【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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第三話:悪魔にはなれない

0.

 

 

 朝昇のことを、畑幸吉という男は強烈に意識していた。

 あれは、今から二年ほど前だろうか。

 当時の、表世界最高の異種格闘技大会『T.D.K』が開催された。

 故、アイアン木場を偲ぶ意味も込められて、出場選手は当時の表世界でも一流を超えた超一流の格闘士が集められていた。

 中でも、畑が当初その活躍を期待していたのは、史上最強の柔術家と呼ばれ、『柔術の神』とさえ讃えられていた『クランシー・ゴードン』であった。

 

 事実、ゴードンは強かった。

 圧倒的な神技で、こともなげに一回戦を突破し、続く二回戦も、"褐色の核弾頭"マーク・ハミルトンを相手に圧勝を飾っていた。

 

 だが、一回戦の全試合の中で、畑が強烈な印象を持ったのは、ゴードンではなかった。

 

 その男は、一回戦で、当時の世界チャンピオンであり、今のボクシング世界ヘビィ級第一位の男──マーベラス・バークレーを翻弄し、関節技を主武器として勝ってみせた男だった。

 

 背の低い男であった。

 およそ、一六〇センチメートルあるかないかの小柄。

 身長一七五センチメートルの畑が、この業界では小柄(チビ)と呼ばれるのだから、その男の小柄(チビ)っぷりは奇跡と呼んでいい。

 ボクシングで言えば、せいぜいフェザー級の体格であった。

 それが、ボクシングのヘビィ級チャンピオンを相手に、スタンド(立ち姿勢)から始まる真っ向勝負で勝ったのである。

 

 畑は、食い入るようにテレビを観ていた。

 誰だ、こいつは──ッッ!?

 何故、こんなことができるんだッッ!!?

 畑は、モニターの中の小男が、確かに、自分に持ち得ない何かを持っていると確信した。

 

 その男こそが、朝田昇──通称、朝昇と呼ばれる男であった。

 

 

0-1.

 

 

 そして、その朝昇が、黒竜寺で、自分の目の前に立っている。

 立ち合いのために。

 畑の胸はたかなっていた。

 朝昇。

 あれから、二年か。

 髪の毛が短く整えられている。

 眼が、心なしか穏やかに弛んでいる。

 頬肉がいい感じに整っていて、髪型と相まってあの頃より幾分かスマートな印象を受ける。

 黒い道着を着てくれていた。 

 黒竜寺に、朝昇がいた時の道着だという。

 こちらの事情──内情の一切を尋ねることなく、立ち合いを望んでくれた。

 

 二人の周囲に、火が放たれた。

 あっという間に、二人を囲むように炎の壁が立ち上がった。

 熱波がうねりをあげている。

 しかし、畑は落ち着いていた。

 これは、何を隠そう畑が望んだことだった。

 

 畑は、『朝昇が最もモチベーションの上がる状態』を試合の条件とした。

 朝昇はそれを快諾し、そうして、こういうリングが作られることになった。

 宮沢熹一と雌雄を結した再現だと、畑は聞いた。

 あの、若干一七歳で、T.D.Kで準優勝を果たした格闘士のことだ。

 現在においても、ハイパー・バトルで優勝を飾っている男だ。

 つい最近──脅威的な闘争(たたか)いを、全世界に刻んだ男だ。

 畑は昂っていた。

 内臓を焼き尽くすような熱と疼きが、腹の底から胎内を捻り昇っていた。

 

「わたしはね、本当はもう、誰かと競う必要はないと思ってるんですよ」

 

 ポツポツと、朝昇は語り出した。

 

「わたしはね、()()()()()()()()()()()()というものを知っているんですよ。最高の才能を持ち、それにあぐらをかくこともなく、弛まぬ努力を続け、人間として大きな器に育っていった男を……」

 

 言葉に嘘はなさそうであった。

 ある種の諦め──のような臭いが、朝昇の小さな身体から発している。

 朝昇はメガネをとった。

 そして、言葉を続けた。

 

「わたしはね、今はアメリカで武術を教えているんですよ。漫画やコスプレなんかも含めてね。そうしていると、『ああ、こういう生活も悪くない……』そんなことを考えるんですよ」

 

 す、と朝昇は息を吸った。

 細く、それを吐いていく。

 腹の中に澱む、優しさを吐き出すように──

 

 でもね、と朝昇は言った。

 

