【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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一回戦第十四試合:愚地独歩vs宮沢尊鷹開始ィィッッ
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一回戦第十四試合:愚地独歩vs宮沢尊鷹
第一話:自由なれ


 

0.

 

 

 ことのあらましは聞いていた。

 徳川光成からだ。

 ある日、光成から連絡を貰って、屋敷に赴いた日のことだった。

 

『力剛山が死んだのは、龍金剛に負けたからだ』

 

 光成がそう言ったのだ。

 驚く独歩をよそに、視線を落とし、池の中の鯉に餌をやりながら、光成は続けた。

 

『赤坂のバーで、いきなり、おっ始めたらしい』

 

 信じられない言葉だった。

 あの力剛山が、ストリート・ファイトで潰されたというのか。

 自分は、確かに、力剛山に勝っている。

 範馬勇一郎のために──いや、自分の誇りのために、あるいは慰めのために、地下闘技場に力剛山を呼び出して、叩きのめしている。

 だが、それは、不意打ちであった。

 いや、あれは元々から『試合』ではなく『制裁』として行うと言ったし、力剛山もそれで了承していたから、愚地独歩のやったことは不意打ちでも奇襲でもないはずではある。

 だが、どのみち正面から向かい合い、真っ当にやり合ったわけではないのは事実だ。

 背後に立ち、力剛山のバックブローを躱し、金的を打って鼻を削ぎ、正拳突きを胸に突き刺した。

 それで、力剛山は倒れたのだ。

 もし、力剛山と向かい合って、正面からヨーイドンとやり合っていれば、ああもカンタンには行かなかっただろう。

 もちろん負ける気はないが、如何に老いて衰えていようが、力剛山とはそういう、愚地独歩でさえ苦戦は免れないレベルの化け物なのだ。

 龍金剛は、その力剛山を正面から叩き潰したのだという。

 なんという怪物なのだろうか、龍金剛。

 しかし、その龍金剛と、おれは、『ゆうえんち』でヤりあった。

 その時は真っ向から──

 やつのぶちかましを、正面から受け止めて、捌いてやった。

 色々やり合って、心からつながって、おれは勝ったさ。

 相撲は、これで良い──

 そうとさえ思った。

 力剛山は化け物だったが、龍金剛はもっと化け物だった。

 だけど、おれにとって、おれが想定している最も化け物な男と比べたら、ふたりともまだまだ甘いだろう。

 力剛山と龍金剛を超える化け物──

 つまり、範馬勇一郎のことさ。

 史上最強の柔道家。

 孤高の鬼。

 鬼の範馬勇一郎。

 世界最強の男だった。

 地上最強の男だった。

 間違いなく。

 元を正せば、その勇一郎が、力剛山と八百長をやったことが、力剛山を叩きのめす、きっかけになったんだったな。

 それから範馬勇次郎が出てくるまで、おれの中ではくすぶった想いがあった。

 範馬勇一郎とヤりあえなかった……っていう後悔の念だ。

 やっぱり、ヤってみたかった──

 恥も外聞もなく、誇りやなんやらもかなぐり捨てて、男と男が一対一で、思う存分やりゃあ良かったんだな、って念だ。

 だが、あの頃自分はケツの青いガキだった。

 憧れが恥辱に塗れ、泥を被る姿に耐えられなかったンだなあ。

 

 そんなことを考えてると、ジッちゃんの口から、恐ろしいことが飛び出してきた。

 

『独歩よ』

 

 なんでェ?

 

『範馬勇一郎が、ブラジルで日本人と戦ったことを知っとるか?』

 

 ──!?

 

 全く、聞いたことがない話だった。

 範馬勇一郎が、日本のプロ柔道を見捨てて、ブラジルに飛んだことは知っていた。

 まだ、力剛山に誘われて、プロレス入りする前の話だ。

 つまり、範馬勇一郎が、より全盛期に近い時期だ。

 ジッちゃんの話によると、ブラジルに在住していた日本人武道家と、範馬勇一郎はやり合ったらしい。

 あの、エルオ・グライシーとやり合ってすぐのことだと。

 結果は範馬勇一郎の勝ちだったそうだが、試合の内容は極めて拮抗していたと言う。

 

 ウソじゃねェのかい?

