【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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後書きに書いてますが大筋には関係ない程度に試合順を入れ替えます。ご了承ください
5/2 誤字修正 報告三度ありがとうございます
(というか本当にすみません誤字りすぎだろ自分)


第四話:必然、しかし……

 

1.

 

 

 盛り上がっていた。

 闘技場の一角である。

 周囲の観客の、妙な冷めっぷりに相反して、そのひと角の熱量は尋常ではなかった。

 少年少女たちである。

 その多くが、作業服などを改造し、物々しい梵字などを書き入れた特攻服を着ている。 

 ある種、地下闘技場に相応しくない──いわゆる暴走族と呼ばれる人種の少年少女たちであった。

 

「アッ、そォレ!!!」

 

 禿頭にサングラスの、妙に貫禄がある少年が柵に登って、音頭を取っていた。

 手に、扇子を持っている。

 三拍子のリズムに合わせて身体を左右に曲げ倒していた。

 

「チッ・ハッ・ルッ!!」

「チッ・ハッ・ルッ!!」

「チッ・ハッ・ルッ!!」

 

 扇子が翻るたびに名が通る。

 その行為を疎ましく思っている観客は、存外少なかった。

 

「チッ・ハッ・ルッ!!!」

「チッ・ハッ・ルッ!!!」

「チッ・ハッ・ルッ!!!」

 

 それどころか、一糸乱れぬ統率は、見ていてどこか爽やかでさえあった。  

 格闘士たちの目と耳も、自然とそちらを向いた。

 

「おお〜、すげェなあ」

 

 控室のモニター越しに、獅子尾龍刃が言った。

 感心の音色である。

 加藤清澄は苦々しく眉を顰めた。

 

「クソガキどもがよォ……()()が、どういう場所なのか、まだ理解(わか)ってねェのか」

 

 舌打ちをひとつ添えて、吐き捨てた言葉であった。

 嫌悪が滲んでいる。

 それは、あの応援団に対してだけではない。

 むしろ、あの応援団が自らのリーダーと崇める、男に対してであった。

 

 柴千春──

 

 聞いたこともない。

 当然である。

 格闘技の素人だからだ。

 扱うものは、ステゴロ。

 所属は暴走族──つまり、街の喧嘩屋(チンピラ)である。

 喧嘩屋とひとことで言っても、例えば花山薫のような男であるならば、加藤の嫌悪はさほどでもなかっただろう。

 しかし、全選手入場で威風堂々と闘技場に歩み出た柴千春の()()は、加藤の目から見ても、とてもじゃないが強者の臭いとは程遠い凡人の()()であった。

 

 その柴千春が相対する男が、また、ただものではない。

 

 丹波文七──

 

 空手の世界では、有名な男であった。

 ことさら、実戦の──と前置くならば、今、話題の渦中にいる当人である。 

 

 FAW──つまり、プロレスにケンカを売った男である。

 北辰館──つまり、空手にケンカを売った男である。

 つい最近、FAWのリングに上がって堤城平を敗った男である。

 一部の門下生には蛇蝎の如く嫌悪されているが、FAWのグレート巽にも、北辰館の松尾象山にも一目置かれている男だという。

 加藤の耳にも、その名声は届いている。

 表からも、裏からも問わずに。

 

「順当に行けば、丹波文七の勝ちだろうね」

 

 龍刃は言った。

 言い切らなかった。

 それが、加藤にはなんだか気に入らなかった。

 

「どういうことだよ、オッサン」

 

 丹波文七が、あのチンピラに負けるとでも言うのかい?

