【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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更新再開じゃい!!!


インターバル③
インターバル③


 

 

 

【範馬刃牙&ジャック範馬&獅子尾龍刃】

 

 

 最大トーナメントにあたって、医務室には小規模ながら拡張が行われていた。

 とは言っても、基本的にはベッドを多く並べるために、普段使っていない部屋を綺麗に掃除して医務室として使っているもので、医療品や器具などが劇的に増えているわけではない。

 また四肢の骨折程度のケガならば、動ける程度に快復すれば試合を観たがるのが格闘士のサガでもあり、今日ここまでに、ここに運ばれた格闘士の中で、特段()()に安寧を落ち着けるものはいなかった。

 

 そこに、今、ジャック・ハンマーが横たわっていた。

 痛ましい姿で。

 顔の、特に鼻から下の位置には固定具を差し込んだ包帯でぐるぐる巻きにされており、呼吸器を被せた鼻の穴からは酸素を送り込むチューブがつながっている。

 腕には三箇所から、点滴と鎮痛剤を通していた。

 眠っている、というよりは、意識がない状態であった。

 その肉体は、見るも無惨に(しぼ)んでいる。

 太い──圧縮ゴムを重ねて組み上げたような、緻密で、大きく、強い弾性に富んだ筋肉など、見る影もない。

 

 側に立つのは範馬刃牙と、その少し後ろから、兄弟の初対面を邪魔せぬようにと、心なしか身を縮めた獅子尾龍刃である。

 

 刃牙は、悲痛に目を歪めていた。

 

 初めて出逢った兄──

 痛ましかった。

 なんということだろうか。

 言葉が出てこない。

 言葉は出てこない。

 それでも、刃牙には理解できることがあった。

 ジャックが、どういう人生を歩んだのかはわからない。

 ジャックが、誰と出会い、何を食べ、どういう環境で過ごしたのかを、範馬刃牙は一切知らない。知るよしもない。

 それでも、横たわるジャックの肉体が、現してくる。

 それを、刃牙の鋭い感性が、刺激された感受性がキャッチして、想像を掻き立てている。

 ジャック・ハンマーが、兄が、ここにくるまでに、一体どれほどの苦悩を乗り越えたのか──

 範馬勇次郎の前に立つために、ジャック・ハンマー──いや、ジャック範馬が、一体何を犠牲にして、どういう想いに突き動かされ、どれほどの覚悟を固めて歩んできたのかが、理解(ワカ)ってしまう。

 

「兄さん……」

 

 呼ぶ、が、答えはない。

 獅子尾龍刃が目を伏せた。

 

「刃牙くん……ふたりで話したいなら、おれは出ようか?」

 

 刃牙はかぶりを振った。

 振り向いた。

 ジャックの悲痛さを映し取った、刃牙の眼が哀しみを浮かべていた。

 

「獅子尾さん……兄さんは、どんな人なんですか……?」

 

 不思議な言葉であった。

 それは、血のつながった兄弟であるにも関わらず、この瞬間に至るまで、まるで素知らぬ他人そのものであったという──範馬勇次郎にもたらされた、不可思議な運命を憎むような言葉であった。

 言葉のひとつひとつを発するたびに、心の中の『何か』を、傷つけているような声であった。

 獅子尾龍刃は再び目を伏せた。

 

「一生懸命なやつだよ」

 

 憂いを浮かべていた。

 幼子を褒めるように、獅子尾龍刃の岩のような声が、優しく、空気を震わせた。

 

 うん、うんと刃牙は頷いた。

 獅子尾龍刃の言葉が孕むものを、十分に察したそぶりであった。

 

「兄さん──」

 

 ジャックの手を、刃牙が取った。

 力の無い小さな手が、刃牙の、()()()()()()()手に支えられた。

 祈るように顔を傾けて、刃牙は言った。

 

「おれ……勝つから」

 

 自らに言い聞かせる言葉であった。

 それは、容易な言葉でない。

 その言葉が示す意味も、その言葉を成し遂げるために、範馬刃牙がたどるべき未来も、それを手繰り寄せる行いも、安易なものなど何ひとつない。

 それでも、刃牙の言葉は確信めいていた。

 重かった。

 とてつもない──山のような量感と熱を伴っていた。

 それはすなわち、範馬刃牙の覚悟であった。

 

「誰にも負けないから──」

 

 かつて、夜叉猿を前に誓った言葉を、あの時以上の決意を漲らせて、刃牙は繰り返した。

 

