0.
一九XX年。
深い森林の中で、あちこちから火の手が上がっていた。
泥だらけの地面の上に、野晒しの死体がいくつも転がっている。
全員、死因は出血多量。
皆、刃物で喉を斬られていた。
全員身なりが整っていた。
武装、という意味での身なりである。
機銃を肩にかけ、腰にはナイフを挿している。ヘルメットを被り、迷彩の軍服に袖を通した、完全武装の兵士たちだった。
やったのは、ひとりの男だった。
オールバックにまとめた短い金髪。
軍から支給されたジャケットを羽織っている。
身長は一八〇センチメートルほどで、その眼光は見るものを射すくめる高圧さを放っていた。
ロロン・ドネアであった。
斃れているのは、かつて、ロロンの部下だった男たちである。
フィリピン内戦──
一九七〇年代に、国内に流入していた他民族の文化、宗教と現地民などの衝突が臨界点を迎え、各部族が一斉決起して引き起こされた武力闘争である。
この内戦は、現実においても二〇二五年現在時点で未だ終結の目処がたたず、泥沼の内戦と化している。
そこに、まだ若きロロン・ドネアはいた。
若くしてその戦闘能力、兵士の育成能力を買われたロロンは、フィリピン軍の部練教官として軍に席を置いていた。
ロロンは教官の任の傍ら、自らもまた、育成した部下を引き連れては前線に赴いていた。
信じられぬことに、どこにいっても、ロロンの武器はナイフ一本だけであった。
戦火を駆け抜けた。
ロロン率いる小隊は、わずかな犠牲は出しながらも、ひとたび戦線に出れば、例え劣勢からであろうと勝って勝って勝ちまくった。
軍からも信頼を得て、部下からも信任が厚く、突き放すような本人の態度に反して、ロロンは人気があった。
しかし、ロロン・ドネアの心は冷めていた。
つまらない──というのが、ロロンの本音であった。
己の武を試したい。
己が、今、どの程度の位置にいるのかを知りたい。
そう思って、戦火に飛び込んだ。
そう思いながら、一番きついと、一番激しいと言われる場所に赴いた。
しかしながら、そのどれもでロロンは圧勝を飾っていた。
武を試せる敵は、どこにもいなかった。
誰も、自分の動きについていけないのである。
誰も、自分のパンチを躱せないのである。
さくりさくりと倒れていく敵を前に、心は冷えていく一方であった。
武を試せない──
身につけた力を、人に、思うように発揮しきれないもどかしさ。
それは、戦争の恐怖や不安とは違ったカタチで、ロロンの心を蝕んでいた。
ロロンが担当する地区の戦局が、いよいよ際の際まで極まった時だった。
突然、自身の部下たちが、実は『蟲』なる組織からの出向組であることを明かし、ロロンの優れた武技を盗むために部下となっていたと明かした。
今までロロンが斃してきた中にも、多数の『蟲』が紛れていたことも、『蟲』の存在こそが、内戦をいたずらに長引かせる一因であることも、その時に知らされた。
どうでもよかった。
真実を知った時の、ロロンの素直な感想であった。
ロロンが他者に、敵に求める要訣は、『自らが死力を尽くせるほどに、強いのかどうか』であったからだ。
『蟲』に与することを拒んだ途端、彼らはロロンに銃を向け、引き金を引いた。
そこから、全滅まで三呼吸ほどであろうか。
ロロンはナイフ一本で、何ひとつ変わらぬいつもの光景のように、自身の部下たちを皆殺しに処した。
つまらない──
立ちすくみ、死体を見下ろしても、なんの感慨も湧かなかった。
演技とはいえ、直前まで親しく語りかけてきた部下たちを鏖殺して、なにも感じない。
それどころか、手応えのなさに応じて込み上げるものは、ただ落胆の情であった。
自分は、
いや、それは間違いない。
戦火に、刺激を求めて飛び込む人間など、世間一般と照らし合わせれば気狂いには違いない。
ロロンは、その場を跡にしようと踵を返した。
もう、軍にも戻れまい。
裏切り者とはいえ、銃口を向けられたとはいえ、部下を多数手にかけた以上、軍法会議で有罪は免れまい。
次は、どこにいこうか──
どこにいけるだろうか──
自らに尋ねていると、その足が、ぴたりと止まった。
『引力』を感じたからだった。
自身の背後、木々の隙間から、強力な引力が発生して、ロロンをその場に縫い止めた。
次いで、生じる獣臭──
濃い臭いであった。
とてつもない怪物が、木々の向こうにいる。死の臭いに惹かれたのか、それが、こちらに近づいてきている。
ロロンは振り返った。
その男が、姿を現した。
闘気にゆらめく血色の毛髪。
褐色肌に、光沢まで見えるほど瑞々しく逞しい肉体。
異常発達した太い首、肩、腕、脚……。
上半身は黒いタンクトップに、迷彩柄のズボン。
裸足──
身長は、およそ一九〇センチメートル強。
体重は、おそらく一〇〇キログラムと少し。
閉じた口、こちらを真っ直ぐ射抜く視線が強い。
佇んでいるだけで、その男が全身から放つ強者のオーラが空間を歪めている。
範馬勇次郎であった。
退屈に身を捩るロロン・ドネアの前に現れたのは、地上最強の生物であった。
1.
