第一話:平凡と狂気の狭間で
1.
平凡な男だった。
身長、一七五センチメートル。
体重は七一キログラム。
成人男性の平均よりは上背があるが、決して大きいと言える高さではない。
肉付きも、極めて普通。
ヘビィ級の肉体とはそう生まれついたものだけが至れる大きさと言われるが、裏を返せば彼らは選ばれた肉体の天才たちである。
彼らに比べれば、その男──畑幸吉は、呆れるほど平凡な肉体を持って生まれてきた。
身体能力も、肉体に比例するように平凡だった。
十種目競技などをやらせてみても、何ひとつ、眼に見える結果など出るハズもない平々凡々の運動神経。
古武術を習っていた。
古武術である。
空手でも、
柔道でも、
ボクシングでも、
レスリングでもない。
古武術拳心流は、歴史こそ古いものの、灘神影流や竹宮流のように、近代の異種格闘技において、これといった名声を獲得しているわけでもない。
実戦性を、常に疑問視される古武術である。
しかし、今日、地下闘技場に集まる格闘士と、観客の多くは疑わない。
畑幸吉の強さを疑ってはいない。
畑は、先に開かれた北辰館オープントーナメントで、ベストフォーに入っている。
あの姫川勉に、大会参加者の中で、初めて技をかけた男である。
だが、畑の最も印象的な試合といえば、やはりそのひとつ前、準々決勝であろう。
相手は、日本拳法の椎名一重であった。
身長一九五センチメートル。
体重は一二三キログラム。
ボクシングで言えば、ミドル級とヘビィ級の差があった。およそ四階級差である。
その椎名を相手に、畑は一本勝ちを遂げていた。
その時、それまで誰もが疑い、訝しんでいた畑幸吉の強さは周知の事実となった。
闘技場に、畑幸吉が出てきた。
いつもの、あずき色の道着である。
裸足に、坊主頭。
あの時と、何も変わらない畑幸吉がそこにいる。
「いい顔をしてる」
愚地独歩が言った。
確かに、と克己は頷いた。
闘技場に立つ畑は、並々ならぬ表情であった。
眼が、輝いていた。
瞬きをも忘れ、自らの闘志を静かに灯す瞳の中には、あまりにも乏しい己の才を、補って有り余る心の太さが垣間見える。
ああ、こいつは強い。
にたりと、渋川剛気が笑った。
対するのは、神奈村狂太である。
こちらは、静かに佇んでいる。
ツイードのスーツに、裸足のまま穿いたローファー。
整髪料でオールバックにまとめた黒髪。
眼鏡をかけたままであったし、手は、両方ともポケットに入れっぱなしである。
不敵な微笑を浮かべる表情を除けば、この、どこにでもいそうなスタイルの男に、しかし、観客たちが向ける視線は並々ならぬ期待感である。
この、日常的スタイルでそのまま闘技場に現れる男こそただものではないということを、これまでの試合で誰もが思い知っている。
2.
「加藤」
愚地独歩の言葉に、加藤清澄は振り返った。
「リュウちゃんと刃牙はどうしてる?」
「あのふたりは……ジャックの見舞いに行ってるよ」
そりゃあそうだろうと、加藤はつまらなさそうに吐き捨てた。
獅子尾龍刃と範馬刃牙は、気絶したジャックに付き添ってそのまま医務室に入っている。
獅子尾龍刃にも治療が必要だろう。
なんせ、あの範馬勇次郎の打撃を二発ももらっているのだ。
ふたりに、刃牙は、色々と言いたいことがあるのだろう。
話し合いたいことが、きっと、たくさんあるのだろう。
加藤だってそうだった。
「…………」
率直に言って、加藤は混乱していた。
ジャックが、範馬勇次郎の息子だった。
つまり、刃牙の兄だった。
獅子尾龍刃は、範馬勇一郎の弟子だった。
範馬を中心に、因果が巡っている。
自分は、その因果の外にいる。
外様である。
しかし、憤る──かと言えば、加藤の想いは違う。
加藤は、ジャックが嫌いではなかった。
スパーリングをすればぶちのめされ、普段のトレーニングも別に行っていて、当時は、まるで歯牙にもかけられていないように思えていた。
だが、ジャックの一生懸命さには、敬意を持っていた。
文字通り、ジャックのトレーニングは命を削るものだった。
オーバーワークなどと言う言葉が生ぬるく感じるほどのオーバーワーク。
鬼気迫る顔で、ジャックはトレーニングに挑んでいた。
純粋だった。
強くなることに関して、ここまで純粋でひたむきな男を、加藤は見たことがなかった。
だから、ジャックのことが、どうしても嫌いになりきれなかった。
そして、ジャックがなぜ、あれほどまで強さを求めていたのかも、わかった。
範馬勇次郎に追いつくためだ。
範馬勇次郎を、追い越すためだ。
その究極として、ジャックは自分の父に…………して欲しかったのだろうと思う。
その気持ちは、加藤には痛いほど
自分も、愚地独歩に……めてもらいたい。
どんなに狂犬ぶっても、そういう幼い気持ちが拭いきれないのは事実だった。
「加藤」
愚地独歩が呼んだ。
加藤ははっとして、独歩を見た。
「今は、試合を見ねェ」
愚地独歩が顎でモニターを指した。
加藤は、ぐ、と拳を握りしめた。
3.
