0.
豪奢な部屋であった。
広い空間である。
床一面は、継ぎ目の薄いタイルが敷き詰められ、照明の光をよく吸った深い朱色に染められている。
家具のようなものがほとんどない。
飾りのない机が隅にひとつと、椅子が、中央に一脚あるだけだ。
荘厳で威圧感のある円柱が、部屋の中心から外に向かって、空間を広げるように、規則的に並んでいる。
空間の真ん中のやや後部に、巨大な水槽がゆらりと広がっていて、その中にはまた、巨大な黄金色の鯉が、大蛇のように身をくねらせて泳いでいた。
そこに、ふたりの男がいた。
ひとりは、神奈村狂太である。
もうひとりは、この部屋の──屋敷の主である、当代の蘭陵王こと蛟黄金丸であった。
ふたりの男は、部屋の中心で向き合っていた。
黄金丸が水槽を背に、椅子に座っている。
神奈村狂太が黄金丸と水槽を正面に立っている。
その間には、何もない。
神奈村の格好はツィードのスーツに素足の上からローファーを穿いている。ネクタイをきちんと留めて、メガネもいつものものだ。髪を、整髪料で纏めて後ろに流している。普段彼が身につけているものを、そのままである。
黄金丸こと蘭陵王は、先代の身につけていた舞楽用の、生地の分厚くしっかりした着物を身につけている。顔には黄金丸を蘭陵王をたらしめる、仮面があった。
「だいぶ、様になっているじゃないか」
忌憚なく、神奈村は言った。
黄金丸はくく、と短く笑った。
「それで……ぼくに、なんの用なのかな? まさか、また、"ゆうえんち"に参加してほしい──そういう話かな?」
「違いますよ」
「そうなのかい? ぼくとしては、無門くんがいるなら、参加してもいいかなと思っていたんだけどね……」
「意地が悪いですよ、神奈村さん」
冗談が通じたことを自覚し、神奈村は微笑した。
葛城無門は、今、徳川光成が主催する最大トーナメントへの参戦を
そのトレーニングのためなのか、無門は最近、フラッシュ早田のボクシングジムに通い詰めているという。
つまり、何をどうやっても、直近に開催される──かもしれないとして──"ゆうえんち"には、無門は
元々、あの時の葛城無門にとっても、"ゆうえんち"は
葛城無門の武術家としての素質──その観点から言っても、性根が優しくまっすぐな無門には、正真正銘の
「ぼくとしては、寂しくもあるけど、嬉しくもあるかな。無門くんは、あまり、積極的に殺し合いができるタイプじゃないからね」
「まあ、ぼくとしては、いずれぼくと戦うためにも、無門くんには"ゆうえんち"には
「職権濫用じゃないかな、それは」
「前回時点で、父ともども散々贔屓してますから、今更ですよ」
仮面の下で、黄金丸は怪しく唇を震わせているのがわかる。
成人しているにも関わらず、黄金丸の吐き出す息は、少年期に増して甘美な──毒気のような妖気が濃くなっていた。
「神奈村さん、ぼくの推薦枠で、最大トーナメントに
ほう、と神奈村の瞳孔が、わずか三ミリ程度、驚きに見開いた。
最大トーナメント。
徳川光成が開催を決定した、地下闘技場で行われる最大最強最高の格闘トーナメントである。
神奈村の下にも、すでに光成の使者は来ていたが、神奈村は丁重にこれを断っていた。
理由は
"ゆうえんち"にあって、地下闘技場にはないもの。
"ゆうえんち"になくて、地下闘技場にはあるもの。
最大の差異は、観客の有無である。
その機微を、観客の有無で試合に望むか避けるかを選択する格闘士の心象を、蘭陵王となった黄金丸が理解していないとは言い難い……
どういうことかな、と神奈村は聞いた。
「神奈村さん。アナタ、狙われていますよ」
ご存知でしょう?