「やっぱり、わたしが()()ってなるとですねえ……誰が相手でも、負ける気がしないんですよね」

 

 白い歯を見せて、にいいっと笑った。

 眼が開き、黒点がきゅっと、小さく絞られている。

 獰猛な笑みであった。

 纏う雰囲気が変容(かわ)った──

 

 朝昇が腰を落とした。

 肘を曲げ、両手を、顔のやや前に出し、指先をくい、くい、と微かに曲げている。

 畑も、構えた。

 両手を上下に重なるように並べて、腰を、気持ち落とした。

 

 朝昇は、炎の揺らぎに合わせるように、体を上下に譲っている。

 畑は、重心を真下に落として、どっしり構えている。

 攻めの姿勢と、受けの姿勢。

 動くとすれば、朝昇からとなる。

 

 ふっ、

 と朝昇が言った。

 呼吸にしては、大きい。

 今、二人の距離は三メートルは離れている。

 それなのに、畑にはふ、ふ、という朝昇の呼吸音が、はっきりと聞こえていた。

 炎がゆらめいた。

 

 ふ──

 

 その瞬間、朝昇は走っていた。

 速い──ッッ!!

 それは、一瞬で間合いを詰め、ボクサーのバークレーですら見切れなかった、神速のタックルであった。

 一瞬で、畑は足と腰を掴まれた。

 背中からは倒されまいと、朝昇の背に上から被さるようにして、タックルを切ろうとした。

 すると、力の流れが変わった。

 朝昇の押す力は、瞬く間に引き込む力に方向を変えた。

 畑が、頭から地面に向かって倒れていく。

 反射的に、右手をついた。

 すると、棒のように伸びきった右腕を起点に、畑の腹と地面との狭い空間の中で、朝昇が蛇のように身を翻していた。

 その中で、畑の左肩関節をキメている。

 

「うわあッッ」

 

 畑が叫んで、両足を大きく開き、腰からぐるりと身体を回した。

 かろうじて、キメ切られる前にエスケープに成功っ!

 中腰の姿勢のまま、畑と朝昇が向き合う。

 まだ、朝昇の姿勢は整っていない。

 チャンスだ──ッッ

 畑が、朝昇の顔面に拳を打ち込んだ。

 しかし、それは朝昇の顔をすり抜けた。

 

「なにっ!?」

 

 畑の眼には、全く同じ角度、全く同じ向きのまま、朝昇の顔だけがぐんっと大きくなっていた。

 真っ直ぐに突っ込まれたのだ。

 中腰の姿勢からの神速──ッッ!?

 朝昇は、畑の襟を掴んだ。

 そこから、脇の下を潜るように背後に回る。

 畑の腕が、肩から背面に向けて三角形を描き、その隙間に朝昇の左腕が入り込んでいる。

 そのまま、襟から手を離し、畑の顔を巻き上げるように右腕を回し、畑の顔の後ろでクラッチした。

 首が捻られている。

 肩が、肘が、捻じられている。

 

「くわわっ」

 

 畑は、必死になって、頭から前のめりに地面に飛び込んだ。

 ごちっ、と畑の頭だけが地面にぶつかったり。

 つまり、朝昇はあっさり手を離している。

 手探りで、畑は朝昇の手首をとった。

 中腰のまま、身体を反転させる。

 捻りながら投げた。

 

「──ッッ!?」

 

 が──それにしては、感触がおかしい。

 投げた感触がない。

 ()()()感触があった。

 それは、ちょうど、地面に硬く根を生やす雑草を抜いた時のような感触であった。

 朝昇の腕が、その関節が、投げる力に合わせてすっぽりと抜けたのだ。

 タイミングを合わせて関節を外し、畑の投げの威力をほとんど殺してしまったのだ。

 ふわりと着地するや、既に、朝昇は体勢を入れ替えている。

 畑の軸足を払っていた。

 仰向けになった。

 その下に、朝昇が滑り込んでいる。

 もう、腕がはまっていた。

 仰向けの畑の下に、仰向けの朝昇が寝ている姿勢になっていた。

 朝昇の両足が、畑の腰に巻きついている。

 動けない──ッッ

 

 ぞくりとする殺意が、畑の身体の真ん中を貫いた。

 

 朝昇の手が、畑の肋骨を、下から捲り上げるように掴んでいた。

 

「やめいっ!!!!!」

 