畑幸吉は、待ちの構えであった。
重心が、気持ち背後にあった。
両腕は正面。
自身の正中線に重なるように、開手した手を縦に並べている。
どこに、どういう風に攻撃が来ても、防御が間に合う構えであった。
対する神奈村狂太は、無構えであった。
ポケットに手を突っ込んだままだ。
眼鏡も、かけたままだ。
微笑みも、そのまま。
突っ立っているだけに等しい。
葛城無門が苦笑を浮かべていた。
思い出していた。
『ゆうえんち』での、神奈村との
紙一重だった──と、無門は思う。
ある意味で、柳龍光よりも、苦戦したんじゃないかとさえ思う。
神奈村狂太の強さ、存在感は、柳龍光とはまた別種の圧力を伴っている。
隙がない──まず、そう思う。
無防備に立つ、例えばその顔面に向けて安易に手を出せば、それがそのまま、一撃必殺のカウンターとなって翻る。
こうして傍観者となれば、神奈村が、上述の例え通り顔を打たれた際の、カウンターの軌跡が予測できる。神奈村の未来の動きが、今の無門には見えていた。
不気味な圧力に、畑はジリジリと下がっていた。
おや、と神奈村は言う。
「どうしたんだい? わたしを倒すためには、拳の届く範囲に入らなきゃダメだろう」
当然の話をしていた。
どんな達人であれ、攻撃には
パンチなら、腕の長さに、腰を入れた時の長さがそれだ。
唯一の例外は、内在するエネルギーを放出し、物理破壊力に変換する『幻突』ぐらいのものだが、あれは『
神奈村が詰めた。
姿勢をそのままに、前に出る。
畑は、構えを解いた。
「ほう」
と神奈村が息を吐くのに合わせて、畑は動いていた。
突っ込んできた。
神奈村の腰の位置に頭頂部が来るほど、腰を落としたタックル。
上下に波打って、移動の跡に、蛇の身体のような道筋を作っている。
変化をつけているタックルだ。
これは、かわしにくい。
事実、神奈村はあっさりと懐に踏み込まれた。
右手でスーツの左の襟と、左指で右袖を掴まれていた。
山嵐──?
それは、柔道の投げである。
神奈村はぐ、と重心を真下に落とした。
投げられないためである。
すると、畑の力の向きが真逆になった。
斜め下へのベクトル──押し倒すための動きだ。
神奈村は、倒れゆく中で、左手で畑の襟をとった。そのまま、倒れる力に逆らわず、畑を、まるで抱き止めるようにさらに懐に誘った。
神奈村の右手が開いていた。
開いた右手が、そっと、畑の顎の下に添えられた。
そのまま倒れた。
傍目には、神奈村が、畑に押し倒され、マウントを取られたように見える。
が、神奈村は、かぶさる畑の下からずるりと抜け出てきた。
神奈村は立ち上がり、足から腰にかけての砂埃をはたき、ネクタイを締めた。
「首だな」
愚地独歩が言った。
「えげつないのォ〜」
渋川の言葉は感嘆の響きであった。
神奈村がやったことは、首挫きの変形であった。
右の手のひらで畑の顎に添え、左腕で襟を掴んで胴体の位置を固定し、右肘を立ててそのまま落ちる。
こうなると、落ちた瞬間に、畑の首には自身の体重と力が全て、カウンターとなってのしかかる。
原理としては、第二試合で伽羅が宿禰に行った、接触状態から放たれた顎へのアッパーと同じである。
今、畑の脳は、回避不可の衝撃にかき乱されていることだろう。
がしっ、と畑は手をついた。
まだやる気はある。
顔を上げた。
眼が、ダメージに澱んでいる。
顔は、青ざめていた。
神奈村は、試合開始前と全く変わらぬ微笑を持って、畑を見下ろしていた。
4.