ロロン・ドネアがやったことは、肘による堤の顎への打撃であった。
肩を密着させた状態から、腰を回し、相手側に寄せている肩を引き、上半身の動きだけでスペースを作る。
相手の足を自らの足で止めて、運足を封じる。
故に、相手が取れる手は、攻撃か、その場から大きく跳び退がるしかない。
相手が跳び退がったのなら、自らも足を出して、追撃のパンチを顎に打ち込む。
相手が無理やり上半身だけで攻撃してきたなら、空いたスペースに折り畳んだ肘を通し、死角となった下方向からカウンター気味に顎を撃ち抜く。
堤がやられたのは後者であった。
撫でるように掠めた不可視の肘である。
堤は、自分が何をされたのか、なぜ倒れているのかさえ
堤は咄嗟に防御姿勢をとった。
腰から下、膝に力が入らないが、腕を十字に固めて頭部を守った。
地下闘技場は、ダウンしたからと言って、試合が止まるわけではない。
限りなく真剣勝負に近づけたルールでは、倒れた相手に追撃することも、当然、許されている。
しかし、ロロンからの追撃はなかった。
ロロンは、ただ、立っていた。
冷え切った眼で、無防備に腕を下ろしている。
堤を見下ろしていた。
「イジワルなヤロウだなァおい」
控室で、そうぼやいたのは愚地独歩であった。
おれなら喜んで追撃すンのによ、と言っていた。
絶好の追撃チャンスを自ら不意にする。
なんなら、ここで試合をキめられる機会を、敢えて見逃している。
挙句、その視線は「お前では物足りない」と雄弁に語りかけてくる。
堤城平に降り掛かる屈辱は、計り知れないものがあった。
「けど、愚地さん。これはしょうがないよ……」
獅子尾龍刃が言った。
武のレベルに、あまりにも差がありすぎる。
堤城平が弱いのではない。
ロロン・ドネアが強すぎるのだ。
そして、この世界では、相対した以上その過程や結果がどうあれ、全ての責任は「弱い方が悪い」に終始する。
「わたしだったら──」
オリバが言った。
「真正面から撃ち抜くがね」
ふふん、と鼻を鳴らしていた。
龍刃がおいおいと苦笑いする。
「そりゃあ、オリバなら相手の先読みごと、真正面から粉砕もできるだろうよ」
実際、
相手が先読みと攻防を組み立てることに長けているならば、躱せないパンチを打てばいい、受けれないパンチを打てばいい、捌けない攻撃でゴリ押しする──というのは、シンプル極まりないが、確かな攻略法には違いない。
だが、それができるのはオリバや勇次郎、松尾象山や花山薫のような、ごく限られた男たちだけだ。
堤城平には、できない。
「おいおいリュウちゃんや、この愚地独歩を忘れてもらっちゃあ困るゼ」
独歩はへらへらと笑って言った。
むう、と龍刃は眉を顰めた。
「いや、確かに……独歩さんなら破れるだろうけど、手段はちょっと違ってくるでしょう?」
「オイオイオイオイリュウちゃんよォ。おいらの空手ってェのは、極めてシンプルなんだぜ? 困ったら、 『真っ直ぐ殴る』。それだけよ。それだけで、鬼を出してないとはいえ──この愚地独歩の拳は、範馬勇次郎にだって通用してるんだぜ?」
「ううん、でもおれ、その試合観てないしなあ……」
「かぁーッッ、捻くれ坊に育ちやがってよォ!? おれァ悲しいぜリュウちゃんよ! 加藤ォ! おれの活躍、ちゃあんと教えてやったのか!?」
「いや……館長アンタ、それ詳細に語るなら、最後は範馬勇次郎に殺されたじゃん……」
「加藤、おめえさん、帰ったら久々におれと組み手やろっか?」
「か、館長ォ!? そりゃ大人気ねーだろーがッッ!?」
やいのやいのと騒ぐ独歩たちを尻目に、刃牙はモニターを凝視する。
その少し離れた位置で、丹波文七もまた、手に汗を握って見つめていた。
負けるな──ッッ!!
心中で獣が叫んでいる。
堤! 負けるな!! 立て!!!
立つんだ、堤!!!
しかし、同時に想う。
立ったところで、堤城平に何ができるのか?
堤城平は不器用な男だ。
堤城平は、堤城平以外にはなれない。
自分なら、もうすでに、いくつか、あの先読みを破る手を思い付いている。
そして、それを実行できる自負がある。
だが、堤にはそれがない。
全力でぶつかり、愚直に手を出す。
堤城平はそれしかできない。
そして、ロロン・ドネアにはそれが通用しない。
観客は盛り上がっているが、格闘士たちの視点で言えば、堤に勝ちの目はないに等しい。
それが、丹波文七にも
だが、棄権しろなどとは、微塵も思わない。
立て、と想う。
立ってくれと。
立ち向かってくれと。
無責任な応援だが、孤独の場にある堤に、丹波文七は今、それしかできない。
文七の意気に応えるように、堤城平が立ち上がった。
ファイティングポーズを、とった。
2.