 獅子尾龍刃は、言葉を挟まなかった。

 縮こまる刃牙の背中を一瞥して、振り返り、微笑を浮かべた。

 

「兄さん……」

 

 静かに、獅子尾龍刃は退室した。

 刃牙の、啜り泣くような声が、扉越しに聞こえたような気がした。

 

 

【純・ゲバル&獅子尾龍刃】

 

 

 ゲバルと加藤の闘争(たたか)いの後である。

 ゲバルと、隣に立つ獅子尾龍刃の前に現れた黒スーツの一団。

 映し絵のように同じ気配を纏い、一糸乱れぬ呼吸を持って対峙する男たちである。

 その誰もが、ただものではない。

 武術の腕ひとつとっても、少なく見積もって達人級の腕前を持つだろう。

 

 横並びに列を作る男たちの前に、黒いスーツの女が立っていた。

 すらりと背の高く、しなやかな肉付きであった。

 艶やかな髪をボブカット気味にまとめて、怪しい潤いにてらった唇。

 両人を射すくめる眼が、鋭角に切り取られたガラスの鋒と同等の鋭さを帯びている。

 

 このふたりを前に、なんという威風堂々。

 醸し出されるものは、並々ならぬ胆力と人間力。

 賭郎外務卿──泉江夕湖である。

 

「倶楽部賭郎か……」

 

 ぼやくように、ゲバルが反芻した。

 その名に、心当たりのある口調であった。

 

「日本の深部に潜む秘密組織が、わたしに何の御用かな?」

 

 くすりと、息を吐き、若干嘲の意をこめて、ゲバルが言った。

 意に介さず、泉江は言う。

 

「ミスターゲバル。我々賭郎は、()()()()を迎え入れる準備があります」

「迎え入れる?」

 

 ざわり、とゲバルの纏う空気が立ち上がった。

 迎え入れる、とはどう言うことなのか。

 大統領たるゲバルにとって、その言葉はまず、政治的意義を問わねばならない。

 単なる同盟、同志という意味なのか。

 賭郎の麾下に置く──つまり、ゲバルを()()()()賭郎に取り込むという意味なのか。

 

「同盟、という意味です。ミスターゲバル」

 

 ゲバルの心を見透かしたのか、あるいはここまで台本でもあったのか、泉江の声は毅然と響く。

 

「ミスターゲバル。あなたは……」

「あー、ええと……ちょっといい?」

 

 ふい、と泉江の視線が龍刃に向いた。

 

「政治的なおハナシなら、おれは、席を外した方がいいかい?」

「いいえ、獅子尾龍刃。これは、あなたにも関係がある話です……我々は、あなたがここ数年、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を知っています」

「あ、あちゃあ……バレちまってたのかあ。あー……おれ、逮捕されちゃう? ひょっとして」

「ご心配なく。我々にその権限はありませんので」

 

 いったい、何の話をしているのか──

 ゲバルは静かに口角を持ち上げた。

 その歪み方は多分な茶目っ気を孕み、各々の意図を完璧に理解している動き方であった。

 

「わたしの()()()()を、倒したらしいね」

 

 ゲバルの言うパチモノ──というのは、かつて『ヴァイス・ファンド(悪徳者達)』の七大組織、『国民解放戦線(アル・ヒーブル)』を率いたカリスマ的反米テロリスト、『シンバ』のことである。

 つい先日、倶楽部賭郎は国民解放戦線(アル・ヒーブル)と組織そのものを賭けた勝負(ギャンブル)を行い、これに勝利し、シンバを失墜させアル・ヒーブルの組織力を賭郎の麾下に置くことに成功していた。

 尤も、この出来事自体が秘密裏に行われた政治的駆け引きでもあり、決して表沙汰になってはいないはずなのであるが……

 

 泉江が視線に、ほんの微かに怪訝の色を混ぜたことを、ゲバルは敏感に嗅ぎ取った。

 満面の笑みを作り、ゲバルは言った。

 

「賭郎の中にいるわたしの『搦手』がね、教えてくれたのさ」

 

 ハハ……と傲慢に笑うゲバルを、しかし、泉江は、

 

「ありえません」

 

 と言ってぶったぎった。

 ほう、とゲバルの顔から笑みが止む。

 

「つい先日、賭郎内部でお屋形様自ら賭郎立会人ひとりひとりに対して『面接』が行われました。そして、お屋形様御自ら我が賭郎に他所の『搦手』が存在しないことを証明しています」

「そのお屋形様が、見間違えたって線もあるんじゃないかな?」

「ありえません」

 