 

 おれが言うと、ジッちゃんはようやくおれの方を見た。

 おれを睨み上げて、言った。

 

『独歩よ。ワシが、こと武術の話において、ウソをつくと思うてか──』

 

 本気の眼だった。

 ああ、これは、ウソじゃねえ。

 

 ただ、ジッちゃんには相手の日本人の名前は、どうしてもわからなかったそうだ。

 

 あの時、ジッちゃんが何を思ってこの話をしたのかはしらねェ。

 けど、あの話が、おれの胸を焦がしたのは事実だ。

 今なら、そいつの名前はわかる。

 

 宮沢尊鷹──

 

 アメリカで、『バトル・キング』の異名で呼ばれていた男だ。

 ガチガチの殴り合いを興行にするアメリカで、あだ名が『格闘の王様』だぜぇ?

 つえぇんだろうな。

 実際、強いぜ。

 あのインターバルで、ちょこっと話しただけで、おいらの細胞がぶるぶる震えやがった。

 範馬勇次郎とヤりあったときでさえ、こんなことにはならなかったのによ。

 

 ああ──言いたいことが山ほどある。

 聞きたいことが山ほどあるぜ。

 

 でも、言葉は必要ねえさ。

 これから、思いっきり、存分に語り合えるからな。

 

 

1.

 

 

 さて、と腰を上げた。

 愚地独歩である。

 開脚をおさめ、柔軟を終えたのである。

 たっぷり十五分を費やした。

 筋肉が十分にほぐれたのである。

 適度な熱を持っている。

 良い具合だ。

 

 独歩の目の前に、愚地克巳と加藤清澄が立った。

 腕を八の字に広げ、拳を握り、身を屈めて頭を下げている。

 

「押忍ッ! お供させていただきますッ!」

 

 克巳が言った。

 ヨソヨソしい物言いであった。

 ぷ、と独歩は吹き出した。

 

「オゥオゥ克巳よう、えらい殊勝な態度じゃねェかよああん? そーいうのはよォ、できれば家や道場で見せてほしいもンだぜ」

「からかうなよ親父ィ。一応、敬意ってやつを示してンだぜ?」

「加藤もオマエよう、オメェは出場してるガワだろうが。敵を応援してどうすんだバカヤロウ」

「うっ、ウルセーよ! 愛弟子の応援ぐらい素直に受け取れよ館長サマよぅ!」

 

 にたり、と独歩は笑った。

 太い、見るものに安心感を与える笑みであった。

 いつもの、戦う前に見せる表情である。

 

 独歩が歩き出した。

 少し歩いて、止まった。

 闘技場の色形がはっきりわかる距離だ。

 その手前に、獅子尾龍刃が立っていた。

 

「オッサン……」

 

 加藤の言葉に、龍刃はうん、と頷いた。

 

「愚地さん……が、頑張ってくださいッ!!」

 

 真摯な視線を、独歩に送っていた。

 少し、肩に力が入っている。

 どこか気恥ずかしいそうな声であった。

 ニィ……と、独歩は先ほどとは違う種類の笑みを浮かべた。

 歩き出した。

 

「アリガトよ」

 

 すれ違う一瞬、そう言った。

 獅子尾龍刃が振り返った。

 光に向かって進む独歩の足取りは頼もしかった。

 

 その背中が、太い。

 安心を覚えるほどに、大きくて太かった。

 

 

2.

 

 

 愚地独歩に遅れて、宮沢尊鷹が入ってきた。

 異様な空気を醸し出しながら。

 闘技場がざわついた。

 宮沢尊鷹が一歩進むたびに、闘技場の空気が目に見えて変容(かわ)っていったからだ。

 世界を塗り替える『気の奔流』である。

 神秘的な力だった。

 その場にいるものの五感を刺激し、その身体が宮沢尊鷹の気に包まれるかのようだ。

 見えるものも、見えぬものも、感じ取った。

 宮沢尊鷹の力の度合い──その透明感と、芳醇さが恐ろしいと。

 

 尊鷹はマスクを着けていた。

 鼻筋から耳に向かって両翼を広げる模様のアイ・マスクである。

 目や鼻や耳が隠れるわけでもないため、特段着用に問題はないものではあるが、それが尊鷹の得体の知れなさを増長させている。

 

「それ、つけっぱなしで良いのかい?」

 