 雷鳴の如く、雲光の声が響いた。

 炎が、思わず二人への道を開くほどであった。

 朝昇は、名残惜しそうに畑の肋骨から手を離した。

 どすん、と畑は力が抜けて、尻から、その場に落ちた。

 

 朝昇が立ち上がっていた。

 メガネを掛け直している。

 それを、尻もちをつきながら、畑は眺めていた。

 

「──教えてください」

 

 思わず、口走っていた。

 朝昇が手を止めた。

 じろりと、畑を見た。

 畑はあわてて姿勢を直し、朝昇の前に手をついて、頭を下げた。

 

「おしてえくださいッッ!! わたしに……ッッ! あなたのワザをッッ!!!」

 

 嘆願であった。

 今、畑の中には、矛盾する感情が渦巻いていた。

 朝昇は、想像以上にすごい男だった。 

 それが、嬉しい。

 朝昇に、あのままでは負けていた──

 それが、悔しくて悔しくてたまらない。

 その出力の方向を、畑は、なんとか制御していた。

 不安と、恐怖と、期待が入り混じることで発生した、暴れ出したくなるほどの高揚。

 それを、畑はなんとか取り繕っていた。

 

 

1.

 

 

 血だらけの顔であった。

 額が割れていた。

 と言うより、闘技場の柵にさんざ擦り付けられた、畑の額の皮膚が破けていた。

 血が、でろでろと流れ出て止まらない。

 肉の断面が剥き出しになっていた。

 その血を拭うことなく、畑は笑っている。

 したたかな笑みであった。

 眼が、輝いていた。

 狂気の煌めきであった。

 感動していた。

 

 ふ、と神奈村は微笑した。

 畑の異形を、全く恐れていない。

 それどころか、畑の変容を待ちかねていたように、喜びの現れた表情であった。

 

「そう。うん、いいよ。そうこなくっちゃねえ……」

 

 神奈村は言い様に、今度は重心を前に構えた。

 神奈村の初撃は、フックの()()()打撃であった。

 ような──とは、拳を作っていないからだ。

 (たなごころ)が開いている。

 指が、かすかに曲がって、(たなごころ)は、そこに卵をひとつ、ちょうど乗せられるほどの窪みと丸みを作っていた。

 狙いは、畑の鼓膜であった。

 畑は、神奈村の腕が耳に当たる直前、手を差し込んでガードした。

 すると、つ、と神奈村の指が伸びて、畑の耳を指先で優しく摘んだ。

 反射的に、神奈村の手首を、畑が掴んでしまった。

 

 投げ──

 

 一瞬、畑の重心が消えた。

 次の瞬間、握った手を起点に、神奈村は畑を投げた。

 肩から落ちた。

 受け身は、かろうじてとれた。

 倒れる畑は、しかし、すぐさま転がった。

 畑の頭があった場所に、神奈村の鋭いかかと落としが振り抜かれていた。

 

 

2.

 

 

 葛城無門は違和感を感じていた。

 妙である。

 神奈村の戦い方が。

 いや、神奈村の、底知れぬ圧力と、理性を伴った狂気的な──機械的な動作は、無門の記憶と合致している。

 畑幸吉を相手に、全く容赦のない攻撃をしているではないか。

 

 では、何か?

 この妙な違和感は。

 ……わからない。

 

 無門の眼が鋭く、より深く、神奈村へと向けられていた。

 

 

3.

 

 

 落ちてきた足、その足首を、畑は取った。

 その足を軸に、身体を回す。

 神奈村の背後に、下から這い登るように回っていく。

 神奈村の腰が落ちた。

 ベルトを、後ろから、畑が引っ張っていた。

 仰向けに倒れる神奈村に、畑は上から跨った。

 マウント・ポジションだ。

 だが、畑はパウンドは狙わない。

 パウンドをするフリをしつつ、狙いはやはり、関節であった。

 腕を巻き上げる。

 腕ひじき十字固め──

 シンプルな技であるが、それだけに一度キマると脱出は不可能な技だ。

 しかし、できなかった。

 畑と、神奈村の間に、伸びてくるものがあった。

 下からだ。

 畑の、股をするりと抜けて、伸び上がったそれは神奈村の足であった。

 神奈村は、マウントを取られたまま、一旦ブリッジを行った。

 尻と、腰を僅かに持ち上げる。 

 当然畑の股と、腰は密着したままである。

 神奈村は自身の腰と地面とに小さなスペースができると、神奈村は腰を回して片方の尻だけ地面につけた。

 これで、片側の面に空間──余白ができる。

 その余白に、素早く脚を折りたたんで、抜刀術のように腰を切ることで滑らせたのだ。

 昇りあがった神奈村の足が、畑の首に巻きついた。

 姿勢が崩れると、すぐさま神奈村は、もう一本の足も抜き出して、ちょうど数字の『4』の字になるように、畑の首を挟んだ。

 伸びた腕を、しっかり、自分の胸の前でホールドしている。

 三角絞めであった。

 完全にキマっている。

 

 終わったか──ッ!?

