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第一話:自由なれ
0.
ことのあらましは聞いていた。
徳川光成からだ。
ある日、光成から連絡を貰って、屋敷に赴いた日のことだった。
『力剛山が死んだのは、龍金剛に負けたからだ』
光成がそう言ったのだ。
驚く独歩をよそに、視線を落とし、池の中の鯉に餌をやりながら、光成は続けた。
『赤坂のバーで、いきなり、おっ始めたらしい』
信じられない言葉だった。
あの力剛山が、ストリート・ファイトで潰されたというのか。
自分は、確かに、力剛山に勝っている。
範馬勇一郎のために──いや、自分の誇りのために、あるいは慰めのために、地下闘技場に力剛山を呼び出して、叩きのめしている。
だが、それは、不意打ちであった。
いや、あれは元々から『試合』ではなく『制裁』として行うと言ったし、力剛山もそれで了承していたから、愚地独歩のやったことは不意打ちでも奇襲でもないはずではある。
だが、どのみち正面から向かい合い、真っ当にやり合ったわけではないのは事実だ。
背後に立ち、力剛山のバックブローを躱し、金的を打って鼻を削ぎ、正拳突きを胸に突き刺した。
それで、力剛山は倒れたのだ。
もし、力剛山と向かい合って、正面からヨーイドンとやり合っていれば、ああもカンタンには行かなかっただろう。
もちろん負ける気はないが、如何に老いて衰えていようが、力剛山とはそういう、愚地独歩でさえ苦戦は免れないレベルの化け物なのだ。
龍金剛は、その力剛山を正面から叩き潰したのだという。
なんという怪物なのだろうか、龍金剛。
しかし、その龍金剛と、おれは、『ゆうえんち』でヤりあった。
その時は真っ向から──
やつのぶちかましを、正面から受け止めて、捌いてやった。
色々やり合って、心からつながって、おれは勝ったさ。
相撲は、これで良い──
そうとさえ思った。
力剛山は化け物だったが、龍金剛はもっと化け物だった。
だけど、おれにとって、おれが想定している最も化け物な男と比べたら、ふたりともまだまだ甘いだろう。
力剛山と龍金剛を超える化け物──
つまり、範馬勇一郎のことさ。
史上最強の柔道家。
孤高の鬼。
鬼の範馬勇一郎。
世界最強の男だった。
地上最強の男だった。
間違いなく。
元を正せば、その勇一郎が、力剛山と八百長をやったことが、力剛山を叩きのめす、きっかけになったんだったな。
それから範馬勇次郎が出てくるまで、おれの中ではくすぶった想いがあった。
範馬勇一郎とヤりあえなかった……っていう後悔の念だ。
やっぱり、ヤってみたかった──
恥も外聞もなく、誇りやなんやらもかなぐり捨てて、男と男が一対一で、思う存分やりゃあ良かったんだな、って念だ。
だが、あの頃自分はケツの青いガキだった。
憧れが恥辱に塗れ、泥を被る姿に耐えられなかったンだなあ。
そんなことを考えてると、ジッちゃんの口から、恐ろしいことが飛び出してきた。
『独歩よ』
なんでェ?
『範馬勇一郎が、ブラジルで日本人と戦ったことを知っとるか?』
──!?
全く、聞いたことがない話だった。
範馬勇一郎が、日本のプロ柔道を見捨てて、ブラジルに飛んだことは知っていた。
まだ、力剛山に誘われて、プロレス入りする前の話だ。
つまり、範馬勇一郎が、より全盛期に近い時期だ。
ジッちゃんの話によると、ブラジルに在住していた日本人武道家と、範馬勇一郎はやり合ったらしい。
あの、エルオ・グライシーとやり合ってすぐのことだと。
結果は範馬勇一郎の勝ちだったそうだが、試合の内容は極めて拮抗していたと言う。
ウソじゃねェのかい?
