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第一話:剛柔相打つ
0.
元アメリカ大統領シークレット・サービス(護衛長)ケビン・スチュワート、渋川剛気について語る
一九六X年の話だね。
私が、マスター渋川と立ち会ったのは。
あの当時、我が国の大統領が、日本に表敬訪問に来ていた時だよ。
当時、わたしが警護していた大統領はご存知かな?
──そう、その人だよ。悲劇の人。
人気絶頂期のパレードの最中に、頭を撃ち抜かれて死んだ男さ。
政治的な知識の乏しさを、バッチリ固めたメイクとスマートなジャケット。メリハリのあるトーク・テクニックで補って、瞬く間に国民の人気を掌握した、あの男だよ。
あの方はね、芸術が好きで、活劇が好きで、武術が好きだったんだ。
特に、日本のマーシャル・アーツを気に入っていた。
ある理由からね。
そうだね。
きみは、一九五X年の、日米武術交流試合を知っているかな?
そう、それだ。
『交流試合』とは名ばかりの、日本武術の存亡をかけた試合のことだ。
第二次世界大戦後、GHQが日本に民主主義教育を施す名目で行った政治政策──日本のマーシャル・アーツを廃絶せんと目論んで行われた、忌まわしき儀式のことだ。
当時、戦勝国であった
さっきも言ったけど、政治的な理由でね。
有名な話だが、マッカーサーはあの時、大統領の椅子を狙っていたんだよ。
敗戦国を植民地化せず奴隷化せず、それどころか人間的教育を施して、文明を発展させ、『アメリカに隷属している』という前提をそのままに、日本を国際社会の一翼を担うほどに発展させようとしていたんだ。
そうすることで、自身の寛容さと器量の大きさを国民に、国際社会にアピールすることが狙いだったんだよね。
もちろんソ連への牽制も兼ねていたよ。
日本の地理は、アメリカも、ソ連も欲しがる、ちょうどいい位置にあるからね。
日本って、本当にちょうどいい位置にあるんだよ。
もし、アメリカなりソ連なりが、ここに軍事基地を作れたら、そのまま西にも東にも核弾頭を撃ち込めるようになるんだ。
怖いでしょ?
そんなワケでさ、日本に道徳的指導を施し人道に沿った敗戦処理を行うことは、ポツダム宣言の前には決まっていたんだよ。
そのマッカーサーが、指導の手始めとして、日本人の軍隊精神──それを育む原因となっていた、体育的教育を撤廃しようとしていたんだ。
つまり、日本から空手、剣道、柔道、相撲と言った、武術全般を廃絶しようとしていたんだね。
GHQの主張は、「日本の残虐性の根幹には、武術教育がある」というものだった。
当然、これは日本側から猛反発があった。
日本人代議士のゲンナイ・ハモリと、マッカーサーお付きの日系人特別顧問の……ハセガワだかツルミだかという男が特に反発した。
内外からの猛抗議にあって、話をまとめるため、GHQは折半案を出した。
それが『日米武術交流試合』さ。
一九五X年、武道場で銃剣を携えた海兵隊のドイル中尉と、素手のユウマ・ナゴという日本人空手家が立ち合ったんだ。
信じられるかい?
銃剣を扱うプロの軍人に、素手で挑めと言われ、更にドイル中尉に怪我を負わせることなく制圧しろ──そういうルールを投げられて、ユウマ・ナゴというカラテマスターは承諾したんだ。
"日本の武道が真に優れているのなら、できるはずだ"。
そんなことを言われていたらしい。
結果を話すなら、それは叶ったよ。
ユウマ・ナゴは、ドイル中尉を直接傷つけることなく、銃剣を拳で破壊して勝ったそうだ。
全てを見届けたGHQ参謀第二支部長ケンプ少将は、ナゴの強さ、日本武道の深さにいたく感銘を受け、GHQ本部にはしばらく、その時ユウマ・ナゴの着ていた空手衣──血染めの正拳突きによって、日本国旗を模した柄になった──が飾ってあったそうなんだ。
前置きが長くなってしまったね。
とにかく、その話を大統領はいたく気に入っていたし、当時わたしも気になっていた。
わたしもナマイキ盛りだったものだから、訝しむ形でね。
“誇張された話だろう"。
そう思っていた。
“リップサービスに違いない"。
酒の席で、仲間たちとそんなことを言い合っていたよ。
銃剣を素手で破壊したってことは、拳で金属を捻じ曲げたってことだ。
わたしたちシークレット・サービスの中には海兵隊出身の者も多い、当然、銃器の扱いには慣れていたし、銃剣も扱ったことはある。
銃身の要たるバレルの頑丈さは誰もが知っていた。
