【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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第三話:繋がっていく

 

0.

 

 

 地上最強を求めているわけではない。

 ただ、確かめてみたかった。

 

 井野康生を突き動かすのは、格闘士としては異質な、ある種の好奇心と呼んでいいものだった。

 

 幼い頃、柔道衣に初めて袖を通した時、井野康生は既に天才であった。

 投げる──という行為に対する所感が、常人のそれとは違ったのである。

 それは、意識の違いであった。

 柔道の理を最適化した場合、人を投げ倒すためには、そこに力はいくらも必要がない。

 人が、人を投げる際に、柔道の理合(りあい)が必要とするものは、人の重心をいかに崩すかであり、人の反射能力をいかに逆手に取るか──という話になってくるからだ。

 『空気投げ』という言葉が秘伝の与太話として出てくるように、極まった柔道の理想とは、投げるための力をほとんど用いない。

 しかし、それは天才の世界での話。

 常人──つまり、柔道を習う多くの『凡人』は、そうはいかない。

 投げられまいとする人を、普通人が投げるためには、相応の力を必要とする。

 投げられまいと組む相手は、まず、組ませないために抵抗する。 

 いざ組んだとしても、素人ならいざ知らず、柔の理を知るものが相手であるならば、当然その理の外し方も知っているから、投げられないための動きをする。

 それらを制するためには、やはり、相応の力が必要なのである。 

 競技性が重視される近代柔道であればなおさらのことで、時間内に相手を投げ、極めるために必要なものは、まず、腕力だった。

 組んで、相手を引きつけ、相手の重心を無理やり持ち上げる力である。

 先にも言った通り、素人が相手であれば、人並みに柔道を学んだものにとって、投げたり極めたりは造作もない。

 しかし、オリンピッククラスに柔道をこなせる相手ともなれば、話は変わってくる。

 柔道の試合において、大事なのは投げ倒す力だけではない。力や技術が釣り合っているのなら特に、組むまでの駆け引きはもちろん、刹那に流れゆく試合の喧騒の中でも、勝ちを手繰り寄せる『力の流れ』を掴み、それを逃さず引きつける剛力が要となるのだ。

 当作において、ありあまる腕力で、あるいは全ての理を真っ向からねじ伏せていた柔道家こそが、『史上最強の柔道家』であった範馬勇一郎であることは改めるまでもない。

 範馬勇一郎は技のキレも尋常のそれではなかったが、勇一郎の真の強さは、天下無双の剛力によってどんなに身体が巨大(おおき)い相手であっても、どんなに無理な姿勢からであっても、強引に相手を投げ飛ばす腕力にこそあったからである。

 

 話を戻す。

 

 とりわけ、井野康生の天性は、投げるためのキレというものよりも、この『力の流れ』を嗅ぎ分け、間隙を逃さぬ手癖の悪さと目利きにあると言ってよかった。

 井野康生にとって、相手を投げるということは、意識して行うことではない。

 井野康生が相手を投げる時に、組む必要がなかったのである。

 相手に触れた瞬間、それがどこであっても、もう、投げている。

 井野からすれば、相手の重心を崩すことを意識したことはないのであった。

 なぜなら、自分が相手に触れた時、相手の重心は勝手に崩れていて、地面に向かって勝手に傾いているのだから。

 そういう抗いがたい『力の流れ』が井野には見えていたし、その『力の流れ』に相手を乗っけるのがうまかったのである。

 だから、『組んで、投げる』という力の流れの過程(プロセス)が、井野は普通人よりワンテンポ以上早かったのである。

 だから、相手が堪えるタイミングがない。

 気づけば投げられている──井野の投げに対応する意識が間に合わないのである。

 井野康生が、嵐山十郎太のライバルになりうると言われていたのは、嵐山十郎太もまた、この『組んで、投げる』という過程(プロセス)が、常人より遥かに簡略化されていて、投げるまでのテンポが抜きん出て早かったからだった。

 井野康生が、オリンピックでオール一本勝ちを果たした理由は、ずばり過程を超越した投げの速度(テンポ)にこそあったのである。

 

 天性を持ちながら、しかし、井野康生は最強を求める男ではなかった。

 それは、井野のイズムであった。

 柔道に対する視点の違いであった。

 いわゆる異種格闘技において、柔道こそが地上最強である──といった、我執(エゴイズム)の無さでもあった。

 

 井野康生は柔道家である。

 柔道は、明治に入り、嘉納治五郎が既存の柔術や古武術を研鑽して融和させることで誕生した流派である。

 講道館柔道は警視庁武術試合において優秀な成績を収め、古参の柔術などを差し置いて警視庁の逮捕術として正式に採用されて、それはそのまま日本武道のスタンダードになり、世界に羽ばたいていった歴史がある。