と黄金丸は続けた。
あの、アメリカン・ハイスクールでの一幕。
学校に乗り込んできたテロリストを、あなたが鎮圧した件──
軍人崩れのそのテロリストたちが、実は、恐ろしい組織の子飼いの部隊だった──……
黄金丸が言い切る前に、神奈村はまいったなと肩をすかせた。
「ああそうさ。よく調べているね。……実は、どうもそうらしくてね。今、わたしもね、わたしが教えていた時の同期──
神奈村は、恐ろしいことを、表情を変えずにつらつらと述べ始めた。
この数ヶ月、自分は狙われている、と。
夜道を歩く──ワザと、人気のない方に向かうと、刃物を持った男に囲まれて、襲われる。
そう言うことが、不自然なほどに何度もあった。
警察に届けても、果たして神奈村の訴えは虚空にでものまれているのか、全く音沙汰がないし、次第に相手にもされなくなっていった。
そこで、神奈村自身が思い当たる節を、手当たり次第に当たってみた。
武の世界の怨恨の数々に近しい神奈村であったが、該当するケースにはすぐに行き当たった。
それが、過去にアメリカン・ハイスクールで教鞭を振るっていた時代に起きた、テロリスト退治であった。
「どうもあのテロリストたち──
「ルシフェル教団──」
「──なんだって?」
「正確には、教団に出資している『ケルビム』の子飼いの戦闘部隊──でしたね」
「まいったな、きみは。いったいどこからそういう話をつまんでくるんだか……」
神奈村がやれやれと、彼には珍しい苦笑を浮かべていた。
「神奈村さん。徳川さんの開催する最大トーナメントには、
「『繋がる者』が、来るかもしれない……そういう話かい?」
「そういう話です、神奈村さん」
神奈村は視線を足下に落とした。
何かを、深く考えているそぶりであった。
そこに、黄金丸はもうひと言付け加えた。
「うまくいけば、すべての因果がまるく収まるかもしれませんよ」
「失敗したら、未曾有の大災害だろうね」
「大丈夫ですよ」
そうなったらそうなったで──面白いじゃないですか。
待ち受ける混沌を夢想し、その到来に喜びを隠しきれず、不敵に、そう、笑っているのだ。
神奈村は視線を上げた。
「ぼくが、優勝しちゃってもいいんだよね?」
「それはもちろん。
ふふ、と神奈村は微笑した。
口角がかすかに持ち上がる。
それに合わせたように、黄金丸もまた、仮面の下で微笑している。
「それじゃあ仕方ない。給料にはならないが、自分の身を
こうして、蘭陵王の推薦として、神奈村狂太は最大トーナメントのチケットを握ったのであった。
1.
畑幸吉が攻めていた。
意外な光景であった。
古武術拳心流にも当身技は当然あるが、それは当然、ことボクシングや近代空手のような、激しい打ち合いを想定したものではない。
しかし、畑の拳はいっぱしの打ち方になっていた。
一打一打に、腰が、しっかり乗っている。
それを、神奈村狂太は涼しい顔で捌いていた。
神奈村には、畑の狙いはわかっていた。
打ち合いに巻き込む中で、差し出された甘い一打を取る──
最もスピードがノって、
最も破壊力があって、
最も伸びる一打を取り、そのまま関節を折る。
それは、拳心流の最も基本たる技にして、最も難しいとされる技である。
拳心流の技は、基本的に攻防の流れの中で、その緻密さが増した時に効果を発揮するものが多い。
どんな流派の、どんな大技にも言えたことではあるが、いきなり強い大技を放ったところで、防御の仕方を知っている相手には容易く防がれてしまうものだ。
だから、当てるための工夫をする。
だから、まず、試合の序盤は小さくて細かい技から入っていく。
もちろん例外はある。
例えば──堤城平のように、初っ端から全力全開で圧をかけ続け、相手の態勢を崩し、ペースを握り、拳を当てていってそのまま倒してしまうという方法。
例えば──花山薫。
全身を投げ出すように放つ、強く、まっすぐな拳は、一見避けることは容易く見えて、実際目の前にすると防ぐことも避けることも不可能だと知る。
だが、いずれも非凡なる才能──という言葉では片付かない、それぞれの人間性、存在力とも呼べるもの──があって、初めて戦術として花が咲くものである。
才能で言えば、畑幸吉は凡夫である。
それを承知の上で、神奈村狂太は、畑の動きが
神奈村の姿勢は待ちの一手だった。
手を出さない。
ただ、微笑みを浮かべて、いかにも普通に、畑の前に立っていた。
それは、武的な意味では、拳は決して差し出さないという攻勢とは決別した構えであった。
きみのペースには、決して付き合わない──神奈村の手痛い告白であった。
