【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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第二話:松尾象山vs獅子尾龍刃

0.

 

 

 巨躯(おおき)い、男であった。

 全てが太い男であった。

 

 空手──

 日本人が自国で生まれた武道を思う時、まず柔道と並んで名が上がる。

 正拳突きの名と、そのやり方は武術に疎いものでさえ知るところにあるだろう。

 由来は中国拳法であると言われ、沖縄、琉球王国に伝わったそれが「唐手(トゥディー)」という、拳足を用いて戦う武術へと独自の進化を遂げたものだ。

 

 それが、大正の時代に船越義珍というひとりの男によって、日本本土に上陸し、手に何も持たず敵を倒す術。

 すなわち空の手として『空手』と名を改める。

 

 およそ武士の世から存在する柔術に対し、手足による殴打を主体に敵を倒さんとする空手は、変わった武術であった。

 なぜなら、人間の手足は壊れるからである。

 例えば、思い切り握り込んだ拳で、力いっぱい人間の頭蓋骨を叩いたとする。

 確かに叩かれた頭蓋骨は割れるか、砕けるだろうが、叩いた拳もまた、砕けてしまうだろう。

 打撃において、人間を倒すために頭部を狙うのは当たり前の話である。

 人間は、胴体や手足をどんなに殴りつけられようと、筋骨内臓が折れたり千切れたりしない限りは立てるし、動ける。

 少なくとも、意識を失うことは滅多にない。

 だが、頭部を揺らすことができれば、すなわち脳を揺らすことになり、人は脳震盪を起こして簡単に倒れてしまう。

 

 武道全般における、才覚の差を埋める手段。

 身体の小さいものが、身体の大きいものを倒そうと考えるなら、如何にしてこの「脳を揺らすか」という点に要訣が置かれるのである。

 

 つまり、簡単に言えばわざわざ殴るのは非効率なのである。

 首を締めれば窒息する。

 間接を捻れば折れる。

 重心を崩せば投げられる。

 投げられれば、地面の状態によっては即戦闘不能にできる。

 あるいは、打ちどころが悪ければ即死させることも容易なのだ。

 

 人間の拳は、大抵握る人の顔よりも小さい。

 そんな小さなものを振り回して、敵を倒す。

 なんという不都合であろうか。

 意外と知られていないことでもあるのだが、パンチ(あるいはキック)というものは、それを打ち出し、狙った的に当てるのもひと苦労なのである。

 的に向かってまっすぐパンチを打つために、まず訓練が必要になるのだ。

 中国拳法も、柔術も、高級技法は超近接状態で、如何に効率よく消耗なく敵を倒すかという技になっていく。

 拳を振るい、蹴りを出し、遠い間合いの敵を、遠い間合いのまま倒そうとすることは、不合理であった。

 

 そんな不都合、不合理な武術だからこそ。

 それを極めんとする輩の理想はあるものに収束する。

 

 すなわち、『一撃必殺』である。

 

 拳ひとつで相手を倒す。

 どこに当てようと、一撃で終わらせる。

 これならば、まどろっこしく間接を極めたり、脳を揺らすことに執着する必要はない。

 

 この理想を掲げ、尋常ならざる修練を積むものが、なんの因果か同世代に二人、現れる。

 

 ひとりは、愚地独歩という男。

 後に、世界に一〇〇万人の門下生を預かる、神心会をうち立てる『虎殺し』。

 あるいは、『闘神(ファイティング・ゴッド)』と呼ばれる男だ。

 

 そして、もうひとりが、後にフルコンタクト空手団体『北辰館』をたてる、松尾象山という男であった。

 

 この二人がそれまでの空手家と違うところは、おおよそ全てである。

 

 尋常ならざる筋力鍛錬を行なった──

 武術の世界において、過剰な筋肉を身につけることは愚行であった。

 武に必要な筋力のみを身につける。

 それが近代武術の基本である。

 二人は、そんなスマートな思想とは真逆の道をいった。

 太く、大きく。

 そして強い筋力を求め続けた。

 