 今や柔道はワールドワイドであり、世界大会もさまざまに存在し、どれもが積極的に開かれ、ルールもきちんと制定されている。

 柔道とは日常にそれとなく馴染んでいった、誰に恥じることもない立派な競技なのである。

 だから、井野康生から言わせてみれば、柔道家として鍛えている者が、仮に路上の喧嘩で空手家に敗れたとしても、それはさほど不思議なことではない。

 柔道家が普段からやっているのは柔道の練習であって、喧嘩の練習ではないからだ。

 例えば、居酒屋で呑んでいる時、ヤクザに絡まれて喧嘩になったとして──相手に刃物を持たれたならば、そこから逃げることは卑怯でもなんでもない。

 オリンピックを目指すような柔道では、刃物を相手と想定した練習などしないからだ。

 だから、他流試合はともかく、異種格闘技などをやったとしても、喧嘩をどれだけこなしていたとしても、それが柔道の強さも弱さも証明しうるものではないと思っていた。

 

 ただ、疑問ではあった。

 

 フィクションの中で、柔道は、空手の引き立て役であった。

 現実のフィクション(創作武術)──つまり、プロレスでも、柔道は引き立て役であった。

 疑問であった。

 勝ち負けに拘泥しているつもりはない。

 だが、柔道は、本当に空手より弱いのか?

 柔道は、本当に、本気になったプロレスラーには歯が立たないのか?

 自分たちが、四六時中揉み合って腕を磨いている()()は、実は大したことがないのか? 

 そんなに弱いのか──?

 

 確かめてみたい。

 そう思った。

 だから、井野は先の、北辰館オープントーナメントに参戦したのである。

 そして、井野はプロレスラーの長田弘に敗れている。

 

 しかし、これこそが井野の認識を拗らせ、今日ここに立たせている原因であった。

 再三書き記すが、井野は試合では長田に敗れたし、敗れたことには納得しているものの、その試合の内容はやはり『柔道はプロレスより弱い』と言い切れるものではなかったのである。

 つまり、根源的な疑問の答えは出ていなかった。

 井野康生は、長田弘には勝てなかった。

 それは、動かしようのない事実である。

 しかし、井野の柔道は、長田弘のプロレスに十分勝ちうるのもまた事実だ。

 これでは、柔道がプロレスより弱い理由にはならない。

 じゃあ、どうすればいいのだろうか。

 

 プロレスの道場に、FAWに乗り込んで、グレート巽と試合をすればいいのか?

 北辰館に乗り込んで、松尾象山と試合をすればいいのか?

 井野は、それも望んだ。

 しかし、そのどちらも止められた。

 内情はどうあれ、オリンピック金メダリストの井野が、プロレスラーの長田弘に公衆の面前で負けたのは事実である。

 講道館柔道は、この事実を重くみていた。

 井野は他流と交わる試合が禁止された。

 半ば、謹慎のようなカタチとなっていた。

 

 謹慎になっている間、井野は丹波文吉と前田光世の関係を知り、それについて深く調べていったのである。

 

 その途中で、井野は衝撃的な出会いを果たしている。

 その男の謎を解き明かすために。

 己の中で揺らぎかけた柔道の強さを確認するために、丹波文七の元を訪ねたのであった。

 

 

1.

 

 

 確かめてみたかった。

 確かめられる場にいた。

 だから、丹波文七を目の前にして、その獣性を身に浴びながら、井野康生は静かに微笑んでいた。

 空気がひりついていく。

 背中越しに、立会人の、泉宗一郎の緊張感が高まっていくのが理解(わか)った。

 泉は、()()()()()丹波文七の恐ろしさを知っているのだ。

 怖いな……と井野は思った。

 丹波文七から、隙がなくなった。

 さっきまでは、どこか浮ついていた視線がまぶしい。

 敵を前にした野獣の光が灯っている。

 大きく見える。

 丹波と自分の体格差はどれほどもない。

 だが、さっきと比べて、丹波の肉体がひと回りは大きく見える。

 だが、この大きさなら、まだ投げられる。

 

「ふっ!」

 

 意気を込めて、下腹に力を込める。

 そして、肩から力を抜いた。

 腰のすわりを確かめる。

 普段通り。

 なら、いける。

 すり足で、少しづつ距離を詰めた。

 丹波は、無構えのままだ──

 

 どん、と音がした。

 いきなりであった。

 井野の、先行していた左足に、文七のローキックが刺さっていた。

 

「ぐうっ」

 