 

 だが、終わらなかった。

 畑の頭が沈み、神奈村の足からスポッと抜けた。

 先ほど見せたアレだ。

 キー坊がタートル・ディフェンスと呼んだ技術である。

 三角絞めから抜けた畑は、姿勢の整わない、眼下の神奈村に向かって、拳を撃ち落とした。

 その拳の狙いは喉である。

 そして、その拳の形は、親指を迫り出した危険なカタチであった。

 躱せない──!

 だから、神奈村は(たなごころ)で受けた。

 受けた上で、畑の拳の軌道を、ふわりと変えてみせた。

 

 途端、神奈村の眼が反射的に見開かれた。

 痛みであった。

 

 畑の、もう一方の手が、倒れる神奈村の肋骨を圧して、折っていた。

 

 

 

4.

 

 

 集中するのは得意だった。

 刃を上にして、道を作るように並べられた日本刀の数々を前に、畑は息を呑んだ。

 

 朝昇に師事を受けると決めた時から、トレーニングは始まった。

 とはいえ、それは黒竜寺的な荒業でも筋力トレーニングでもなく、朝昇が身につけた技術を、ひととおり扱えるようにするための技術訓練であった。

 

 当然、相応に痛みは伴った。

 なにせ、朝昇のワザときたら、各関節をいかにスムーズに外すのかとか、靭帯や腱を切れずに伸ばす法論に比重が寄っていたからである。

 アドバイスを求めた畑に、朝昇は、

 

「集中してください」

 

 と返した。

 

「集中するんです。集中して、己の内面に飛び込んで、支配するんです。己の精神も、己の肉体も。精神が肉体を完全に従えることができたなら、自分の身体機能を余すことなく、一〇〇パーセント使いこなせたなら、畑さん、あなたの肉体は切れるもので切れなくなり、折れるもので折れなくなります」

 

 そのアドバイスは、幸い畑の得意技であった。

 畑が、拳心流で、入門してから欠かさず行ってきた、丸めた新聞紙を顔にぶつけるトレーニングがある。

 丸めた新聞紙を拳に見立てつつも、顔に当たるまでに、くしゃくしゃの断面に綴られた文字を読み切る──つまりそれは、観察力と集中力を高め、見切りを行うためのトレーニングであった。

 今の畑には、新聞紙が向かってくるほんの数十センチの間に、内容さえ知っていれば、読み上げたそれがいつの新聞なのかを造作もなく読み切ることができる。

 

 朝昇の指導が上手かったのもあるとはいえ、畑の集中力は、普通人と比べるなら異様なペースで朝昇のワザを吸収していった。

 

 その中で、畑は、己の殺気を諌める術も学んでいく。

 

「己をコントロールするんです」

 

 朝昇は語りかけた。

 

「畑さん。あなたの集中力なら、必ず、己の中に湧き上がる暴力衝動を制御できるでしょう。要は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ですよ」

 

 これだけは、畑には、いまいち飲みこみ辛い言葉であった。

 

 そうしてたっぷり二ヶ月、朝昇とトレーニングに励み、最後の試験として『日本刀渡り』が行われることとなった。

 

 日本刀の刃を上向きにして並べ、道を作る。

 その上を、素足で歩き切るというだけの試験だ。

 言うに簡単だが、恐ろしい光景であった。

 目の前に広がる刃は、当然刃引きをしていない。

 本身だ。

 しかし、日本刀には道理がある。

 それは、日本刀でモノを斬る場合、対象に刃を当てて、圧して、引き切らねば斬れないという道理だ。

 刃を当てて、そこに圧をかけるだけでは、そうそう斬れないのだ。

 少なくとも、『当て斬る』というのは『引き斬る』という動作に比べると、はるかに軽症で済む。

 つまり、理屈の上では、普通に刃の上に足を乗せていき、普通に歩くように歩いたなら、足の裏は決して斬れないのである。 

 もし足の裏がさくりと斬れるとすれば、それは歩く者が生み出す恐怖心が、肉体に僅かな重心のブレを生み、結果的に『引き斬る』状態を作ってしまった場合である。

 

