【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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一回戦第十三試合:姫川勉vs日下部覚吾
第一話:砕け散る


 

0.

 

 

 伝統派空手十段神山徹。姫川勉と日下部丈一郎について語る。

 

 

 天才でしょう。

 姫川勉を形容する言葉です。

 ダイアモンドだの、空手貴公子だの、色々なあだ名がありますが、この天才──これこそが、姫川勉を最も正しく形容した言葉だと思います。

 姫川──今でこそ、フルコンタクト空手の北辰館に勤めていますが、元は伝統派空手の出身なんですよ。

 つまり、わたしの後輩にあたる男です。

 言うまでもなく、才能のある男でした。

 わたしよりも、遥かにね……

 

 伝統派空手というのは、基本的に『当てない』空手です。

 実戦的なスパーリングなどは、ほとんどやりません。稽古は正拳突きや前蹴りなどの基本動作と、型稽古と、演武用の型がほとんどです。

 硬いものを叩いたりしません。

 気絶するまで筋力鍛錬もしません。

 熱した砂鉄に手刀を入れる?

 いれませんよ、まさか。

 そもそも空手における本格的な部位鍛錬は、中国拳法の硬功夫(いんごーふ)から着想を得た志誠館が導入したものなので、空手の歴史を紐解くならだいぶ後の話ですからね。

 そんな傾向だからか、伝統派空手では業界自体が異種格闘技はおろか、他流試合すら忌諱される傾向にあります。

 わたしが、北辰館のオープントーナメントに出場した()()だって……ハハ、色んな人に止められましたよ。

 でも、当時のわたしは、どうしても出場(でた)かったんですねえ……。

 その結果は散々足るものでしたけど、今思えば、あれも、いい経験でした。

 

 ああ、すみません。

 話を姫川に戻しますね。

 いやあ、歳をとると、自分語りがつい挟まってしまいます。

 お恥ずかしいことです。

 

 そういう業界──

 空気の中で──

 姫川勉という男は、松尾象山に挑んだんですねえ。

 理由?

 カンタンなことですよ。

 『最強』を証明したかった──

 それだけです。

 「己こそが世界最強」

 そういう気持ちに、実感を持たせたかったんでしょうね。

 うらやましいですよ。

 若い──その青さが。

 いや、姫川勉は、歳をとっても、きっと()()なんでしょうね。

 うらやましい限りです。

 最強を証明するために、松尾象山に挑む。

 言葉にしたら簡単ですけど、普通、できないことです。

 その時の勝敗、これは、松尾象山は『勝ってもいないし、負けてもいない』と言っているそうですね。

 すごいことです。

 あの、松尾象山から「おれは勝ってない」という言葉を引き出したことが、です。

 姫川が北辰館に移ったのはその後ですから──おそらく、姫川は諦めてないのでしょうね。

 松尾象山の弱点を知るために、敵の懐に飛び込んで、勉強しているんですよ、あの男は……。

 すごいですねえ。

 本当に、根っからの負けず嫌いですよ。

 天性の感性、武術センスなんかより、あの負けず嫌いっぷりが、姫川の天才なところなんじゃないかと、わたしは思いますねえ。

 

 ──え?

 姫川の強み──ですか?

 武的な、わかりやすい強みですか?

