1.
闘技場に向かって、姫川が顔から落ちた。
覚吾は蹴り足を綺麗に振り抜いていた。
見事な軌跡を描いていた。
振り返った姫川が覚吾を意識した逡巡、意識から動作の間を縫った、完璧なタイミングでのヒットであった。
『
姫川がなんらかの技術を用いて、いくらかダメージを流せたとて、脳震盪は免れないだろう一撃。
側から見ているものにとり、決着を悟るには十分すぎる一撃である。
しかし、地に突っ伏した姫川は、素早く身を翻した。
覚吾が着地するのと同時に肘を曲げて力を溜め、反動で思い切り身を遠ざけた。
覚吾を正眼に構え、両足で、ふわりと着地する。
羽を休ませる白鳥のように、優雅な動きであった。
覚吾を正面に見据え、表情は澄んでいた。
両眼ともにしっかりと焦点が合っている。
ダメージを感じられない素振りであった。
対して、覚吾は鮮血を滴らせていた。
頭部からだ。
覚吾の、左瞼の上が、切れている。
カウンターであった。
打ち下ろしの蹴りが飛んできて、刹那の間に回避が不可能と判断した姫川は、カウンター気味に自身の右手を覚吾に向かって放っていた。
手刀の形で伸びたその指先が、覚吾の瞼を掠め、切ったのである。
歓声が上がった。
これで、傍目には覚吾の方が、いくらか押されているように見える。
一見して五体満足の姫川と、瞼を切られて瞳に血が滴る覚吾では、見目のダメージははっきりと違う。
あくまでも精神的な話であるが、それは立ち合う者同士の心理にも軽微な影響を及ぼしていく。
覚吾が指先で血を拭った。
瞬間、姫川は距離を詰めた。
まっすぐ入るように見せて、覚吾の目の前に迫ってから、横に動く。
覚吾の視線が姫川を追いきれていない。
目に血が入ったこと、急激な横への動き、反射的に拳を出していたことと並行して起こる、軽いパニック状態である。
姫川の姿を見失い、拳に引っ張られて顔を正面に突き出す覚吾の顎下から、見えない打撃となって姫川の足が昇ってくる。
覚吾の顎がはね上げられてのけぞり、尻から闘技場に落ちた。
丹波文七は、よしっ、と心中で拳を握った。
帰ってきたキー坊と刃牙がモニターを見て、尻餅をつく覚吾に驚いていた。
覚吾は立ち上がらなかった。
仰向けに倒れたまま、天井から注ぐ照明の眩しさに目を細めた。
追撃がない。
それを、知っていた。
姫川が追撃しない。
違う──
追撃できないのだ。
まだ、脳が揺れている。
焦点こそ合っているが、まだ、脳からの指令が身体の隅々に行き届いていない。
この状態で、功を焦って追撃に飛び込めば、逆に覚吾に打ちのめされている。
勝負を決めにいくより、身体を、脳を休めるべきだと姫川は判断したのだ。
そして、それは正しい。
日下部覚吾の寝技の強さは尋常ではない。
なんなら、覚吾は寝そべった状態からでも朦朧拳が使えるかもしれない。
姫川が飛び込んでいれば、なすすべなく極められて、負けていただろう。
寝技に限定するなら、両者の間にはそれほどの技術差があった。
姫川は驕らない。
ありのままを評価する。
そうして導き出された結論を、ありのままに受け止める。
自らが劣っている、という事実を受け入れて、決して心の澱みにはしない。
そんなものは、勝ち負けにはあまり関係がないからだ。
自分は、筋力では松尾象山より劣る。
当然、体重でも劣る。
正拳突きや蹴りの威力でも劣っているだろう。
しかし、だからといって、未だ自身が松尾象山に勝てぬ理由は、それではない。
そんなものは枝葉に過ぎない。
拳の強さも、疾さも、所詮は相手を倒すための道具に過ぎないのだ。
強い方がいいのは間違いないが、大事なのは持ちうる武器をどう扱うかである。
ある程度実力が近ければ──の前提はあれど、人対人の勝敗を決めるのは、
姫川は驕らない。
指先に、気づかれぬほど軽微な力を込める。
軽く、曲げてみる。
思ったように曲がる。
思った通りに動く。
足に、力が入る。
足の裏に、自身の体重が乗ることを確認する。
覚吾がゆっくりと立ち上がった。
眼に入る血を拭い、姫川を見据えた。
前傾になっている。
攻撃的な姿勢である。
機先を制するべく、距離を詰めたのは姫川であった。
優雅な足取りで、早足の速度で一歩、大きく踏み込んだ。
日下部覚吾を相手に、距離を取るのは愚策である。
本家本元の『幻突』を自在に使う覚吾を相手に距離を取れば、たちまちのうちに蜂の巣にされてしまう。
覚吾が迎え撃った。
姫川が、覚吾の目元を擦るように、人差し指を薙いだ。
先のカットもあってか、覚吾は眼への攻撃を警戒している。大袈裟に踏みとどまって、上体を逸らしていた。
その動きに、ぐん、と前に出て、姫川が追いつく。
覚吾と姫川の顔が、あと一〇センチでキスできる距離にまで近づいた。
覚吾の体勢が崩れている。
観客の中に、この動きに見覚えがあるものがいた。
正面から行くと見せて、超至近距離から、掬い上げる軌跡を描く、後頭部に向けてのハイキック。
姫川の規格外の柔軟性と関節の可動域、スラリと長い足だからこそ成立する必殺の一撃である。
姫川はあれをやろうとしているのだ。
しかし、覚吾はこれを、腕を立てて容易く受けていた。
姫川が目を見開く。
予見した未来と違う現実──
なぜ──ッッ!?