 つまり、これは心の試練なのだ。

 

 結果を先に述べるなら、畑はこれを、見事にやり切った。

 刃の上を渡る時、畑は澄み切った表情で、なんの恐れもなく、一歩一歩しっかりと足を前に出した。

 そうして渡り切った時、畑の心の中に、水面が広がっていた。

 風が薙ぐ、ゆるやかな水面である。

 振り返ると、刃の道の、なんと頼りないことか──

 

 畑は、こうして、黒竜寺を去った。

 心清らかなる表情で──

 

 

 己の裡に眠る獣が、水面の底に潜むことを知りながら。

 

 

5.

 

 神奈村の身体がぴくりと跳ねた。

 喉に、一本拳の下段──それは、()()()()()()即死を免れない一撃だ。

 がたりと、徳川光成が立ち上がった。

 血に塗れた畑の表情に、妖気がまとわりついていた。

 

「殺す気だぜ……」

 

 控室で、加藤清澄がつぶやいた。

 畑の表情、眼の光──見覚えがあった。

 ヤクザの用心棒をしている時に、たまに見かけた光だ。

 人を、殺すことに躊躇のない男の目。

 人を殺すことに、達成感すら覚えている、危険な光だ。

 

 本部以蔵がここにいたのなら、間違いなく止めに入ったであろう危険な衝動が、畑の全身にみなぎっている。

 

「大丈夫だよ」

 

 言ったのは、葛城無門だった。

 

「神奈村さんなら、大丈夫」

 

 そう言う無門の眼にも、微かな心配が滲んでいた。 

 死んでほしくない。

 そう言う想いは、当然、無門にはあった。

 無門にとって、神奈村は、克己と残った唯一の肉親と呼んでよかった。

 中でも、本気で、肉と肉でぶつかり合って、不気味だったが爽やかでさえあった神奈村とは、何か、こう……言葉では語りきれないつながりを、無門は感じていた。

 

「大丈夫だよ」

 

 また、無門は言った。

 加藤はその言葉を飲み込むと、神妙な眼で、モニターを睨んだ。

 

 

6.

 

 

 危険だね。

 

 そんな声が、畑に届いた──ような気がした。

 神奈村狂太の声だった。

 間違いなく。

 眼下の神奈村は、生きていた。

 下段突きは、例の、(たなごころ)の捌きによって、方向を変えられていた。

 神奈村は素早くマウントから離脱した。

 立ち上がる。

 が、手首を、畑に掴まれていた。

 そのまま、畑が身を捻って、身体の向きが真逆になるように、横に並んだ。

 手首を掴まれた神奈村の腕が、肘を天に向けて曲げられていた。

 

「おや……」

 

 と、神奈村が息を吐いた瞬間、畑は一切容赦なく、神奈村の後頭部を《切り落とし》た。

 が、

 

 がしっ、とその姿勢が、宙空で止まった。

 神奈村の足が、畑の足に絡まっていた。

 一瞬、勢いがせき止められ、引っかかった足がそのまま畑の姿勢を崩す。

 プロレスで言うところの、逆手の河津落としであった。

 がつん、と畑が後頭部から落ちた。

 ぶっ、と畑が口から血を噴き出した。

 

 

7.

 

 

 畑は、よろよろと立ち上がった。

 すでに、神奈村は立ち上がって、待ち構えていた。 

 神奈村の態度は、なんら変わらない。

 スーツを整え、ネクタイを絞め、ポケットに手を突っ込んで、メガネを掛け直し、にこやかささえ感じる、恐ろしい表情であった。

 肋骨が、二本、折れているのに、それを微塵も感じさせない振る舞いである。

 

 畑は──

 嬉しかった。

 もはや、狂気が、隠し斬れていなかった。

 集中力が、狂気と混ざり合って、覚悟の鋭さを帯びていた。

 これもこれで、ひとつの強さの到達点──その途上ではある。

 畑は楽しかった。

 返し技が豊富だ。

 未知の体験を、ずっとしている。

 それに、なんとかついていけている自分が、たまらなく好きになっていた。

 この、チビで、才能のカケラもない肉体に、感謝が絶えない。

 