 即答であった。

 声が張り詰めていた。

 若干の怒気が滲んでいる。

 自らの長を嘲るやり取り──くだらないと断じていながら、その忠誠心が故に隠そうとして隠しきれなかった、感情の吐露である。

 ゲバルはに……と、誰に気づかれることもなく、微笑(わら)っていた。

 しまった、と泉江は息を呑んだ。

 

 ゲバルが、場を、支配しかけていた。

 とっかかりを先に握ったのは、ゲバルであった。

 すげえなあ、と内心、龍刃は思っていた。

 

 と──、

 

「アハっ」

 

 声が入り込んだ。

 ゲバルがあっさりと、()()()()()から手を離した。

 小さな声であった。

 掠れた声であった。

 音韻の外れたような、奇妙な吐息がゆるゆると、三者の肌を撫でた。

 

 その瞬間、ゲバルと龍刃は、同じものを見た。

 

 死神であった。

 鋒に行くにつれ、墨を引きずったように掠れた大鎌を手にした、甘い──死の匂いを纏った漆黒の死神が、窪んだ眼窩から闇色の光を放ちながら、こちらを睨んでいた。

 ぞくりと、ふたりの背筋に冷たいものが走った。

 

 こつり、こつりという足音と共に、泉江の背後の闇から──死神の(はら)から生まれるようにして、その男は這い出てきた。

 

 すらりとした男だった。

 白銀の男だった。

 銀の混じった白髪。

 一点のシミもない、上下ともに白銀のスーツを着ている。

 ボタンは留めていない。

 白いネクタイをしている。

 シャツやローファーはなんのグラデーションもない黒であるが、その幾何学的なコントラストによって、男の肉体はかろうじて人間の形に収まっているように、ふたりには思えた。

 男の肉体は、それほどの光に満ちていたのである。

 男の放つ光とは、自らの深淵から際限なく湧き放たれ、己が肉と骨の枠を超えて膨張し、世界を己の色に塗り潰さんとする甘い、毒色の光である。

 その毒気が、ふたりに幻覚を見せたのだ。

 ふたりの眼に映った死神とは、あまりに過密すぎる男の存在感、人間力そのものであった。男の意志が己の人間力を包み込み、ふたりに差し向けられたが故に、具現化した死神であったのだ。

 

 ──ただものではない。

 

 男は、わざとらしく身体を左右に揺らしながら前に出た。

 泉江の表情が驚嘆に彩られている。

 

「お屋形様──ッ」

「泉江ちゃん。うん、くるしゅうない。さがりたまえ」

 

 言われるや否や、泉江は己の意志よりも早く、後ずさっていた。

 ふたりのまえに、男が──斑目貘が立った。

 

「きみが──お屋形様かい?」

 

 観客席にいたよね?

 とゲバルは顔を傾けながら尋ねた。

 うんうんと、貘は口角を吊り上げた。

 

「フフ……さすがはミスターゲバル。そうっ! 私が今の賭郎お屋形様──斑目貘です」

 

 よろしくね、と茶目っ気たっぷりに、貘は言った。

 お互い、握手はしなかった。

 ふたりは、お互いに十分な間を空けていた。

 それは物理的な間のことでもあるが、なにより心理的な距離のことでもある。

 

「……目的をハッキリさせておきたいのだが……我々の『敵』は、()()ヴァイス・ファンド(悪徳者達)』でいいのだよね?」

「そうだねえ……まっ、とりあえず、()()()()()()でいいと思うよ」

「それなら話が早い。わたしがきみたちと組むことで得られる、わたしにとってのメリットを話してくれたまえ」

 

 貘の言葉は、含みのある口調であった。

 ゲバルを流し見る目付きは、ある種の躊躇いを持ち、もったいぶった、企みを孕んだ眼の色であった。

 しかし、ゲバルは貘の毒気をあっさりと飲み込んだ。

 その怪しさを全身に浴びて抱き留め、口の中に放り込み、存分に咀嚼し、容易く喉奥に飲み込んだ。

 それでも──その上で、ゲバルはあっけらかんと、太陽のような笑みを浮かべてみせた。

 

「うん、さすが、話が早くていいね! 手っ取り早く言うけどさ。ゲバルさん、アンタの島、ヤバいよ」

「────へェ」

 

 ざわり、とゲバルの空気が変容(かわ)った。

 貘は、全く臆せず続けた。

 

「アメリカがね。……まだアメリカ政府なのか、アメリカのどっかの秘密組織なのかは知らないけどね。アンタたちの敵がとんでもない『秘密兵器』を手に入れたらしいんだよね」