 ええ、ええ。そうですねえ……確かに、姫川勉の強さって、ちょっとわかりにくいですよねえ。

 わたしとやった時も、決着の仕方に関して「よくわからない」、「あれはなんだったんだ」って、いろんな人に問い詰められました。

 そうだなあ。

 ひとつ、わかりやすい強みを挙げるとするなら、姫川は眼が良いですね。

 これは、武術的な意味でもあるし、その通りの意味でもあります。

 まず、動体視力自体が良い。

 モノがよく見えている。

 見切りが上手いんです。

 相手の筋肉に、どのぐらいの力が籠っていたら、どの程度の威力のパンチが、どの程度の間合いで、どんなタイミングで、どの角度から飛んでくるのかわかっちゃう。

 そこに、重心の前後まで読み切って、相手の次手の動きまで予見し、()()()()()()()()()()()()()同時に動いてカウンターを取れる。

 このギリギリまで()()()()()部分が、いわゆる『先の先』とはすこし違うところですね。

 先に動く、ということをしませんので。

 同時に動くんですねえ。

 だから、相手には見えない。

 動きを察知できない。

 これを、姫川は体捌きにも応用していて、相手の意識がどこに向いているのか見えているから、相手の意識の外に出て、目の前から消えて見せることができる。

 姫川は、それを、武術の本番で、コンマ一秒を凌ぎ合う緻密な攻防の中で行えるんですよ。

 たまりませんね。

 すごい才能です。

 こればっかりは、経験だけで補うことはできません。

 強いハートと、経験と、感性と、それらを身体に乗せて、自由自在に動かす総合能力が必要ですから。

 だから、姫川にはこちらの攻撃が当たらないし、姫川の攻撃はことごとく、こちらの急所に吸い込まれてしまうんです。

 

 姫川の見切りの訓練のひとつに、日本刀を用いたものがあるそうです。

 門下生に、刃引きをしていない日本刀を持たせ、裸足にさせる。

 姫川は上半身裸で、向き合って立つ。

 刀の間合いの中です。

 そして、門下生が刀をランダムなタイミングで振って、なるべくぎりぎりの位置で寸止めする。

 これを、深夜に行うそうですが、なんとも恐ろしい訓練です。 

 一歩間違えれば斬殺は免れない。

 足下もおぼつかない深夜で、門下生は裸足ですから、例えばそこに小石か何かが転がってて、それを踏み込みの際に踏んじゃったりすると、簡単に手元が狂うんですよ。

 もちろん刀を持つのも人間です。

 つい、間違って、寸止めし損なうことだってありますよ。

 しかし、そこが姫川勉なんですねえ。

 考えてみれば当たり前の話ですけど、この訓練で、姫川が負傷したことは一度もないそうです。

 手元が──

 足が──

 間が──

 重心が──

 担い手の部位がそれぞれにズレたのなら、そのズレた分だけ、姫川が身を引いて躱すんです。

 完璧な見切りです。

 刀に対する恐怖心や、自分に対する自信がなければ、とてもじゃないができません。

 そんな訓練を、ごく日常的にやっているのだから、普段から「当てない」練習しかしない、わたしの「当てる」拳が当たらないのも、当然だったんですよね。

 見切り──この鋭さこそが、姫川勉の強さです。

 

 しかしですよ。

 しかし、最大トーナメント。

 姫川の一回戦の相手は、日下部覚吾だったんですよ。

 幽玄真影流の、日下部丈一郎先生の息子さんです。

 え? 日下部先生をご存知なんですか……って、アナタそりゃ、日下部先生はわたしらの世代にとって『伝説』のお方ですよ。

 

 『拳聖』──日下部丈一郎。 

 

 愚地独歩や松尾象山が出てくる前──

 範馬勇一郎や力剛山が出てくるより前の世代。格闘マニアの中で【最強】といえば、柔道の牛山先生か、古武術の日下部先生かで議論していたんですよ。

 打撃か(フィスト)? (オア)投げか(ツイスト)

 この議論、戦中からあるんですよ。

 結局、両者が現役時代に戦ったという話は聞きませんでしたが、まだまだ純情な空手少年だったわたしには、おふたりの名前は輝いていたものです。

 その丈一郎先生の息子さんが、日下部覚吾さん。

 幽玄真影流の最後の当主ですね。

 言うまでもなく、強いです。

 最大トーナメントのすこし前にあった、灘神影流の宮沢熹一さんとの親子喧嘩、わたしも観ましたよ。

 わたしは子供がいないんですけどね……あれは……色々とまあ、クるものがありましたね。

 

 そのふたりが、最大トーナメントの、一回戦で戦うって言うんだから、当時、わたしたちもざわつきましたよねえ。

 

 

1.