おれが言うと、ジッちゃんはようやくおれの方を見た。
おれを睨み上げて、言った。
『独歩よ。ワシが、こと武術の話において、ウソをつくと思うてか──』
本気の眼だった。
ああ、これは、ウソじゃねえ。
ただ、ジッちゃんには相手の日本人の名前は、どうしてもわからなかったそうだ。
あの時、ジッちゃんが何を思ってこの話をしたのかはしらねェ。
けど、あの話が、おれの胸を焦がしたのは事実だ。
今なら、そいつの名前はわかる。
宮沢尊鷹──
アメリカで、『バトル・キング』の異名で呼ばれていた男だ。
ガチガチの殴り合いを興行にするアメリカで、あだ名が『格闘の王様』だぜぇ?
つえぇんだろうな。
実際、強いぜ。
あのインターバルで、ちょこっと話しただけで、おいらの細胞がぶるぶる震えやがった。
範馬勇次郎とヤりあったときでさえ、こんなことにはならなかったのによ。
ああ──言いたいことが山ほどある。
聞きたいことが山ほどあるぜ。
でも、言葉は必要ねえさ。
これから、思いっきり、存分に語り合えるからな。
1.
さて、と腰を上げた。
愚地独歩である。
開脚をおさめ、柔軟を終えたのである。
たっぷり十五分を費やした。
筋肉が十分にほぐれたのである。
適度な熱を持っている。
良い具合だ。
独歩の目の前に、愚地克巳と加藤清澄が立った。
腕を八の字に広げ、拳を握り、身を屈めて頭を下げている。
「押忍ッ! お供させていただきますッ!」
克巳が言った。
ヨソヨソしい物言いであった。
ぷ、と独歩は吹き出した。
「オゥオゥ克巳よう、えらい殊勝な態度じゃねェかよああん? そーいうのはよォ、できれば家や道場で見せてほしいもンだぜ」
「からかうなよ親父ィ。一応、敬意ってやつを示してンだぜ?」
「加藤もオマエよう、オメェは出場してるガワだろうが。敵を応援してどうすんだバカヤロウ」
「うっ、ウルセーよ! 愛弟子の応援ぐらい素直に受け取れよ館長サマよぅ!」
にたり、と独歩は笑った。
太い、見るものに安心感を与える笑みであった。
いつもの、戦う前に見せる表情である。
独歩が歩き出した。
少し歩いて、止まった。
闘技場の色形がはっきりわかる距離だ。
その手前に、獅子尾龍刃が立っていた。
「オッサン……」
加藤の言葉に、龍刃はうん、と頷いた。
「愚地さん……が、頑張ってくださいッ!!」
真摯な視線を、独歩に送っていた。
少し、肩に力が入っている。
どこか気恥ずかしいそうな声であった。
ニィ……と、独歩は先ほどとは違う種類の笑みを浮かべた。
歩き出した。
「アリガトよ」
すれ違う一瞬、そう言った。
獅子尾龍刃が振り返った。
光に向かって進む独歩の足取りは頼もしかった。
その背中が、太い。
安心を覚えるほどに、大きくて太かった。
2.