「秘密兵器? ハハ……それで、それが、わたしの島を焼き払うとでも?」

「そういうことになるよねえ……このままだとさっ」

「────!」

 

 貘は、嘘を言っていない。

 貘の空気、眼の動き、呼吸、体温──それら全てが、ブラフの類ではないとゲバルに伝えている。

 

「説明をいただけるかい、ミスターバク」

 

 と、ふたりの間に、太い手が割り込んだ。

 獅子尾龍刃であった。

 

「ちょっとまって」

 

 と龍刃は言った。

 

「あのさあ、確かに、おれはお二方の話には無関係じゃなさそうだけどさあ。なんなら、オリバがこの大会に出場(でて)ることとかは、()()()()()()なのかもしれないけどさあ。……おれはもう、二回戦進出が決まってる上に、もちろん優勝する気で大会に出てるんだよね」

 

 つまり、と龍刃は顎をなでた。

 

「余計なところで体力を使いたくないんだ。ワルいけどさ、おれは大会に集中したいから、ここは席を外していいかい?」

 

 負けたら、話は聞くからさ。

 と付け加えて、龍刃は言葉を締めた。

 

「いいんじゃない? 獅子尾さんはそれで」

 

 貘はあっけなくそれを認めた。

 ゲバルもうん、と幼子のように頷き、同意を示した。

 泉江は黙っていた。

 

「この大会──この場はさ、徳川さんの悲願なワケじゃない? 俺()()()()()()()()()()()()()()から、そこに()()()()()()()()()()()わけだけど……だからこそ、優先するべきは徳川さんの意志だもんね」

「その点はわたしも同意かな。ミスター徳川がいなければ、これほど()()()()が作られることもなかっただろう」

「徳川さんが部屋を用意してくれてるそうだから、ゲバルさんはさっ、そっちで話そう……これ以上、立ち話も何だしね」

 

 言葉を聞き終わると、龍刃は貘の前に出た。

 スーツの男達が足並みを揃えて出ようとしたが、泉江がそれを抑えた。

 

()()()、獅子尾さん」

 

 怪しい笑みを携えて、斑目貘は言った。

 貘の脇を通り抜ける時、龍刃は言いしれぬひっかかりを覚えて苦笑していた。

 

 

【花山薫&本部以蔵】

 

 

 本部以蔵は柴千春の命を救った。

 それは事実である。

 あのままでは、丹波文七は柴千春の命を奪わざるを得なかった。

 だから、止めた──

 それは、道理である。

 本部以蔵の『武』に基づく、道理。

 

 しかし、それでこの男が納得するはずもなかった。

 花山薫──

 今、その花山と、本部が対峙している。

 花山は折れた右腕を吊るしてはいるが、その態度は威風堂々。本部を射すくめる双眸は、言葉にするのも憚られるほどの怒気が込められていた。

 ぶるりと、本部が肩を震わせた。

 

「怖いな、花山さん……」

 

 心からの言葉であった。

 冷たいものが、本部の額から滴っていた。

 

 なぜ止めた──

 

 花山は、恐ろしく低い声で、言った。

 本部は毅然とした態度で答えた。

 

「花山さん──わたしは、自分にウソはつきたくないのだよ」

 

 花山の眼は、頑として本部を捉えている。

 本部は続けた。

 

 救えるはずの目の前の命を、救えなかった──とする。

 花山さん、これは、武術家の義務以前の問題だ。

 人間の善悪──あるいは、もっと根深い位置にある、人間愛、隣人愛というものなのだよ。

 わたしが、仮に、柴さんを救えるのに救えなかったとしたら……わたしは、わたし()()は、一生涯、それを背負っていかなければならない。

 わたしはわたしが学んだ武に従って、()()()()()、十分な勝算を持って柴さんを助けたのだよ。

 なんら不思議なことではない。

 困っている人に手を差し伸べる──なんの問題があるのかね?

