1.
選択したものは、肘であった。
身体を縮こめたジャックが、爆発するように前に出た。
顔をいの一番に突き出し、全身の力を使って飛び込んでくるそれは、タックルというより、四足歩行の獣の突進と言っていい。
速い、というよりも、恐ろしい。
加納アギトの視点に立つなら、ジャックの身体があっという間に、こちらに向かって何倍も、何十倍にも膨張して、迫ってきているように見えた。
まるで怪獣のようである。
その、大迫力に対し、加納アギトが
タイミングを合わせて、渾身のバネで肘を出す。
脇の下まで引き、腰から掬い上げるように回して打った。
こうすることで、攻撃の軌跡に斜めの角度が付き、敵対者の視界から見えなくなる。
蹴りの選択はなかった。
この突進速度、これほどの質量を前に片足立ちになることは無謀に他ならない。
ならば、地に足をつけて、いっそう強く踏み込み、自身の肉体をつっかえ棒のようにして、迎え撃つ。
必然的に、最も効率の良い接点は、肉体の中でも最高の硬さと殺傷力を誇る、肘になった。
ジャックの顔面に、アギトの肘がめり込んだ。
カウンターとなり、凄まじい一撃だった。
だが、ジャックが止まらない。
「…………ッッ!」
肘が顔に刺さったまま、ジャックは前進した。
加納アギトの足が、身体が、無理やり引き摺られていく。
ジャックの両腕は開いていた。
組みに来ている。
アギトは冷静に、ジャックの顔から肘を離し、両腕で、後頭部に指を回すように頭を掴んだ。
まだ、重心は崩れていない。
今度は、十分に体重を乗せた左膝が、ジャックの鼻っ柱を叩いた。
しかし、ジャックの突進が止まらない。
観客席にいた、関林ジュンの目が驚愕に見開かれた。
あの、加納アギトの渾身の打撃を喰らって、なんともないのか!?
関林の知る限り、加納アギトの打撃とは、全距離、全局面において一打必倒のそれだ。
例えるなら、アギトにとっては何気ない左ジャブが、表社会の、
実際、アギトは先の絶命トーナメントにおいて、ヘビィ級四大タイトル統一王者、ガオラン・ウォンサワットと仕合を行い、ガオランと遜色ない打撃戦を披露している。
「首だよ」
控室にいる、獅子尾龍刃が言った。
「ジャックの首の強さは桁違いだ。あの程度の打撃じゃ、ちっともこたえないさ」
ほう、と反応したのはビスケット・オリバであった。
オリバもまた、自身の筋量には絶対の自信を持っている。
凝視してみると、確かに、と刃牙が頷いた。
ジャックの顎から首にかけてのカタチが、普通人のそれとは違う。
太く、分厚く、顎関節から顎のラインにかけて、異様な凹凸がある。恐るべき咬合力を示す筋肉のカタチだ。
身体に力を入れる際にこの噛む力が必要になる。
顔に打撃をもらう際に、それを耐えるためには、この部分の筋量の大小は極めて重要なのだ。
ひとが、重いものを持つ時、あるいは拳を握る時、口を噛み締めるか否かでは発揮できる力の次元が違う。
咬合力は、自らの肉体に力を漲らせるにあたって、直接的な因果関係にある。
顎の、噛み締める力が強ければ、攻撃のために硬める拳はいっそう硬くなり、打撃に対する耐久力は比例して、そのまま上昇する。
これは、自然界でもそうである。
例えば、海の
その咬合力ときたら、人間よりはるかに緻密な肉体の密度と、成人男性と変わらない値から、数トンに至るまでの質量を誇るアザラシやアシカなどの肉を、容易く噛み砕く。サメの牙の恐ろしさとは、その歯先はあくまで獲物を引っ掛けるための鋭さであり、本命はその歯の殺傷力を十全に活かし切る顎の力にこそあると言っていい。
ジャックの顔に、二度、三度と膝が打ち込まれる。
流石に突進速度は鈍っているが、まだ、前進を続けていた。
そのまま、アギトの背を闘技場の柵に押しつけた。
アギトの肩を、ジャックの左腕が、上から押さえつける。
後方に引き絞られた右腕が、硬い、岩のような拳を作っている。
アギトの背後の観客が逃げ惑った。
ジャックの拳が放たれた。
そして、空を切る。
ジャックの拳を、アギトの身体が通り抜けた。
ぬるりと、まるで軟体生物のような脱力を持って、そのままジャックの身体を通り抜け、背後に回る。