愚地独歩に遅れて、宮沢尊鷹が入ってきた。
異様な空気を醸し出しながら。
闘技場がざわついた。
宮沢尊鷹が一歩進むたびに、闘技場の空気が目に見えて
世界を塗り替える『気の奔流』である。
神秘的な力だった。
その場にいるものの五感を刺激し、その身体が宮沢尊鷹の気に包まれるかのようだ。
見えるものも、見えぬものも、感じ取った。
宮沢尊鷹の力の度合い──その透明感と、芳醇さが恐ろしいと。
尊鷹はマスクを着けていた。
鼻筋から耳に向かって両翼を広げる模様のアイ・マスクである。
目や鼻や耳が隠れるわけでもないため、特段着用に問題はないものではあるが、それが尊鷹の得体の知れなさを増長させている。
「それ、つけっぱなしで良いのかい?」
独歩が聞くと、尊鷹は口角を静かに持ち上げた。
その、微かな動きが妙に不気味であった。
「すみません」
言った。
「マスクを着けている方が、残酷になれるんです」
底冷えする声であった。
審判が冷や汗を垂らした。
呑まれている。
尊鷹の気に、雰囲気に。
ヘッ、と独歩が吐いた。
審判からルールの説明が為された。
両者が振り返り、出入り口の柵まで下がろうとした。
その瞬間──
愚地独歩は振り返った。
正面に、間合いの中に収まる場に、尊鷹の無防備な背中があった。
観客が「あ」と声を発し切る前に、愚地独歩は前蹴りを放った。
尊鷹は振り返るそぶりもない。
空気の焦げる音がした。
風切り音が耳をつんざく。
打撃音はなかった。
独歩が、目を見開いた。
尊鷹が振り返っていた。
独歩を見下ろしていた。
尊鷹の頭の位置が、独歩の身体全体を見下ろせる高さにあった。
つまり、蹴り上げた独歩のつま先の上に、尊鷹はつま先立ちになって、立っていた。
──ッッ!!
反則だあッ!
と言う声がいくらか上がったが、多くのものは、それ以上の歓声を闘技場に注いでいた。
徳川光成が大笑いをしながら、太鼓を鳴らす様に仕向けた。
太鼓が鳴った。
そこまでの約三秒──
尊鷹の突き出す様な空中下段蹴りが、独歩に降り注いだ。
3.
「けあっ」
独歩は素早く足を戻して、前羽に構えた。
コンマ一秒、尊鷹の蹴りが届くより先に、体勢を整えることに成功した。
自身の顔の前で、蹴り足を捌いていく。
三打、四打と捌いた。
驚いたが、蹴りが軽い。対処できる。
こっちの番だぜ。
独歩は腰に手を溜めて、踏み込もうとした。
おかしいことに気づいた。
尊鷹の足が地面にない。
体は、自分の目線の、やや上にあるのに。
まさか──ッッ!?
顔のガードを固めた独歩の腹筋に、尊鷹の足先蹴りが刺さった。
「ぐむっ」
腹筋に力を込めて、耐える。
これもまた、威力がない。
先端の鋭さは大したものだが、重さが載っていない。ほとんど手打ちである。
だから耐えられる。
蹴り足を払い除けた。
拳を出した。
その拳の上を、滑るものがあった。
クロスカウンターか!?
違った。
いや、正確にはクロスカウンターではあったが、突き出されたものが拳ではなかった。
足だった。
独歩の拳に、尊鷹は蹴り足を合わせてきた。
まだ、尊鷹の身体は宙にありながら。
どッッ──どういうジャンプ力だッッ!?
独歩の頬に尊鷹の足がめり込んだ。
今度は、しっかり重さの乗っている蹴りだった。
両足が地面から引き剥がされる。
地に足をつけぬ蹴りなのに、恐ろしい破壊力だった。
一〇〇キロを超える独歩の身体が弾き飛ばされた。
飛ばされた独歩が背中から落ちて、ようやく、尊鷹の足は地に着いた。
4.
