お陰でえらい時間がかかりました、どうぞ
0.
北辰館空手館長、松尾象山は語る。
そうさ。
おいらが最初だよ。
獅子尾龍刃と、リングの上でやり合ったのはね。
良い思い出だよ。
今思い出しても、ふふ……楽しくなっちまう。
人生で、楽しかった瞬間を一〇コ上げろって言われたら、アレはまず入るなァ。
おいらはね、プロレスのリングに上がるのは、アレが最初じゃなかった。
アメリカのリングで、もう何度かヤってたもんよ。
プロレスにしろ、ボクシングにしろ。
でっかいリングだけじゃない。
地方のジムに自分から乗り込むのさ。
──ここで、イチバン強い人とケンカさせて欲しいんだけどね。
そう言いながら、血判付きの誓約書を出すのさ。
そうすりゃだーれも文句言わないからね。
おいらがどうなろうと責任は問わない。
だって、本人からそれを言い出されちゃ、相手はもう、受けるしかねェんだよなぁ。
ただね、おいらは正直、プロレスラーってモンに飽きてきてたんだよ。
でっかくて、タフで、恐ろしくて──
でも、それだけ。
おいらの拳にかかれば、一発さ。
耐えて、二発だね。
なんせおいらの拳は、牛を正面からぶっ殺せるシロモノなわけだよ。
前に──空手家の交流会で、神心会の愚地さんに尋ねられたことがあってね。
そう、あの愚地独歩さんだよ。
虎殺しの。
『松尾さん、アンタの拳はどうやって牛を殺したんだい?』
こんな感じにね。
いやァ、すげェ言い方だよね、これ。
『アンタは本当に牛を殺したのかい?』
言い換えれば、こういう風にもとれる。
ケンカ売ってるようなモンじゃない。
でも、それが狙いだったンだろうね。
おいらが『確かめてみるかい?』とでも言えば、すぐにでも拳が打ち出される気配があったからね。
でも、おいらァ大人だからね。
正直に答えたよ。
『二本指で逆立ちして、道場を歩き回れるようになればいい』
って、言ってやったさ。
おいら?
おいらは、当然できるよ。
その程度なら朝飯前さ。
その握力と、バランス感覚と、
疑うなら、アンタも今日からやってみると良いゼ。
だけど──それじゃあ、獅子尾龍刃は倒せなかったンだなあ。
おいらはよ、それからだよ。
プロレスラーってヤツに、恐ろしさを覚えたのは。
おいらだって、今日までに相当数立ち合いをこなしてきたぜ?
その中で、ピンチになったこともある。
当たり前だろ?
おいらだって人間だぜ?
でも、そういう時、獅子尾龍刃とのやりとりを思い出すんだ。
そうだよな──獅子尾龍刃なら、立ってくるよな。
そうだよな──獅子尾龍刃なら、殴り返してくるよな。
って。
全部が全部、
ン──?
龍刃とは、その後やり合ったか、だって?
ハハハ……アンタ、恐ろしいこと聞くじゃないか。
そいつはなァ。
聞くのにちょっと、覚悟がいるぜ?
1.
眠れない。
松尾象山と戦ってから、ずっとそうだった。
神経が張り巡らされている。
自分の呼吸の音が、うるさいほどに聞こえている。
心臓がうるさい。
いや──あれは戦いだったのか?
記憶がない。
松尾象山に胸を殴られてからの記憶がない。
目覚めた時、範馬勇一郎に敗北を知らされた。
不思議と、悔しくはなかった。
むしろ、気持ちが良かった。
清々しい心地であった。
あれだけ騒がしかった観客が、その瞬間、止まっていた。
狂気が止んでいた。
代わりに、熱気が高まっていた。
立ち上がると、堰を切ったように、惜しみない拍手が捧げられた。
殺意ではなく、敬意。
敬意ではなく、好意。
獅子尾龍刃に向けられる感情は、親愛のそれになっていた。
その全てが、獅子尾龍刃には初めての体験であった。
褒め称えられたのは初めてだった。
ここまで多くの人に愛されたのは、初めてだった。
何より──松尾象山。
あんな男と戦ったことが、初めてだった。
その日以降、自分の中に、何者かが潜んでいる。
いや、潜んでいたことに気づいた。
そいつは元々、最初から、自分の中にいた何かだ。
松尾象山に殴られて、意識が飛ぶ瞬間に現れた『
『
途端に、ワケがわからなくなった。
前後左右が無くなった。
天上天下が消え去った。
ただ、見たこともない自分と、岩のような松尾象山だけが残っていた。
全てが終わって、拍手と愛の波をかき分けて控え室に戻り、ホテルに戻った。
応急手当てをされた身体が、ようやく痛みを思い出して軋んだ。
範馬勇一郎は、笑っていた。
笑って、龍刃を見ていた。
「リュウちゃん」
呼んだ。
太くて、優しい声だった。
「カッコよかったゼ」
そして、屈託なく、言った。
その瞬間、獅子尾龍刃の胸に、轟いたものがあった。
だがよう、と範馬勇一郎は続ける。
その太い唇が、三日月の形に変わっていく。
「大変なのは、
楽しげに語る、謎の言葉。
その意味を、獅子尾龍刃は数日後に、身をもって知るのだった。
2.