 加藤の言葉はそういう含みを持っていた。

 そして、それこそが、加藤の嫌悪の正体だった。

 空手を、真剣に学んだ人間が、街の喧嘩自慢に負けるわけがない。

 加藤には、少なくともそういう自負があった。

 自身に対する自負であり、空手に対する無意識の信頼……いや、啓蒙と呼べるものだ。

 路上の真剣勝負にて、素人に不覚を取る格闘技のプロ(アスリート)というのは、しばしば聞く話ではある。

 だが、本当に空手を学んでいるヤツは違う。

 空手はスポーツではないからだ。

 ましてや、愚地独歩が教えている──身につけている空手は、スポーツ空手ではない。

 愚地独歩の空手は、実戦のための武術だ。

 ケンカに勝つための空手だ。

 ある日、突然開始(はじ)まるそれだ。

 その時は、当然、相手が武器を持っていることがある。

 相手が多人数であることがある。

 路上のケンカは試合とは違う。

 その多くはタイマンで、素手同士で、審判がいて、観客がいて、向かい合ってのヨーイドンではない。

 不意打ち武器持ち多人数の()()()()()()こそ実戦なのである。

 正々堂々(スポーツマン・シップ)など、微塵の期待もできない場だ。

 そういう場面で『勝つ』ために身につけたのが、神心会の、愚地独歩の空手だ。

 そして、丹波文七の武勇に聞く限り、文七の学んだ空手もそういう類のものに違いない。

 

 だから、この試合は柴千春に勝ちの目はない。

 

 ──というのが加藤の認識であり、当然それは、獅子尾龍刃の認識でもあると思っていたのである。

 ところが、獅子尾龍刃は文七の勝ちを言い切らなかった。

 丹波文七の勝ちを、ホンのわずかに疑っていた。

 加藤には、それが気に入らないのである。

 

 獅子尾龍刃はにやりと笑って、むくれるなようと言った。

 加藤はケッ、とわざとらしく悪態をついた。

 

「刃牙くんは、どう思う?」

「……おれは、加藤さんの意見に賛成っスね」

「ありゃ、そうなのかい?」

「獅子尾さん。今日、ここにいる連中は、いつ、どこでヤるとしても、それが世界最高の闘争(たたか)いになるってヤツばっかりですから。流石に、ズブの素人が勝てるとは思えません」

 

 ふうん、と龍刃は言った。

 

「愚地さんはどうです?」

「おいらァ、わからんねェ」

「わかりませんか」

「オウよ。どんなに()()()()で強かろうが、弱かろうが、男がふたり……向かい合ってヤりあう以上、何が起こるかわかったモンじゃねえからなあ」

「さすが愚地さん。おれも、そう思うよ」

「っていうか加藤やい、オメェさんは、ついさっき()()を味わったばっかりじゃねえのかい?」

「…………っってもよォ」

 

 独歩の言う通り、加藤清澄が純・ゲバルに勝てたのは、あくまで地下闘技場のルールと、加藤の覚悟がゲバルの矜持──その在り方の琴線に触れたからであって、加藤清澄がゲバルと路上で出会ってケンカをやり出したなら、一〇〇回中九九回は圧倒的に負けてしまうだろう。

 だが、勝ちを手繰り寄せた、覚悟を発揮できるところまで行けたのは、加藤にも一定以上の武力があったからに他ならない。

 加藤はズブの素人ではない。

 愚地独歩に師事を受け、曲がりなりにも命を取り合う場で経験を積んだ下地がある。

 それを、獅子尾龍刃、ジャック・ハンマー、繰神怜一と言った一流どころが叩いてこねて練り上げて、今日を迎えている。

 柴千春はど素人だ。

 それは間違いない。

 しかし、地下闘技場に──最大トーナメントに光成が参戦を許可している男でもある。

 見目の強さが常識通りではない怪物というなら、範馬刃牙や宮沢熹一がそうだろう。

 

「まあ、とりあえず見届けようか。御老公が文句を言ってねェってことは、柴千春もそれなりのモンを持ってんだろう」

 

 龍刃に言われて、加藤はモニターに目を向けた。

 闘技場の中央で、歓声を全身に浴びる位置に、柴千春と丹波文七が向き合っていた。

 

 

2.