 尋常ならざる部位鍛錬を行なった──

 一撃必殺を成すためには、拳を、足を、頭そのものを鍛えねばならないと考えたのだ。

 尤も、この思想自体は当時はマイナーではあったものの、他の空手家も思いついたことではある。

 現に、空手道において真っ先に部位鍛錬を流派の必須項目に定めたのは、志誠館であるし、もとより中国拳法にも外功を練る修練は存在している。

 しかし、この二人のそれは、修練のやり方が異常であった。

 束ねた青竹に、全力で手刀を打ち込んだり、岩に向かって正拳突きを行ったり、非科学的にも程がある鍛錬を、ひたすらにやり続けたのである。

 

 そうして、狂気の鍛錬を積み重ね。

 もはやそれが自らの強くなることへの信仰となった時。

 彼らの一撃必殺の空手は結実するのである。

 

 松尾象山はひと通りの鍛錬を終えると、日本を飛び出した。

 自己鍛錬はひと区切りをつけた。

 ならば、あとは実戦あるのみ。

 ならば、どこに行こうか──?

 

 なるべく治安が悪いところがいい。

 なるべく強い奴が多いところがいい。

 なるべく容赦ない奴がいるところがいい。

 バットやナイフ、ピストルを躊躇なく出してくる奴らがいるところがいい。

 

 松尾象山は、悩んだ末に、アメリカに決めた。

 

 勝戦国であり、日本人に対する憎しみが予想できる。

 自らの強さに自負を持っている連中が多いことも、なんとなく分かる。

 銃社会──言うまでもない、素晴らしい。

 

 松尾象山はそう決めたら、知り合いの開く闇市に赴き、資金を集めるとアメリカに飛び立った。

 

 

1.

 

 

 ふたりの男が見つめあっている。

 

 リングの上で。

 その光景に、会場が呑まれていた。

 太い男であった。

 ふたりとも。

 良い眼をしていた。

 ふたりとも。

 

 リングに上がった男──松尾象山は範馬勇一郎を見ている。

 キラキラと宝石のような眼であった。

 好奇心と純朴さが溢れて溢れてたまらない様子である。

 範馬勇一郎は、それを受け止める。

 ふたりの世界が、ふたりだけで完結していた。

 

「範馬さん」

 

 松尾象山が、言った。

 

「日本の武道家で、アンタの名前を知らんヤツはいねェ。おいらもそうさ。ずっとずっと、アンタとヤって見たかった」

 

 松尾象山が笑っている。

 太い顔で笑っている。

 吸い込まれそうな笑顔であった。

 事実、その一挙手一投足は、会場の人間の意識を吸い込んでいる。

 

 ふふ、と範馬勇一郎が笑った。

 

(あん)ちゃん」

 

 勇一郎が言った。

 優しい声色であった。

 

「おれと喧嘩したいンならよ、わざわざ前に出てきてそんなこと言わず──いきなり、背後から襲ってくれれば良かったのによ……」

 

 なんと恐ろしいことをいうのか、範馬勇一郎。

 ヘッ、と松尾象山は苦笑する。

 

「よく言うぜ。おいらァ背後からずっと狙ってたんだが、隙なんて、まるで無かったぜェ?」

「じゃあ逃げればよかったのによ。堂々と正面に出てきてくれるなんて。(あん)ちゃん、真面目なんだなァ」

「……まァ、それもそうだよな。けどよ、アンタの背中ァ見てるとよ、嬉しくってな、楽しくってな。つい、出てきちまったゼ」

 

 ──で、

 

「やるかい、松尾くん?」

「もちろん、範馬さん」

 

 ぐにゃり、

 その言葉が終わると同時に、ふたりの間の空間が、目に見えて歪み始めた。

 闘気。

 濃密で、熱く、量感に溢れる太い闘気が、空間を歪めている。

 

 ふたりの重心が、心なしか前に寄っていく。

 

「──だけどなァ」

 

 と、口を挟んだのは範馬勇一郎であった。

 

「おれはね、一応プロレス興行でアメリカに来てるンだよ。だから、ケガするわけにはいかないのさ」

 

 あっけらかんとした表情であった。

 闘気が消えていた。

 その緊張感の無さは、まだうら若い松尾象山の心にも届いていた。

 

「ハァ?」

「いや、だからよ。松尾くん。おれと戦いたいンなら──まず、おれの付き人のリュウちゃん」

 

 

 獅子尾龍刃を倒してから、挑んでくれないかい?