龍刃が松尾象山と戦って数日後の昼。
酒の買い出しを命ぜられて、龍刃は街をあるいていた。
龍刃はまだ、実年齢も登録年齢も未成年である。
身体は並の成人男性より大きいとはいえ、その顔や言動にはまだ幼さもあった。
にも関わらず、酒はあっさりと買えてしまった。
金さえ持っていれば、どの店の、誰もが酒を出すことを渋らなかった。
その帰り道──ホテルまでの直線で。
龍刃は、六人のチンピラに襲われたのだった。
ガタイのいい強面の男たちで、腕に彫った刺青を見せびらかす格好であった。
二人ほどガムを噛みながら、どこを見ているのかわからない目をしていた。
別の二人は、ポケットからナイフを取り出した。
光ものを扱う動きに躊躇がない。
手慣れていた。
六人の男は龍刃をぐるりと囲んだ。
前方に、バット、刃物、素手。
後方も同じセッティングである。
彼らは龍刃から一定の距離をとっていた。
龍刃は慌てなかった。
彼らに対して、誰だ、などは聞かなかった。
聞く必要がない。
この男たちは、最初から刺す気である。
ならば、余計な動きはただただ隙になるだけだ。
じっと動かず、チンピラたちの動きを目で追った。
気配を、全身の神経を尖らせて、探った。
後方からかちゃかちゃと耳障りな音がする。
意図的に出している音だ。
ナイフを手に遊んでいるのだろう。
そうやっていれば、嫌でもターゲットは背後に意識をやらねばならない。
よくできた作戦であった。
龍刃は、手に持った酒の袋を地面に置いた。
それを合図にしたか、正面の、バットを持った男が振りかぶった。
迷いなく、突撃してきた。
少し遅れて、後方からも、迫り来る気配を感じる。
こちらは、二人か。
しかし、なんというノロさだ。
バットのスイングが丸見えであった。
軌道を予測しているのではなく、龍刃にはただ単に、振り下ろす過程がスローモーションに見えていた。
松尾象山の拳に比べると、遅すぎる。
頭のてっぺんに、それはぶち込まれた。
龍刃は、微動だにしない。
痛くも痒くもない。
松尾象山の拳に比べれば屁でもない。
バットの方が折れた。
だから、龍刃はそれを気にも止めない。
撃ち抜かれた腕を上から掴み、無造作に振る。
男の身体が軽く持ち上がり、そのまま龍刃は片手で、男の身体を背後にぶん回した。
突っ込んできていた二人に、男が足から突っ込んだ。
遠心力がたっぷり加わったそれは、屈強な男二人をボーリングのピンのように跳ね飛ばした。
龍刃はその勢いのまま、もう半回転する。
更なる遠心力をかけて、背後にいたもうひとりを轢き倒す。
「────────!!」
何かを叫んでいた。
正面の、ナイフの男。
青ざめていた。
ナイフを手に、身体ごと突っ込んできた。
龍刃の身体が背中を向けたタイミングであった。
それ自体は見事であったが、それ以上に龍刃は見事であった。
半回転分、回転速度を増したのだ。
結果、背中にナイフが刺さるより前に、龍刃の身体は正面を向き、振り抜いた男がナイフの男を撥ね飛ばした。
龍刃は、掴んでいる男の足がナイフの男の身体に接触した瞬間には手を離し、遠心力と重力に男の行く先を任せた。
男たちは五メートルは吹っ飛び、ショーウィンドウを突き破って店の中に消えていった。
龍刃は倒れ伏す男たちを眺め、襲ってくるものが他にいないかを確認してから酒を拾い上げてホテルに戻った。
3.