 

 

 柴千春はタバコを咥えていた。

 根元を噛み潰して、口から上向きにのびている。

 特攻服を羽織り、腕を組んで仁王立ちしていた。

 斜め上にあげた顔から、丹波文七を見下すように視線を投げている。

 威嚇的な象形を造る千春に対し、丹波文七は静かに、視線から逃れるように顔を伏せていた。戦意も闘気も感じられない立ち方であった。

 

 柴千春がタバコを手に取って、顔を前に迫り出した。文七の目の前で、そのタバコの火を首筋に押し立てて、二回、三回と捻って潰す。

 血走った眼を見開いて、上唇を捲り上げながら、千春は「殺すぞオラァ」と言ったが、文七はうんともすんとも言わなかった。

 

 審判からのルール説明が終わり、二人が闘技場の端に寄った。

 柴千春が特攻服を脱ぎ、その背中に彫り込まれたキングギドラがお披露目される。

 それに、あるものは感心を寄せ、あるものは好奇の笑みをこぼした。

 

 審判が退場して、太鼓が打ち鳴らされた。

 

 試合開始から僅か七秒。

 柴千春は、闘技場に顔を沈めていた。

 

 

3.

 

 

 太鼓が打ち鳴らされた瞬間だった。

 文七の動きは速かった。

 音が、十全に響終わる前に、柴千春の目前に走った。

 全くの静的な動きから、いきなり、フルスロットルの動的な加速が行われた。

 柴千春は素人の常として──突然の猛威にたまらず右拳を出した。

 反応できただけ大したものだった。

 が──その右腕を押し除けるように、文七の加速が乗った、左のハイキックが千春の右のこめかみに突き刺さっていた。

 

 ごろりと、千春が地面に転がった。

 試合開始から、僅か七秒の出来事であった。

 

 

4.

 

 

 闘技場は湧いていた。

 丹波文七の猛襲。

 秒殺劇、ここに成るか!?

 多くの観客が、丹波文七の大胆さに惚れ惚れとした拍手を送っていた。

 柴千春の親衛隊たちは、阿鼻叫喚に千春の名を叫んでいた。

 

 格闘士たちの反応は、大きく分けて「ま、なるわな」と息を吐くものと、丹波の猛々しいハイキックに無言で頷くものとに別れていた。

 

「あらあ、これで終わりか」

「ほら! だから言ったじゃねーか!! 無理なんだよ、ど素人が地下闘技場(ここ)でヤろうなんてよ!!」

 

 ぽりぽりと頬を掻く龍刃に、加藤は持論の正しさを捲し立てた。

 範馬刃牙も、内心は加藤に同意していた。

 ここは、この大会は、素人が根性や気合いで勝ち抜ける場じゃない。

 ましてや丹波文七を相手に、素人の喧嘩自慢が通じるはずもない。

 闘技場の現在は当然の結末であって、格闘士の誰も、そこに疑いは持たなかった。

 

 ──ただひとりを除いて。

 

 そのひとりとは、花山薫であった。

 この場にいる参加選手の中で、柴千春の、柴千春ゆえの強さを知る唯一の漢であった。

 

 

5.

 

 

 丹波文七が残心を解かない。

 どシロウトを前にして、一切躊躇なく、本気のハイキックを打ち込んだ。

 それを、大人気ない──と非難するものはいない。

 闘技場に立つということは、そういうことだからだ。

 格闘士も観客も理解(わか)っている。

 だから、ここにおける疑念は別だ。

 

 なぜ、追撃しないのか?

 

 文七は、伏目がちに顔を傾けて、構えはそのままに倒れた千春を見下ろしていた。

 表情が読めない。つまり、心が読めなかった。

 暗い表情には違いない。

 ある種の冷徹さも孕んでいる。

 しかし、それは、誰もが知らぬ、誰もが初めて見る丹波文七の表情(かお)であった。

 控室で眺める姫川勉ですらが、文七の不自然に軽い困惑を覚えていた。

 いつもの丹波文七なら、ここで追撃している。

 姫川は記憶を遡る。

 いや、あった。

 こうなっている、丹波文七を、一度だけ見たことがある。

 

 梶原年男と決着をつけようとしていた、あの時だ。

 

 あの時の文七は、哀愁を纏わせていた。

 屈辱を濯ぐために、屈辱を味合わせた梶原にリベンジできるチャンスの時だと言うのに、あの時の──公園の冷たい夜風に晒される文七の眼には、哀しみが灯っていた。

 あの時の文七の臭いは、今なお思い出せる。

 野生の獣じみた普段と打って変わった、何か、こう……この世の全てを諦めたような……神仏の彫刻に醸し出されるような……どこか、世を捨てたような諦観の念が浮かんでいた。