 

 

 急に話を振られて、龍刃は驚きに喉を鳴らした。

 

 松尾象山の太い眼が、じろりと龍刃に向けられた。

 

 

2.

 

 

 リングの対角線上で、松尾象山と獅子尾龍刃が向かい合っている。

 

 松尾象山は空手着。

 獅子尾龍刃は動きやすいとはいえ、普通のシャツにズボンである。

 

 松尾象山のその顔には、

 「なっちまったもんはしょうがねえか」

 とでも言いたげな、

 「これはこれで楽しむかァ」

 とでも言いたげな、

 気楽の感情が浮かんでいる。

 

 獅子尾龍刃は、まだ少し、困惑であった。

 この状況に対する困惑ではない。

 

 目の前の太い男。

 松尾象山の戦闘能力を嗅ぎ取ったが故の、困惑であった。

 

「カーン」

 

 と範馬勇一郎が言った。

 楽しげに。

 

 すると、松尾象山はゆるりと動き始めた。

 まるで散歩に行くような足取りで、

 真っ直ぐ、龍刃に向かって歩き出した。

 

 

3.

 

 

 龍刃は戸惑った。

 真っ直ぐだ。

 松尾象山の歩みは、まっすぐだ。

 これから人を殴ろうとしている男の動き方では無かった。

 

 気づいた時には、すでに、間合に入られていた。

 

 前蹴り。

 これもまた、まっすぐであった。

 龍刃の身体の中心、臍下に向かって、まっすぐに飛んできた。

 龍刃はすかさず腕を十字に組んで、ブロックした。

 

 重────?

 

 がしゃあん!

 と音がした。到底、蹴りの音ではない。

 ぷちぷちっと腕の筋繊維の切れる音は、ブロックした龍刃にしか聞こえなかっただろう。

 龍刃の身体が、蹴りの軌道に従って持ち上がった。

 一〇〇キロに迫ろうという身体が、蹴り一発で持ち上げられた。

 

 そのままコーナーマットに背中からぶつかる。

 手が、痺れていた。

 

 ──なんだっ!

 なんだ、この蹴りはッッ!?

 

 驚愕する。

 松尾象山の足は、硬く、重かった。

 人間の足の感触では無かった。

 龍刃の殴られた経験の中で、これに近い感触は鉄アレイだった。

 そこそこの長さの鉄アレイが、恐ろしい速さで急所に飛んできたのだ。

 

 のし、と松尾象山が再び歩きだした。

 フットワークなどない。

 ただ、目標に向かって最短距離を、普通に歩いてくる。

 

 止めなきゃ!

 

 と思い、龍刃はパンチを打った。

 松尾象山の顔に、それらは何の抵抗もなく吸い込まれた。

 あたる、

 あたる。

 身長差がある。

 龍刃の方がリーチが長い。

 龍刃の方が、間合いは広い。

 

 だが、気づいた時にはもう、松尾象山の間合いであった。

 正拳突き。

 龍刃は拳を受けず、横から弾こうとした。

 しかし、弾けない。

 胸に、松尾象山の正拳突きが刺さった。

 

「ガハッ!!」

 

 ずぐんと、何か重い、拳大の鉄の塊が胸に沈み込んできた。

 胃の中のものが迫り上がってきて、口から吐いた。

 下がった頭を狙って、松尾象山の太い足が登ってきた。

 

 綺麗な上段蹴りとなった。

 龍刃の顔は松尾象山の足に跳ね上げられ、弧を描いて真上に吹き飛んだ。

 

 死んだ、と観客の一部は思ったことだろう。

 

 だが、獅子尾龍刃は立っていた。

 

 

4.

 

 

 強い。

 獅子尾龍刃は、顎が砕けそうになる痛みの中で、そう思っていた。

 

 松尾象山。

 なんて男だ。

 なんてまっすぐに人間を壊しにくる男だ。

 ただのパンチが防げない。

 ただの歩みを止められない。

 普通の人間ではない。

 ただトレーニングを積んだだけの人間ではない。

 気の狂うような鍛錬をやり続け、狂気に堕ち、それをこなし切った人間だ。

 この拳は、拳より硬いものを叩き続けて、いつしかその硬いものより硬くなった拳だ。

 

 龍刃にはそれがわかる。

 なぜなら、自分の身体もまた、似たようなものだからだ。

 

 元々から、類稀な肉体を持って生まれた。

 それを、力剛山がより強く、逞しくしてくれた。

 力剛山の門下に入る前なら、きっと、最初の前蹴りで終わっていた。

 

 ──てめぇ! なんでプロレスやりてぇんだ!?