 井野は唸った。

 ずぐりと、ふくらはぎに岩の塊がぶつけられたような痛みが走った。

 重い──

 速い。

 見えなかった。

 いつのまにか間合いに入り込まれたのか。

 攻撃するための、初動の意がみごとに消えていた。

 恐るべき文七の技量であった。

 そして、破壊力も半端じゃない。

 たった一発で、足が痺れている。

 それでも、井野は文七の蹴り足を戻すのに合わせて、す、と踏み込んだ。

 襟を取って、組もうとした。

 組んだら、投げ()()()──

 いつも通りの流れにもっていく。

 そうなると思っていた。

 だが、投げられなかった。

 文七を投げる『力の流れ』が、どこにも存在していなかった。

 

「──!?」

 初めての経験だった。

 そして、それは、文七の動きの機微によってもたらされていた。

 井野が組んだ瞬間、文七はわずかに足を出し、重心を前に移していた。

 幾らかの力もこもっていない、微かな前進である。

 井野が、そのまま組んだ腕で突き飛ばせば、ころん、と後ろに転がってしまいそうな軽い歩みである。

 しかし、それが、井野の投げる意を消していた。

 文七の膝が、井野の膝に、軽く乗っていたのである。

 上から優しく重ねているだけのそれで、井野の投げが封じられていた。

 

「しゃっ!」

 

 文七の拳が、井野のこめかみを打った。

 中指を立てている──中高一本拳による鉤突き。

 井野の脳に、にぶい痛みが現れた。

 脳の中に、直接重石を投げ入れたような痛みだ。

 井野の身体が泳いだ。

 俯く顔に向けて、この近間で、十分に腰の回った文七の左のハイキックが打ち込まれた。

 大きくのけぞった。

 十分な感触であった。

 だが、井野の左腕が、文七の道着の袖から離れていない。

 今度は文七の身体が、倒れる井野に引っ張られて、それを忌諱するために踏ん張った。

 その瞬間、井野の身体がくるりと回った。

 文七の左袖を掴んだまま、コマのように、文七の胸の内で己の身体を回したのである。

 井野の背が、文七の胸に密着した。

 

「かああああっ!!」

 

 井野の背負い投げである。

 世界一の、投げ。

 しかし、決まらなかった。

 不完全な投げに終わった。 

 井野は、文七を背負ったまま、その場で崩れ落ちた。

 文七の右手が、井野が投げる前に、井野の道着を腹の肉ごと掴んでひねっていた。

 ものすごい握力であった。

 それが引っかかりとなって、痛みのあまり、井野の投げは不完全となって、体勢を崩したふたりは折り重なってその場に落ちたのだ。

 

「か、はっ……!!」

 

 井野は、呼吸ができなかった。

 固めた腹筋を、構わず押しつぶす文七の握力であった。

 井野が、文七の右手首を掴む頃には、文七の左腕が、井野の左腕の脇をめくって巻き上げていた。

 井野が、左腕を動かせない状態になってから、文七は右手を離して、井野の脇の下を潜らせて、井野の首の裏を通した自身の左手を握った。

 身体に重さを乗せていく。

 腕は、引っ張り上げていく。

 背を逸らしていく。

 井野は関節をキめられてしまった。

 

「うあ……がががああッッ!!!」

 

 井野が、唯一自由になっている右腕で、身体を持ち上げようともがいている。

 しかし、とてつもない重さであった。

 巨岩を背負ったようである。文七の身体はびくともしない。とても、己と文七のふたり分の体重とは思えない重さである。 

 みきり、と井野の左肩が悲鳴を上げた。

 

「折るぜ……」

 

 ぼそりと、文七が言った。

 まいったと言え──そういう問いでもあっただろう。

 しかし、井野は口を縛った。

 額に、脂汗が浮かんでいる。

 これから訪れる痛みを想像し、それを覚悟した故の汗であった。

 文七はふ、と息を固めた。

 

「それまでッッ!!!」

 

 絶妙のタイミングで、泉宗一郎が言った。

 文七の眼に、ふ、と正気の色が挿す。

 ゆっくりと両手を離し、井野の背から、これもゆっくりと離れていった。 

 身体を起こそうとする井野に、泉が近づいていった。

 泉が、井野の左腕を無造作に持ち上げた。

 井野の顔が、小さな痛みに震えた。

 

「大丈夫。折れたり、切れたりはしていない」

 

 その言葉に、文七は安堵を覚えていた。

 

「丹波さん……」

 

 座したまま、井野は文七に向き直った。

 正座になった。

 畳んだ膝の上に拳を置き、身を整えていた。

 

「おみそれしました」

 

 そして、素直に頭を下げた。

 文七は、そこから二歩さがって、同様に膝をついて、頭を下げた。

 

「ありがとうございました」

 

 井野から、頭を上げた。

 おそふおそる、と言った風に、文七は顔を上げた。

 井野は、爽やかな表情を浮かべていた。

 自分に納得させられた。

 もう、問いたいことはない。

 ワガママに付き合ってくれてありがとう。

 そういう感謝の情が見て取れる顔であった。

 文七は思わず苦笑した。

 

「この勝負、丹波文七の勝ちとする。それでよろしいかね?」

「是非もなしです」

 

 泉の問いにも、井野は健やかな口調で応えたのだった。

 

 

2.

