0.
神の領域に立っていた。
あの瞬間、宮沢尊鷹はひとりではなかった。
宮沢尊鷹は飢えていた。
宮沢尊鷹は飽きていた。
己の人生に。
己の立ち位置に。
実弟、宮沢鬼龍に橋から落とされ、かろうじて生き延びてしまった。
灘神影流の因果から逃げるように身を隠し、己の戸籍も捨て、空虚を抱えたまま、闇に紛れるように、日下部丈一郎の下に転がり込んだ。
紆余曲折あり、グレート・スピリットの導きに誘われ、ブラジルの地で、範馬勇一郎と戦った。
大きな男だった。
太い──男だった。
ただならぬ気配を纏い、それを少しも隠す気のない、鷹揚とした男だった。
その時の結果は、尊鷹の負けである。
だが、あの瞬間、己の全てを解放してなお、泰然と受け止め切る範馬勇一郎に確かな共感を覚えていた。
月光の照らす中で、闇の中に確かな己を感じていた。
宮沢尊鷹は己の心臓が喜びに脈打つのを感じ取っていた。
その太い肉を叩くたびに、蹴るたびに、その実、尊鷹の胸中では悍ましい破壊衝動とともに、泣き出したくなるほどの感動が渦巻いていた。
己は、世界に存在していいのだと、
鬼龍に命を狙われて以降、尊鷹は自身のことを、龍虎相撃つ灘の宿命に入り込んだ、異物であると思っていた。
高潔なる鷹──そう言えば聞こえはいい。
だが、その実、自分は異物であった。
平穏に暮らす中でも、父、金時をして尋常ならざる力を持つと言う自分は、いつか弟たちの前から消えなければならないと、どこかで思っていたのかもしれなかった。
その想いを、誰にも打ち明けることなく生きてきた。
どこへ行けば良いのか──
どこで生きていけると言うのか──
隔絶した『個』である尊鷹は、人界に紛れ込んだ超越者そのものだった。
御仏の慈悲を宿しながら、その本性には『鬼』の一念を同居させつつ、超然の声を聞くことができる尊鷹の器量は、おとなしく──ただびとの身に留めておくには限界があった。
湧き上がる衝動と日ごとに増す破壊のエネルギーは、尊鷹の心を孤立させ、孤高と呼ぶにはあまりにも寂しい世界を眼前に横たえていた。
ひとりだ──
死ぬまで、己の世界を理解するものは現れまい。
諦観の念は尊鷹の孤独により一層の力を与えた。
深い闇の中に、煮え切らぬエネルギーを押し留めて、尊鷹は息苦しく羽根を畳めていた。
それが、
それを、
範馬勇一郎が叩き壊したのだ。
圧倒的な力だった。
尊鷹が全力で蹴っているのに、隆起した山の如き肉の塊はびくともしない。
眼と眼が合っていた。
尊鷹のスピードを、範馬勇一郎は意識して追えていた。
それを自覚した瞬間の、尊鷹の魂の咆哮ときたら、眠り腐っていた己の全細胞を目覚めさせる魂の慟哭であった。
孤独ではない──
己は、孤独ではなかった。
尊鷹は吠えていた。
月をつんざく咆哮は、尊鷹の肉体を通して下界に押し留められていた人外の歓喜と狂乱を、一切の楔を壊して
その声は幾多の響きを奏でていた。
同じ頂に立つものへの共感──
同種の生物を見つけた安堵──
己が力と魂を存分に受け止め切る、破格の強さへの嫉妬──
その解放があってなお、範馬勇一郎は宮沢尊鷹をねじ伏せた。
初めての敗北の足音は、しかし心地よいものであった。
己の全力が五体を満たした上での敗北である。どこに悔しさを滲ませる余力があったと言うのか。
去り際に、勇一郎は約束した。
再戦の約束であった。
差し出された手を、尊鷹はにべもなく握り返した。
また、あの世界に行けるのだ。
範馬勇一郎は、世界でただひとり、尊鷹を孤独とは無縁の『あの世界』に連れて行ってくれる男だった。
しかし、再戦の誓いは果たされなかった。
力剛山の起こした『昭和の巌流島』が、範馬勇一郎の存在を武術史の表からも裏からも消し去ったからだった──
1.