素手で、両端から掴んでも、そうそう曲がりっこないものを、拳を打ちつけて曲げるなんてのは無理だと思っていたんだよ。
だから、それは、日本武道を贔屓していたケンプ少将のリップサービスだと思っていた。
だから、表敬訪問に際し、大統領はこう言ったんだ。
『この国でいちばんの武道家を呼んでくれ』
それを聞くと、日本の代議士は静かに頷き、ある男を呼んだ。
それが、合気柔術マスター渋川剛気だったんだ。
わたしが代表になって、渋川剛気と立ち合うことになった。
机や椅子が左右にどかされて、三メートル四方の広間ができた。
わたしと渋川剛気を見渡せる位置に、目を輝かせて大統領が座っていた。
わたしは驚いていたよ。
渋川剛気の、その小ささに。
わたしの身長は一九〇センチあるし、当時の体重は一一〇キロにも及んだ。
対して渋川剛気。
身長は一六〇センチもなく、体重に至ってはわたしの半分ほどだったろう。
体格差は、格闘においては優劣を明確にする絶対の要素だ。
おおよそ一〇キロも違えば勝負になるはずもない。
だというのに、渋川剛気は笑っていた。
静かに──笑っていたんだ。
そして、言った。
『パンチでも蹴りでも、なんでも使ってください』
とね。
わたしはため息が出た。
そんなことできるわけがない、そう思ったさ。
この体格差があれば、適当にタックルしてマウントを取れば、あとはどうにでもできる。
この体格差で、わたしが本気で渋川剛気の顔を殴りつけたなら、たちまち渋川剛気の頭蓋骨は砕け、殺してしまうだろう。
わたしはそう思ったんだ。
聞けば、渋川剛気は警視庁で武術指導を行なっている立場にあるという。
武術で身を立てているということだ。
そんな人間に、公衆の面前でハジをかかせるわけにもいかない。
テレビカメラも回っているし、大統領がいるのだ。ここでわたしが躊躇なく渋川の顔面を砕いてしまえば、疑われるのは渋川の弱さではなくわたしの品性になる。
だから、わたしは渋川の提案に適当に相槌をうって、その実、タックルをしかけマウントを取り、身動きを封して勝つことを決めた。
勝った後で、『隙を見つけるのがタイヘンだったよ』とでも答えてやれば、渋川の顔も立つだろうと思っていた。
向かい合った。
開始の合図と同時に、わたしは渋川にタックルを仕掛けた。
渋川の胸の位置に頭をぶつけて、腰に手を回した。
その瞬間、信じられないことが起こった。
動かなかったんだ。
渋川剛気が。
渋川剛気が、突然、地中に杭打たれた鉄筋のように硬くなり、わたしが押してもびくともしなくなった。
さあっ、と冷や汗が流れたよ。
わたしは懸命に足を前に出したが、それは、床の上をずるずると滑るだけに終わった。
渋川剛気は、笑っていたよ。
さっきまでとは違う笑みだった。
怖い顔だったなあ……あれは。
狂気が張り付いていて、背筋に冷たいものが昇ってきた。
わたしの肩に、渋川が手を置いた。
枯れた枝のような腕だ。
よく引き締まってはいるが、やはり、筋量という意味なら、わたしの半分もなさそうな腕だった。
その腕に、ぐ、と力がこもった。
途端に──わたしは床に突っ伏したよ。
そのままの姿勢で、こけるように、倒れた。
ぐぐっと、渋川剛気が、そのまま肩から背中に手を回して、わたしは完全に動けなくなった。
まるで、巨岩に潰されている心地だったよ。
肺が圧迫されているのか、息ができなかった。
見かねたのだろうか、すぐさま『やめ』の合図が入った。
渋川が手を離すと、わたしの身体に被さっていた巨岩は、たちまちのうちに消えて、わたしは仰向けになって尻をつき、渋川を見上げていた。
にっこりと、渋川剛気は笑っていたよ。
『ありがとうございました』って、柔和な声で言った。
後のインタビューで、わたしはつい、『あの日は朝食を食べ損ねていたんだ』と答えてしまったが、渋川剛気はそれを非難しなかったし、大統領から何かを問い詰められることもなかった。
あの時は、殴っておけば良かったと思っていたけど、今は、殴らなくて良かった──心からそう思う。
あの時、もしわたしが殴りかかっていたら、渋川はきっと、もっとおぞましくてエゲツない返し技を使っていただろう。
その後、渋川流合気柔術というものを自分なりに調べて、ある言葉に、わたしは腑に落ちた。
──渋川流柔術に、筋力では対抗できない。
わたしは信じるしかなかったよ。
あの、魔法のようなワザを。
なにせ、この身で味わっているからね。
あのワザを、力で破れる存在はいないだろう。
──え?
