第一話:牙vs牙
1.
盛り上がっていた。
会場に、これまでとは違う期待感が湧き上がっていた。
待ちかねた時を、ようやく迎えるのだという熱狂。その所作として、観客の一部が、腕を振り上げて叫んでいる。
会場の所々で、その名が叫ばれる。
「キーバッ!!!」
「キーバッッ!!」
「キーバッッ!!」
「キーバッッ!!」
まだ、闘技場には誰もいない。
これから訪れる男に、観客は堪えきれずに声援をぶつけているのであった。
これから訪れる男が繰り出す一挙手一投足が待ち遠しくて、はつらつとした期待が溢れて仕方ないのであった。
加納アギト──
かつての、ケンガン仕合の王であった男だ。
「す、すごい熱気じゃのう……」
VIP席にある、徳川光成が思わず観客席を見渡した。
本日の観客の中には、地下闘技場の元々の常連のみならず、拳願仕合や煉獄の太い客も多い。
彼らにとって、煉獄で言えばロロン、拳願仕合においては加納アギトはスター選手だった。
「ホッホッ、アギトのやつも、なかなかどうして人気があるの〜」
髭を撫でながら、片原滅堂が白々しく言った。
本来、他流試合を行うに当たって、そのトップの中のトップ選手が駆り出されることは稀である。
万が一負けてしまえば、組織の沽券に関わるからだ。
組織の大看板を背負うスター選手をよそに送り出して戦わせるというのは、無関係の観客は盛り上がる大一番には違いない。
しかし、そこで勝敗が決するということは、すなわち組織同士の『格』が決定してしまうに等しいことなのだ。
裏格闘界隈にも、それぞれにブランド力というものがあり、戦後から特に発展し、研磨されてきた同業界内での格付けというものは、長い時間と数多くの仕合をかけて確立されたものだった。
その中でも、拳願仕合と煉獄は別格の存在とされている。
意外なことに、両者を頂点とするそのピラミッドの中に、地下闘技場は含まれてはいない。
それは、両組織と、地下闘技場の性質の違いにあった。
拳願仕合とは、その発端からして表組織の利権をめぐる闘争の代理として行われた格闘仕合である。
煉獄はもっとわかりやすく、純粋に興行──エンターテイメントとして起こされたものだ。
つまり、仕合をやるにあたって、金銭というものがどうしてもどこかで発生してしまう。
この両組織に限らず、『裏格闘のピラミッド』に内包される組織は、自らが抱える格闘士や闘技者との間に、基本的には表のプロ格闘と同様に、興行を行うための金銭のやり取りが、必ず挟まるのである。
地下闘技場は、それが一切ない。
ギャラが発生しないのである。
地下闘技場の興行主は、徳川光成ただひとりであり、闘技場の運営費は全て、光成のポケット・マネーから賄われている。
場は提供する。
怪我をした場合には、治療費は負担される。
仮に、そこで人を殺したとしても、基本的にそれは事故として処理されるし、罪にはならない。
だが、運営費も興行費も全てが光成の自己負担で成り立っているものだから、地下闘技場は原則として、試合の報酬としての金銭のやり取りが発生しないのである。
本作、慟哭の龍の第一部──プロレスと柔道の違いについての説明でも書いたが、これはいわゆる『プロの定義』と照らし合わせるのなら、拳願仕合や煉獄は『プロ』であるのに対し、地下闘技場は、どんなに強くても分類としては『アマチュア』ということになるのである。
つまり、裏格闘というジャンルでありながら、両者は全く別の土俵で戦っているものであり、地下闘技場は『裏格闘のピラミッド』には包括されない位置にあるのである。
その両者が交わる今夜は、裏格闘を知るものなら、まさに夢物語そのものであった。
ましてや拳願仕合からは、かつての王であった加納アギトが参戦するという。
地下闘技場からも、当然、グランド・チャンピオンである範馬刃牙が参戦している。
両者の大看板を背負ったスター選手を惜しみなく出してくるこのイレギュラーは、ひとえに光成と滅堂の友情があるからこそ成立したものかもしれない。
「めっちゃんや、加納くんに、檄を飛ばす必要があるのではないかな?」
光成のいやらしい流し目を、滅堂は妖怪じみた、威圧感のある笑みで受け流した。
しかし、このジジイども、当たり前であるが自分のところの選手が負けるとは、つゆとも思っていない。
加納アギトは強いのだろう。
範馬刃牙は強いのだろう。
お互いにそう思いつつも、なんやかんやあれば、勝つのは自分の選手だと疑っていない。
「アギトには、既に話はしておるよ」
遊んできなさい。
滅堂は、そう言っていた。
勝て、でも負けるな、でもなく。
思うがままに遊んでこい、と。
当然、恩人にして主たる滅堂の前に、アギトは傅いて、言った。
「すべては、御前の思うままに──」
そうして、アギトは素晴らしく厳格な表情で、地下闘技場に降臨した。
2.
