であった。
堤城平は、一〇〇万の言葉より雄弁に、丹波文七に愛をささやいた。
なんだ。
安堵に、文七は胸を撫で下ろす。
おれたちは両想いだ。
たまらず、丹波文七は笑っていた。
遠ざかる堤に気づかれぬように、小刻みに震えていた。
上唇が捲り上がり、獰猛な笑みを作っていた。
3.
堤城平とロロン・ドネアが入場した。
それを、獅子尾龍刃は控室のモニターで確認した。
「加藤くん。堤くんのことは、知ってるね?」
加藤は頷いた。
堤城平────
空手道北辰館における、別格の存在だ。
北辰館主催の空手大会で、何度も好成績を収めている。
しかし、ただの一度も優勝したことはない。
それでも、加藤の眼から見ても、堤城平こそが北辰館で、松尾象山と姫川勉に継ぐナンバースリーであることに、議論の余地はあまりない。
堤城平の試合のスタンスは、最初っから全力で挑むことだ。
加藤が見聞したいくつかの試合、いずれも堤城平は第一試合のいの一番に全力で向かっていく。
そして、勝つ。
それを、何度か繰り返し──準決勝か、決勝に達するころには、ボロボロになっている。
だから、いつも、準決勝か決勝で負けてしまう。
北辰館のトーナメントは、大きいものだと参加選手は一三〇人で開催期間は数日を跨ぐ。
つまり、試合数が必然多くなり、試合数が増えれば増えるだけ、堤城平は優勝から遠のいてしまうのだ。
優勝候補と言われた相手でも、一回戦で堤と当たったなら、容易に敗退してしまう。
逆に、そこそこの空手家であっても、決勝で堤城平と当たったなら、らくらくと勝ってしまえるのだ。
身長が三〇センチ、体重が四〇キロ違う相手であっても、堤城平は真正面からぶつかって、勝ってしまうのだ。
バカなやつだと思うが、すごいやつだとも思える。
それが、その堤城平が、たった三十二人のトーナメントに出場しているのが
相手はもちろん、誰であれ世界最強クラスには違いないが、堤城平が全力のまま駆け抜けうる今大会……加藤の興味は大きかった。
「しかし、相手もただものじゃないね……」
ロロン・ドネア。
"マニラの怪物"と評される男であった。
見目は、さほど迫力があるわけではない。
身長は一八〇センチメートル。
体重も、九〇キロには及ばないだろう。
普通人としては十分大柄だが、格闘士としては小さい部類である。
服装は、無地の白のタンクトップに、運動用にしつらえただろう黒のパンツという出立ちで、いまいち締まりがないようにみえる。
が──その貌には、尋常ではない迫力があった。
「んん〜……どっかで見たことあるンだよなあ……」
「ロロンってやつは、『煉獄』って裏の興行団体でトップらしいゼ。その辺のことで聞いたことがあるンじゃねェか?」
「おれ、興行系はあんま知らないんだよね」
「プロレスラーやってたのにか?」
「……いや、まあ、だからこそ……ゼニの絡む格闘ごとにいい思い出がないっていうか……」
「あ、ああ〜ッ!」
獅子尾龍刃のよそよそしいというか、少し嫌悪の滲んだ態度も当たり前だ。
龍刃の師である範馬勇一郎は、格闘興行たる『昭和の巌流島』で、全てを失ってしまっている。
当時の範馬勇一郎に師事を受けた龍刃もまた、相応に苦労しているのは当然の話だろう。
「わ」
「わ?」
「ワルかったよ……オッサンよォ……」
加藤が顔を背けて、言った。
龍刃はニヤニヤと太い笑みを浮かべて、
「はいはい」
と言った。
バツが悪そうな加藤のためにも、龍刃は話題を変える。
「んで、ロロン・ドネアは煉獄ってトコで強かったんだって?」
「強いっつーか、無敗らしいゼ」
「レベルが低いとか?」
「いや、煉獄っていやァ、日本の裏格闘じゃ二番か三番手ぐれーのハズだ。レベルは低くねえンじゃねーかな」
「ふうん」
さして興味もなさ気に、龍刃は頷いた。
「オッサンよォ、いいトシしてスネてんじゃねーよキモちわりー」
「ンなこと言われてもなあ……おれは今嫌な気分だもんよ」
めんどくせぇオヤジだぜ……
と、加藤は内心ため息を吐いた。
「フィリピンだよ」
龍刃たちの背から、飄々とした声が飛んだ。
振り返ると、そこにいたのはオリバであった。
加藤は、オリバの肉感に気圧されて、つ、と身体のバランスを崩しかけた。
龍刃はけろりとした態度で、
「フィリピン?」
と返した。
オリバはああ、と頷いた。
「おいおい忘れたのかね? 勇次郎を追っかけたついでで、フィリピン内戦で
「
「おや、そうだったかね?」
「ってことは、ロロンは戦場経験者か……」
「バリバリのね。わたしもオドロいたものだよ。彼が殺しナシの興行団体などで、満足できている事実にね……」
口元に笑みを携えたまま、オリバの眼が細まった。
むう、と龍刃がロロンを見る。
闘技場では審判の注意が述べられて、ロロンと堤城平はふたりとも開始位置まで下がっているところであった。
4.