尊鷹の空気が変わった。
それは、モニター越しに見る刃牙やキー坊にもはっきりとわかった。
身の毛もよだつ殺気が放たれている。
尊鷹がゆっくりと身体を揺らし始めた。
愚地独歩が天地上下に腕を構えて、腰をどっしりと落とした。
独歩の感じる緊張が、否応なく伝わってきている。
へっ、
と独歩は吐き捨てた。
武者震いが止まらなかった。
なんていい
口角が釣り上がり、眼の黒点が小さく引き絞られている。
狂気を感じさせる眼だ。
ゆらり、ゆらりと肉の弛緩が目に見える。
さっきまでの
内心、独歩はそう思っていた。
だが、
もとより、愚地独歩にできることは、近くまでいって真っ直ぐ殴り、真っ直ぐ蹴ることだけだ。
手の先や足先から派生する細かいワザも、結局はまず殴ったり蹴ったりできなけりゃ始まらない。
拳や蹴りの間合いに入って殴り合うしかないのだ。
だから、絶対に
勝つために。
殴って、蹴って、勝つために、愚地独歩は前に出る。
尊鷹の姿が消えた。
それは、超スピードで誤魔化したとか、そう言う次元ではなかった。
蹴り足がなかった。
重心の移動もなかった。
いきなりだ。
いきなり、尊鷹の身体がまるごと、愚地独歩の眼前にワープしていた。
──妖怪かよッッ!!?
「ちいぃっ!!」
独歩は拳を打った。
右の正拳突き。
それが、尊鷹の身体をすり抜けた。
「──ッッ!?」
尊鷹が独歩の胸元に両腕を伸ばしていた。
開手している。
とん、と触れた。
そこから、尊鷹は握り拳を作った。
これは──ッッ!!?
次の瞬間、どくん、と独歩の体内を衝撃が貫いた。
尊鷹の拳が触れる箇所から、じわりと熱が広がっている。
マグマを浴びせられたようだった。
皮膚が溶け、肉が溶け、骨の髄まで熱が染み込んでいく。
かはっと吐瀉物を吐いて、独歩が大きくのけぞって、そのまま仰向けに倒れたのだった。
2.
「『塊蒐拳』か──おいおい、そこまでするかいな」
ボリボリとキー坊が頭を掻いた。
なんスかそれ、と刃牙が聞く。
「『塊蒐拳』──通称、“鬼の五年殺し"や」
キー坊の解説はこうだ。
『塊蒐拳』は、術者の『鬼』を拳から相手の体内に叩き込む。
体内に留まった鬼は、そのまま相手の内臓や骨をゆっくり腐らせ、機能を低下させ、やがて死に至らしめる。
その期間──五年。
だから五年殺し。
これは西洋医学では治せず、原因不明の変死として処理される、まさに暗殺拳の極意である。
加藤が、もう何も言うまいと目を細めて苦笑していた。
刃牙が冷や汗を垂らしている。
本部が、少し寂しそうに、その話に耳を傾けていた。
「いやっ! ちょっと待てよ!! なら館長は、あと五年で死ぬってことかァ!?」
「そこは安心してええで。『塊蒐拳』は尊鷹だけは解除する方法を知っとるわ。試合が終わったら……まあ治療するやろ」
「ほ、ほんとだな!? 館長が死んだら、テメェらタダじゃ済まねえぞ」
「まあ……大丈夫やって。……たぶん」
「ああン!? テメェ今"たぶん"って言ったか!? "たぶん"って!!?」
喚く加藤を刃牙が諌めながら、三者はモニターを見つめる。
愚地独歩はまだ起きてこなかった。
3.
終わったと、尊鷹は確信した。
残心は解かず、かと言って、これ以上追撃を課すつもりもない。
『塊蒐拳』がまともに入った。
完璧に、愚地独歩の中に、『鬼』が入り込んだ。
今、愚地独歩の体内では、悍ましい破壊の種が、ゆったりと首をもたげて内臓を喰らって成長を始めている。
鈍痛が四肢を麻痺させ、思考を遮って意識を彼方へ飛ばしている。とても立てない筈だ。
尊鷹は構えを解いた。
審判たちが割って入らないのも、勝利者コールが遅れているのも仕方ない。
何が起こったのか、彼らではわからない。
尊鷹は審判に声をかけた。
愚地独歩はもう立ち上がらない。
自分の勝ちをコールして欲しい──そう言おうとした。
微かな呼吸音が、尊鷹の言葉を遮った。
それは、愚地独歩のものだった。
尊鷹が顔を向けた。
愚地独歩は倒れたままだ。
倒れたまま、深く息を吸い、細く吐き出すリズムを刻んでいる。
どこか、聞き覚えのあるリズムであった。
愚地独歩が、ゆっくりと上体を起こした。
尻を持ち上げ、膝に手を当てて、ものぐさな態度で身体を立ち上げた。
バカな──?