 少なくとも、一般社会的に言えばわたしの行いは是とされるだろう。

 

「…………」

理解(わか)っているさ。()()()()の世界では、それは違うということぐらい。さしずめ、ケンカを終わらせる権利を持つものは、勝者のみ──そういうところだろう」

「…………」

「花山さんたちの、その矜持は充分に理解しているつもりだよ」

 

 花山は顔を伏せた。

 その間、本部は何もしなかった。

 ()()()()()()()のである。

 ()()()()()()()()間と時を、本部は自ら切り捨てていた。

 花山が、腕を持ち上げた。

 両の拳を握り、肘を曲げ、左右に、顔の高さで揃えている。

 戦うための構えである。

 本部は息を吐いた。

 やはり、そうなるか──

 非難はしない。

 花山薫は、花山薫のルールに従っているだけだ。

 間違った行いではない。

 しかし、本部以蔵の行いもまた、本部以蔵のルールに従って起こしたもの。

 こちらも、間違いではない。

 正しさと正しさのぶつかり合いである。

 その解決の手段として、自らの矜持に従って、花山は暴力を選択したにすぎない。

 

 本部は──

 

 歩き出した。

 花山に向かって。

 花山は呆気に取られた。

 その表情に、驚きが差し込まれていた。

 本部は、あまりにも普通に歩いてきたからだ。

 虚をつかれていた。

 敵意はない。

 殺意もない。

 身構えすら、ない。

 ごく普通に、散歩でもするように、近づいてきた。

 止まった。

 目の前で。

 無防備な本部が、花山を見上げている。

 

「やらないよ」

 

 と言った。

 花山の眼がぐぐ、と見開かれた。

 

「『(ほこ)』を『止』めるだけが、『武』ではない──暴力そのものを、その身から遠ざけることもまた、武なんだよ」

 

 本部の眼に、優しさが灯っていた。

 敵に向ける眼ではない。

 花山は固まっていた。

 戦うと決めた相手に、こういう眼を向けられたことは初めてだった。

 その隙を、本部以蔵は巧妙に縫っていく。 

 

「わたしはこのまま歩き去る──どうぞ、攻撃したいのなら、すればいい……花山薫という()()()が、戦意もない、逃げゆく男の背中に向かって、拳を振り下ろせるなら──するといいさ」

 

 花山が、ゆっくりと、拳を降ろしていった。 

 にこりと、本部が笑った。

 そして、歩を進めた。

 すれ違った。

 

「──本部以蔵」

 

 花山が言った。

 呟くように。

 本部は足を止めた。 

 顔だけ、肩越しに振り返った。

 

「覚えておくぜ……」

 

 恐ろしい声で、花山は言った。

 しかし、百戦錬磨の本部にとり、それはなんとも可愛げを秘めた、花山の年相応の囀りにも思えていた。

 花山の、花山薫ゆえの矛盾──そこに、初めて突き当たったために、言葉を選べずに吐き捨てる、子供らしい反抗心──そのようなものに、本部には聞こえていたからだった。

 

「楽しみにしているよ」

 

 本部は、あえて、挑発を選んだ。

 背中越しに遠ざかる花山の存在感は、本部の意識に強烈に焼きついたのか、しばらく経っても消えそうになかった。

 

 

【野見宿禰&???】

 

 

 コインを入れると、紙コップが落ちてきて、自販機がごごーっと音を立てて、紙カップにコーヒーを注ぎ始めていた。

 紙コップが満たされるほんの数秒の間、太い男──野見宿禰はふ、と息を吐いて、天を仰いだ。

 

 便利だな、と思っていた。

 ああ、そう言えば、こういうものを使うのも、初めてだ……

 

 現代社会──現代日本では、もはや自動販売機は日常の風景に溶け込んでいる。

 しかし、今日この時まで、『宿禰の社』にいた宿禰にとっては、ありふれた自販機さえもが何もかも斬新で、それは自販機に限らず、下界には抱えきれぬほどの初体験(ときめき)があふれていた。

 

 注がれたコーヒーを取る。

 カバーを外し、掴んで持ち上げるのにも苦労をした。

 指と手が太すぎるせいで、うまく掴めなかったからだ。

 こんなことも、知らなかった。

 なんとか紙コップを持ち上げると、まさにそれはおもちゃそのもので、しかし、そのおもちゃを物珍しい好奇の眼で見つめたあと、まだ湯気の立つコーヒーを飲んだ。

 

 苦い。

 これすらも、まだまだ未知に近い。

 自分は、物知らずだった。

 

 物知らずと言えば──そう。

 あの試合だって、終わってみれば、もっと上手くやれたと思う。

 だが、あの時あの瞬間の野見宿禰には、あれが全力で、最適解だった。

 世の中には、想像を超える強者があふれていた。

 相撲の神──とは名ばかりの、亡霊のような生き様を強制されたのは、自身のあまりある強さが、世間から隔絶し、世間から拒絶されるものだと教えられたからだった。

 違った。

 どいつもこいつも、ここにいる男達は紛れもない力士だ。

 それも、超一流の……である。

 それも、古代相撲のルールに則っても、である。

 自分は、()()()()()()()にすぎなかったのだ。

 あの男たちの日常(闘争)に、今更自分が混ざったところで、男たちの世界は、色もカタチも極端に変質(かわ)ることはないだろう。

 