疑念を払う暇もなく、姫川の身体がくの字に曲がった。
激痛があった。
腹に、火のついたマッチの束を投げ込まれたような熱さが滲んでいく。
日下部覚吾の手刀が、姫川の脇腹に突き刺さっていた。
2.
打たれていた。
姫川勉が。
先の見切りの精妙さが、すっかり霧散していた。
面白いように当たっている。
逆に、姫川の反撃は、覚吾には容易く受けられている。
そう、受けられているのだ。
朦朧拳を使った、幽玄の躱しさえ使っていない。
姫川が、覚吾の視線や意識の動きの外に出る。
しかし、死角であるはずの角度、高さ、タイミングを併せ持つ姫川の拳や蹴りは、あっさりと捌かれては姫川の隙となっていた。
覚吾は、姫川の動きを完全に見切っている。
しかし、なぜ、これほど急に?
「『陰』を掴まれとる」
キー坊が言った。
加藤清澄や刃牙が、キー坊に振り返った。
「覚吾は、あのおニイちゃんの『陰』を掴んどるんや。だから、どう動いても追いつかれとる。逃げられんで、こりゃあ」
陰を掴む──?
刃牙が疑問を投げた。
つまり、とキー坊は続けた。
「その人間の本質──精神や魂の『軸』のことや。覚吾は他人の『陰』を掴んで自身の『陰』と結びつけるワザを持っとるんや」
キー坊が言うには、覚吾はそのワザの深度を『相手の陰を掴む』段階に留めて使っているという。
加藤が冷や汗を掻きながら聞いた。
「な、なんだそりゃ……じゃあ、もう、姫川のヤロウは覚吾のパンチを捌けねえのかよッ!?」
「少なくとも、意識の外に出るのは無理やで。あれを破るには己の中の『陰』を断ち切るしかないんや」
「なンっ……だよそのオカルトはよォ!? どーなってんだてめえンとこの流派はッッ!?」
「ワシの流派は灘神影流やっ! まあつい最近は、幽玄の流れも汲んどるがのぉ」
「区別つかねーよッッ!! オカルトがすぎんだろテメーらはよォ!!」
加藤の怒号に、キー坊はむっと表情をこわばらせた。
わあっ、と会場が湧いた。
悲鳴のような声も混ざっていた。
3.
負けたくない──
それは、姫川を姫川とカタチ創る、魂の叫びであった。
姫川勉という、美麗衆目の男子の皮を、一枚一枚剥ぎ取った際に、最後に残るものである。
姫川は完璧主義である。
あらゆることに、美しさを求めている。
勝つことにも、勝つ過程も、美しくあるべきだと思っている。
だが、それは程度の差はあれど、誰もがそう想うことだ。
──美しく勝ちたい!
──鮮やかに勝利したい!