ロロンから攻めてきた。
立ち上がった堤を前に、ロロンは変わらず腕を持ち上げた。
しかし、さっきと違って姿勢が、重心が前に出ていた。
攻撃のための構えであった。
打った。
拳を。
鋭いパンチが、堤の顔を叩いた。
堤は、退がらなかった。
迎え撃った。
パンチを打った。
そこに、合わせるように、ロロンのパンチが跳ぶ。
堤のパンチは空を切り、ロロンのパンチは堤の顔面をとらえた。
お互いに打を出し合い始めた。
観客は盛り上がっていた。
だが、格闘士たちの反応は、相変わらずである。
それどころか、格闘士たちの多くが、ロロン・ドネアの冷静な精神とハイレベルなテクニックに、感心さえ示していた。
殴られているのは、堤だけであった。
手は、お互いに出している。
むしろ、手数なら堤はロロンの倍は出している。
それでも、殴られているのは堤だけであった。
堤のパンチは一発も当たらない。
ロロンはその場で避けながら、あるいは捌きながら、的確に自分のパンチだけを当てていた。
堤の顔だけが、一方的に殴られてボロボロになっていく。
観客も、流石に気付き出した。
レベルが違うのではないか──と。
それでも、堤城平は手を出し続けた。
一歩も退がらない。
怯むこともなく、ロロンに向かっていった。
3.
「こらアカンわ。このままじゃ死ぬで、あいつ」
キー坊が言った。
額から、冷や汗がひと筋たれている。
誰もが賛意を示しつつ、手を止めないロロンを咎めるものはいなかった。
堤城平は手を出し続ける。
一歩も引かず攻撃をしてくる。
何発殴られても、顔が変形してもなお、パンチの勢いが落ちていない。
だったら、殴り返すしかないではないか。
ロロンがいくら余力を持って見切りをこなせるとしても、それは堤のパンチ力を根本的に減退させているわけではない。
あれだけの乱打の中で、その一発でも顎か、側頭部にヒットすれば、容易に形成逆転がありうる速度と破壊力が、堤の拳にはある。
ならば、ロロンが一切手を抜けるはずもない。
近距離を制圧しつつも、相手を倒しきれていない、その相手が手を出し続けているというシチュエーションは、格闘技においては気の抜けない一面に違いないのだ。
だから、堤が例えここで死ぬのだとしても、それはロロンの責任にはならない。
“死ぬぐらいなら、負ければいい"
“負けるぐらいなら、逃げればいい"
というのは、葛城無門戦において、本部以蔵が武として示したばかりである。
命をかける場でもないのに、勝てない相手にがむしゃらに立ち向かうことは、単なる無謀かもしれない。
それでも、堤城平をなじるような真似も、格闘士たちはできなかった。
あまりにも一生懸命だからだ。
堤城平が。
傍目から見て無謀でも、どんなバカバカしい行為であっても、勝利に向かってありったけの力を振り絞れることは、幸せなのだ。
これができない男を、獅子尾龍刃は知っている。
これをやれない男を、範馬刃牙は知っている。
本部以蔵が、のそりと歩き出した。
「どこにいくんですか、本部先生……」
尋ねたのは、葛城無門だった。
本部は極めて真面目な顔で、
「流石に、ここで死人が出るのは許容できないからね──」
と言った。
4.
変化があった。
その変化に最初に気づいたのは、ロロン・ドネアであった。
パンチが、重くなっている?
堤城平のパンチが、ここにきて勢いを増している。
具体的に言えば、一撃一撃が重くなっている。
堤城平の重さではない。
徐々にだが、別人の拳を捌く感覚になっていた。
だが、リズムが変わらない。
拳の破壊力が増そうが、攻撃の──というより、個人が持つリズムが変わらない限り、捌く手に力を込める度合いを変えれば対応はできる。
それができなかったのは、ロロンの記憶ではふたりだけだ。
黒木玄斎と、範馬勇次郎だけ。
前者は優れてる鍛錬の結晶としての技巧で。
後者は、純然たる力の濃度に押されて、手が追いつかなくなった。
堤城平の拳に、それはない。
ダメージは十分に与えた。
これ以上試合を伸ばしても、堤城平にこれ以外の手札はないだろう。
ロロンは肘を打つと決めた。
肘で、今度は側頭部を撃ち抜くと。
それで決着がつくはずだった。
次の、堤の右フックを外に捌いて、ガラ空きになった頭を切るように肘を打つと決めた。
予定通り、右フックが飛んで来た。
ロロンはそれを捌くために、外に払おうとした。
しかし、
重────!?
驚嘆する。
まるで別人の、ではない。
別人そのものの拳の重さであった。
左の払い手が、なすすべなく、堤の右フックに巻き込まれた。
そのまま、堤の右が、ロロンの側頭部を撃ち抜いた。