「なんて滞空時間だ……」
「それ以上に、蹴り足の威力がすげェよ」
加藤が振り向くと、龍刃は闘技場を指差した。
加藤の視線が指先を追う。
そして気づいた。
片足で立つ尊鷹を中心に、闘技場に渦の痕跡ができている。
尊鷹の蹴りの余波で巻き上げられた砂が、力の形をなぞっているのであった。
独歩が手をついて身を起こした。
尊鷹は、黙ってそれを見下ろしていた。
「へへ……これが、勇一郎さんにも浴びせた蹴りか……」
「『
「ナルホドねえ。脚を伸ばして鎌の様に振り回して、その重さと鋭さで命を刈り取る蹴りってことかい」
ならば、と独歩は再び前羽の構えを作った。
膝を曲げるのではなく、抜き、腰を落とす。
自身の中から重心を消す。
そよ風が吹けば、そのまま吹き飛ぶような意識を、肉体に行き渡らせる。
腕からも足からも首からも、適度に力を抜く。
待ちの構えであった。
これで、いつ、どこから、どういうタイミングで攻撃が来ても、対応できる。
対応して、カウンターを叩き込む。
跳びたけりゃ跳ぶといい。
ただ、これは、何が来ても撃ち落とすぜ。
独歩が静かに微笑した。
その瞬間であった。
尊鷹の顔が、急に大きくなった。
目の前で、尊鷹の身体がいきなり膨れ上がったのである。
「!?」
独歩は一瞬迷った。
それはすなわち、隙であった。
どっ、と独歩の胸に、尊鷹の拳が入った。
前羽に構えた独歩の腕の間を通って、真正面から尊鷹は打った。
じわり、と独歩の胸に、熱いものが滲んだ。
緩やかな痛みが、独歩の全身に行き渡った。
ガハッ、と独歩が血を吐いた。
血だけではない。
なにか、よくわからない体液がふんだんに混じっていた。
そのまま、前のめりに、倒れた。
「館長ォォォオッッ!!!?」
「親父ィッッ!!!!!」
加藤と克巳が身を乗り出して叫ぶ。
突っ伏した独歩は動かない。
モニターの前で、刃牙は驚愕していた。
尊鷹の浸透系の強さにもだが、それ以前、彼がやった体移動の恐ろしさがわかっていたからだ。
尊鷹がやったことは、極限の脱力状態から、体の重さを踵に落とし、それを踏み込みの力に利用したダッシュである。
鋭すぎる緩急のついたダッシュであり、また、この動きはモーションもないにも関わらず、初速から最高速を発揮できる。
人間の脳は、予備動作から相手がどういう動きをするのかを、無意識に予測する。
その予測から身体を動かし、後手で対応するのである。
しかし、この動きは動作の前後がない。
相手からすれば、なんの予備動作もなく、突然、遠くにいた相手が近くにいる結果が来ることになる。
だから反応できない。
動作の意が存在しないために予測が立てられないから、たとえ『先の先』を極めていようが無意味だ。
武の極みにある技であった。
刃牙も、今、どうにかここを目指す途上にいる。
それを、尊鷹は容易く扱った。
「相変わらず、恐ろしいヤツやで」
キー坊がつぶやいた。
しかし、その声には刃牙たちと違って、いささかの余裕が汲み取れる。
それも無理からぬこと。
尊鷹に、唯一勝ったことがある男こそ、宮沢熹一なのだから。
独歩が拳をついて身を起こす。
息が乱れている。
まずいな、こりゃ……
顔を挙げる。
景色が歪んでいた。
強い、確かに強いとは思っていたが、これほど差があっちゃあよう……
ふらふらと立ち上がった。
立ち上がれたなら、まあやるしかない。
構えなかった。
股を割っているだけの立ち姿。
両腕は、無我の位置にある。
無構えである。
「親父、何を考えてんだよッッ!?」
克巳の言葉も、届いていないのか、独歩は何の反応も見せなかった。
尊鷹は冷徹な目でそれを見ている。
「尊鷹さん」
言った。
ここからだよ。
続けた。
「失望しないでくれよ。ここからが、おもしろいところだからな」
聞くなり、しかし無反応で、尊鷹は跳んだ。
これも、予備動作がない。
膝を全く曲げている様には見えない姿勢から、独歩の頭より高く跳んでいる。ゆうに二メートルを超えているのではないか。
蹴り落ちる尊鷹の足に対し、独歩が使ったものは、ただまっすぐな、上段の前蹴りであった。
ただ、狙いが違う。
独歩の足が蹴ったものは、尊鷹の蹴り足だった。
前蹴りの力の向きに従って、尊鷹の身体がぐん、と押し返される。
独歩から離れた間合いで着地した。
独歩が、一歩、歩を進めた。
尊鷹が、またあの歩法を用いて間合いをつめた。
左のストレート。
狙いは頭部だ。
掌が、気持ち開いている。
独歩は後出しで拳を放った。
ただの正拳突きだ。
避ける動きは全くしなかった。
だだ、その狙いが、尊鷹の突き出した腕であった。
二の腕を、独歩の正拳が打った。
尊鷹の腕が弾かれた。
後出しにも関わらず、独歩の拳の方が、早く当たっていた。
「すげえ……」
龍刃が言った。
来るものに対して、まっすぐに打つ。
打って、撃退する。
ただそれだけのことだが、故に、あまりにも余分なものが削ぎ落とされている動きである。
打ち姿に、我欲がない。
ただ、打つ。
それに徹する。
尊鷹の拳や蹴りが当たってしまうことなど、何も考えていないという打ち方。
なんという武的境地か、愚地独歩ッ!!