 

 その後には、文七は梶原と戦っているし、決着はこそつかなかったものの、その戦い自体は姫川の記憶に鮮明に焼き付けられる美しさがあった。

 

 あの時の文七が、今、闘技場に立っている。

 あの哀愁の底には、何が漂っているのか。

 ライバルである堤城平が、ロロン・ドネアに完敗を喫したからであろうか。

 あるいは、文七が勝ち残り、自身とまた戦うために、肩に力が入りすぎてナイーブな気持ちになっているとでもいうのか?

 姫川は凝視する。

 ひとの感情を読むのは得手としている。

 ひとの機微を探るのは得手としている。

 だが、今の文七からは、読めない。

 だから、姫川は文七の秘めしものに、興味を抱いていた。

 

 何を想う──丹波文七?

 

 

6.

 

 

「立つぜ」

 

 自身の背後から、ぽつりと溢れた声に、獅子尾龍刃は振り返った。

 加藤と、刃牙も振り返った。

 花山薫であった。

 白スーツの上から骨折した右腕を固定して、肩に吊るしている。

 それ以外の身なりは、いつも通りの花山であった。

 何事もない顔で、清潔感と雄々しさに包まれていた。

 凛とした表情で、何の疑いも持たぬ顔色で、モニターに眼をやっている。

 

「立たせるかな……?」

 

 獅子尾龍刃は言った。

 音に、いたずらめいた調子が乗っている。しかし、煽っているわけではなく、純粋に疑問だった。

 ここに至る人生において、根性や、気合いだけでケンカをヤる人間を、獅子尾龍刃はたくさん見てきている。

 戦後の、暴力に歯止めがなかった時代。

 一度ひとに舐められたら、人格どころか人生までもが地に堕とされてしまう時代を生きてきた。

 成り上がらんとする誰もが、暴力ありきで人生を歩んでいたから、気合いと根性はことさら騒ぎ立てるまでもなく、備えていて当たり前だった時代だ。

 自らの師でもある、力剛山もそうだった。

 力剛山こそ、そうだった。

 

 そして、あの丹波文七とは、そう言う時代に生まれて、今に移り行く時世の中で、ひとが捨てていったものを持っている。  

 それは、あの時代に生まれても、ひと山の財産を築けたかもしれない暴力の才能である。

 

 龍刃の言葉を真っ直ぐ受け止めて、花山は言った。

 

「立つぜ」

 

 道理を無視した言葉であった。

 信頼のみを注いだ言葉であった。

 獅子尾龍刃は「ふうん」と呟いて、微笑を携えて、モニターに眼を向けた。

 

 

7.

 

 

 立ちあがろうとする柴千春の手の甲を、文七の足刀が穿った。

 言葉にならないうめき声を、千春が発する。

 顔が苦悶に沈み、その頭頂部を掬い上げるように、文七は上段蹴りを放った。

 文七の足の甲からすねの部分が、千春の鼻っ柱を潰しながら、頭部に食い込んで跳ね上げた。

 打撃の軌跡を辿るように、鼻血が孤を描いて吹き昇る。

 文七は追撃した。

 立ち上がって、そして地に落ちる千春の左の鎖骨に向かって、鉄槌を振り落とした。

 ザキッ、と音がした。

 鎖骨が、綺麗に折れた音だった。

 千春は膝をついた。

 左腕が、だらんと垂れ下がった。

 蹴りの衝撃で、左の目玉が半分、飛び出ていた。

 

「……ヘッ」

 

 笑った。

 笑ったのは、千春であった。

 痛みへの反応ではない。

 怒気を孕んでいた。

 曲がっていた鼻を伸ばし、親指で眼を押し込んだ。

 血走った眼が、ぎょろりと文七を睨みあげた。

 文七の額から、音もなく、ひと筋の冷たいものが落ちていった。

 ゆっくりと、千春が立ち上がった。

 

 

8.