 

 

 姫川勉が闘技場に姿を現した。

 途端に、黄色い声が上がった。 

 地下闘技場に似つかわぬ音色である。

 おろしたてのようにテカりのある純白の空手衣を纏い、白帯を留めているが、それがある種の擬態であることに疑いを持つものはいない。

 鼻筋の整った顔立ちに、程よく丸みのある切れ目。

 長身に比例して手足はすらりと長く、長い髪を後ろにまとめて結っている。

 姫川の醸し出す空気は、凡百の格闘家はもちろん、百戦錬磨の格闘士たちともまた、違ったものである。

 彼らを山や岩と例えるならば、姫川の存在は水面に凪ぐ睡蓮の如き華やかさと慎ましさに満ちている。

 その表情もまた、落ち着いていた。

 黒曜石のような瞳が、煌びやかに瞬いて、対角線に向けられている。

 

 日下部覚吾は、まだ入場していなかった。

 

 観客席がざわついていく。

 棄権か?

 と言う声が上がる。

 一部で、それもやむなしといった類の言葉が聞こえるが、大多数はそうではないだろうと言っていた。

 格闘士(グラップラー)たちの中には、覚吾が棄権することなどはなから信じていない。

 ここにいる大半の人間が、あの親子喧嘩を観たからだった。

 その親子喧嘩の当人──宮沢熹一が怪訝な表情を浮かべた。

 

「なにやっとるんや、一体……」

 

 スタッフたちが闘技場のすぐ外で集まって、審議を問うていた。

 

 その時、ちょうど、ある男の元に、一本の電話が入っていた。

 

 

2.

 

 

 日下部覚吾はあっさりと、不気味に姿を現した。

 姫川の対角線、柵の内側のなにもない場から、その姿がゆっくりと浮かび上がったのだ。

 風景に擬態し獲物を狩る爬虫類のように、闘技場の空間から這い出るように、日下部覚吾は現れた。

 その異様に、また、ざわついていく。

 闘技場に集う観客たちの知る格闘士の技術とは、まるで毛色の違うものを見せられた。

 だが、彼らを真に困惑せしめたのは、荘厳に表情を引き締めた日下部覚吾の顔に、見るからに殴られた痣が浮かんでおり、その佇まいが物語る殺気の張り詰め方は、どう観ても今し方一戦を交えたばかりの男の風貌であったからだ。

 

『こっ……これはどういうことだあッッ!!?』

 

 困惑を、実況が言葉にした。

 誰もが、心の中で頷いた。

 

 日下部覚吾は間違いなく、ここに来るまでに一戦、誰かと拳を交えている。

 しかも、相当の強者(つわもの)に違いない。

 宮沢熹一が唖然と口を開いた。

 あの日下部覚吾を、こうも堂々と疲弊させるほどの男がいたと言うのか──

 ぐるりと周りを見渡し、キー坊はその場を後にした。

 今、この場にいない範馬刃牙のことが、心配になっていた。

 

 

3.

 

 

 姫川は、薄く、ほんの二ミリほど瞼を持ち上げたが、その心にそれ以上の驚きの感情はなかった。

 むしろ、気をつけねばならなかった。

 日下部覚吾のエンジンが、最初からかかっていることに、である。

 行住坐臥、すべてを戦いに向けることが、武人の理想である。

 しかし、それがなかなかそうもいかないことを、姫川は知っている。

 人は、飯を食べるし、垂れるものは垂れる。睡眠の重要性は特に、闘争以前に心身の安定に深く関わらざるを得ない。あの松尾象山さえ、食うと寝るを人生から排することは不可能である。

 その松尾象山が、しかし、武の心構えにあっても、例えば意識のない不意打ちなどは通じてしまいかねない。

 人は、生きていく限り、どんなに神経を尖らせていても、針の先しか通らぬほどの隙間がある。

 肉体の──というより、精神を日常へと紡ぐ際に、不可避の間隙が必ず出てくる。

 不可避の間隙、意識の開閉のことを「呼吸」と喩えるならば、闘争となれば当然、呼吸は荒くなり、その間隙の大小そのものが大きくなったり、不規則になる。

 継ぎ目が生まれるのである。

 その呼吸の継ぎ目が、闘争を終えたばかりだろう緊張感に包まれた覚吾には見えない。

 ある種の興奮のピークを迎え、それを維持したまま、日下部覚吾はここに立っているのだ。

 