我に資格アリ。
その想いは、今でも変わっていない。
畑幸吉は、表彰台の上にあって、己を問いただしていた。
姫川勉に負けた。
だが、姫川に最初に触れたのは自分である。
カウンターを返されたとは言え、姫川に、最初にワザを仕掛けられたのも自分である。
では、何が違ったのか──
藤巻十三と自分では、何が違ったのか。
畑幸吉が試合場に戻った時、藤巻十三は姫川勉に投げ──"竹宮流の地被り“とのちに知った──を仕掛け、見事に成功させていた。
それが、ずっと疑問であった。
なぜ、藤巻の投げは成功したのか。
なぜ、自分の投げは、姫川に返されたのか。
姫川は、藤巻に投げられた瞬間、明らかに受け身を取る準備をしていた。
両目を閉じ、おそらくは己の感覚に問い詰めて、綺麗に着地を決めるハラだったろう。
それが失敗して大ダメージを負ったわけだが、畑の疑問は、なぜ、藤巻が投げの姿勢に入った瞬間、姫川はカウンターではなく受け身を選択したのか、であった。
藤巻の投げのキレが、自身より勝っていた──
それはそうだろう。
藤巻十三は竹宮流の誇る大天才。
打・投・極、その他身体能力全てで、畑幸吉のスペックを上回る。
だが、“地被り“そのものに、姫川がカウンターを選択できないほどの機微があったとは思えない。
何が違うのか。
何が足りないのか。
畑は、己に問いただす日々を過ごしていた。
畑の中で、その疑念が終息したのは、丹波文七が『選手狩り』を行った話を聞き、自分のところには訪れていない事実を知った時だった。
自分にあって、丹波文七が襲った選手にないもの。
それは、極端に純化した武術家としての覚悟であった。
自分は、凡人だ。
戦闘能力では、藤巻十三に何ひとつ及ばない。
ただ、自分がもし、藤巻十三とやりあったとして、全く圧倒されて負けるとは微塵も思わない。
それは、凶暴性と呼んでも良かった。
それは、暴力性と呼んでも良かった。
それは、本来ひとが歳を重ね、腕力を得る代わりに失っていく、『本物の殺意』のことであった。
殺意が、しかし、己は高すぎるのではないか?
畑は、そう結論づけたのである。
『気殺』──という概念がある。
古代中国拳法の概念だ。
それは、体内で練り上げた気を発勁として打ち出すにあたって、込められた殺気があまりにも強すぎると、殺気が気の純度を下げてしまい、自ずと発勁の威力を半減させるという概念である。
畑は、自分はこの状態にあるのではないかと思ったのだ。
殺人術に躊躇がなさすぎる。
それは利点でもあるが、欠点でもあった。
今より先に行くためには、自らの殺意をコントロールしなければならない。
そう思った畑は、自らの師を頼って、ある場所に修行に赴いた。
それは、富士の樹海の中に存在する、『武術者の巣窟』と呼ばれる寺であった。
かつて、最強のプロレスラーと呼ばれた男、アイアン木場をも恐れさせた場所であった。
最大トーナメントの三ヶ月前。
畑幸吉は黒竜寺にいたのであった。
そして、炎に囲まれたリングで、ある男と立ち会っていた。
男の名は朝田昇と言った。
人からは朝昇と呼ばれている、背の低い男である。
"1000の技を駆使して3000本の骨を折った男"と呼ばれ、『奇人』の異名を持つ男であった。