トイレの中だった。
ジャック・ハンマーは手洗い場に立って、準備を行っていた。
既に、洗面台の上には四つの束ねられた注射器が空になって転がっている。
色とりどりの錠剤がみちみちに詰まったビーカーを手にすると、それを、一気に口に流し込んだ。
続いて、別のビーカーに、ヘドロ色の粘り気のある液体を、これまたこぼれるギリギリまで注いだものを取り出して、一気に飲み込んだ。
その上で、今度は三本束の注射器を、首の側面に刺し込むと、内容物を一気に流し込んだ。
注射器を置いて、ひと息を入れる。
と、背後に気配があった。
見知った気配だった。
敵意はない。
ジャックは、ゆっくりと振り返った。
獅子尾龍刃が立っていた。
「…………アンタか」
「改めて見ると、なかなかえげつないね、それ」
うへえ、と龍刃は舌を出した。
冗談めかした物言いだが、微かな嫌悪感が感じられる。
しかし、目の前で堂々と行われたドーピングを、言葉にしてまで攻めるつもりはなさそうだった。
ジャックは視線を流した。
口元には、微笑を浮かべていた。
「強くなるためだ。ならば、ヤるのは当然のハナシだよ」
まるで悪びれない口調であった。
獅子尾龍刃は怒りでも哀しみでもなく、ただ、眼を俯かせた。
「がんばれよ、ジャック」
色々、考えたのだろう。
その言葉は若干の苦々しさを孕んでいた。
顔を上げた。
澄んだ瞳が、ジャックを見据えた。
「がんばれよ、ジャック。地上最強は目の前だぜ──」
ずい、とジャックが前に出た。
獅子尾龍刃の横を通り過ぎる。
その背中を見る位置になって、ようやく、獅子尾龍刃は眼に、哀しみを携えていた。
3.
牙、コールが止んだ。
ジャック・ハンマーの入場に合わせて、ぴたりと、示し合わせたように、止んだ。
それほどに、ジャックの肉体は歪で、禍々しく、そして迫力があった。
「なんだ……あの身体……ッッ」
加藤が、思わず困惑をこぼした。
ジャックの肉体は、不自然なほどにバンプ・アップを果たしていた。
それでいて、美しかった。
冒涜的で、いかにも不自然な──普通に鍛えただけでは、絶対にこうはならないカタチをしていた。
大会までの三ヶ月、トレーニングを共にしていた加藤は、ジャックがステロイド・ユーザーであることは当然知っている。
ステロイドによって無理やり身につけた筋肉は、過剰膨張を起こして、ゴムのような不自然な見た目と質感になりやすいことも知っている。
だが、今のジャックは真逆──
その筋肉は、適度な弾力性とみずみずしいハリに満ちていて。
皮膚は、金属じみた光沢に彩られていて。
しなやかな肉体美は凝りに凝られた芸術品のようである。却って、古代において、『最高の肉体美』を表現するために彫られたギリシャ彫刻を思わせる造形……すなわち、それは反自然的な造形であった。
人界を超越した美と迫力が、剥き出しになっていた。
ジャック・ハンマーのこの異様が、『牙推し』の観客たちを一様に困惑させた。
強い──というよりは、不気味でさえあった。
なんだかよくわからないが、悍ましい。
どうやらなんだか──並じゃないッッ!!
一方で、加納アギトは落ち着いていた。
初めてじゃない。
異形の筋肉を見るのは初めてじゃない。
人智を超えた筋肉と戦うのは、初めてじゃない。
ジャックの肉体を見て、その戦力を分析していく。
パワーは、間違いなくある。
瞬発力も相当だろう。
柔軟性はどうか。
テクニックは、どうか。
反射神経はどうなのか?
正確なことはなにもわからない。
ただ、『強い』ということは、嫌なほど伝わってくる。
────ッッ
加納アギトの口角が静かに持ち上がっていた。
強い──それで、十分ではないか。
ジャック・ハンマーは強い。
それでいいではないか。
実に
それで、いいじゃないか。
太鼓が打ち鳴らされた。
試合が始まった。
4.