 

 力剛山の疑問に、自分はこう答えた。

 

 ──強くなりたいんス

 

 力剛は、さらに聞いた。

 

 ──おれよりもか!?

 

 龍刃は答えた。

 

 ──先生よりもです……!

 

 そして、力剛は本当に自分を強くしてくれた。

 

 龍刃の目に、涙が浮かんだ。

 熱いものが、ジワリと浮かんでいた。

 強くしてくれている。

 力剛は、自分を強くしてくれている。

 

 生まれた時、すでに身体がデカかった。

 父は、家族を守れる強さを持てと言って、戦地で死んだ。

 戦後の食糧難でも、母は強くなれと身体を売ってでも食わせてくれた。

 母がアメリカ軍の駐屯兵に強姦され、そのまま自殺した時も、遺言は「強くなれ」であった。

 

 涙が出てきた。

 涙が出てきた。

 

 その涙と共に、龍刃の中で、鎖が軋むような音がした。

 

 ギリィッッ!!

 がしゃん!

 がしゃん!!

 

 何かが──

 龍刃自身が知らない何かが、身体の(うち)側に充満している。

 それが、枷を食い破って、出てきそうになっている。

 

 なんだろうか。

 己に聞く。

 

 それは、戦え、と言ってきた。

 

 

5.

 

 

 松尾象山が、感心したように眼を丸くする。

 まだ、立っている龍刃に対する感心だ。

 いいのが入った。 

 岩を砕き、牛だって殺せると自負する、この松尾象山の拳が、蹴りが、いい感じに入った。

 なのに、倒れない。

 スゴいな、この男。

 身体はデカいが、まだ、ガキんちょだろうに。

 

 感心はするが、手は止めない。

 躊躇はない、容赦もない。

 松尾象山は称賛するが、それはそれとして龍刃の顔面に拳を振るう。

 それは、龍刃の額にぶち当たった。

 一旦弾かれて海老反りになり、ぐらり、と龍刃の身体が前のめりに倒れる。

 

「あ────」

 

 倒れゆく龍刃の声であった。

 

「あぎゃ────」

 

 龍刃の足が前に出て、強く、リングを踏み締めた。

 顔が上がった。

 姿勢が伸びた。

 快活な動きだった。

 血まみれの顔だった。

 

 笑っていた。

 

「あぎゃうああああああぁああああっ!!!!」

 

 龍刃は叫んだ。

 その声は会場全体を震わせた。

 人間の声とは思えない。

 鉄クズでガラスを引っ掻いたような、鋭く、甲高く、耳に残る声であった。

 

「あぎゃあっ!!」

 

 龍刃は松尾象山に飛び込んだ。

 タックル、というのも烏滸がましい動きだ。

 松尾象山は落ち着いていた。

 落ち着いて、右拳を引き、正拳突きを龍刃の頬に突き刺した。

 

 ぼこん! 

 と龍刃の身体が拳に弾かれる。

 しかし、弾かれながら、龍刃は突き出された松尾象山の右腕を掴んだ。

 そして、拳を頬からするりと離すと、松尾象山の懐に潜り込み、足を引っ掛けて軽々と倒した。

 

 ────!!

 

 これに、一番驚いたのは松尾象山であった。

 下半身の筋力鍛錬はもちろん、体幹を鍛える鍛錬は相当量をやっている。

 重心を崩されることへの耐性。

 倒されることへの耐性。

 持ち上げて投げられることへの対策のために鍛え上げた、松尾象山の重心を崩すことは並大抵の力では不可能である。

 

 それを、獅子尾龍刃はいとも容易くやってのけた。

 それも、柔のような技術は用いずに。

 単なる力で、足払いで、強引に松尾象山という巨木を引っこ抜いたのだ。

 

 掴んだ右腕を自らの胸に収めるように、関節を曲げていく。

 これは、先ほど範馬勇一郎がデストロイヤーにかけた関節技であった。

 

「おう!」

 