ジャックが振り向くのに合わせて、アギトはローキックを打った。
それが、膝裏のやや下に打ち落とされ、ジャックの身体がゆさりと崩れた。
アギトは左右のパンチを出す。
一発が、ジャックのこめかみを打ち、二発目──の間に、ジャックは無理やり自身の拳を潜らせた。
アギトがパンチを打ちながら、上体を前に落としていく。
ものすごい熱量が、顔を掠めた。
アギトはジャックの打ち終わりを見計らって距離を取る。
皮膚が剥がれた頬から、血が滴っていた。
「すげえな……」
龍刃が言った。
龍刃の視点からすれば、加納アギトへの賞賛が強い。あのジャックの静かな圧力を、ものともしていない。
当のアギトは、冷静に戦況を分析する。
ジャック・ハンマー。
己と比べて、身長と体重の差はそこまでない。
リーチは、あちらがやや長い。
パンチは重く、速い。
何より、思い切りよく伸びる。
フットワークも、巨大に見合わぬ速さがある。
直線的な動きに限るなら、おそらく、軽量級のそれを凌ぐ。
怪力も大したものだが、単純なパワーで言えば、若槻武士やユリウス・ラインホルトほど人外じみてはいない。
最も恐ろしいものは、タフネスか。
身体に拳を打ち込んだ時、感触が違う。
大きさ二メートルの巨岩に、分厚いゴムを被せたような、不気味な弾力がある。
こちらの打撃を恐れていない。
体幹が強く、バランスが良い。
故に、粘り強い。
知る限りでは、関林ジュンのような、粘り強い筋肉と、その心を持っている。
アギトの脳内に、勝つための構図が組み上がっていく。
無形か──
先ほどの攻防で、ジャックが唯一追いついていない動きが、『無形』による回避行動であった。
その字が示す通り、特定の型やリズムを持たず、その反射能力と柔軟性で、その場にあった自在な動きをするスタイルのことである。
ジャック・ハンマーのように、剛直に向かってくるタイプには、柔法を持ってのらりくりと躱しつつ、急所を的確に狙い撃つ戦法が有用か。
アギトが腕を下ろした。
身体が前のめりになり、腕が、肩から回り始める。
腰が、左右どちらにも咄嗟に動けるように、重心を悟らせない不気味な緩み方をしている。
「無形だあっ!!」
観客の誰かが叫んだ。
もらったあっ! そういう声が続く。
ジャックが飛び込んだ。
今度は、獣の突進ではない。
左ジャブを打つ。
速い。
腰が入っていて、拳の先端に、しっかりと体重が乗っている。
しかし、当たらない。
加納アギトの身体が、ジャックの拳を悉くすり抜けていく。
そのリズムに唐突に割り込んだ、恐ろしいアッパーが打ち上げられても、アギトの身体には当たらない。
アッパーの打ち終わりに、アギトは拳を重ねていく。
2.
「厄介だねえ、あれは」
愚地独歩が鼻を掻いた。
独歩の呟く無形の厄介さは、単に、無形のディフェンス能力の高さだけを指してはいない。
目の前に相対する相手に、いつまで経っても攻撃を当てられない。
組むために飛び込んでも、一向に掴めない。
こういう状態が続くのは、攻める側のメンタルを蝕んでいく。
焦りを生むのである。
もしかしたら、何もできずに、負けてしまうのではないか──
そういうことを考える。
すると、身体に焦りが出る。
それが積み重なると、単なる牽制のつもりが不用心に深く踏み込みすぎたり、当たるパンチが当たらない事実に、自分のワザを信じられなくなり、パンチそのものにキレがなくなったりしていく。
そうなればもう、勝負は決まったようなもの。
『
「ワシやったら超鞭打ちもあるし、弾丸すべりもあるから、どーとでもできるがのう。確かにあれは、
おおよそ、格闘士たちの中でも、ジャックの不利は目に見えていた。
各々が無形に対する思いを心中で象形する中で、加藤清澄は苛立ちを覚えていた。
「おめェらなあ! ジャックは──」
「捕まえるよ、ジャックは」
加藤の言葉に言葉を被せたのは、獅子尾龍刃であった。
刃牙が、龍刃を見上げた。
龍刃は、なんの迷いもない眼をしていた。
「ジャックなら、ヤれるよ」
「なんでだい、リュウちゃんや」
「決まってるでしょう?」
少し、溜めた。
「ジャックが強いからですよ」
3.
