0.
黄金時代であった。
日本の柔道界は、この三〇年、戦後最大の最盛期を迎えていた。
畑中公平、立脇如水、船村弓彦、加納剛次、宇賀島天一郎、岩神京太、関修一郎、嵐山十郎太。そして、井野康生……。
いずれも、柔道を始めたばかりの青い頃から、オリンピック出場を確実視されていた男たちであった。
それぞれの全盛期には、この中の誰が
極東プロレスの『
しかし、皆が皆、すんなりとオリンピックに向かっていたわけではない。
様々な理由があり、多くが華やかなる道を降りていた。結果的には格闘界の表裏で有名になった者もいるが──わずかな例外をのぞいて──誰もが柔道一本で、それを成したわけではない。
例えば、立脇如水は松尾象山に負け、象山にほれこみ、北辰館空手へと移った。
例えば、嵐山十郎太は、表世界から忽然と消えた柔道家、『少年M』の元に向かうために、ある日突然表格闘界から姿を消した。
船村弓彦や町田隼人は言うまでもない。街頭で乱闘騒ぎを起こして柔道界を去り、プロレスに移っていった。
この中で、必然と勝ち上がって金メダルを取ったのが、井野康生なのである。
まず、一〇〇キロ級でオリンピック候補生と勝ち上がったのが、宇賀島天一郎と井野康生であった。
その宇賀島に、公式試合にて、井野康生は勝っている。
もちろん一本勝ちであった。
その宇賀島が敵わなかった、岩神京太にも──練習試合とはいえ、井野康生は勝っているのである。
とはいえ、宇賀島も岩神も、井野と組んだ時には肉体の全盛期はすぎていた。
井野が日本代表として仕上がっていた頃には、本来、井野
井野は三〇年の柔道全盛期に、ぽっかり穴が空いた位置にいたのである。
井野の
井野は、空白の玉座に
強さを証明したい。
そういう想いが、あるいはずっと、井野の中で燻っていたのかもしれない。
長田弘に負けて、柔道界の内外から非難されて、
丹波文七の話を聞いたのは──
丹波文吉の話を聞いたのは、そんな折だった。
井野は、すぐに、丹波文七に会いたくなった。
会ってどうするのか、なんのプランも考えず、ただ無性に会いたくなったのである。
そこからは怒涛の展開であった。
丹波文七が北辰館トーナメントの上位成績者に道場破りを仕掛けていたことを──それを知るや否や、井野康生は「丹波」と講道館の奇妙な因縁に魅了されていく。
嘉納治五郎が、丹波文吉の父を、生涯の強敵と語ったことを知った。
前田光世が日本の武術者に殺される前、その丹波文吉と
井野の好奇心は瞬く間に膨れ上がった。
ときめいていた。
もはや止められなかった。
やってみたい。
確かめてみたい。
強く、そう思った。
強いのかな?
そう思った。
純朴な、透き通った疑問であった。
その答えを求める法論を、井野康生はひとつしかしらない。
丹波文七とやればいい。
やってみたい──と。
そうすれば、きっと、答えが出る。
丹波文七は強いのか。
講道館よりも、強いのか。
井野の元にも、徳川光成の使者は訪れていたが、井野は二つ返事で辞退を表明した。
最大トーナメントは、すでに眼中になかったのであった。
井野の純粋さはまっすぐであった。
1.