 松尾象山は両脚を思い切り振って、伸びた腕を起点に身体を回した。

 ねじった反動で龍刃の極めが緩み、脱出する。

 そのまま立ちあがろうとする松尾象山。

 しかし、龍刃の方がワンテンポ早かった。

 龍刃は、松尾象山の顎に跳び膝蹴りを打った。

 ぐうっと象山の顔が天井を向く。

 跳ね切らない。

 恐るべき太さの首が、衝撃をいくらか殺している。

 しかし、天を向かせることが、あるいは龍刃の目的であった。

 

「じゃあっ!!」

 

 頭突き──

 自らの脳天を、象山の脳天に思い切り打ち下ろした。

 ごちん! と音がした。

 お互いの額がぱっくりと切れて、血が吹き出して、混じり合った。

 

「ぐああっ!!」

 

 象山の顔を両腕で挟み込み、もう一発、龍刃が頭を打ち下ろした。

 額はとうとうぱっくりと割れた。

 リングに、小さな血溜まりができそうな量の血が溢れている。

 

 三度目は流石に不可能であった。

 松尾象山は頭突かれながらも立ち上がっていた。

 ぐらりと揺らいだ龍刃の、がら空きの腹に、中段突きを刺したからだ。

 

「げえっ」

 

 吐瀉物を吐いた。

 血が混じっている。

 肺から、酸素が全て、抜け切ってしまったようだ。

 苦しい。

 キツい。

 だが、

 

 だが、楽しかった。

 

 殴る、

 殴る、

 蹴る、

 殴る、

 叩く、

 頭突き、

 殴る、

 掴む、

 潰す、

 頭突き、

 噛む、

 殴る──

 

 松尾象山と獅子尾龍刃の戦いは、お互いがお互いに壮絶な打ち合いとなった。

 尤も、松尾象山は適度にミートポイントをずらしたり、額で受けたりして防御している。

 獅子尾龍刃は、そんなことは一切せず、己のありったけをぶつけていた。

 

 すごい。

 松尾象山。

 なんてヤツだ。

 全力で叩いている。

 身体が大きいおれが、全力で蹴っている。

 なのに、殴り返してくる。

 たまに、攻撃が効いていない。

 おれより太いけど、おれより小さいくせに。

 どんな鍛錬を積んだんだ、松尾象山!?

 おれだって、力剛山に──先生に、相当しごかれている。

 今、おれが初めて出会うおれの全てすら、使い切ってる。

 なのに、倒せないのか。

 強い!

 なんて強いんだ、松尾象山!

 なんてすごいんだ、松尾象山!

 

 獅子尾龍刃は、血まみれの、変形した顔で。

 

 心の底から、笑っていた。

 

 

6.

 

 

 ああ、もうダメだ。

 

 松尾象山は、たまらない夢心地の中にいた。

 興奮している。 

 こんなに殴っても、壊れない肉体があるのか。

 こんなに蹴っても、蹴り返してくる肉体があるのか!

 プロレスラー。

 タフだろうとは思っていた。

 だが、これはちょっと、凄すぎるだろうが。

 身体は相応にぶっ壊れてるはずだ。

 骨だって、いくつかは折ってる。

 内臓にダメージだって、入ってる。

 なのに、打ち返してきやがる。

 倒れねぇ、こいつ。

 すげェ。

 

 しかもよ、キレイなんだよ。

 こいつ、この、殴ってくる顔。

 恨みとか、怒りとか、そういうの、無いんだよ。

 ただ、純粋に、この松尾象山に向けて、全てをぶつけてきてるんだよ。

 こんなことができるやつは、おれぐらいだと思ってた。

 相手をぶん殴って、喧嘩に勝つ。

 だけど、おれたちは、相手を憎んじゃいけねェんだよな。

 いらねェンだよな、そんなもん。

 本当は、殴り合う相手のことは、愛してやらねェといけねえんだ。

 でも、それができるのは、おれだけだと思ってたよ。

 

 いや、おれと、そこで見てる、範馬勇一郎だけだと思ってた。

 力剛山のヤツは全然違う。

 それとは真逆の男。

 あいつの試合は、不純な感情がありすぎる。

 金儲けしたいだとか、成り上がりたいとか、そういう欲望を隠し切れてねェ。

 だから、プロレスラーってヤツは、まがいもんだと思ってた。

 

 違うんだな。

 プロレスラーってやつは。

 いや、プロレスラーの中にも、こんなやつがいるってわけだよな。

 

 楽しいよな。

 幸せだぜ。

 

 ああ、でも、これ以上はいけねぇよ。

 坊や、これ以上はやっちゃいけねぇ。

 

 武術には、存在しちゃいけねェ技がある。

 イッパツで相手を永遠に動けなくさせるような、アブネェ技がよ。

 

 でも、ボウヤ、倒れねぇもんなァ。

 殴り返してきやがるもんな。

 だから、もう、使うしかないだろ?