『アンチェイン』なら、どうだって?
あんた、ミスター・オリバを知っているのかい?
アメリカナンバーワンの、あの男を!?
アンチェインなら、かァ〜ッッ。
アンチェインvs渋川剛気かァ〜ッッ。
悩むなあ、それは。
あれは、あの男は、道理の外側にいる人間だからね。
もしかしたら、あの男なら、渋川の魔法ぐらい、筋肉でハネ返しちゃうかもね。
──えっ?
実際、ヤってるの?
あのふたり。
冗談でしょ?
1.
渋川剛気はすっ、と腰を上げた。
心は平静にあった。
和やかでさえある。
ここまでの試合──その全てが、既存の格闘大会の規格を根底から覆すものばかりだ。
だが、渋川剛気は落ち着いていた。
いつも通り──その立ち姿は堂に入っている。
闘技場に向かう渋川の前に、ふたりの男が立っていた。
ふたりとも、頭を気持ちかがめていて、両の拳を左右に広げている。
本部以蔵と、花田純一である。
「渋川老、お供させていただきますッ」
本部が言うと、敬虔な態度でふたりは頭を下げた。
無論、本部の意識は、渋川の一挙手一投足を覗いている。
カカ、と渋川は笑った。
「いやァ〜……これはこれは……」
ぺこりと、渋川も頭を下げた。
気持ち程度の角度であった。
渋川の意識は、一分の隙もなく、本部と花田の一挙手一投足を注視している。
渋川には見えずとも、俯いた本部の顔が、不敵に歪んでいるのが手に取るようだった。
渋川は、本部と花田に前を歩かせて、闘技場に向かっていった。
2.
ビスケット・オリバは着替えていた。
黒のビキニパンツに、一〇Lサイズの無地の白いTシャツを着ているだけであった。
ただ、人が着替えるという光景に──控室の視線が釘付けになっていた。
ビスケット・オリバの上半身が顕になった瞬間、息を呑む音がそこかしこから聞こえた。
なんだ、この肉は!?
ビスケット・オリバの身長は、一九〇センチに届かない程度だ。
普通人よりは大きいが、格闘士としては大柄ではない。
だが、異常極まる筋肉の量が、その身体から測量される数値の、何倍もの圧力を生み出している。
無造作に曲げた腕の太さ──それが、女性のウエストどころではない。
肩周りの形が、隆起した筋肉によって綺麗な球形になっている。
だというのに、腰のくびれはグラビア・アイドルもかくやという角度を保っている。
「……な……ッッ」
なんだいこりゃあ。
そう言いかけて、加藤は口をつぐんだ。
人間の形ではない。
人間の筋肉は、ただ鍛えたからって、こんな大きさと形になるワケがない。
「刃牙……おめぇ、どう見るよ……」
「どう見る、っていうか……どう
流石の刃牙も、言葉に驚嘆を隠しきれていない。
ビスケット・オリバ。
『世界最自由の男』。
父──範馬勇次郎に匹敵する男として、恐れられているという。
あの勇次郎が、オリバの言葉には自身の意を飲み込んでみせた。
その『格』が、勇次郎に比肩するのは
その強さが、勇次郎に近い域にあることも、今、よく
あの筋肉はハッタリじゃない。
そして、ビスケット・オリバが戦う相手が
渋川剛気──
合気柔術の達人である。
合気とは、相手の力を無力化させつつ、自分の力を乗せて相手を倒す技術のことだ。
そのためか、武術のテーマとなるべきものが、徹底した『対力』なのである。
極まった合気柔術には、力では対抗できない。
渋川流合気柔術もまた、このテーマを掲げている。
(というより、その筆頭である)。
つまり、これは極端なまでに『力vs技』の戦いとなるのであり、その対立は刃牙にとって、いずれきたる対範馬勇次郎を考えるならば、参考にならないはずがない。
極限の力に、究極の技は対抗できるのか──?
「オリバ」
オリバの背後から声をかけたのは、獅子尾龍刃であった。
オリバが龍刃の顔を見る。
身体を正面を合わせた。
こうして並んでみると、獅子尾龍刃の肉体ですらがやや細めに見えてしまう。
「渋川さんのことは知ってるかい?」
ふふん、とオリバは鼻を鳴らした。
もちろん、とすまし顔で言った。
「渋川さんは、
言葉が含む意図が、多い。
そのいくつかを受け取ったのか、オリバはくく、と微笑した。
「ならば、この戦いは──わたしが胸を借りることになるかな?」
「……まあ、相性は五分五分だと思うけど、オリバが負けたらマリアさんに伝えておかなきゃいけねえからよ」
「オイオイオイオイ! それはないだろう」
はははと笑い合う。
これから戦いに赴くにしては、和気藹々とした雰囲気であった。
す、と龍刃がオリバの眼を見た。
「つえぇぜ、渋川さんは」
オリバは、顎を持ち上げて、口角を広げた。
太い笑みが張り付いている。
振り返った。
「ならば、わたしが勝った暁には、マリアに『やはり、きみのダーリンは世界一だ!』と伝えてくれたまえ」
オリバはゆったりと歩き出した。
全身の筋肉に血流がめぐり、閉じ込めきれない熱が、静かに、放たれていた。
3.