 独歩が聞くと、尊鷹は口角を静かに持ち上げた。

 その、微かな動きが妙に不気味であった。

 

「すみません」

 

 言った。

 

「マスクを着けている方が、残酷になれるんです」

 

 底冷えする声であった。

 審判が冷や汗を垂らした。

 呑まれている。

 尊鷹の気に、雰囲気に。

 ヘッ、と独歩が吐いた。

 

 審判からルールの説明が為された。

 両者が振り返り、出入り口の柵まで下がろうとした。

 

 その瞬間──

 

 愚地独歩は振り返った。

 正面に、間合いの中に収まる場に、尊鷹の無防備な背中があった。

 観客が「あ」と声を発し切る前に、愚地独歩は前蹴りを放った。

 尊鷹は振り返るそぶりもない。

 空気の焦げる音がした。

 風切り音が耳をつんざく。

 打撃音はなかった。

 独歩が、目を見開いた。

 

 尊鷹が振り返っていた。

 独歩を見下ろしていた。

 尊鷹の頭の位置が、独歩の身体全体を見下ろせる高さにあった。

 つまり、蹴り上げた独歩のつま先の上に、尊鷹はつま先立ちになって、立っていた。

 

 ──ッッ!!

 

 反則だあッ!

 と言う声がいくらか上がったが、多くのものは、それ以上の歓声を闘技場に注いでいた。

 徳川光成が大笑いをしながら、太鼓を鳴らす様に仕向けた。

 太鼓が鳴った。

 そこまでの約三秒──

 

 尊鷹の突き出す様な空中下段蹴りが、独歩に降り注いだ。

 

 

3.

 

 

「けあっ」

 

 独歩は素早く足を戻して、前羽に構えた。

 コンマ一秒、尊鷹の蹴りが届くより先に、体勢を整えることに成功した。

 自身の顔の前で、蹴り足を捌いていく。

 三打、四打と捌いた。

 驚いたが、蹴りが軽い。対処できる。

 こっちの番だぜ。

 独歩は腰に手を溜めて、踏み込もうとした。

 おかしいことに気づいた。

 尊鷹の足が地面にない。

 体は、自分の目線の、やや上にあるのに。

 まさか──ッッ!?

 

 顔のガードを固めた独歩の腹筋に、尊鷹の足先蹴りが刺さった。

 

「ぐむっ」

 

 腹筋に力を込めて、耐える。

 これもまた、威力がない。

 先端の鋭さは大したものだが、重さが載っていない。ほとんど手打ちである。

 だから耐えられる。

 蹴り足を払い除けた。

 拳を出した。

 その拳の上を、滑るものがあった。

 クロスカウンターか!?

 違った。

 いや、正確にはクロスカウンターではあったが、突き出されたものが拳ではなかった。

 足だった。

 独歩の拳に、尊鷹は蹴り足を合わせてきた。

 

 まだ、尊鷹の身体は宙にありながら。

 

 どッッ──どういうジャンプ力だッッ!?

 

 独歩の頬に尊鷹の足がめり込んだ。

 今度は、しっかり重さの乗っている蹴りだった。

 両足が地面から引き剥がされる。

 地に足をつけぬ蹴りなのに、恐ろしい破壊力だった。

 一〇〇キロを超える独歩の身体が弾き飛ばされた。

 

 飛ばされた独歩が背中から落ちて、ようやく、尊鷹の足は地に着いた。

 

 

4.

 

 

「なんて滞空時間だ……」

「それ以上に、蹴り足の威力がすげェよ」

 

 加藤が振り向くと、龍刃は闘技場を指差した。

 加藤の視線が指先を追う。

 そして気づいた。

 

 片足で立つ尊鷹を中心に、闘技場に渦の痕跡ができている。

 尊鷹の蹴りの余波で巻き上げられた砂が、力の形をなぞっているのであった。

 

 独歩が手をついて身を起こした。

 尊鷹は、黙ってそれを見下ろしていた。

 

「へへ……これが、勇一郎さんにも浴びせた蹴りか……」

「『鷹鎌脚(おうれんきゃく)』です」

「ナルホドねえ。脚を伸ばして鎌の様に振り回して、その重さと鋭さで命を刈り取る蹴りってことかい」

 