攻めるしかない。
神奈村に、生半可な煽りは通じない。
生半な誘いには乗らない
百戦錬磨──見てくれ、なんて、いやらしい顔をしているのだろうかッ。
この男に、中途半端な気持ちで手を出せば、火傷どころでは済まないだろう。
だから、本気で手を出していく。
機を見出すには、本気で手を出すしかない。
幸い、首くじきのダメージは回復した。
回復するまで神奈村が待っていたのは、余裕か、驕りか──
どちらでもいい。
拳を打つ。
蹴りは、まだ出さない。
姿勢を崩されやすいからだ。
投げられたら、今度こそ、そこで終わりかねない。
だから、戻しを意識した拳を打つ。
たとえ一打一打に意味はなくとも、一〇〇打放てば微かな光明が見えるかもしれない。
それを積み重ねる。
焦ることはない。
おれは凡人だから。
たとえ一〇〇打全てが捌かれたとしても、次の一〇〇打を打つ。
おれに焦りはない。
耐えることは慣れている。
なにせ、凡人の畑幸吉。
この身体は、勝つために、我慢することには慣れているからな──
神奈村が押されていた。
傍目には。
神奈村はずるずると後退して、背中と柵の距離が、もう三〇センチというところまで追い詰められていた。
しかし、その顔は涼しさを帯びている。
畑には痛いほどわかっていた。
誘導されている。
だが、それでいい。
勝負は、技を出した瞬間だ。
神奈村が、技をかける瞬間。
技をかける時は、技をかけられることに、抵抗できなくなる。
こちらは、最初から腕一本はヤられてもいい覚悟をしている。
急所だけは
腕一本を犠牲に、勝利を掴む。
凡人のおれにしては、少ない犠牲に、十分見合うリターンというわけだ。
畑の目論見は、しかし、あっさりと砕け散る。
壁際で、神奈村が攻勢に動いた。
それが、技ではなかった。
いや、技ではあるが、神奈村のそれは、複雑な経緯の一切を廃した、ごくごくシンプルなローキックだったのである。
驚きながらも、畑は足を持ち上げて、やすやすと受けた。
軽い蹴りであった。
その軽さが畑の脳に情報として届いた瞬間──ぞわっ、と畑の背筋を恐怖が撫であげた。
神奈村の姿が消えた。
畑の目の前から。
回り込まれたッッ!!
神奈村の動きに、理解が二歩、遅れている。
それが致命的であった。
畑が振り向くより早く、神奈村は畑の右腕を自身の右腕で巻き取って関節をキめ、左手で畑の背中をぽん、と掌で圧していた。
ローキックの蹴り足が残っていた。
だから、畑はそれにつまずき、前のめりになった。
残った左腕で、柵を掴んだ。
ぼそり、と神奈村が言った。
「これは、痛いよ……」
畑は、左腕で咄嗟に頭を庇った。
しかし、すぐに神奈村の意図に気づいて、腕を後頭部に回した。
畑の動きに構わず、神奈村は畑の頭部──額を、柵にぶつけて押し当てた。
柵と、畑の手が密着した状態で、神奈村は自身を軸に、畑を振り回していった。
ごりっ、という音が、最初にあった。
次に、びり、と和紙が破れるような音がした。
ごりごりごりっ、と音がする。
畑の額が、闘技場の柵に擦れて、削られていく音だった。
2.
「エゲツねえことしやがるぜ」
愚地独歩が言った。
言葉に反して、その音は軽快な心地を奏でている。
葛城無門が、かつて"ゆうえんち"での戦いを思い出してか、引き攣った笑みを浮かべていた。
ダメージを狙った技じゃない。
額は、というより頭蓋骨とは、人間の骨の中でもことさら硬い部分である。
その上で、最も傷がつきやすく、出血が多い部位である。
アントニオ猪狩の繰り広げるプロレスでも、こと出血沙汰といえば、大抵は鼻血か、額からの出血であるほどに、見た目の派手さに対して効果的なダメージはない場所である。
神奈村の仕掛けている技のいやらしさは、畑の片腕が自由になりつつ、後頭部を叩きやすい部位に自分を置いていることであろうか。
後頭部、特に首と頭蓋骨の付け根の一帯は、人間の中でも最も危険な急所である。
素人が素手で喧嘩を起こした場合、相手を致死にたらしめるケースのほとんどが、素手による殴打ではなく、倒れた時に相手が頭を打ったことが原因によるほどである。
後頭部への衝撃とは、それほど危険なのだ。
その部分が、この構図では神奈村に剥き出しになっている。
だから、畑は、自身の自由になっている左腕を、柵と自身を遠ざけるより先に、後頭部を覆うように掴ませていた。
もし、痛みや出血に耐えかねて後頭部を晒せば、即座にそこを叩く──
しかし、手出しができなければ、着実なダメージと痛みが増していく。
「いやらしいねェ……」
たまらない呼気を、独歩は吐いていた。
3.