試合が始まった。
開始と同時に、堤城平が踏み込んだ。
ロロンに向かって、走って行った。
格闘のための走り方ではなかった。
手を大きく振り、足踏みを細かく刻むそれは、人が五〇メートルを全力で走る時のそれである。
ロロンは慌てない。
柵を背にしたまま、腕をす、と持ち上げて、腰を落とした。
ロロンの手前で堤が踏み込んだ。
初手は、左のローキックだった。
これを、ロロンは足を持ち上げて、ごく普通にブロッキングした。
ばちん! と音が響いた。
空気が破裂する音だった。
そこから、堤城平のラッシュが始まった。
拳を、足を、とにかく出しまくる。
ロロンは動けなかった。
鋭い視線をそのままに、堤城平のラッシュにまんまと釘付けにされてしまった。
会場が波打った。
丹波文七はにやりと笑った。
堤城平のパターンに入った。
実感した当人だからこそ
堤は休まない。
止まらない。
ましてや、地下闘技場はダウンしても審判が止めない。
自分でなんとかしない限り、堤城平の攻撃を遮るものはいないのだ。
ロロン・ドネアは守勢に回っていた。
胸の前で両手を素早く動かし、堤の攻撃を捌いていた。
そして、試合開始から三〇秒が経ち──
闘技場のほぼ全ての人間が、異常事態に気付いたのであった。
5.
「バカな……」
と呟いたのが、丹波文七であった。
冷や汗を流して呆然と見つめているのが、加藤清澄である。
目を見開いて、驚きを隠せないのが獅子尾龍刃だった。
姫川勉ですらが、眉をかすかに持ち上げて、その異様に眼を奪われていた。
ロロン・ドネアは、闘技場の中央付近に位置取っていた。
守勢のまま、ロロンは前進していたのである。
堤城平は、今の今まで、一切攻勢のままであった。
全く手を抜かず、攻撃を続けていた。
ロロンは、たったの一発も手を出していない。
逆に言えば、ロロンの防御は完璧であった。
堤の攻撃は、たったの一発もクリーンヒットしていなかった。
全て、ロロンの眼前で捌かれていた。
拳は叩き落とされ、蹴りは、微かな体捌きで躱され、足腰はほとんど動いてすらいないように見える、ロロンはしかし、堤の間隙を塗って一歩ずつ足を出し、正面から捌き切って前進しているのだ。
観客は盛り上がっている。
たが、格闘士たちの反応は冷淡なものであった。
「こんなの、ちっともいい試合じゃない──」
刃牙が言った。
それに、宮沢熹一も同意した。
「あの堤っちゅうのには悪いが、こりゃレベルが違うわ」
ロロン・ドネアがやっていることを、この会場にいる何人が理解できているだろうか?