 ならば、と独歩は再び前羽の構えを作った。

 膝を曲げるのではなく、抜き、腰を落とす。

 自身の中から重心を消す。

 そよ風が吹けば、そのまま吹き飛ぶような意識を、肉体に行き渡らせる。

 腕からも足からも首からも、適度に力を抜く。

 待ちの構えであった。

 これで、いつ、どこから、どういうタイミングで攻撃が来ても、対応できる。

 対応して、カウンターを叩き込む。

 跳びたけりゃ跳ぶといい。

 ただ、これは、何が来ても撃ち落とすぜ。

 独歩が静かに微笑した。

 

 その瞬間であった。

 尊鷹の顔が、急に大きくなった。

 目の前で、尊鷹の身体がいきなり膨れ上がったのである。

 

「!?」

 

 独歩は一瞬迷った。

 それはすなわち、隙であった。

 どっ、と独歩の胸に、尊鷹の拳が入った。

 前羽に構えた独歩の腕の間を通って、真正面から尊鷹は打った。

 じわり、と独歩の胸に、熱いものが滲んだ。

 緩やかな痛みが、独歩の全身に行き渡った。

 

 ガハッ、と独歩が血を吐いた。

 血だけではない。

 なにか、よくわからない体液がふんだんに混じっていた。

 

 そのまま、前のめりに、倒れた。

 

「館長ォォォオッッ!!!?」

「親父ィッッ!!!!!」

 

 加藤と克巳が身を乗り出して叫ぶ。

 突っ伏した独歩は動かない。

 

 モニターの前で、刃牙は驚愕していた。

 尊鷹の浸透系の強さにもだが、それ以前、彼がやった体移動の恐ろしさがわかっていたからだ。

 尊鷹がやったことは、極限の脱力状態から、体の重さを踵に落とし、それを踏み込みの力に利用したダッシュである。

 鋭すぎる緩急のついたダッシュであり、また、この動きはモーションもないにも関わらず、初速から最高速を発揮できる。

 人間の脳は、予備動作から相手がどういう動きをするのかを、無意識に予測する。

 その予測から身体を動かし、後手で対応するのである。

 しかし、この動きは動作の前後がない。

 相手からすれば、なんの予備動作もなく、突然、遠くにいた相手が近くにいる結果が来ることになる。

 だから反応できない。

 動作の意が存在しないために予測が立てられないから、たとえ『先の先』を極めていようが無意味だ。

 武の極みにある技であった。

 刃牙も、今、どうにかここを目指す途上にいる。

 それを、尊鷹は容易く扱った。

 

「相変わらず、恐ろしいヤツやで」

 

 キー坊がつぶやいた。

 しかし、その声には刃牙たちと違って、いささかの余裕が汲み取れる。

 それも無理からぬこと。

 尊鷹に、唯一勝ったことがある男こそ、宮沢熹一なのだから。

 

 独歩が拳をついて身を起こす。

 息が乱れている。

 まずいな、こりゃ……

 顔を挙げる。

 景色が歪んでいた。

 強い、確かに強いとは思っていたが、これほど差があっちゃあよう……

 

 ふらふらと立ち上がった。

 立ち上がれたなら、まあやるしかない。

 構えなかった。

 股を割っているだけの立ち姿。

 両腕は、無我の位置にある。

 無構えである。

 

「親父、何を考えてんだよッッ!?」

 

 克巳の言葉も、届いていないのか、独歩は何の反応も見せなかった。

 尊鷹は冷徹な目でそれを見ている。

 

「尊鷹さん」

 

 言った。

 ここからだよ。

 続けた。

 

「失望しないでくれよ。ここからが、おもしろいところだからな」

 

 聞くなり、しかし無反応で、尊鷹は跳んだ。

 これも、予備動作がない。

 膝を全く曲げている様には見えない姿勢から、独歩の頭より高く跳んでいる。ゆうに二メートルを超えているのではないか。

 蹴り落ちる尊鷹の足に対し、独歩が使ったものは、ただまっすぐな、上段の前蹴りであった。

 ただ、狙いが違う。

 独歩の足が蹴ったものは、尊鷹の蹴り足だった。

 