誰もが、そうなることを夢見た上で、現実の世知辛さに打ちのめされる。
姫川勉だって、そうだった。
美しく勝てる。
美しく振る舞える。
その過程すら美しく──
それが通じるのは、ある程度の相手まで。
松尾象山──
まず、通じない。
藤巻十三──
嫉妬するほどに、彼の執念は美しい。
丹波文七──
振り切った野生の解放は、自分にはできそうにもない。
彼らにだって、勝つことは、あるいはできるだろう。
しかし、万全の彼らを相手に、美しく勝つことは至難の業である。
まだ、自身の武が、その段階にない。
未熟──
その未熟さが剥き出しになる相手が、ここにいる。
日下部覚吾。
『拳聖』と謳われる男。
今この瞬間に、並々ならぬ決意を秘めている。
それが何かはどうでもいい。
覚吾の過去になど興味はない。
だが、決意の骨子が過去にせよ哲学にせよ、覚吾の想いはある言葉に要約できる。
『負けたくない──』
これだけだ。
つまり、これは、負けず嫌いvs負けたくない男の戦いにすぎない。
ならば、いつも通りの闘争だ。
何も変わらない。
おそらく、己の動きは覚吾に見切られているのだろう。
いや、見切られている、というのとは、少し違う。
姫川勉という存在を、日下部覚吾が引っ張っているように思う。
姫川勉に鞍をつけ、日下部覚吾が騎乗している、あくまで一方的な関係に近い。
つまり、日下部覚吾もまた、姫川勉からは逃れられない位置にいる。
手を出せば、届く。
今、急所だけは、手で庇っている。
そのままでは負ける。
攻撃できないからだ。
だから、やることは、ひどく単純だ。
美しくなくとも──
姫川は笑った。
静かに、微かに、口角を持ち上げた。
どこかで、松尾象山の声がした。
らしくもないことを──
そんなことを呟いているらしい。
いいんですよ、それは。
姫川は拳を握った。
負けるぐらいなら、美しくなくともいい。
迫り来る覚吾を前に、姫川は微笑した。
打ち放たれた覚吾の拳が胸を撃ち抜くのに合わせて、姫川の拳が覚吾の喉仏に振り抜かれた。
4.
静かな殴り合いが始まった。
覚吾が拳を出すのと『同時』に、姫川が拳を出している。
歓声のひとつ、起こらなかった。
違った。
今まで、さまざまな試合で殴り合いがあった。そのどれもが観る者の心を震わせる感動があった。
しかし、この殴り合いが潜める感情は、如何にも虚無的で、暴力的であった。
血飛沫が飛び、お互い、相手を破壊するために拳を振るっている。
やっていることは今までと同じはずなのに、これは、これではまるで、殺し合いである。
陰惨な雰囲気が漂っている。
その陰惨さに圧倒されて、観客も格闘士たちも、声を出すことが憚れていた。
「…………ッッ!!」
加藤清澄が息を呑んだ。
範馬刃牙が、苦心に顔を歪めた。
宮沢熹一もまた、姫川を殴る覚吾の眼に、怒りと哀しみが滲んでいるのを感じ取って、苦々しく唇を噛んだ。
5.
均衡が崩れていく。
姫川の拳が深く入り始めていた。
逆に、覚吾の拳や蹴りが、届かなくなってきている。
姫川が躱しているのではない。
姫川に届いていないのだ。
「リーチ差かッッ!!」
愚地克巳が言った。
その通りであった。
姫川と覚吾の身長差、手足の長さによるリーチの差がある。
姫川の方が、ゆうに拳ひとつ分以上、リーチが長い。
だから、殴り合いを重ねる中で、姫川は少しずつ、ほんの数ミリ単位で、覚吾との間合いを広げていたのである。
近すぎれば、姫川は拳を振りきれないが、その分腰を入れて踏み込めば、姫川の拳が深く入る。
深く入る分、リーチ差故に少しだけ間が空く。フットワークとも呼べない足運びで、姫川がその幅を調節する。
そうして徐々に、覚吾との間合いを広げていったのだ。
姫川の拳が十分に届く範囲、その長さは、覚吾の拳では届かない。
先に、姫川の拳が当たり出し、今や、姫川の拳は深く入っているのに、覚吾の拳は浅くしか入っていない。
見切り──姫川は暴力的な陰惨さの中でも、冷徹に勝つために試合を運んでいた。
ずどん、と姫川の前蹴りだけが、覚吾の腹筋に刺さった。
覚吾が吐瀉物を吐いて、身をかがめた。
ちょうどいい位置に落ちた顔に向かって、姫川は綺麗な正拳突きを放った。
トドメの一撃──そのつもりだったろう。
しかし、拳を放ったその瞬間、姫川の意識が途切れていた。
全く、モーションの消えた覚吾の右の回し蹴りが、間合いやタイミングを無視して放たれて、姫川の左のこめかみを穿ったのであった。
6.
その蹴りに、刃牙は見覚えがあった。
鬼喰島の、真魔流体術師範安藤夢二の蹴りだ。
見ることもできず来ることもわからない、回避も防御も不可能な『見えない蹴り』。
「『
キー坊が叫んだ。
キー坊自身がかつて鬼喰島で、日下部覚吾の別名たる竹神栖鳳から味わった『見えない蹴り』こと「ゴースト・フット」による苦い記憶は、イヤというほど身体に残っていた。
姫川が前のめりに倒れゆく。
意識が飛んでいる──
その姫川に向かって、覚吾は拳を出した。
「なにっ!?」
「なっ、何をする気やっ!? 殺す気かあーっ!!!?」
加藤が唖然と口を開き、キー坊がまた、叫んだ。
覚吾が放ったのは、両の手で同時にフックを放ち、相手の頭を左右から挟み潰す幽玄の技、『双手穿孔拳』であった。
下手をせずとも人を殺せる殺人技である。
それを、覚吾は、倒れゆく姫川に向かって、躊躇なく放っていた。
7.