ジャックが二歩、下がった。
うねり踊るアギトの間合いから、完全に離脱した。
あれだけ殴られたというのに、外見的には全くダメージがない。
しかし、ジャックの攻撃はただの一発も当たっていない。
ふ、とジャックが息を吐いた。
そこで、ジャックは止まった。
待ちの姿勢。
誰もがそう思った。
甘い、と関林が微笑する。
アギトの『無形』は、後の先に特化した
アギトにとって、普段拳願仕合で仕合うほとんどの相手は、『武』の状態でも圧倒できる手合いがほとんどである。
『無形』を使うまでもないのだ。
むしろ、絶命トーナメントの準決勝──黒木玄斎戦までは、『無形』とはアギトにとって枷となりうる戦法であった。
しかし、今のアギトは違う。
『武』と『無形』を、それぞれ使いこなしている。
『無形』とはそれ単体で十分、達人級の相手と戦えるものだが、今のアギトにとっては『武』で入り、『無形』で受ける形が最適というだけなのだ。
故に、『無形』は受け一本の戦法ではない。
ジャックは勘違いをしている。
待ちに徹して、『無形』での攻めを誘い、バランスが崩れたところをカウンターするのが狙いだろうが……甘い。
逆にカウンターをもらうのが関の山だろう。
しかし、惜しいな、と関林は思う。
あのジャックという男。
あれだけのタフネスと粘り強さがあるなら、華々しいプロレスラーになれるだろうに……。
4.
ジャックが身をかがめた。
さっきの、獣の突進の溜めの姿勢より、深く身を沈めていく。
地面に、両の手の指先を添えた。
見たことのある構えであった。
これは、陸上の、クラウチング・スタートの姿勢。
タックルか──
加納アギトは慌てない。
小手先の技は全て捌き切る『無形』を破るために、質量と設置面積が最大となる身体ごとぶつかってくるのは理にかなっている。
そんなことは、アギトも百も承知だ。
だが、アギトはジャックの体移動の速さ、そのリズムをもう、覚えている。
躱せる。
なんなくと。
アギトは堂々と『無形』を続けていた。
ぐ、とジャックの尻が持ち上がる。
来る。
その瞬間であった。
アギトの目が、異様なものを捉えた。
ジャック・ハンマーの肉体が、変質した。
全身の筋肉が引き締まって、それから、血管を迸らせながら、倍の太さに膨れ上がった。
額から顎にかけてまで、血管が浮き上がっていた。
ジャックの笑みが、不気味に深まった。
なんだ──ッッ!?
ジャックは飛び出した。
速かった。
それは、その速度は、加納アギトが把握していたジャックの速度より、段違いに速くなっていた。
だが、まだ、この程度なら躱せる。
アギトは滑らかに動いた。
無形のもたらす柔軟性で、ジャックの突進の余波に、そのまま流された。
風に舞う羽毛の如く、川の中にある石を避ける水流のように、ぬるりと動いた。
その動き、ジャックが追いついていた。
「──なんだとォッッ!?」
関林が叫んだ。
筋力と反射神経だけ。
ジャック・ハンマーは、己の筋力と反射神経だけで、『無形』の流動を捉えていた。
若槻武士にも、ユリウス・ラインホルトにも不可能な動きを、ジャック・ハンマーはあっさりとやってのけた。
驚きは、アギトも同じであった。
目の前に、ジャック・ハンマーの顔がある。
慌てるな。
己に言い聞かせる。
速度として追いついているだけだ、と。
アギトは手を出した。
ジャックの顔面に、左ジャブを打ち込んだ。
それは、するりと吸い込まれた。
ジャックの顔を横に打ち飛ばし、続け様の右拳で同じ面を叩いた。
サクッ
そういう音が、アギトの体内を走り抜けた。
皮膚から、肉に伝わり、骨に伝播し、全身を駆け抜けた。
なんの音だ?
一体────ッッ!?
眼前に戻したアギトの右拳、その手首から、夥しい量の出血があった。
刃物!?
何が──
アギトの思考は寸断された。
ジャックの、地面スレスレを泳いで、大仰な軌跡を描いた左のアッパーカットが、アギトの顎を跳ね上げていた。
5.
光が見えていた。
次に、人の顔が大量に。
続けて、また、光が近づき、棒のように伸びて、遠ざかった。
ああ、そうか。
回転しているのか、わたしは。
ジャックのアッパーは、アギトの顎を貫き、その身体を宙に打ち上げるどころか、あまり余った力は重力に反抗して、アギトの身体をバク転のように回転させていた。
腹ばいになって、アギトが闘技場に落ちた。
その痛みで、アギトの意識ははっきりと肉体に戻る。
「…………ッッ!!」
範馬刃牙が震えていた。
伸ばした左腕の肘を、右腕で掴み、自身の身体を抱きしめるようにして、ガタガタと震えていた。
この力。
まるで──
まるで、
愚地独歩も、空いた口が塞がらない様子であった。
ひとを、四、五メートルぶっ飛ばすことは、彼らの世界ではままにありうることだ。
だが、身長二メートル近い、体重一〇〇キロを超える超ヘビィ級の大男を、パンチ一発でああいう風に殴り飛ばすのは、まず不可能である。
ここにいる人間でも、それができるのは獅子尾龍刃かビスケット・オリバぐらいのものだろう。
だが、その破壊力にもまして、加納アギトの『無形』にあっさり追いつき、そして打撃を当ててしまう能力の高さに驚嘆していた。
「な、言ったでしょ? ジャックは強いって……」
獅子尾龍刃が笑っていた。
まるで、我がことのように。
加藤清澄がへっ、と吐き捨てた。
やはり、呼気には喜びを交えていた。
6.