 前蹴りの力の向きに従って、尊鷹の身体がぐん、と押し返される。

 独歩から離れた間合いで着地した。

 独歩が、一歩、歩を進めた。

 尊鷹が、またあの歩法を用いて間合いをつめた。

 左のストレート。

 狙いは頭部だ。

 掌が、気持ち開いている。

 独歩は後出しで拳を放った。

 ただの正拳突きだ。

 避ける動きは全くしなかった。

 だだ、その狙いが、尊鷹の突き出した腕であった。

 二の腕を、独歩の正拳が打った。

 尊鷹の腕が弾かれた。

 後出しにも関わらず、独歩の拳の方が、早く当たっていた。

 

「すげえ……」

 

 龍刃が言った。

 来るものに対して、まっすぐに打つ。

 打って、撃退する。

 ただそれだけのことだが、故に、あまりにも余分なものが削ぎ落とされている動きである。

 打ち姿に、我欲がない。

 ただ、打つ。

 それに徹する。

 尊鷹の拳や蹴りが当たってしまうことなど、何も考えていないという打ち方。

 なんという武的境地か、愚地独歩ッ!!

 

「考えてみりゃあ、愚地さんって、勇次郎の拳を捌いてたンだよなあ」

 

 制空圏の触れ合った状態から、鬼を出していないとはいえ──先に出した勇次郎の拳よりも、後出しの正拳突きを疾く当てられるのが、愚地独歩なのである。

 

 尊鷹が間合いを空けた。

 足を上下に広げて、前に出す足で円を描く様に地面を擦った。

 闘技場の砂が巻き上がる。

 その砂が、うねっていた。

 まるで意思を持っているかの如く宙でうねり、指向性のある動きで尊鷹の身体を包み隠した。

 束ねられた蛇が巻き付いて、壁になっている様だった。

 

 『砂塵障壁』というワザであった。

 

 独歩は動かない。

 慌てない。

 心ここに在らずとさえ言える様な無変無動っぷりであった。

 

 砂塵が広がっていく。

 風が吹いていた。

 

「しゃあっ」

 

 砂塵を突き破って、尊鷹の回し蹴りが独歩に飛んだ。

 それに、独歩の拳が向かう。

 と、恐ろしいことが起きた。

 

 尊鷹の蹴り足が、独歩の拳の前で、空を蹴ったのである。

 いや、正確には、空を掴んだのだ。

 空を掴み、そこを起点に、身体を前に持ち上げた。

 蹴り足はたちまち背後に伸び切り、尊鷹の身体があっさりと独歩の制空圏を破ったのである。

 拳を打つことに全てをかけて当たる独歩は、なすすべなく尊鷹の連撃をボディと顔に喰らって後退した。

 

「ガハッ」

 

 詰まった息を吐き出す様に、独歩がうめいた。

 その瞬間に、また、尊鷹が跳んでいる。

 空中からの回し蹴り。

 独歩は受けようと顔の前に手を立てた。

 

 が、まともに入った。

 尊鷹の足が、独歩のガードをすり抜けた──ように見えた。

 

 実際は違う。

 疾くなっている。

 蹴り足が、段違いに鋭く、疾くなっている。

 

「さ、さっきまでは、ウォーミングアップってことかよ……」

 

 加藤が言った。

 加藤にも、かろうじて尊鷹の動きの違いが見えていた。

 

 

5.

 

 

 マズイな、こりゃあ……

 

 構えながら、打たれている。

 受けが間に合わない。

 

 速すぎるゼ、いくら何でもよォ。

 

 手が、足が、何より反応が、まるで間に合わない。

 まるで尊鷹の手足の全てが『音速拳』であるかの様だった。

 実際には必ずしもそうでない。

 尊鷹の拳も蹴りも、微妙な緩急がある。

 角度がついているために、極端によけづらいし、反応しづらいのだ。

 これは、単に速い拳ってワケじゃない。

 宮沢尊鷹の純然たる技量だ。

 

 当たる蹴りにも種類がある。

 極端に重いものと、当ててるだけの様な軽いもの。

 前者のつもりでかろうじてガードが間に合うと、後者だったりする。

 後者のつもりで喰らってしまうと、前者の一撃で首が千切れそうになる。

 それを織り交ぜるから、脳が、肉体が混乱する。

 混乱して、思考が絡まって、身体が萎縮して、次手がどんどん遅れていく。

 これはよくないぜ。

 ダメだぜ、愚地独歩。

 ごちゃごちゃ考えちまってる。

 だから間に合わない。

 範馬勇一郎と五分った話も嘘じゃねえな、これは。

 いや、負けてるんだよな?