 ──山を降りてきて、本当に良かった。

 

 敗北したにも関わらず、宿禰の胸の内には爽やかな風が吹いていた。

 今まで味わったことのない風である。

 それは、喜びであった。

 解放の風であった。

 己は、自由だ。

 野見宿禰として、誰かのひとりとして、世界に混じっていける──

 敗北によってもたらされたかけがえのないものが、宿禰の頭のてっぺんからつま先までを満たしていた。

 

 ずず、と二口目で、宿禰はコーヒーを飲み干した。

 

「なんだ、思ったより元気そうじゃないか」

 

 不意に、声がかけられた。

 聞き覚えのある声であった。

 宿禰は慌てて振り返った。

 

 そこに、()()()()()()()()()()タケミカヅチが立っていた。

 

「タケッッ……」

 

 しっ、とタケミカヅチは人差し指を口の前に立てた。

 

「今はお忍び中なんだ。騒ぐのはやめてくれると嬉しいな」

 

 タケミカヅチは、変わらぬ朴訥な表情で、宿禰を見上げていた。

 

「……申し訳ありません」

「ん? なにがだい?」

「あなたの名を穢してしまった──」

「……? なんのことだい?」

「え……い、いえ。こっちが勝手に思ってることです……」

 

 ふむ、と顎に手を当てて、タケミカヅチは唸った。

 しごく、どうでもよさそうに、頭を捻っている。

 かなわないなあ……と宿禰は思った。

 

「それで……な、なぜ、アナタがここに……?」

「ああ、私の友人から、『宿禰はアンタが焚き付けたんだから、なんか言ってやれよ!!』と尻を蹴飛ばされてしまってね。とりあえず、きみを見つけて話しかけてみたんだが……特に、話すことはないかな」

「…………」

 

 悪感情はない。

 この人は、本当に、自分が負けたことを歯牙にもかけていない。

 ほっとするようで、地味に、悲しくもあった。

 

「うーん、そうだなあ……試合の内容……そう、試合の内容に関しては、まあ、いい勝負だったよ。今のきみならあんなものだろう。よくやったと思うよ、うん。落ち込む必要はない……うん、あの試合は良かったよ。初めてにしてはかなりのものだ」

 

 せめて、どちらかに言い切って欲しいなあ、と宿禰は苦笑した。

 

「あ、そうそう。きみ、『煉獄』は知っているかい?」

「煉獄──? なんですか、それは」

「私もよくわからないのだが……」

「わからないんですか……」

「まあまあ。友人曰く? どうやら裏の格闘興行団体らしい。そこに、今、わたしの友人の部下が、選手として働いているとのことだ」

 

 モンゴル相撲の使い手だよ。

 とタケミカヅチは言った。

 

「名前は──……ナイヤン? ナイダン? だったかな? とにかくそういう感じで、なかなかのモンゴル相撲(ブフ)の使い手だ。友人に手を回してもらうから、宿禰くん、きみ、煉獄に行ってみないか? 私の勘だと、ナイヤン……ナイダンと一年ほど揉み合えば、きみはさらに上のステージにいけると思うのだが……」

「────!! い、いきます!! いかせてください!!」

「そうか、それはよかった。じゃあ、この大会が終わった頃ぐらいに、私の友人たちに迎えにこさせよう」

 

 言うだけで言うと、何を惜しむ余地もなく、タケミカヅチは踵を返した。

 

「あ、くれぐれも、私と会ったことは内緒にしておいて欲しい。なにしろ私のことは、お忍びでここに来ている……? ことに()()()らしいからね」

 

 何から何まで、あっけらかんと道を示して、タケミカヅチはするするとその場から立ち去った。

 宿禰は黙って頭を下げた。

 タケミカヅチの気配が無くなっても、しばらく、頭を下げたままにしていた。

 

 

 

【梶隆臣&フロイド・リー&マルコ&宮沢鬼龍&???】

 

 

 何が起こったのか──!?