オリバは足を止めた。
闘技場の入り口のすぐ手前だ。
もう、闘技馬の光量が通路に入り込み、歓声が通路に乱反射して、空気が絶え間なく揺れているのを感じる距離である。
範馬勇次郎が、そこに立っていた。
「オーガ」
範馬勇次郎は笑みを浮かべている。
不敵で、大胆で、喜色に歪んだ鬼神の笑み。
普通人ならまず眼を背ける迫力に、臆すことなくオリバは言葉を投げる。
「応援してくれるのか、きみが? ハハ……ナルホド。つまり、センセイ渋川とは
ニィ、と勇次郎が唇を割った。
白い歯が、唇の下から盛り上がっている。
「武術とは──本来力なき弱者、女子供が身を守る術として生まれ、発展してきた」
首をもたげる勇次郎は、言葉にせずそう伝えた。
「楽しみだぜ……丹念に積み上げた『武』が、ビスケット・オリバの『力』によって、崩れ去るシーンがよ」
──いってこいッッ!!!
勇次郎がオリバの背を叩いた。
そこに痛みと、いちまつの喜びを感じながら、オリバは光の中に歩み出した。
4.
まるで、大人と子供……ではない。
本当に、大人と子供ッッ!!
『体重無差別』と言う『大差別』ッッ!!
一見して──などするまでもないッッ!!
ワカリやすいほどワカリやすいッッ!!
『武』vs『力』ッッ!!
剛良く柔を断つのかッッ!?
柔よく剛を制すのかッッ!?
ここにッ、この大会を象徴する──あるいはッッ、武と力を象徴する対立がなったのですッッ!!!
アナウンスの一言一句に足踏みが連なる。
会場が否応なく盛り上がっていた。
観客のテンションがブチ上がっている。
アナウンスの一言一句に同意しかない。
なんというワカリやすい対比であろうか。
ビスケット・オリバ──身長一八〇cm強ッ! 体重一六〇kg強ッッ!!
渋川剛気──身長一五五cmッッ、体重四七kgッッ!!
見た目の素質、肉の持つ才能が違いすぎる。シロウトにだってワカる圧倒的戦力差である。
しかし、小さい方は、誰を隠そう渋川剛気であるッッ!!
渋川流合気柔術。
数々の逸話に彩られた、濃密な武を歩んでいる。
もはや荒唐無稽なほどの──装飾過多なほどの伝説を備えている。
本部以蔵は、渋川剛気の勝ちを確信しているだろう。
その伝説の一端を知る、愚地独歩すらもが渋川の有利を感じている。
それを知らぬものにすら、渋川剛気の『只者ではない感』はとてつもなかった。
Tシャツを脱ぎ、ビキニパンツのみになったビスケット・オリバ──つまりは、超絶の筋肉の要塞を前に、渋川の浮かべる表情は柔らかさを多分に孕んだ微笑なのである。
「センセイ渋川」
オリバが言った。
ン〜? と渋川が唇を濡らした。
「アナタは、日本武道における重鎮と聞いています」
「……イヤイヤイヤ。あんたねえ、それは周りが勝手に言ってるだけでしてねえ……イヤハヤ」
「なんでも、渋川流柔術には筋力では対抗できないとか──」
「……」
にぃ、と白い歯を見せて、オリバが笑った。
太い、笑みであった。
腕を曲げて、力こぶを作ってみせた。
それだけで、渋川の顔の大きさほどもある肉の塊ができていた。
「遠慮なく確かめさせてもらいマス」
渋川の表情が、微笑から、大きな笑顔に変わっていった。
花が開くように、声もなく、渋川は笑っていた。
が、眼が笑っていない。
見るものが見れば、ゾクリとする顔であった。
試合が始まった。
オリバが無造作に近寄って、力こぶを作って、大ぶりのパンチを放った。
右のストレートである。
スピードはないが、恐ろしいパワーが込められていた。
それが、渋川の顔面に当たる瞬間、渋川から弾かれるようにオリバは飛んでいた。
磁石の同極がぶつかり合ったように、恐ろしい勢いで闘技場の柵に、肩から突っ込んでいた。