そうして、泉宗一郎の道場の中で、丹波文七と井野康生は対峙していた。
立会人は、当然、泉宗一郎である。
泉は井野を止めなかった。
最大トーナメントを、ひと月後に控えてなお、丹波文七を止めなかった。
文七は構えている。
オーソドックスな空手の構えだ。
腰を落とし、足は、母指球に重心を乗せて、心なしか背を丸め、脱力の効かせた腕を、適度な位置に持ち上げている。
重心がやや前にある。
防御も考えつつ、攻撃的な──動いて、
腕と腕の間から、睨め上げるように井野を見ていた。
井野康生は、ゆたりとした体の構えであった。両腕を適度に緩ませて、丹波に向けて伸ばしていた。
膝を軽く曲げているだけで、腰も落としていない。
背は伸びているし、自然な、立ち姿勢と言える構えである。
ただ、それでいて、重心が真下に落ちていた。
戦うための構えというには、あまりにも融通無碍がすぎる。
だが、文七は侮らない。
オリンピックでも、北辰館オープントーナメントでも、井野康生はこうだった。
ほとんど立ち姿勢の状態から、相手に接触するや否や、井野は鋭い投げに移行できる。
一見、地に足のついていない構えだから、相手から見れば井野は隙だらけだし、手を出せば簡単に当てられるし、簡単に足を引っこ抜いて投げれると思わせてしまうのだ。
そこからの鋭い投げの落差が、井野康生の柔道の魅力でもある。
本人にそのつもりがあるのかは分からないが、これもある種の擬態……と言うことなのだろうか。
「井野さん」
文七は構えを解かず、言った。
井野は、変わらずの雰囲気で、静かに耳を傾けていた。
「一応聞いておきたいンだが……あんたは今、たたひとりの格闘士の井野康生として、ここに立ってンのかい? それとも……講道館の井野康生として、ここにいるのかい?」
文七は揚々と顎をしゃくった。
井野は、口角を緩めた。
「どっちもですよ」
「どっちも?」
「分ける必要あります、それ?」
自分は、講道館柔道を学んで強くなった。
だから、立ち合いを行うなら、
それでありつつも、井野康生という男は、ひとりの格闘士として丹波文七という男に挑んでいる。
井野康生が、黒帯を締めて他所の道場に上がり込んだ以上、講道館の看板を背負うというのは当然であるが、井野康生の心地としては、あくまでひとりの男としてここに立っている──という両論は、理屈として並び立つのである。
「逃げてもいいンすよ」
挑発的な口調であった。
しかし、井野の言葉は文七を侮るものではない。
もし、自分のことが信用できないから──
もし、自分に勝って、講道館そのものと生涯戦争をする立場になると思っているのなら──逃げてもいい。
逃げるなら、追わない。
それで、講道館と丹波の話は終わりでいい。
そういう言い方をしている。
「ヘぇ……」
文七は感嘆した。
うまいじゃないか、井野康生。
笑った。
ヤるしかなくなった。
これで、丹波文七は、己の格闘士のプライドにかけて、ヤるしかなくなったじゃないか。
ウマいもんだ、井野康生。
エリートの
「しいっ」
文七の虚を突いて、踏み出したのは井野であった。
これには、さしもの文七も驚いた。
先に動──?
当て身──ッッ?
井野康生が!?
それは、ジャブであった。
引きを意識してスピードのある、いかにもボクシング的な左ジャブ。
「しえやっ」
文七は慌てることなく身を捩って拳を躱した。
そのまま、井野に向かって踏み出した。
あまいぜ、井野。
なかなかサマになってるジャブだが──あんたのジャブは怖くない。
なるほど、確かに柔道にだって当て身ぐらいある。
だが、公然とした試合の場で、井野康生が投げ以外を
虚を突いたつもりだろう。
こういう時のために、とっていたのだろう。
よく伸びるジャブだ。
スナップが効いている。
手首が相当強い。
それはあたりまえか。
柔道家の握力と手首の強さは疑う余地はない。
サマになっている打ち方なのは、相当に練習して身についたジャブだからなのがわかる。
腰が入ってる。
これは、一石一丁で身につかない。
だが──当然の話、打撃を専門とする格闘士ほどの威力じゃないぜ。
打撃は、むしろ、おれの得意分野だ。
あんたの怖いところは、投げだよ。
投げに来ない井野康生なんて、恐るるに足りんぜ。
文七は、慣れた動きで井野の懐に潜り込んだ。
井野の足は肩幅より少し開いて、打撃のために前後わずかに開いているだけだが、文七からすれば身体を滑り込ませて鎮座し、効果的な打撃を打ち込むには十分すぎるスペースである。
ガラ空きだぜ、井野。
文七は自分の足が、つま先から井野の正中線に重なるように踏み込んだ。
腕を折りたたみ、身を縮こませ、肩をいれる。
そこからボディブローを──
──ッッ!?