 

 

 死ぬほど苦しいはずだ。

 

 範馬刃牙はそう確信する。

 柴千春の体内では、今、文七の打撃によって、内臓が爆発しているはずだ。

 千春の細胞はめちゃくちゃに掻き回され、火山の噴火もかくやという激痛が暴れ狂っているだろう。

 まともな防御もできていない。

 呼吸すら苦しいはずだ。

 だというのに──

 

 戦意が全く衰えていない。

 まだ、ヤる気だ。

 

 答えを求めるように、刃牙が、隣に立った花山を見上げた。

 花山の表情は岩のようだった。

 いつものように佇んでいた。

 こうなることが、まるで、不自然ではないかの如く。

 柴千春がこう在ることが、まるで、読み慣れた本に目を通すような、既知に溢れるような眼であった。

 

「勝つぜ」

 

 言った。

 それは、刃牙に対する言葉というより、己に確認を促す呟きであった。

 刃牙が、再びモニターを見た。

 

 柴千春は立ち上がっていた。

 

 

9.

 

 

「どーいうつもりだァ? テメェ……?」

 

 千春の呼吸は乱れている。

 しかし、吐き出された言葉は、痛みを超越した頑固さによってつぶてのように固まって、文七に向けられた。

 

「どこ見てケンカしてんだよオラァッッ!!」

 

 千春の怒鳴りに、観客がどよめいた。

 意味がわからなかった。

 千春の顔面に青筋が浮かんでいる。

 本気で怒っている。

 それは、わかる。

 

 千春は、全く遠慮なく、文七の間合いに詰め寄った。

 文七の左フックが千春の頬に刺さった。

 なんという、キレの悪いフックであろうか──

 もらいながら、千春は前に出た。

 少しものけぞらなかった。

 つ、と文七が後退(さが)った。

 千春は遠慮なく、前に詰めた。

 

「どこ見てケンカしてんだコラァッッ!! 相手はッ、このおれだろうがオルアァッッ!?」 

 

 足を止める──

 そう思ったのだろう。

 文七はローキックを放った。

 それは、全く何の障害もなく、千春の足を穿った。

 同時に──

 

 千春の顔面が、文七の鼻っ柱に突き刺さっていた。

 千春は、身体全体で、前のめりに、一切の防御を捨てて突っ込んでいた。

 文七がのけぞった。

 千春の額に、ねばりのある血がしたたっていた。

 文七は、コンマ一秒で体勢を整えた。

 しかし、そのコンマ一秒に、千春の顔が割り込んだ。

 今度は、文七は手のひらで受けた。

 凄まじい重さであった。

 文七はそのまま千春の顔を握り、持ち上げた。

 そして、堂々開いた千春のボディに、ショートアッパーを突き立てた。

 文七の手の中に、千春の吐瀉物が吐き出された。

 それを意に介さず、文七は千春の顔を鷲掴みのまま、二度、三度とボディを打った。

 

 しかし、効いていない。

 これは、効かない。

 パンチのキレが悪い。

 丹波文七のショートアッパーとは、本来ならば巨漢のレスラーの肉体を一撃で宙に打ち上げ、悶絶させる破壊力がある。

 

 残念ですね──

 

 そんな言葉を、あるいはぽつりとこぼしたのは、姫川勉だっただろうか。

 その声が、言霊のように力を持ち、文七の耳に聞こえた気がした。

 

「おい……」

 

 掠れた声に、文七は呼ばれた。

 柴千春だった。

 千春の顔が、文七の顔のすぐ前にあった。

 吐瀉物が滑りとなって、千春は文七の掴みから抜け出していた。

 

「オルアァッッ!!!」

 

 右の大振り──

 いかにも、シロウトのそれ。

 文七は千春の拳を捌こうとした。

 だが、捌けなかった。

 千春の拳より先に、千春の頭頂部が文七の顔にぶつかってきたからである。

 ぐちっ、と鼻の軟骨が潰れる音がした。

 反射として、目尻に涙が溜まる。

 文七は、まるでシロウトのように、反撃の拳をただ走らせた。

 それに対し、避ける動作など一切せず、千春が頭突きを行った。

 ぼぐっ、と音がした。

 千春の額に大きなこぶができた音であり。

 文七の拳が、付け根から折れた音だった。

 

 

10.