 姫川は、ふう、と細い息を吐いた。

 誰かは知らないが、余計なことをしてくれたようである。

 『拳聖』と謳われる日下部覚吾の付け入る隙が、ひとつ、盤外で潰されてしまっていた。

 しかも、覚吾はモチベーションこそ高まっているものの、ダメージらしいダメージは負っていない。

 強がりではない。

 もし、どこかを痛めているのを強がりで隠しているだけなら、微かな痛みに筋肉が緊張して強張っていることぐらい、姫川にはわかるからだ。

 日下部覚吾は()()()()()()()()である。

 

 だが、それに恨み言は吐かない。

 限りなく路上のルールに近づけた、地下闘技場において、こういうトラブルは既知の範囲とせねばならない。

 表の格闘トーナメントでさえ、丹波文七とやり合ったあの試合のように、相手選手が盤外でやりあったまま、疲弊を引きずって試合場に出てくることがあるのだ。

 

「日下部先生」

 

 姫川が言った。

 柔らかい蕾が自然と割れるように、唇が開かれた。

 覚吾は無言であった。

 柔和で、無形に潤う姫川の視線に対し、覚吾の眼は暗い炎を宿していた。

 まるで、言葉を忘れたか獣であるかの如く、怒りさえ秘めた恐ろしい眼で、姫川を睨み返していた。

 

「せいいっぱい、胸をお借りします──」

 

 皮肉めいた韻を踏み、口を閉ざすと、姫川は審判の言に従って、通路側の柵へと振り返った。

 

 

4.

 

 

 試合が始まった。

 先制は、覚吾であった。

 距離の空いたその場で、地を鳴らす震脚。

 不可視の『幻突』が、姫川に向かって放たれた。

 姫川は、それに対し、大きく横に跳んだ。

 途端に、姫川の立っていた場の後方の柵が、見えない岩礫をぶつけられたように、音を立てて潰れた。

 姫川がす、と距離を詰める。

 しかし、先に距離を詰めたのは、姫川の間合いに自ら──やすやすと踏み入ったのは、覚吾であった。

 

 

5.

 

 

 覚吾が打ち、それを姫川が捌いていた。

 覚吾は腰を落とし、重心を股のやや下に置いて、腰の入ったパンチを乱打する選択をとった。

 対して、姫川の重心は腰より上に集まっている。

 フットワークを駆使するためであった。

 日下部覚吾が、『幻突』だけの一発屋ではないことなど、姫川はとうに承知している。 

 かの宮沢熹一の音速拳と比べても、覚吾の拳の速度は全く見劣りしない。

 つまり、防御に意識が集中し、足が止まって釘付けにされることは絶対に避けなければならない。

 むしろ、多少の被弾は許しても、芯を喰らわないように常に前後左右に身体を動かすべきだと判断していた。

 

 控室の丹波文七が息を呑んだ。

 姫川の意図が、文七にはわかったからだ。

 あの姫川が、被弾を前提に攻防を組み立てている──

 それが、信じられない。

 その、信じられない組み立てを、姫川に成立させざるを得ないほど精密なパンチを打ち続ける、日下部覚吾に対する驚嘆もあった。

 

 事実、先制の一打は覚吾であった。

 右の、ややフックのように弧を描く拳が、姫川の脇を抉るように打ち抜いていた。

 

 姫川は身体を回している。

 両足を思い切り蹴って、まるで体操選手のように宙に跳び、縦軸に半回転している。

 全身で行ったスリッピングアウェーであった。

 これで、ダメージはほとんど逃がせている。

 姫川を、覚吾が追った。

 姫川は、着地する際に、ブレーキをかけなかった。

 親指の先で着地し、半回転した勢いをそのままに蹴りを放った。

 タイミングがバッチリ噛み合っている。

 間を制した、みごとな一撃であった。

 覚吾の片足が宙にあった。

 避けられない。

 

 しかし、日下部覚吾は躱していた。

 

 覚吾の身体が、朝靄のように、姫川の蹴りに引き伸ばされ、かき消されていく。

 残像──!?

 姫川が振り返った。

 そこに見えたのは、覚吾の股から下であった。

 打ち下ろしの右のキックが、姫川の側頭部を穿った。

 

 

6.