 待て待て、そんなことを考えているヒマじゃねえって。

 受け──間に合わねえッッ!!

 ダメだこりゃあ。

 しっかし、痛えなこいつのつま先。

 鉄か何か仕込んでんじゃねえか?

 まあ、おれも、人のこたあ言えねンだけどよ。

 おかげで意識を保ててるから、ワルいことばっかりじゃねえけどな。

 

 しっかし、殴られすぎてやがるぜ。

 このまんまじゃあ、格好つかねェよな。

 夏恵が、また、泣いちまうぜ。

 それは嫌だなあ。

 せっかく、待ってくれている、女房だってのによ。

 家で、ボロボロになるおれを、黙って待ってくれてるっていう、今時珍しい自慢の家内だってのに。

 ああ、そうだ。

 夏恵のためにも、もうちょっと踏ん張ってみるかな。

 範馬勇次郎に勝つ前に、宮沢尊鷹に勝ってみるかな。

 

 よし──いっちょ、やってみるか。

 

 

6.

 

 

 尊鷹の顔が弾けた。

 顎の下から、拳を打ち当てられた。

 吹き飛んだ。

 尻から、闘技場に落ちた。

 

 乱打を、堂々と突き破って、愚地独歩の拳が登ってきたのである。

 

「尊鷹さん」

 

 独歩が、尊鷹を見下ろしながら、言う。

 

「あんたは、これから先、おれの拳を避けられないよ」

 

 真摯な言葉であった。

 何の駆け引きもない調子で発せられた。

 ぐ、と独歩が腰を落とした。

 拳を、脇に添えて、股を割って騎馬立ちになった。

 背筋を伸ばし、身体を正面に向けている。

 空手の、最も基本的な立ち方だった。

 

「ふとももだよ」

 

 立ち上がった尊鷹を前に、そう言った。

 その瞬間、尊鷹は飛びあがろうとして、できなかった。

 尊鷹が跳ぶより早く、独歩のローキックが太ももを穿ったからだ。

 

 がくりと、尊鷹が膝をついた。

 

「顔」

 

 また、言った。

 尊鷹がとっさに、顔の前で手をクロスさせた。

 そこに、独歩のミドルキックが打ち込まれた。

 引っこ抜かれた様に、尊鷹がのけぞって吹き飛んだ。

 

 どうだい?

 倒れる尊鷹を見ながら、独歩は心の中で言った。

 どうだい、尊鷹さん。

 これが、おれの拳だよ。 

 これか、おれの蹴りだよ。

 五〇年間、ひたすら、虚空に向かって打ち続けた拳や蹴りだよ。

 毎日毎日、骨が折れても打ち続けたものだよ。

 見えなかっただろう?

 こいつは、おれの中でも、いっとう速いからね。

 克巳みたいに、実際に音速で殴ってるワケじゃない。

 それでも、おれの拳は速くて躱せないだろう?

 そういう拳だからね。

 ただ、打つだけじゃないんだよ。

 こいつは、隙間を抜けていくんだ。

 隙間を通って、相手にあたると、向こう側まで突き抜ける拳なんだよ。 

 さっき、あんたがおれの胸に向かって打ち込んだものと同類だよ。

 ちょっと、立てないだろ?

 でも、立ってくるだろ?

 おれも、これで倒せるとは思っちゃいないよ。

 なんせ、あんたは範馬の『鬼』を知ってる人間だからね。

 範馬の『鬼』を知っちまうとさ、トレーニングの目標がガラッと変わるんだよな。

 あの『鬼』が基準になる。

 あの『鬼』の力が、耐えるにせよ撃ち抜くにせよ、目標になる。

 おれの拳は、『鬼』ほどじゃあない。

 少なくとも破壊力はね。

 だから、あんたは立ってくるだろう。

 ほら立ってきた。

 すんなりと立つじゃないか。

 ちょっとショックだぜ。

 おや?

 どうしたい。

 笑ってるぜ──あんた。

 いい顔だよ。

 

 まるで、あんたも『鬼』になったみてえだよ。

 

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