 

 

 戸惑いがあった。

 ──己の運命に対して。

 申し訳なさがあった。

 ──己の、宿敵に対して。

 

 井野康生から伝え聞いた、自身の避けられぬ宿命。

 あの日、斎藤の死体を横に、ヤクザと命懸けでケンカをした日に確信した、己の宿業は、底なしの深淵に横たわる、人の身にあまる根深いものだった。

 それを払拭したくて、闘争(たたか)いを望んでいた。

 もっというと、堤城平とヤりたかった。

 しかし、堤城平はロロン・ドネアに敗れた。

 自分の一回戦の相手は、どシロウトだった。

 失望していた。

 運が良いとは思わなかった。

 暴走族──勝てて当たり前の相手でしかない。

 ロロン・ドネアは間違いなく世界最強級の格闘士だ。

 松尾象山級と言っても、差し支えないかもしれない。

 そのレベルの相手に、己の全てを使用(つか)い切って、放出(だし)切った堤城平に申し訳がなかった。

 

 その、勝てて当たり前の相手に、拳を折られた。

 

 戸惑い──

 間──

 呆然──

 それは、隙──

 

 柴千春が、文七の顔面に顔面を叩きつけた。

 

 えげつない攻撃であった。

 顔面とは、ひとの、急所の塊である。

 確かに頭蓋骨は最も硬く、頭部とは最も重い部分だが、それにしたって弱点そのものすぎる。

 それを、躊躇なく拳に差し出してきた。

 結果として、文七の手首は折れた。

 柴千春の眼は──まだ、闘志に溢れてるギラついている。

 

 柴千春の向こうみずな闘志は、闘技場に想定外の熱量をもたらしていた。

 観客がワッ、と騒いだ。

 ほっほ、と誰がが愛らしく笑った。

 獰猛な笑みを浮かべているものもいた。

 千春は、その熱気を己の内に取り込んで、笑って見せた。

 文七が、それを見た。

 

「ケッ! よーやく……こっちを見やがったか」

 

 嬉々とした色の声であった。

 血と粘液に塗れた顔であった。

 戦力差を理解している顔であった。

 しかし、負ける気負いが微塵もない(かお)であった。

 

「男のゴンダってェのはよお……」

 

 昔っから変わらねェよ。

 おれと、そいつがいれば良い。

 と、千春は言った。

 他は、必要ねえ。とも言っていた。

 

「ここまで言って、わかンねえバカならしょうがねぇ……勝ちはもらうぜ」

 

 文七は……微笑した。

 柴千春は笑っていた。

 満面の笑みではない。 

 どこか……諦観の念がこもった表情であった。

 自分で、とんでもないことをやらかして、自身の愚かさを嘲笑するような色でもあった。

 

 文七が構えた。 

 その瞳の中に、しっかりと、柴千春が映っていた。

 

 

11.

 

 

 一方的であった。

 一方的に、柴千春が殴られ始めた。

 文七は、綺麗な空手を使っていた。

 例えば、胸を打ったのは、真っ直ぐに伸びる正拳突きであった。

 例えば、千春の大袈裟な蹴りを蹴り返したのは、綺麗な上段回し蹴りであった。

 シロウトのパンチを、空手の受けで綺麗に外に捌いた。

 返す刀で、千春の顎に刻み打った。

 千春が、呻きを堪えて顔を上げると、待ち構えていた逆正拳突きが、頬を貫いた。

 

 文七の眼は澄んでいた。

 人を殴りながら、滲み出ているのは狂気と──愛情であった。

 

 千春の顔がみるみる変形していった。

 千春の身体がどんどんとデコボコになっていった。

 

 それでも、柴千春は手を出し続けた。

 闘志はますます燃え上がり、柴千春を中心に、闘技場を熱波が渦巻いていた。

 

 

12.