 もし、自分の身長が、あと一〇センチ高かったら、戦術は全く違うものになっていただろう。

 もし、自分の体重が、あと一〇キロ重かったら、取れる手段は全く違うものになっていただろう。

 一七五センチメートル。

 七一キログラム。

 この肉体に生まれたからこそ、今、自分はこの感動のただなかにいられるのだ。

 愛らしい。

 愛しい。

 そして、こういう気持ちを引き出してくれた、神奈村狂太もまた、愛おしい。

 

「最後にしようか」

 

 神奈村が、水を差すかのごとく、()()()言った。

 

「お互い、もう、体力もないだろう。ぼくは、次の技を最後にする。それを畑くんが耐えられたら、きみの勝ち──そういうことにするよ」

 

 ああ──

 なんて()()()()男だ、神奈村狂太。

 せっかく、いい気分なのに、終わりにしようだなんて。

 

 畑が、身を小さく絞っていった。

 顔を前傾に沈ませ、肩をいかりあげ、腰を落とし、小さい身体をさらに小さくしていく。

 

 神速のタックル──

 

 そこから、拍子の繋ぎが全くなかった。 

 上下に揺れながら、畑は、真っ直ぐ突っ込んだ。

 それを、神奈村はしゃがんで受けた。

 しゃがんだ神奈村に、畑が突っ込み、そして、大岩にぶつかった車の如く、身体を大きく逸らしながら、投げられた。

 

 御式内────ッッ!!!

 

 葛城無門が心中で叫んだ。

 そうだッッ!!

 これが違和感の正体だ!

 神奈村狂太は、これまで、()()()()()を、ほとんど使っていなかった。

 あくまで、一般的なワザの延長と言えるものばかり使っていた。

   

 とっておいたのか、神奈村さんッ!!

 

 やはり、油断ならない人だと無門は思った。

 

 

8.

 

 

 神奈村が選んだ最後のワザは、ごくごくシンプルな、なんの変哲もないチョーク・スリーパーであった。

 

 だが、相手を確実に失神たらしめるには、これ以上のワザもなかなかないだろう。

 

 畑は、抵抗しなかった。

 神奈村の腕を掴むことはしなかった。

 代わりに、畑の腕の向かう先は──神奈村の肋骨であった。

 

 ぱきん、と乾いた音が、神奈村の体内と、畑の指先を震わせた。

 折れた。

 しかし、神奈村は極めを解かない。

 畑は、チアノーゼに震える手をゆっくりと動かして、次の獲物を捉えた。

 ……ぱきん、と音がした。

 折った。

 しかし、神奈村は表情ひとつ変えずに、腕に力を込めた。

 

 静かな世界が、畑の意識に訪れた。

 まだ、最後に、やれることがある。

 最後の力で、指を、眼に、突っ込める──

 

 ふるふると、くの字に曲がった畑の指が、神奈村の眼前に浮かび上がった。

 

「…………」

 

 しかし、止まった。

 それは、神奈村の眼前で止まり、ゆるゆると、宙を仰いで、地面に落ちた。

 

 静かな世界が広がっていた。

 

 観客も、その世界に、どっぷりとのめり込んでいた。

 

 

『勝負ありッッ!!!!』

 

 打ち鳴らされた太鼓が、静寂を突き破った。

 太鼓が打ち鳴らされて、審判たちが闘技場に乗り出してから、ゆっくりと、まるで愛するものを抱擁するように、神奈村は畑を手放し、闘技場に寝かせた。

 血まみれの顔から、すっかり狂気が抜け落ちて、童のように目を閉じ、眠っている。

 

「畑くん」

 

 そこに、神奈村は問いかけた。

 

「最後の目つきは……」

 

 しかし、神奈村は言葉を打ち切った。

 この状態では、答えが返ってくるはずもない。

 最後の目つきは、あと突き刺すだけの、十分な余力があった。

 だが、畑はそれをやらなかった。

 目突きにビビったのか。

 目突きをしても、神奈村はチョーク・スリーパーを解かないと悟ったのか。 

 それとも、

 しかし…………

 

 答えはない。

 だが、それでもいいさ、と神奈村は踵を返した。

 数学の世界では『解なし』という答えもある。

 いつか、それが新しい方程式が確立されて、紐解ける時まで、謎を咀嚼して楽しむ肝要さも、数学に携わる人間には必要なものであった。

 

 

 一回戦第十二試合:勝者、神奈村狂太

 




次回、インターバル③に続くッッ
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