「考えてみりゃあ、愚地さんって、勇次郎の拳を捌いてたンだよなあ」
制空圏の触れ合った状態から、鬼を出していないとはいえ──先に出した勇次郎の拳よりも、後出しの正拳突きを疾く当てられるのが、愚地独歩なのである。
尊鷹が間合いを空けた。
足を上下に広げて、前に出す足で円を描く様に地面を擦った。
闘技場の砂が巻き上がる。
その砂が、うねっていた。
まるで意思を持っているかの如く宙でうねり、指向性のある動きで尊鷹の身体を包み隠した。
束ねられた蛇が巻き付いて、壁になっている様だった。
『砂塵障壁』というワザであった。
独歩は動かない。
慌てない。
心ここに在らずとさえ言える様な無変無動っぷりであった。
砂塵が広がっていく。
風が吹いていた。
「しゃあっ」
砂塵を突き破って、尊鷹の回し蹴りが独歩に飛んだ。
それに、独歩の拳が向かう。
と、恐ろしいことが起きた。
尊鷹の蹴り足が、独歩の拳の前で、空を蹴ったのである。
いや、正確には、空を掴んだのだ。
空を掴み、そこを起点に、身体を前に持ち上げた。
蹴り足はたちまち背後に伸び切り、尊鷹の身体があっさりと独歩の制空圏を破ったのである。
拳を打つことに全てをかけて当たる独歩は、なすすべなく尊鷹の連撃をボディと顔に喰らって後退した。
「ガハッ」
詰まった息を吐き出す様に、独歩がうめいた。
その瞬間に、また、尊鷹が跳んでいる。
空中からの回し蹴り。
独歩は受けようと顔の前に手を立てた。
が、まともに入った。
尊鷹の足が、独歩のガードをすり抜けた──ように見えた。
実際は違う。
疾くなっている。
蹴り足が、段違いに鋭く、疾くなっている。
「さ、さっきまでは、ウォーミングアップってことかよ……」
加藤が言った。
加藤にも、かろうじて尊鷹の動きの違いが見えていた。
5.
マズイな、こりゃあ……
構えながら、打たれている。
受けが間に合わない。
速すぎるゼ、いくら何でもよォ。
手が、足が、何より反応が、まるで間に合わない。
まるで尊鷹の手足の全てが『音速拳』であるかの様だった。
実際には必ずしもそうでない。
尊鷹の拳も蹴りも、微妙な緩急がある。
角度がついているために、極端によけづらいし、反応しづらいのだ。
これは、単に速い拳ってワケじゃない。
宮沢尊鷹の純然たる技量だ。
当たる蹴りにも種類がある。
極端に重いものと、当ててるだけの様な軽いもの。
前者のつもりでかろうじてガードが間に合うと、後者だったりする。
後者のつもりで喰らってしまうと、前者の一撃で首が千切れそうになる。
それを織り交ぜるから、脳が、肉体が混乱する。
混乱して、思考が絡まって、身体が萎縮して、次手がどんどん遅れていく。
これはよくないぜ。
ダメだぜ、愚地独歩。
ごちゃごちゃ考えちまってる。
だから間に合わない。
範馬勇一郎と五分った話も嘘じゃねえな、これは。
いや、負けてるんだよな?