細胞に刻まれていた。
想いが、意志も無いのに身体を動かすことを、人は奇跡と呼ぶ。
ならば、姫川の動きは奇跡であった。
前に出た。
姫川が。
『双手穿孔拳』に割って入るように、ど真ん中の正面に向かって踏み込んだ。
覚吾の顔を、左掌で包んでいる。
そのまま、ぐん、と勢いよく、真下に向かって突き飛ばした。
最大最強の一撃に対するカウンター。
姫川勉が、細胞レベルで己に刻み込んだ見切りが結実した一撃であった。
覚吾の両足が離れた。
身体が、地面と並行な向きで、ふわりと浮いた。
その瞬間、恐ろしいことが起きた。
覚吾の身体が沈んだのである。
姫川の力では無い。
自らの意志で、両足が、明らかに物理法則に逆らって下に落ちた。
両足が闘技場に着くと、ずん……と地鳴りがなった。
つまり、それは
姿勢も不確かなまま、ゼロ距離からの『幻突』が腹に炸裂し、姫川の身体を打ち上げた。
そのままの姿勢で、飛び、落ちて、姫川は地面に倒れ伏した。
そこに、覚吾はまた、追撃を仕掛けんとしていた。
「勝負ありッッ!! 勝負ありだあッッ!!!」
太鼓が打ちならされた。
二度、三度と、覚吾を戒めるように、早いテンポで轟いた。
それを聞いて、覚吾がようやく構えを解いた。
「タンカだッッ!! 早くッッ!!!」
審判が闘技場に飛び込んで、姫川に駆け寄った。
タンカに運ばれる姫川が、闘技場から去るまで、覚吾は冷徹な──哀しみを秘めた目で見送っていた。
拍手はなかった。
試合の内容は、特段、悲惨とは言えない。
真っ向から殴り合って、駆け引きがあって、姫川が負けた。
ただそれだけのこと。
だというのに、観客たちは悲惨な光景を目にしたが如く、固まってしまっていた。
静寂の中を、ふらふらと、覚吾が退場していく。
その背中は、冷たく、救われなく、寂しさを纏う小さな背であった。
一回戦第十三試合:勝者、日下部覚吾
0.
死ぬべきだった。
アフリカで、貧困の地で、独裁者に暴力で立ち向かい、及ばなかった。
ベッドに寝かされ、今、まさに、心許していた友に毒を打たれようとしている。
友は、医師だ。
逆らう私の存在を疎ましく思った独裁者に、私を殺すように脅されている。
私は、
「殺していいですよ」
そう言った。
心から。
私は疲れていた。
あらゆることに。
身につけた殺人術を、存分に振るう場を求めて戦地に赴いた。
現世に存在する地獄に踏み入って、正義と救済を建前に存分に暴力を振るった。
しかし、私の心は疲弊していた。
貧困に喘ぐ『弱き民』──
虐げられる『弱き民』──
人としての尊厳も権利もなく、踏み躙られる彼らを救えぬ己を恥じていた。
暴力を振るいながらも、根本的な解決は何ひとつ成さない己の拳が、ひとり人を殺すたびに、ひどく小さくて無意味なものだと訴えてくる。
疲れていた。
今の世に、武術の生きる場はないと実感した。
武より、もっと簡単に、銃は人を殺せる。
そして、武で殺そうが銃で殺そうが、膨れ上がる増悪と循環する怨嗟に違いはない。
今の世に、幽玄真影流は必要ない。
私の結論はそれであり。
ならば、幽玄真影流と歩んできた己の命は、ここで潰えるべきであった。
私は目を閉じた。
闇に、己を溶かす。
死を受け入れんとしていた。
だが、『その時』は、一向に訪れなかった。
死の代わりに訪れたものは、人ならぬ瘴気であった。
目を開いた私を、ただならぬ妖気を纏った『白い男』が迎え入れた。
ベットのすぐそばに、その男は立っていた。
「幽玄真影流の、日下部覚吾さん?」
流暢な日本語であった。
白人であった。
二〇は超えているようで、まだ一〇代後半の瑞々しさと、溌剌さを発している男であった。
私は、「はい」とも「いいえ」とも答えなかったが、男は私を見て、不気味に唇を歪めた。
この世あらざる魔の化身のようであった。
「初めまして。忌憚なく話すために結論から言うと、私はこの独裁政権の真の黒幕です」
あはっ、と笑った。
瘴気が、口から漏れていた。
「私、最近ヴィゾームという会社を立ち上げた、代表のゴーネンと申します」
次回、一回戦第十四試合:愚地独歩vs宮沢尊鷹 開始ィィッッ!!