歯か──
倒れながら、加納アギトは右手首の出血の原因に当たりをつけた。
あの感触は、明らかに刃物のそれであった。
しかし、ジャック・ハンマーの肉体に、刃物らしきものはない。
ならば、英はじめのように、人間の内部にありうるものを、凶器に仕立て上げているということ。
人間の内臓部品で、肉を簡単に割くことができるモノは三つ。
骨、爪、そして歯である。
このうち、アギトに言わせれば、最も強固で武器化に容易いのは、骨であろう。
だが、一般的なイメージで言うなら、最も容易く、そして強力なものは、歯になるだろう。
爪は、研ぐ必要があるし、それを武器に人間を裂くとしても、血管や筋肉の深いところまで達するには相応の長さまで整えなければならない。
ジャックの手に、その爪はない。
ならば、必然的に、歯を使ったことになる。
手は、動く。
痛みもある。
臭いもわかる。
血の、暖かさもわかる。
鈍く、刺すような痛みもわかる。
だが、出血量が多い。
動脈を切られている。
アギトの思考に、ジャックの蹴り足が割り込んだ。
アギトは跳び上がって躱し、ジャックに向かい合う。
眼が、恐ろしく冷徹に、ジャックを睨んでいた。アギトの闘志はちっともなえていなかった。
アギトは、右手の止血はしていなかった。
とっていたのは、ファイティング・ポーズであった。
7.
ジャックは、優雅に一礼してみせた。
その太々しさと、アギトの真摯さが相まって、会場が賛否の怒気で割れていた。
ジャックの眼の中に、暗い炎が灯っていた。
その炎は、アギトにとって、ある種の親しみがあった。
懐かしさがあった。
片原滅堂に拾われる前に、見たことがある。
己の命を、存在に乗せた男の眼。
『蟲』の蠱毒によって、否応なく殺し合いに駆り出されたために、己の中にすら濁り溜まっていた毒の灯火であった。
強くなるために。
あるいは、生きるために、己の命を秤にかける。
明日などわからない。
そんなの知るわけもない。
ただ、今を生きたい──
そういう想いが煮詰まって、暴力と狂気に
ジャック・ハンマーは、おそらくドーピングをしているのだろう。
それも、これほどの力を発揮できるものだ。高濃度の、命を削るものを使っているに違いない。
命を、明日を削り捨てて、今日、ジャック・ハンマーはここに立っている。
なら、なおさら負けるわけにはいかない。
自分は、片原滅堂に救われた。
かつてはジャックと同じ眼をしていたことだろう。
明日を捨て、未来を捨て、人間としての生を捨て、魔道冥府に跳梁する、魔獣に堕ちかけていた。
だが、片原滅堂に救われた。
片原滅堂に、明日を与えられた。
名を賜り、生きる場を与えられた。
人間としての尊厳を、滅堂は取り戻させてくれた。
ジャック・ハンマーよ。
おまえは、知っているのか?
その道の行く果ては、人ではなく魔獣であることに。
気づいているのか、ジャック・ハンマーよ。
その、醜い有様になってまで、叶えたいことがあるのだとしても、それは、そこに行き着いてしまったのなら、それは己が人生の後悔を知る術すらない畜生道であり、修羅道の只中に堕ち切った証左だということに。
加納アギトの拳に、力が宿っていた。
加納アギトの眼が、人間らしい輝きに照らっていた。
ジャックは、ふん、と鼻を鳴らした。
その輝きを、アギトの意志を、嘲笑うかのように、苦笑した。
「たかが知れている──」
言った。
呪詛を吐くように。
「報恩のための強さなど、たかが知れている」
ジャックがぐぐっ、と腰を落とした。
待ち構える構えであった。
当然である。
アギトは動脈を切られている。
つまり、待ちの姿勢でいれば、出血多量で自滅が免れない。
攻めてくる。
それがわかっているからこそ、ジャックは身構えた。
加納アギトが摺り足で詰め寄った。
たまらない緊張感が、二人の間に横たわっていた。