 

 梶には、何もわからなかった。

 ただ、確かなことがある。  

 

「ああぅっ!! ま、マルコの顔……ああああっ!!!」

 

 頭を抱えて倒れ、足をばたつかせるマルコ。

 コートを靡かせて、泰然と立つ宮沢鬼龍。

 車から這い出したはいいものの、未だ全身が痛み、軋み、立ち尽くすしかできない自身とフロイド。

 

 目の前に広がる光景が、これが意味することが、深い絶望を背負って立ちはだかっていることだけは、梶にはわかった。

 

「な、何が起きたんだ……!?」

 

 梶は、絶望に抗わんと、目の前で起きたことを反芻し、微かな勝機を見つけんとしていた。

 

 マルコと鬼龍。

 少なくとも互角の打ち合いをしていた。

 いや、単純な手数だけなら、マルコの方がいくらか多かったようにも思う。

 広々とした高速道路のど真ん中である。

 マルコが得意とする三次元的戦闘は不可能ではあったものの、上下左右に大きく動きをつけた、獣のような動きは健在であった。

 終始、果敢に攻めていたのはマルコであり、鬼龍はクリーンヒットは許さないものの、マルコの圧倒的な手数を前に、ほとんど手を出せずにいた。

 

 均衡が崩れたのは、ふたりが交差した瞬間だった。

 

 一瞬、鬼龍の姿がブレて見え、次の瞬間にはマルコとすれ違うように拳を交差させていた。

 いや、すれ違う──というのは語弊がある。

 鬼龍の身体は、まるで、幽霊か何かのように実態を消して、実際にマルコの身体を通り抜けていた──ように、梶には見えていた。

 

 そして、鬼龍が悠々と振り替えるのと同時に、マルコが頭を抑えてその場に倒れ、苦痛にうめき出したのだ。

 外傷は全くない。

 パンチが当たったようにも見えない。

 しかし、倒れたマルコの顔からは血の気が失せ、よほどの苦痛を関しているのか、背を丸めてバタバタと足をもがかせていた。

 

「な──なにが……っ!?」

 

 わからない。

 率直に考えられるのは、毒か何かを仕込まれたのだろう。

 だが、鬼龍は確かに素手だ。

 コートから何かを取り出す仕草さえしていない。

 やったことといえば、マルコの顔面にパンチを出し、それをマルコが躱したことで、鬼龍の身体がマルコを通り抜けただけである。

 

「考えても無駄だ」

 

 鬼龍は言った。

 

「梶っ! 立会人はまだなのか〜っ!!?」

 

 フロイドが叫ぶ。

 絶体絶命とはこのことだった。

 梶は、すでに門倉立会人に連絡を取り、スピーカーに切り替えた通話状態のまま、スマートフォンを車に残していた。

 これで、とりあえず現場の音は全て向こうに筒抜けになるし、鬼龍の名前も伝わっている。門倉立会人ならば、巡り巡めくこの機微を察して、適切な動きをしてくれるだろう。

 携帯を手に持たないことで、とりあえずすぐさま連絡を絶たれることもない。

 これが、今、梶にできる精一杯であった。

 

「安心しろ梶隆臣、おまえは殺すつもりはない。嘘喰いの相棒は、生かしたまま連れてこいと言われているのでな……」

 

 ごきり、と鬼龍が拳を握った。

 フロイドのことは殺すつもりだ。

 

「だっ、だめだ!! 連れて行くならフロイドさんも一緒にしろ!! でなきゃ僕は……」

「梶っ……おまえ……」

「ククク……暴れたければ好きなだけ暴れるがいい。灘神影流には精神のみに作用し、獰猛な暴れ猿を生まれたての子鹿のように大人しくさせるワザがいくつもある」

「灘……神影流……!!?」

「大人しくしていれば苦しませず終わらせてやる。さあ────!!」

 

 鬼龍の言葉はそこで途切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なぜなら、車に撥ねられたからだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「────はっ、はああっ!!?!?」

 

 梶が絶叫した。

 鬼龍の真横から突っ込んできたものは、ランドクルーザーであった。

 山道を走る際にも全くパワーが衰えない、ごつい、旧タイプの、四輪駆動車である。

 そのランドクルーザーが、重低音のエンジン音を唸りあげながら、猛スピードで鬼龍の横腹に突進したのだった。

 目の前にしただけの梶たちにも、目に見えるほどの凄まじい圧力がかぶさった。

 ランドクルーザーは、鬼龍を跳ね飛ばしてたっぷり一〇メートル前進し、とまった。

 エンジンのどろどろとした音をそのままに、ドアが開いた。

 巨大な、熊のような影が、のそりと動いている。そこから出てきたのは、山のような量感の男であった。

 男は、巨躯に反する軽微な足取りで、倒れるマルコに歩み寄って、その身体を優しく抱き起こした。

 

「こりゃあまた、ひどい『幻魔』を刷り込まれたもんだな」

 