尊鷹の眼が驚嘆に見開かれた。
愚地独歩が立ち上がったことにではない。
愚地独歩のやっていることに驚いていた。
独歩の呼吸に合わせて、その身体から、霧のような『気』が放散されていく。
それは、尊鷹が打ち込んだ『鬼』であった。
『鬼』が、愚地独歩の呼吸によって、体内から引き剥がされて、霧散しているのだ。
知っていた。
尊鷹は、独歩がやっていることを知っていた。
灘神影流──総身退毒印。
古流武術においては、『放華』とも呼ばれるワザであった。
4.
最後の『鬼』が、独歩のカラダから離れて行った。
独歩が呼吸を空手の呼吸──息吹に切り替えて整えている。
「残念だったな、尊鷹さんよ」
独歩が、太い笑みを浮かべた。
葛城無門が拳を握りしめていた。
流石は愚地先生──ッッ!!
父の技を、父の戦友が使って、危機を乗り越えた。
この事実に、無門の胸はときめいていた。
「復活しちまったぜ」
独歩が笑っていた。
尊鷹に向けて拳を出し、仕切り直しとばかりに構えをとった。
尊鷹は巌のように、表情を硬くしていた。
その心情を想像して、独歩はたまらなく楽しくなった。
白い歯を見せて、笑っている。
「お互い、小細工は通用しねえってこった」
トドメの口撃。
尊鷹の秘拳を、ワザと『小細工』と吐き捨てる──
兵法の基本は、相手の心理を怒りに傾倒させ、平常心を奪うことに始まる。
さあ、心を乱せ! 宮沢尊鷹ッッ!!
独歩はまた、一段と笑みを深めた。
あえて嘲笑の意を込める。
さあッ、向かってこいッッ!!
なんせ、アンタの動きときたら、早すぎてまともに相手をしてられねェ。
だから、とことん怒らせるぜ。
怒って、真っ直ぐ、単純な動きになったら、そこにめいいっぱいの愛をこめて、カウンターをぶち込んでやるさ。
二の撃は考えねえ。
一撃で
じゃねえと、
ずず、と独歩がその構えのまま、少しずつ距離を詰めていく。
攻撃を誘っている。
見るものにも、独歩の狙いがわかった。
尊鷹は──
尊鷹の攻撃は、蹴りだった。
右の、跳び回し蹴り。
なんの変哲もない、正面からの攻撃。
狙い澄ました通りだった。
そのはずだ。
しかし、独歩はカウンターを取らなかった。
闘技場を蹴って、大きくのけ反って、蹴りを躱した。
独歩の顔は呆然としていた。
反応に遅れて、頬の皮がぴりっと剥がれていた。
「尊鷹さん、アンタ──」
言い切る前に、尊鷹が飛びかかった。
今度ば、真っ直ぐな飛び蹴り。
独歩は回し受けを敢行した。
それは成功し、尊鷹の身体が時計回りの動きに従って、独歩の正面から大きく左に逸れた。
尊鷹の蹴りを流した独歩の左腕から、出血があった。
独歩が飛び退いて、体勢を整えた。
額から、粘ついた汗が滲んでいた。
受けられない。
受けた場所が破壊されている。
まるで、刃物の切れ味であった。
切れ味は抜群だが、しかし、重さは鉈のそれだ。
例えるなら、大太刀の切れ味をそのままに、斬馬刀の重さを備えている蹴りだ。
これは、単に蹴りが鋭くなっただけじゃない。
明確に、殺意が乗っている。
殺す『気』が蹴り足に乗った故の切れ味だ。
独歩は息を吐いた。
諦めのそれであった。
そうかい──
納得に眼を細めた。
そうかい。
そういうことかい。
アンタ、そういう人なのか。
噛み締めるように、頷くと、腕の血を拭った。
ワザとじゃない。
尊鷹は、ワザと殺そうとしているのではない。
これが、宮沢尊鷹の本気なのだ。
本気でワザを繰り出すと、自動的に殺意が乗って、相手を殺しかねない──
尊鷹に、相手を殺すつもりは毛頭ないだろう。
ただ、全力全開で、心の底から力を振り絞って、ワザにのせているだけだ。
ただ、そうすると、容易に人を殺せてしまうワザになっちまう。