 先に謝っとくぜ。

 ごめんよ、ぼうや。

 

 

7.

 

 

 手刀の形であった。

 

 壮絶な殴り合いの中で、松尾象山がその手の形を変えた。

 左手を拳から、手刀に。

 それは、一連の流れの中で。

 撃ち乱れる拳の中で、さらりと行われたことだった。

 

 松尾象山の手刀が、爪を立て、先端を尖らせて振るわれた。

 狙いは──龍刃の喉であった。

 

 ここをピンポイントに、強い力で叩かれると、窒息して即死する。

 いや、松尾象山ほどの手刀ならば、それはもはや刃物と同等の破壊力を持つ。

 喉を貫いてしまうかもしれない。

 

 それが、しかし、龍刃の喉には届かなかった。

 

「それまで」

 

 二人の間に、大きな男が割って入った。

 範馬勇一郎であった。

 勇一郎は、松尾象山の左腕を掴んでいた。

 止めに入る中で、いくらか二人の打撃にさらされたが、ものともしていなかった。

 

「──範馬さん」

「ゴングだよ、松尾くん。試合終了だ」

 

 三分間、たったよ。

 と、範馬勇一郎は言った。

 松尾象山はきょとんとした顔になった。

 そして、記憶を掘り返して、

 

「あ、あ──……ずるいぜ、範馬さん。そういやカーンて言ってたけどよ、あれ、そういう意味だったのかよ」

「言葉通りの意味だよね、松尾くん」

 

 範馬勇一郎が言うと、ずるり、とその腕に獅子尾龍刃が倒れ込んだ。

 

「松尾くんの勝ち、ってところだね」

 

 さて、じゃあ──

 

「おれと、ヤるかい?」

 

 勇一郎の問いに、松尾象山は顔を俯かせた。

 ボリボリと後頭部を掻いた。

 

「あー……あれだ、範馬さん。今日はいいや」

「いいのかい?」

「おう。おいらァもう、満足しちまったよ」

 

 今日のところはね。

 と付け加えた。

 

 範馬勇一郎はにこりと笑った。

 

「ここでヤらなきゃ、もう、おれとは会えないかもしれないぜ?」

「いや、たぶんそれはないんじゃないの? おいらもしばらくアメリカにいるし、こーやってバチバチやってりゃあ、またどっかでぶつかるでしょうよ」

 

 その時は、背後から襲うことにするよ。

 

 松尾象山は笑顔であった。

 血まみれの、変形した、爽やかな笑顔で言い切った。

 

 

 

 これが、松尾象山と、獅子尾龍刃のファーストコンタクトであった。

 




■志誠館
 餓狼伝に登場する空手団体。
 別名『人間凶器集団』。
 「痛み」に耐えることを念頭に、硬いものを殴ったり蹴ることによる部位鍛錬、全身の凶器化を行う(中国拳法で言うところの硬功夫(いんごーふ))ことを空手の鍛錬にいち早く取り込んだ団体とされる。
 その信念は、「少しだけ耐えられるということ、それは永遠に耐えられるということ」という言葉に集約される(板垣版餓狼伝)。

■松尾象山
 餓狼伝のキャラ。
 フルコンタクト空手『北辰館』の館長であり、素手で牛を殺した牛殺しにして伝説の空手家。経歴からわかるように餓狼伝における大山倍達、刃牙シリーズにおける愚地独歩にあたる存在であり、メディアミックスを問わず餓狼伝におけるラスボスポジションであり、作中最強のキャラクターである。
 刃牙シリーズにおいては、餓狼伝の作者の書いた『刃牙外伝-ゆうえんち-』において、愚地独歩にその存在が語られている。
 
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