 

 

「水鵺?」

「そうです。丹水流の水鵺──丹波文吉は、それと戦っていたそうです」

 

 茶の間に場を移していた。

 井野は、泉が用意した座布団を丁重に断って、畳の上に直接正座していた。

 文七と泉に対座する位置にある。

 そこで、出された湯呑みに少しづつ口付けながら、井野はポツポツと語り出した。

 

 それは、講道館で噂される、丹水流の歴史であった。

 丹水流は、宗家に選ばれた証を持つものが、その時代において最強と謳われる武術者に命懸けの真剣勝負を挑み、これに勝つことを因果に含めていたという。

 それは八〇年に一度行われるもので、つまり、普通に考えれば丹羽文吉は当時の『証頂者』であり、それゆえに当時最強の武術者である講道館の前田光世に挑んだ──ということになる。

 そして、丹水流というものが現代に継がれていないことを鑑みるならば、そこで丹波文吉は前田光世に敗れ、命を失ったと見ることができる。

 

「泉先生は、これをご存知で……?」

「……聞いたことは、ある」

 

 竹宮流は、由緒正しき古武術の名門である。

 そのルーツを将軍指南役である柳生新陰流に持つために、口伝、秘伝を問わず、武術界のさまざまな噂話や逸話が竹宮流には集まっていた。

 当然、丹水流のことも、泉は聞いたことがあった。

 

「だが、わたしは与太話だと思っていた。警視庁武術試合においても、竹宮流もそうだが、秘伝技を秘匿とするために参加していない流派は数多く存在したが……わたしの知る限り、丹水流なる流派は()()にも存在していないからね」

 

 そして、丹波文七のルーツは古武術ではなく空手である。

 故に、両者に関係は無し──泉宗一郎はそう思っていたという。

 

「わたしも、泉先生と同意見です」

 

 丹波文七の経歴を見ても、そこに丹水流の流れは見当たらない。

 第一、もし文七が丹水流の流れを組む者なら、実戦の雄と呼ばれ、北辰館とFAWに堂々と喧嘩を売って回って名を馳せている文七の因果を、両者が放っておくはずがない。

 

「だから、色々とコネを使って、自分なりに調べてみたんです」

 

 そして判明した、丹水八〇年期。  

 丹羽文吉と前田光世の因縁。

 丹羽文吉以降、丹水流の話がぱったり途絶えていること──

 つまり、丹水流というものを、前田光世に敗れた丹羽文吉が自ら閉じたのではないのか。

 丹波文七は、自らも知らぬまま、そのひとつ種として世に生まれ出たのではないのか──?

 

「だがよ、井野さん。それだけじゃあ、与太の域をでないぜ」

 

 前田光世は死の前日に、東治三郎に敗れている。

 これは、文七が本人たちから確認をとっている話だ。

 そこに、丹羽文吉や丹水流という名は全く存在しない。

 前田光世という伝説にあやかった、噂や都市伝説は多い。

 丹水流も、そういった類のものではないのか?

 文七はそう言っていた。

 井野が、眼を沈めた。

 文七の視線を切って、何かを思慮したのち、顔を上げた。

 

「いや、たぶん違います。丹水流は実在したし……丹羽文吉が、丹水流を自ら滅ぼしたのも事実だと思います」

「……なんでだよ」

 

 井野は、厳粛な顔になった。

 そして、少しづつ、振り絞るように語り出した。

 

「……負けたからです」

「負けた……アンタがか?」

「はい」

「誰に……まさか、その丹水流にか!?」

 

 井野は頭をふった。

 厳密には違います、と続けた。

 

「わかりません。ただ、おれを簡単に投げ倒したその男は、自分のことを『丹水流が生まれた原因』と言っていました」

「……どういうことだ?」

 

 井野を()()()

 オリンピック金メダリストに、投げ勝っただと!?

 自分が、丹水流を作った原因だと!?

 

「そいつの名前は?」

 

 井野は声を詰まらせた。

 文七の眼を見て、言った。

 

申武龍(シェン・ウーロン)。そいつは、そう名乗っていました」

 

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