ああ、こりゃあ難儀するわけだ。
本気なんか出せっこない。
だから、範馬勇一郎に執着してたのか。
じろりと、独歩が尊鷹を見た。
なんて眼をしているのだろうか。
喜びと、不安。
怒りと、悲しみ。
人間の、あるがままの感情が入り混じる虹色の瞳。
こいつを倒したい、と思うことが、そのまま相手を殺しかねない、隔絶した力を持つ故の濁りだ。
独歩は、尊鷹の眼を見つめ返した。
すると、ある感情が心から湧き上がって、たまらなくなった。
たまらなくなって、
たまらなくなって──
独歩は笑った。
嬉しいねェ。
宮沢尊鷹という隔絶した武人が。
全力を出す価値があると認めてくれたぜ。
この、愚地独歩をこそ、殺しても悔いはないと言ってくれている。
つまり、おいらに殺されても文句は言わねえと言ってくれているワケだ。
嬉しいねェ。
範馬勇一郎と五分にやりあった男が、この愚地独歩に武人としての価値を認めてくれている。
嬉しいねェ。
人に認められることなんざ、いつぶりだろうか。
使うか。
久しぶりに、使うか。
独歩は、己の裡に問いかけた。
男一匹、こうまで意気を示してくれたんだ。
誘いに乗らなきゃ男が廃るってもんだ。
だけどよ、こいつを使うってなりゃあ、あとでジッちゃんには謝んなきゃな。
地下闘技場じゃあ、ちょっと、行き過ぎてるからな。これは。
宮沢尊鷹対愚地独歩は、本気でやるなら、地下闘技場じゃあ手に余っちまう。
ゆうえんちか──闘人市場あたりなら、もっと思い切りやれるんだろうけどな。
──っと、
あぶねえ。
蹴りを受け損なうと、死ぬぜ。
しっかりしねえ愚地独歩。
気を抜けば、即、割れたスイカみてえになっちまうところだ。
よし、息も整えた。
身体も、心も、覚悟をキめたぜ。
尊鷹さん、アンタはラッキーだぜ。
なんせ、今からは、おれのフルコースだ。
普通のやつには絶対見せない、若気の至りを、久々に引っ張ってくるんだ。
楽しもうぜ、なあ──
5.
「見に行こう」
と言ったのは、本部以蔵であった。
加藤と、刃牙と、龍刃が振り向く。
見に行こう、と本部は繰り返した。
「こんなチャンスは滅多にない……」
本部の声には期待感がこもっていた。
心配と、期待。
これを見ずしてどうするか──という、子供っぽい純な感情が声に含んである。
「どういうことですか、本部さん」
刃牙が聞いた。
刃牙は、なんとなく、答えを予想している。
愚地独歩と、宮沢尊鷹の空気が変わったからだ。
見るに、重心が前のめりになっている。
超攻撃的な姿勢だ。
防御に手を回せなくなる代わりに、深く打撃を当てることができる姿勢に移っている。
愚地独歩の拳は言うまでもない。
そして、宮沢尊鷹の蹴りも、そういった類のものだ。
つまり、ふたりの構えが意味することは、ひとつしかない。
「見られるぜ……」
刃牙の思念を読み取ったのか、本部の口調がやや、うわずった。
背を向け、闘技場へ歩き出す。
背中を向けたまま、本部は言った。
「愚地流空手の怖さ……スポーツ空手と一線を画す、武術空手の本質が見られる……」
薄寒い本部の喜びであった。
ごく、と加藤は息を呑んだ。
6.
その男は『武神』と呼ばれていた。
空手の神と謳われていた。
地上最強を名乗っていた。
数々の伝説に彩られた、闘争の歴史を持っていた。
しかし、男が『武神』と呼ばれるようになったのは、武術者としては晩年に差し掛かろうともする、ここ一〇年ほど前のことだった。
若き頃、まだ伝説の只中にある時、男はこう呼ばれていた。
──『拳刃』
その拳は刃の如く。
血気盛んで、己を挑戦者に置いていた若き頃。
愚地独歩、灼熱の時代の字名であった。