不意に、文七の顔が沈んだ。
首の裏を掴まれていた。
井野の左ジャブが戻っていなかった。
井野は、左手を戻さずに文七の首の裏を掴んでいた。
そのまま、自分の胸に向かって引き寄せたのである。
ものすごい力であった。
オリンピック金メダリストの、本気の引き込みであった。
井野はそのまま、文七の首根っこを自身の右脇に押し込めた。
井野の脇の間から、文七の顔が背中より前に突き出して、道場の床に向けられている。
井野の右腕が文七の首に巻きつき、固定した。
「しよっと」
そのまま、井野は床に向かって背中から跳んだ。
文七は慌てて顔の前に掌を並べた。
凄まじい勢いで床が迫り上がってきた──
どぎゃっ、と音がした。
文七は顔から床に突っ込んだ。
井野と文七の体重、合計およそ二〇〇キロの重さが文七の顔と首にぶち当たった。
井野は素早く手を解き、一分の隙もなく立ち上がった。文七は、井野に半歩遅れて前転して顔を上げた。
──ッッ!?
いない。
文七の正面。
そこに、井野はいなかった。
ぞくりと、悪寒が走った。
井野は上だった。
文七の背に、上からのしかかってきた。
文七の動きに合わせて死角に跳んでいたのだ。
腕が、首に回っていた。
裸締め──それが形になる寸前に、文七は左腕を挟むことに成功した。
しかし、
「……〜〜ッッ!!」
井野は、構わず締めてきた。
凄まじい力であった。
文七は残った右腕で井野の腕を掴んだが、びくともしない。
構わずキメる気かッッ!?
キメられちまうのか、このおれがッッ!?
何もできずに、やられちまう──!?
途端に息ができなくなっていた。
意識が、ずんぐりと重たくなっていく。
負けるのか、おれが。
こんなに簡単に?
強い──ッッ
いやッ、何言ってんだ、おれは。
相手はオリンピック金メダリストだぞ?
弱いハズがないッッ。
だが、所詮アマチュア柔道だ。
実戦の場で、このおれが、こうも簡単に……ッ!!
井野が、口を噛み締めた。
腕の筋肉が、ぐっと硬くなった。
一気にキメる気だ。
──強ェ!
柔道、強ェッッ!!
いや、井野康生、強ぇよ!!
この、まんまじゃあ……負ける。
ち、力を、ふり……しぼれ!!
はらに、ちからを……ちから……ッッ!!
「かああっ!!!」
気合い一閃。
文七はバックジャンプで飛び上がった。
宙空で、しかし、井野は離れなかった。
そのまま、井野を背負ったまま、文七は道場に向かって背面から落ちた。
二人分の体重が、今度は井野に叩きつけられた。
井野の腕が外れた。
文七は必死にエスケープをはかった。
見栄えも何もない、転げ、這いずるように井野から身を離した。
丹波文七、決死の反撃であった。
息を吸う。
それを、細く吐き出す。
ひと呼吸分、体力を回復できた。
しかし、安堵するには程遠い。
腹ばいにうずくまり、呼吸を整える文七の上に、井野は身を投げていた。
腕をとって、そこを支点に己の身体を文七の上に被せていく。
寝技だ。
しまった。
ここはまだ、井野康生の領域だ。
なんてことだ。
立ちも、寝技も、井野の領域だって言うのか!!
文七の顎に、井野の右の掌が添えられた。
首の裏──延髄に左肘が乗っている。
折る気かッ、井野。
文七は、顔を引っ込めた。
顎を胸に鎮めるように引いて、井野の掌から逃げていく。
──ッッ!!
刹那、ぴたりと、文七の動きが止まった。
つままれていた。
耳を。
井野の左手が、耳を上下から挟んでいた。
「があッッ!!」
文七は左肘を折りたたんで井野の腹部に当てた。
く、と井野がうめいて指から力が抜けた。
「おおっ」
文七は勢いよく反動をつけて、頭突きを見舞った。
後頭部で、井野の鼻を潰した。
みきっ、と鼻の軟骨が潰れた感触があった。
文七は逃げるように前に跳んで、振り返った。
井野の頭が下がっていた。
立ちあがろうと中腰になっている。
そこに、左のローキックを打ち込んだ。
「げふっ」
井野が、床に叩きつけられた。
文七はすかさずマウントを取らんと井野の腹に乗ろうとした。
マウントが完了する寸前、文七の右足の裾に、井野の人差し指が差し込まれた。
「ちぇりやぁあああぁッッ!!」
恐ろしいことをやった。
なんと、井野は片腕で文七を投げたのである。
ほとんど寝ている姿勢のまま、文七の重心を崩し、力ずくで振り回した。
文七の姿勢が沿り崩れて、姿勢を保つために右腕を床に立ててバランスを取ろうとした。
そこに、井野は膝立ちの状態で向き合い、文七の道着の襟をとった。
「くわあああッッ!!」
そして、座ったまま背負い投げた。
2.