 男が、マルコの顔の上に、その大きな掌を乗せて、す、と撫でて見せると、腕の中で暴れていたマルコは途端に瞼を閉じて、ことんと意識を失った。

 

「な、何をしたん……ですか……?」

 

 梶は、思わず敬語になっていた。

 状況の目まぐるしさも手伝って、この、敵か味方かすらわからない男に気圧されている。

 男が梶を見た。

 岩のような、黒い瞳が梶を捉えた。

 

「なに、『幻魔』を抜いてやったのさ」

「げん……ま……ですか……? なんすか、それ……?」

「外部から侵入して脳に留まり、人間の精神に作用して、強い痛みを引き起こす幻覚作用のことさ。こいつは外から『気』を押し当てて流してやらないと、死ぬまで幻痛に悩まされることになっちまう」

「は、はあ……?」

 

 何が何だか、梶にはわからない。

 き? きとは、気のことだろうか?

 マンガや、アニメなどでは、人間に宿るマジカルパワーとしてよく用いられる概念だ。

 それが、本当にあるというのか──

 疑念は、すぐにかき消える。 

 目の前の男の圧倒的な存在感が、梶の、非日常こそ日常と化した人生経験が、「ありもしない」などという盲信を「ありもしない」と切り捨てていた。

 

「あなたの名前は……」

「九十九乱蔵──しがない陰陽師くずれさ」

 

 男は、妙に愛嬌のある微笑を梶に投げた。

 

「祟られ屋ごときが、なんのようだ」

 

 鬼龍の声であった。

 三人が、その方を向いた。

 高速道路の壁の上に、鬼龍は立っていた。

 あのランドクルーザーに、あれだけ大仰に撥ねられたというのに、その身には怪我ひとつない。

 

「受け身を取るのがうまいんだな」

 

 いささか皮肉めいて、乱蔵が言った。

 ふん、と鬼龍は鼻を鳴らした。

 

「誰に雇われて俺の邪魔をしているのかは知らんが、貴様が相手となれば手加減はできんぞ」

「どうかな……おれが、あんたの敵かどうかは、まだわからないぜ」

「……何を言っているこのゴリラは?」

「あんたには、ぼやぼやしてる時間はないだろう、って話をしてるのさ。ぼちぼち賭郎とやらの立会人も来るぜ。さすがの宮沢鬼龍とはいえ、おれと、立会人と、このマルコの三人を相手取るのは無理だろう」

「…………」

 

 ふん、と鬼龍は吐き捨て、振り返った。

 

「いいだろう。しかし、貴様が動いているということは、真壁雲斎も動いているということ……クク、楽しくなってきたじゃないか」

 

 そう言うと、鬼龍はふっ、とまた、幽霊のように三人の目から消えていった。

 

 

【日下部覚吾&???】

 

 

 日下部覚吾が地下闘技場のスタッフに呼ばれて、運営の一室に訪れたのは、自身の試合の始まるほんの一〇分前であった。

 

 もとよりほとんど世捨て人同然の生活をしていた覚吾にとり、携帯電話などは無用の長物に過ぎない。

 だから、『日下部覚吾宛ての電話』というものが、地下闘技場の運営に直接届いたのだという。

 

 合同控え室から離れ、廊下の隅で瞑想を重ねていた覚吾は、スタッフに連れられてその電話を取った。

 

 果たして誰であるのか、見当もつかない。

 自身の近親者は、幽玄死天王を除けば鬼喰島の安藤夢二か、それこそ宮沢熹一しかいない。

 

「もしもし、代わりました」

 

 神妙な言葉で電話を受け取った覚吾に、衝撃が走った。

 

『もしもし? アタシよ、アタシィ〜』

 

 受話器の向こうから聞こえたのは、上擦った声であった。

 男性の低音に、女性の高音を無理やり当てはめて軋ませたような、不快な音であった。

 日下部覚吾にとって、聞き覚えがありすぎる声であり、二度と聞きたくないと思っていた声であった。

 

『アラッ、やあねェ〜ッ。フフッ、あんまりダンマリしてると、アナタが驚いて固まってる顔がありありと浮かんじゃうわよ』

 

 電話の主は、ナットー・L・ネルーニョ。

 つい最近、アル・ヒーブルとシンバに変わって、『ヴァイス・ファンド』に繰り上がった男であり、秋田組と敵対する日本最大の暴力団、『源王会』の八代目を預かる男であった。

 




次回、一回戦第十三試合:姫川勉vs日下部覚吾 開始ィィッッ!!!
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