 

 

 闘技場に続く通路であった。

 男が立っていた。

 背は高いのに、腰と背が、妙に曲がった男である。

 ざんばらに逆立てた黒髪が、自身の歪な呼吸に合わせて揺れている。

 漆黒のスーツから覗く、男の肌は白い。

 それも、病的な白さであった。

 生気を感じ取れない。これほど白いと言うのに、まるで存在しないかのように、皮膚の下を流れる血の流れが透けていなかった。

 ふわり、と男が口からシャボン玉を飛ばす。

 男が自身の唾液を、少しばかり特殊にこねて作り出したものである。

 

 賭郎弐拾八號立会人──弥鱈悠助であった。

 

 彼の眼下には、三人の男の倒れた姿がある。

 つまり、選手通路の方々に、彼と同様に黒スーツを着た男が三人、意識を失っているのであった。

 

 賭郎弐拾壱號立会人、銅寺晴明。

 賭郎捨拾六號立会人、南方恭次。

 そして──S級掃除人(スイーパー)、夜行丈一である。

 

 銅寺は、通路にうつ伏せになっていた。

 南方は仰向けに倒れている。

 夜行丈一は、通路に背をもたれかかるように沈んでいた。

 

 連携が取れていた──とは言い難いだろうとはいえ、S級掃除人(スイーパー)を含めた立会人と三人がかりで、捕獲はおろか足止めすらままならない。

 

 これが『拳聖』──日下部覚吾か……。

 

 弥鱈は考えを巡らせつつも、夜行丈一の前にしゃがみ込んだ。

 顔を潜らせて、うつ伏せる丈一の顔を下から覗き込むように動かした。

 若干、呼吸が荒い。

 頬が微かに紅潮し、眼の黒点が、きゅっと引き締まっている。

 

 息はある。

 殺されてはいない。

 つまり、()()()()()()()()()

 ぞくぞくと、弥鱈の背中がしびれていた。

 脳内を恐悦が駆け抜けた。

 夜行丈一は夜行妃古壱と違い──実は同類なのだが──表向きにも傲岸不遜にして、自身の"暴“に絶対の自信を持つ。

 それが、三人がかりの上で手加減までされて叩きのめされたとあれば、彼の自尊心は地の底に堕ちたことだろう。

 

 その表情(かお)が見たい──!!

 

 というのが、弥鱈のどうしようもないサガであった。

 しかし、かぶりを振る。

 我に返り、一定の距離をとった。

 まだ仕事中である。

 いや、本来は仕事中でも、自分のしたいように振る舞って、自身の溜飲を下げることは立会人にこそ許されている立場ではあるが、今回ばかりはお屋形さま直々の命。

 ぐっ、と堪える。

 楽しみはまた、あとで。

 

 若干震える手で携帯を取る。

 連絡先は、お屋形さまこと斑目貘であった。

 

「お屋形さま。お楽しみのところ失礼します、弥鱈です」

 

 電話越しの斑目貘は、ひょうきんに弾ませた声で、『ちゃんみだ〜!』と笑っていた。

 その軽いノリを無視しつつ、弥鱈は続ける。

 

「日下部覚吾の確保は失敗しました。これより『プランA』は破棄……『プランB』に移りますが、よろしいでしょうか?』

 

 しばしの沈黙があった。

 ごそごそと、まるでそれを知らせるように大袈裟に、何かをまさぐる音がした。

 

『そっかあ〜じゃあ仕方ないね、オーケイオーケイ。いや、俺もさ、やっぱこれって無理があるんじゃね? って思ってたトコなんだよねー……梶ちゃんたちも今大変みたいだし……うん、いいよっ。プランBで行こう!』

 

 失礼しますと言って、弥鱈は通話を終えた。

 その表情に、ある種の呆然さが滲んでいるのは気のせいではない。

 弥鱈は聞いていた。

 音が途切れる間際、カリッ、と音がしたのを。

 

 弥鱈の脳裏には、電話の向こうにいる斑目貘が、怪しさに目を光らせて『カリ梅』を齧っている光景が、ありありと浮かんでいた。

 

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