そういうことが、何度もあった。
範馬勇一郎について試合をこなすたびに、必ずではないが、
バット、鎖、ナイフ、挙句、拳銃まで持った男たちに襲われた。
決まってひとりでいる時に、襲われた。
その全てを、獅子尾龍刃は返り討ちにしていた。
無傷とはいかなかった。
対処しきれずナイフを喰らったことがある。
撃たれたこともあった。
それでも、龍刃は範馬勇一郎の試合には必ずついていった。
そして、範馬勇一郎は、龍刃を一度も助けなかった。
おそらく、龍刃が襲われることは、範馬勇一郎は知っていた。
だが、たとえナイフで刺された時でも、範馬勇一郎は何があったかを聞きすらしなかった。
龍刃もまた、
「コケただけですから」
と言い張った。
勇一郎はその度に、にこりと笑っていた。
次第に──喧嘩の仕方というものが、龍刃にもわかってきた。
もちろん素手同士なら、相手が何人だろうと無類の強さで圧倒できたが、ナイフや拳銃相手ではそうはいかない。
相手が凶器を持っている場合。
一番の対処法は凶器を持たせないことだと分かった。
ナイフや拳銃でも、対峙した瞬間に持っていることは稀である。
当たり前の話で、いくらアメリカでも、ナイフや拳銃を丸出しのまま街中を歩けないのだろう。
だから、大抵最初は懐にしまっている。
なので、対峙した瞬間に、凶器を持っているだろうやつを瞬殺するのだ。
有無を言わさず瞬殺。
手加減はしない、一撃で動けなくする。
極めたら骨を折る。硬い地面に思い切り投げる。
躊躇すれば、こちらが死ぬ。
こちらが死ぬのだ。
なんせ、相手も躊躇しないのだから。
それでも、相手が凶器を手にしてしまったら、落ち着いて周りを見ることだ。
人は凶器を手にすると、凶器しか使わなくなることもわかった。
明らかに殴った方がいいシーンでも、殴らずにナイフを握って振ってくるのである。
こちらを殺傷せしめるものが凶器しかない以上、攻撃は限定される。
だからまず、落ち着いて周りを見るのだ。
受け止められる攻撃は受け止める。
なぜなら、動作を終えた瞬間、必ず無防備になるからだ。
つまり、くらいながらカウンターを打てば、ほぼ一〇〇パーセント当たる。
上手いナイフ使いを相手にしても、最悪、刺させれば確実にこちらの攻撃を当てられるのだ。
他にも、さまざまなことに気づき、気づいては実戦で試してきた。
生傷が絶えなかった。
どんどん身体に消えない傷が増えていった。
それでも、獅子尾龍刃は決してプロレス興行を休まなかった。
4.
「リュウちゃん」
ある日、範馬勇一郎に呼ばれた。
リングの上に誘われた。
「ウス」
と言って、龍刃はリングに上がった。
その身体が、その顔つきが、見違える風貌になっていた。
アメリカに来た当初はまだ子供の柔らかさを秘めた表情が、修羅場を潜り抜けた男だけが纏う、独特の頑固さに染まっていた。
目力が桁違いに強くなった。
ともすれば据わっているようにも見える。
身体は、とことん絞られていた。
痩せたが、太くなった。
身体を動かすことに特化した筋肉がついていたのだ。
なにより間違いないことは、強くなったこと。
格段に強くなった。
格段に太くなった。
それは、獅子尾龍刃の持つ人間力という意味でも、である。
それでも、範馬勇一郎には歯が立たない。
ウォームアップでも、
スパーリングでも、
乱取りじみた稽古でも、
獅子尾龍刃は範馬勇一郎には良いように投げられた。
良いように寝かされ、極めれ、ぶっ飛ばされた。
まるで次元が違う戦闘力。
本当に人間なのかと疑うほどだ。
筋肉が多いとか──
体力があるとか──
力が強いとか──
スピードが速いとか──
そういうものではない。
範馬勇一郎を構成する強さは、そういう、人間的なものではない。
投げられるたびに、龍刃は確信していた。
この人こそ、世界最強の男だと。
だからこそ疑問であった。
なぜ、範馬勇一郎は試合において、あんなにやられたフリをするのか。
必ず、勇一郎はそれをやる。
本気でやれば誰だって瞬殺できる。
勇一郎の強さはいつだって最強だった。
なのに、試合となると、ワザと攻撃を受けてしまう。
やられたフリをして、効いているフリをする。
ワケがわからない。
だから、ある日、リングの上で。
獅子尾龍刃は範馬勇一郎に聞いてみた。
勇一郎は、困ったように、笑った。
そして、ゆっくりと口を開いた。
吐き出される言葉が、太く、痛々しかった。
「リュウちゃん」
言った。
「プロレスは、格闘技じゃないんだぜ──」
獅子尾龍刃は、呆然とした。
範馬勇一郎は、困ったように、笑っていた。