「先読みだ」
本部以蔵が言った。
額に、汗の粒が滲んでいた。
「あのヤロウ、先読みの応用で攻撃を誘導してやがる」
ロロンがやっているのは、攻撃の誘導であった。
視線と、体捌きを組み合わせて、ワザと自身に死角を作り、そこに堤の攻撃を誘導しているのである。
堤の攻撃は真っ直ぐである。
拳にせよ蹴りにせよ、最速で、最短距離を、最も効果的な道筋に沿って飛んでくる。
だから、あえて隙を作れば、一〇〇パーセントそこに向かって、最速最強の力で攻撃が来るのである。
来るのがわかっていれば、いかに力のこもった攻撃であれ、対応できる。
タイミングや呼吸が掴めてしまったのなら、どんな攻撃であっても技術さえあれば捌くのは容易だ。
机上の理論に則れば、であるが。
そう──机上の理論だ。
たった一発のパンチやキックに対しては、それができるものはそれなりにいるかもしれない。
しかし、相手はあの堤城平なのだ。
堤城平の、休みない乱打の中で、敢えて隙を作る真似ができるものなのかッッ!?
攻防を組み立てる上で、ここまで緻密に──精密な動きができるものなのかッッ!?
「とんでもねえヤロウだな」
龍刃が言った。
あの近距離で、攻撃の全てを捌けるということは、『先読み』以前に攻撃が全て見えているからに他ならない。
身体の正面で、腕を使って全てをはたき落としているということは、それだけの作業をこなしながら、充分な余力があるということだ。
「だから言っただろう?」
オリバが言った。
オリバは、ひとりだけこうなることを予見していたとばかりに胸を張っていた。
6.
まるで、虚空を叩いているようであった。
手応えのない壁を。
吸い込まれるように拳を打ってしまう。
吸い込まれると分かっていても、拳を打つしかない。
堤城平は止まらなかった。
止まれなかった。
止まるわけにはいかなかった。
自分が、何をされているのか、もう分かっている。
分かっていても──止めるわけにはいかなかった。
これしかない。
不器用な自分ができることは、これしかない。
最速、最強、最適な拳を打つ──
その瞬間に、全力を振り絞る。
それしかない。
だから──その全てを軽く受け止めるような相手であっても、そうするしかない。
踏み込んだ。
しかし、踏み込めなかった。
バランスが崩れた。
堤の踏み込む場に先んじて、ロロンの足が出ていた。
スネと、スネがぶつかった。
ロロンのそれに、堤のそれがぶつかる形である。
だから、踏み込みきれなかった。
バランスが崩れて、そのバランスを保とうと、刹那、堤の身体が泳ぐ。
その瞬間、堤の鼻っ柱を、鋭いものが叩いた。
ロロンの拳であった。
縦の拳──シラットの、真っ直ぐに伸びて、瞬発力のある打撃である。
ぶ、と鼻血が出た。
ひるまない。
すぐさま、堤は体勢を立て直して拳を出した。
右フック──
それが、ロロンの左の外受けによって、簡単に跳ね除けられた。
力が入り切る前に押し除けられた。
見事なタイミングであった。
ガラ空きになった胸に向かって、また、ロロンの拳が走った。
ほとんど当てるだけに等しい拳であった。
倒すための拳ではない。
距離を測っているのか?
タイミングを測っているのか?
──どちらでもいい。
考えを、堤は振り切った。
手を出すのだ。
拳を。
今のパンチが捌かれているのは。まだ、パンチが最速最強最善のそれではないからだ。
堤はそう思っている。
いや、思うより先に拳が出ている。
細胞に、そういう思いが刷り込まれているかもしれない。
しかし、ロロンはいともたやすく、堤の拳を外にはらい、また、素早く、引きの強い拳を頬に当ててきた。
通じない──ッッ!!
いや、そんなはずはない。
まだ、おれの拳が遅いだけのハナシだ。
まだ、おれの拳が弱いだけのハナシだ。
蹴る。
ローキック。
今度は打ちきった。
からぶった。
ロロンの身体が、堤の側面に滑り込んできていた。
密着する位置である。
ロロンは堤の胸に、肩を預けている。
そこで、堤は聞いた。
「それしかないのか──」
という、失意に似た言葉を。
堤は拳を出した。
力を込めた。
密着しているが、いつものように、拳を振り切った。
ロロンの胴が、肩からす、と離れていった。
堤は次手を出そうと、遠ざかった分だけ踏み込んだ。
そして、コケるように、闘技場に膝から落ちて行った。