 

 

 敬意を持って、文七は千春を殴っていた。

 思えば──おれも、こうだった。

 強くなりたくて、強さを証明したくて、ケンカを売って歩いた。

 自分が弱いなんてゼンゼン思ってなくて、それで、斎藤に負けた。

 その斎藤が、空手を教えてくれた。

 その斎藤が、ヤクザにケンカで殺されて、そのヤクザを自分の手で叩きのめして、自分はこういう風にしか生きられないと悟った。

 

 強くなったと思った。

 そして、梶原に出会って、叩きのめされた。

 そこからまた、血のしょんべんを出し切るまで鍛え上げた。

 

 いつだって──

 いつだってそうだった。

 おれは、挑戦者だった。

 おれより強いやつは、世の中にはまだまだいて、おれは、そいつらに挑む生き方をしていたハズだった。

 

 いつから──

 おれは、強者の側に回っちまったんだい?

 いつしか、調子に乗っていた。

 泉宗一郎に勝って、梶原にリベンジして、堤城平に勝って、空手家としての自負が身に付いた。

 グレート巽に認められ、松尾象山に一目置かれて、姫川にだって、本当は負けないほどの力を持っている──と思い込んでいた。

 情けない。

 情けない。

 おれは、忘れていた。

 舞い上がっていた。

 地上最強の生物──範馬勇次郎がいる。

 地上最強の人類──申武龍がいたところで、おれが、いまさら、何にビビる必要があったんだい?

 積み上げた積み木が崩れるのを、いつしか、おれは恐れていた。

 そうじゃない。

 丹波文七は、そうじゃなかった。

 おれは、かつて、柴千春だったじゃないか。

 柴千春のように、自分が強いこと──強くあろうとすることに、自信満々だったじゃないか。

 なんの負い目もなく、全てを強さのために、捨てられた。

 それが、なんて無様だ。

 今、捨てられなくなってたじゃん。

 積み上げたものが、いつのまにか愛おしくなって、捨てられなくなってたじゃん。

 バカだ、おれは。

 柴千春──

 純粋(きれい)じゃねェか。  

 まぶしいじゃねえか。

 拳が、いてえじゃねえか。

 シロウトの力じゃねえ。

 おれも、そうだったんだよ。

 昔は。

 一生懸命に、無我夢中だったんだよ。

 いいパンチじゃないか、千春さん。

 ありがとう、千春さん。

 思い出せたよ。

 立ち戻れたよ。

 いつだって立ち戻れた、そこに──

 

 丹波文七が、ようやく、帰ってきたよ。

 

 

13.

 

 

 柴千春が血を吐いた。

 ドロドロの血であった。

 顔は、青あざや変形を通り越して、殴られた場所が切れていた。

 舌がはみでているのは、顎が砕けているからだ。

 呼吸が苦しそうだった。

 全身、余すことなく痛めつけられていた。

 

 それでもなお──闘志に些かの衰えもない。

 

 だから、文七は丁寧に丁寧に殴っていった。

 

 誰も、それを止めなかった。

 凄惨な光景なのに、誰も声を上げなかった。

 幸せそうだったからだ。

 丹波文七はもちろん、柴千春が。

 身体はぼろぼろなのに、心が活き活きと跳ねているのが見ていてわかったからだ。

 控室の刃牙たちも、声を失っていた。

 なぜ、柴千春が、こんなことができるのか──格闘士の彼らにさえ、理解が追いつかない。

 

 ただ、花山薫だけが、いつも通りだった。

 

 

14.

 

 

 柴千春が、ふらふらと闘技場を歩き出した。

 明後日の方向に身をもたげた。

 文七は、静かに拳を引いた。

 

 死ぬ──

 

 この拳が入ったら、柴千春は死ぬ。

 そして、丹波文七は躊躇いなく打つ気だ。

 誰かが思った。

 誰もが思った。

 鎬紅葉が駆け出した。

 控室に静かな緊張感が走った。

 刃牙が目を見開いて、ダメだァッッ!! と叫んだ。

 

 しかし、誰の願いも、文七の拳を止めることはできなかった。

 文七の拳は、真っ直ぐに放たれた。

 

 柴千春の命に向かって────

 

 

15.