待て待て、そんなことを考えているヒマじゃねえって。
受け──間に合わねえッッ!!
ダメだこりゃあ。
しっかし、痛えなこいつのつま先。
鉄か何か仕込んでんじゃねえか?
まあ、おれも、人のこたあ言えねンだけどよ。
おかげで意識を保ててるから、ワルいことばっかりじゃねえけどな。
しっかし、殴られすぎてやがるぜ。
このまんまじゃあ、格好つかねェよな。
夏恵が、また、泣いちまうぜ。
それは嫌だなあ。
せっかく、待ってくれている、女房だってのによ。
家で、ボロボロになるおれを、黙って待ってくれてるっていう、今時珍しい自慢の家内だってのに。
ああ、そうだ。
夏恵のためにも、もうちょっと踏ん張ってみるかな。
範馬勇次郎に勝つ前に、宮沢尊鷹に勝ってみるかな。
よし──いっちょ、やってみるか。
6.
尊鷹の顔が弾けた。
顎の下から、拳を打ち当てられた。
吹き飛んだ。
尻から、闘技場に落ちた。
乱打を、堂々と突き破って、愚地独歩の拳が登ってきたのである。
「尊鷹さん」
独歩が、尊鷹を見下ろしながら、言う。
「あんたは、これから先、おれの拳を避けられないよ」
真摯な言葉であった。
何の駆け引きもない調子で発せられた。
ぐ、と独歩が腰を落とした。
拳を、脇に添えて、股を割って騎馬立ちになった。
背筋を伸ばし、身体を正面に向けている。
空手の、最も基本的な立ち方だった。
「ふとももだよ」
立ち上がった尊鷹を前に、そう言った。
その瞬間、尊鷹は飛びあがろうとして、できなかった。
尊鷹が跳ぶより早く、独歩のローキックが太ももを穿ったからだ。
がくりと、尊鷹が膝をついた。
「顔」
また、言った。
尊鷹がとっさに、顔の前で手をクロスさせた。
そこに、独歩のミドルキックが打ち込まれた。
引っこ抜かれた様に、尊鷹がのけぞって吹き飛んだ。
どうだい?
倒れる尊鷹を見ながら、独歩は心の中で言った。
どうだい、尊鷹さん。
これが、おれの拳だよ。
これか、おれの蹴りだよ。
五〇年間、ひたすら、虚空に向かって打ち続けた拳や蹴りだよ。
毎日毎日、骨が折れても打ち続けたものだよ。
見えなかっただろう?
こいつは、おれの中でも、いっとう速いからね。
克巳みたいに、実際に音速で殴ってるワケじゃない。
それでも、おれの拳は速くて躱せないだろう?
そういう拳だからね。
ただ、打つだけじゃないんだよ。
こいつは、隙間を抜けていくんだ。
隙間を通って、相手にあたると、向こう側まで突き抜ける拳なんだよ。
さっき、あんたがおれの胸に向かって打ち込んだものと同類だよ。
ちょっと、立てないだろ?
でも、立ってくるだろ?
おれも、これで倒せるとは思っちゃいないよ。
なんせ、あんたは範馬の『鬼』を知ってる人間だからね。
範馬の『鬼』を知っちまうとさ、トレーニングの目標がガラッと変わるんだよな。
あの『鬼』が基準になる。
あの『鬼』の力が、耐えるにせよ撃ち抜くにせよ、目標になる。
おれの拳は、『鬼』ほどじゃあない。
少なくとも破壊力はね。
だから、あんたは立ってくるだろう。
ほら立ってきた。
すんなりと立つじゃないか。
ちょっとショックだぜ。
おや?
どうしたい。
笑ってるぜ──あんた。
いい顔だよ。
まるで、あんたも『鬼』になったみてえだよ。