実戦で最も強い武術はなにか?
そう問われたならば、破壊力においては柔道だろうと筆者は答える。
柔道は、簡単に人を殺せる。
コンクリートの上に頭から投げ落とせば、人は簡単に死んでしまう。
電柱に向かって崩しを仕掛け、後頭部を叩きつければそれだけで死んでしまう。
だから、たいていの柔道はまず、「受け身」と「正しい投げ方」を教えるのだ。
それは、柔道こそが、簡単に人を殺せる技だからだ。
柔道をならって、それを人並みに扱えるようになれば、誰もが人を簡単に殺してしまえるからだ。
投げとは、それだけの必殺性がある。
拳や蹴りで人を殺すための手間暇や力と比べて、投げの労力は恐ろしいほど軽い。
では、オリンピック金メダリスト、井野康生の投げの威力とは──ッッ?
「ぐはっ!!」
文七は苦悶に顔を歪めていた。
肩から落ちた。
肩にぶつかった衝撃が、腰まで突き抜けて爆発し、尻から出ていった。
息ができないほど、苦しい。
それでも、警戒を解くわけにはいかなかった。
よろよろと立ち上がった。
そこに、井野康生は素早く飛びついた。
大外刈り──
背中から、文七は叩きつけられた。
かろうじて受け身が間に合った。
それでも、ギリギリ戦闘不能にならなかったにすぎない。
破壊力をいくらか軽減できたにすぎない。
すげえ。
文七は立ち上がった。
井野は、正面に立っていた。
また、投げられた。
──すげえッッ。
今度は、背中から落ちた。
仰向けになって、意識が途切れかけて、文七はぼやけた目で天井を眺めていた。
感じるものは、讃嘆であった。
長田──オマエ、すげえよ。
北辰館オープントーナメントで、この井野康生の投げを、あれだけ喰らってたのか、オマエは。
あれだけ投げられて、すぐに、なんともなく立ち上がってたのかよ。
すげェな、長田。
ワルかったよ、スポーツマンなんて言って……
プロレスラーって、つええよ。
忘れてたよ。
すっかり、忘れてた。
プロレスラーの中にも、本当に強い奴は、やっぱりいるってことだよ。
井野康生、強えよ。
今──おれの顔を踵で踏み抜けば、それで終わる。
井野がそれをしないのは、井野康生なりの、何かがあるからだ。
柔道家としての、なにか。
井野康生としての、なにかに、おれは救われている。
甘っちょろいゼ……井野。
そうだ。井野康生は甘っちょろい。
あの試合も、あと一回か二回投げれば、それで決着はついてただろう?
わかってて──こいつは長田を投げなかった。
それが、井野康生の美学なんだろうな。
まぶしいやつだ。
自分の美学に則って、それで、負けを認められるなんて、おれにはちょっとできそうもない。
井野。
おまえ、すごいやつだ。
井野。
「悪かった……」
文七は呟いていた。
気づけば、立ち上がっていた。
立ち上がっていてなお、井野は仕掛けてこなかったのだ。
ハハ……
苦笑していた。
せざるを得なかった。
気を使われてるってのか、このおれが。
いや、違うな。
それが、井野康生なんだな。
柔道家の、井野康生。
かっこいいぜ、井野。
おれには、そうはできないだろうな……
おれや、そうだな……松尾象山だって、たぶん、これはできないだろうよ。
「全力で、やる……よ」
声がでねえな。
投げられたばっかりだもんな。
まだ、身体の芯が震えてやがる。
世界一の投げだもんな。
アリガトウよ、井野。
ありがとう──
3.
文七は微笑を浮かべていた。
自然な笑みであった。
不気味な笑みでもあった。
文七の重心が前に寄っていた。
より攻撃的な姿勢であった。
井野は、唾を飲み込んだ。
高まる緊張感に、冷や汗が滲んでいた。
「すっ、げ……」
井野はつぶやいた。
文七のゆたりとした雰囲気、臭いが変わっていた。
大型の肉食獣が、獲物を定めて身体をゆすっている。
大きくて、分厚くて、真綿のような圧迫感が井野の身体を圧していた。