 

 

 拳が空を切った。

 文七が外したのではない。

 柴千春が、倒れたのだ。

 自らの意志ではない。

 あの、急な倒れ方は、誰かに倒されたのだ。

 

 文七が、千春の足首に目をやった。

 鎖分銅が巻き付いていた。

 その鎖の先に、目をやった。

 

 本部以蔵が、そこに立っていた。

 

 

16.

 

 

 会場がざわついた。

 徳川光成も、さすがに困惑していた。

 

 闘技場で、丹波文七と本部以蔵が向かい合っている。

 本部は通路際に立っている。

 その手に、鎖分銅が握られている。

 分銅の巻きつく先は、柴千春の足首である。

 柴千春は気絶していた。

 

 文七と本部はしばらく睨み合っていた。

 が──審判たちが立ち入る前に、本部から口を開いた。

 

「見過ごせん」

 

 断固たる口調であった。

 

「ここで、わたしの眼の前で、手の届く範囲で──ひとが死ぬのは見過ごせんよ」

 

 文七は何も言い返さなかった。

 

 

「本部ェッッ!!!」

 

 言葉を差し込んだのは、徳川光成であった。

 闘技場に降り立ち、文七の横まで歩いた。

 本部と文七が、光成を見る。

 光成の表情は、怪訝なものだった。

 

「説明を……求めるぞ」

 

 よいな。

 と硬い声で、光成は言った。

 

「……丹波氏は、柴千春を殺す気でした」

 

 本部は、ぽつぽつと語り出した。

 しかし、それは、丹波氏の落ち度ではありません。

 柴千春が向かってくる以上、全力で迎え撃つのは武道家の本望。丹波氏は、何も間違っていない。

 丹波氏は、わたしや、ゲバル氏とは違うタイプの武道家です。

 殺さねば止まらぬというなら──それができる。

 わたしがこうしていなければ、柴千春は死んでいました。

 当然の行いの、当然の帰結として。

 

「だから、わたしはわたしの武に従って、柴千春を救助(たす)けたのです」

 

 隣人を護ることこそが、現代に生きる武の在り方。

 それこそが、本部以蔵が先人から学び、現代にまで適応させ続ける武の姿。

 ならば、隣人たるものを、暴力から救うのは当然の振る舞い。

 

 本部は言い切った。

 なんの負い目もなく、強い言葉で。

 

「もちろん、これは地下闘技場ではわたしの反則です。ゆえに、わたしの一存で千春氏を反則負けに処す行いになります」

 

 処罰は、なんなりと。

 本部は軽く頭を下げた。

 ほんの少しだけ。心の所作の具現化として。

 光成が腕を組んだ。

 むす、と口角を山の形に結んだ。

 

「なんか……」

 

 言った。

 

「わしの言うべきことを、全部言われてしもうたわい」

 

 若干不機嫌に眉を顰めて、観客に対して振り返った。

 

 裁定は下った。

 この試合、丹波文七の勝利である。

 

「────ッッ」

「不服なら……いつでもいいよ」

 

 本部は文七を睨め上げた。

 文七は眼を薄く閉じて、きり、と歯を噛み締め、ふ、と硬くなった意気を丸ごと吐き出した。

 

「いや──今はやめとくよ」

 

 そうして、丹波文七は闘技場から去っていった。

 その表情は、やはり、どこか釈然としない歪みをひそめていた。

 

 

 一回戦第一〇試合:勝者、丹波文七

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

16.

 

 

 本部以蔵が通路を歩いていた。

 だんだんと、人気のない方に向かっていた。

 

 彼は、理解(わか)っていた。

 あれをやってしまった以上、絶対に納得しない男がいることを。

 

 本部の足が止まった。

 本部の視線の先に、男が立っていた。

 

 巨大(おお)きな男であった。

 顔に、大きな刀疵を走らせていた。

 身長、一九六センチメートル。

 体重は一六〇キログラム。

 

 巨大(おお)きな手が、今、メガネを外したばかりであった。

 

「来ると思っていたよ……」

 

 本部の重心が前のめりになる。

 

 現れた男は、花山薫であった。

 




次回、一回戦第十一試合、ジャック・ハンマー対加納アギト 開始ィィッッ
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