加納アギトは、両の拳を肩の位置まで持ち上げ、気持ち前後に重心を割り、腰を落とし、前足の母指球に体重をかけた、視線と拳の先にジャック・ハンマーを捉えるオーソドックスな構えとなった。
一方のジャックは、構えない。
突っ立ったまま、頭が気持ちひとつぶん下がったアギトを見下ろしている。
睨み合っていた。
動かなかった。
息を呑む光景だった。
観客が声を失い、代わりに、皆、額に汗が滲んでいた。
彼らには見えていた。
静寂の中で、相対するふたりの意識だけが、闘技場の中央で鍔迫り合いを行っているのが。
「スッ……げえなあ……」
その緊張感は、控え室にも届いていた。
獅子尾龍刃が画面を凝視しながら言った。
加藤は声も出せなかった。
範馬刃牙は、身体の芯が震えていた。
不思議な悪寒が背中を登ってきている。
ジャックが闘技場に現れてから、ずっと。
まるで、範馬勇次郎を前にしたときのような恐怖が、心の底から滲み出していた。
5.
動いたのはジャックだった。
ジャックは、ふう、と息を吐くと、アギトとの間にあった沈黙の壁を掻き分けるように歩き出した。
アギトは下がらなかった。
だから、あっという間に間合いが詰まった。
アギトの強い視線に、優雅な視線を落としてから、ジャックの頭が下がった。
まるで、上品に挨拶するかのように、緩やかな動きで上体が腰から曲がっていく。
観客たちにはまだ、間合いの外のように思えた。
ジャックの右腕が、天に向かって伸びていた。
拳を作っていた。
腰が、捻れていた。
まるで、パンチを打つ前の、花山薫のように。
放たれた。
アッパーだった。
固めれた右拳が、地面スレスレを泳いで、一気に天に向かって跳ね上がった。
恐ろしい風切り音が鳴った。
風圧が、観客席まで届いていた。
アッパーの斜線上にいた客達は、自らの顔を咄嗟にかばい、目をつぶっていた。
当たらなかった。
アッパーは、アギトの眼前、ほんの数ミリを掠めて行った。
当てなかったのではない。
アギトが躱していた。
見切りである。
アッパーの軌道を見切って、その軌道から、ギリギリ外れる位置に、身体全体を下げた。
打ち終わりの姿勢になり、身体の半分が捻れたジャックに、アギトはジャブを打ち込んだ。
脇腹と、顔。
ごごっ、と音がした。
音からして、ジャブの重さではなかった。
そこから、ジャックが素早く身体を翻すまでに、ローキックに繋げた。
ジャックのふくらはぎに当たったそれは、ジャックの重心をがくりと落とす。
待ち構えたように、アギトが左右の拳を二回ずつ振った。
それは、ジャックのディフェンスをすり抜けて、ことごとく急所に吸い込まれて行った。
ジャックが崩れる。
させまいと、一段ジャックの懐に踏み込んで、ショートアッパーを放つ。
顎の真下から当たり、顔を跳ね上げた。
わあっ、と観客が湧いた。
『牙推し』の観客たちである。
「よっしゃあっ! 牙のペースだッッ!!」
「いけーっ、滅堂の牙ーッッ!!!」
「やっぱりケンガンがナンバーワンじゃねえかッッ!!!」
アギトの猛攻を後押しせんと、彼らは声を張り上げた。
と、不思議なことに、アギト
距離が空いた。
当然だ。
今の前蹴りは、距離を取るために、ダメージをに対するものではなく、単に突き飛ばすように撃たれたものであった。
めざといものたちが、その謎に注視する。
なぜだ?
攻められている側が、体勢を立て直すために距離を取らんと前蹴りを放つのは道理だが、圧倒的に攻めている方が、なぜわざわざ距離を取るのか?
加納アギトの息は乱れていない。
休憩が欲しかったわけでもない。
では、なぜ?
ジャックの身体が、腰の落ちたまま、うねり出した。
両腕は持ち上げているが開手しており、指が適度に曲がっている。
前後に開いた足は、大袈裟なほどに膝から曲がっている。
前足のつま先の向きが、アギトと直線で結ばれている。
腰は前傾に歪んでいて、頂点に僧帽筋が立つ中に、ジャックの首が埋まるように沈んでいた。
なんだ、この見え見えの構えは。
打撃の構えではない。
この姿勢、この重心から繰り出せるものは、タックルしかない。
しかも、左右に変化することは全くない、一直線の、読みやすいタックル。
不可解。
その不自然さに、アギトの警戒心がグンと跳ね上がる。
ジャックの縮こまった肉体を穴ぐらに例えるならば、そこからアギトを射す抜くジャックの視線が笑っていることも、アギトに警報を鳴らしていた。
ジャックの重心が前にでた。
重力から解放されたように、ジャックの身体がアギトに向かって弾け飛んでいった。