この戦法が、しかし、唐突に終わりを使える。
畑の頭が下に抜けたのである。
それで、圧していた力に対するつっかえを失って、神奈村がバランスを崩したのである。
畑は、素早く、神奈村の胸を潜るように背後に抜けた。
血のしるべを撒き散らしながら、しかし、観客の多くが目を見張ったのは、畑の異形そのものにであった。
畑の頭部が、肩に沈んでいた。
首が無くなっている。
まるで亀のようであった。
振り向いて、それを一瞥した神奈村も、流石にこれには動揺を隠しきれていなかった。
「たっ、タートル・ディフェンスやん!?」
狼狽しながら言ったのは、宮沢熹一であった。
「なっ、なんであの男が、朝昇のワザをつかえんねん……っ!?」
画面の向こうで、畑が自身の手で、身体に潜り込んだ頭を引っ張り上げていた。
血に塗れながら目を見開き、したたかに笑うその表情に、キー坊はかつてのライバルを思い出さずにはいられなかった。
4.
黒竜寺に赴いた畑幸吉が、朝田昇──朝昇と
畑が、黒竜寺を訪ね、師である茂木正平からの紹介状を住職である
畑がなぜ、黒竜寺で修行を積みたいのかをである。
「強くなりたいからです」
畑は、座するまま、雲光をまっすぐに見据えて、言った。
澄んだ眼であった。
なんの疑いも、迷いもない眼差しで、透き通るほどの声で、畑は雲光を刺し貫いた。
じろり、と雲光が畑を睨み上げた。
雲光の『気』が乗った視線は、澄み切った畑の瞳を、その心の中まで見透かさんと覗き込む、黒々とした光があった。
そして、雲光は見事に畑の狂気を掴み上げた。
「最大トーナメントに、参戦するそうだのう」
「はい」
「しかし、トーナメントまではたった三ヶ月しかないぞい。どんなに厳しい鍛錬を積んだところで、三ヶ月では成果はでまい」
雲光の言うことは尤もである。
黒竜寺の修行は厳しいが、現代スポーツ科学と比較するなら異常とされる行いが多い。
失神するまで首を締め上げたり、呼吸が続く限り池の中に身を投じてみたり、身動きの取れぬ狭い土の中に入り、一才の食を断じてみたり……等、黒竜寺のそれは、武術の修行というより、仏門に投じるものですら避けかねない苦行そのものである。
そんなものを、今からやり始めたって、三ヶ月後に何が変わるわけもない。
むしろ、無意味に痛めつけられた身体では、パフォーマンスは著しく低下していることだろう。
畑は、かぶりを振った。
狂気に被れた聖直な眼が、雲光を見据えていた。
「いるんでしょう、いまッッ」
誰のことか──雲光にはすぐにわかった。
つ、と額に汗が滲んだ。
「……確かに、今、あの男はここにおる……おるが、もう、あの男は人と競う段階にはおらんのだよ」
「なら、わたしが襲います」
「──ッ!?」
ギラギラとした眼光が射すくめていた。
本気でやる──と、言葉ではなく、心で伝えてくる。
畑幸吉の、狂気が具現化した光であった。
「…………」
観念して、雲光は禿頭を撫でた。
雲光は、仏門に身を沿わせる己だからこそ、このような男を受け入れなければならなかった。
「朝昇」
雲光が呼ぶと、その存在はす……と、どこからともなく気配を滲み出した。
畑がその方を見る。
雲光の背後であった。
そこに、静謐な佇まいで頭を垂れる、背の小さい男が膝をついていた。
「朝昇、スマンがのう……」
「お話は伺っています」
快刀乱麻を断つが如く、朝昇の構えは早かった。
立ち上がる。
慌てて、畑も立ち上がった。
対峙する。
朝昇と呼ばれた男は、ごく普通の男の顔であった。
美丈夫ではない。
鼻立ちも、眼の形も、口の縛り方も、ごく普通の日本人男性といったカタチをしている。
身長も、自分より二〇センチは低いかもしれない。
しかし、ただならぬオーラを纏っていた。
朝昇は、にこりと、強かに笑みを投げた。
「さて……細かい話は後にしましょうか」
やりましょう。
雄弁に、しかしコンパクトに、朝昇は言った。
話の早い男であった。