1.
「ビューティフル……」
ゆっくりと立ち上がり、渋川を正面に見据えて、オリバはつぶやいた。
一見してダメージのない振る舞いであったが、オリバの肉体の奥の奥には、未だ味わったことのない衝撃が疼いている。
打ち付けられた尻が、背中が、手足が、つん……と痺れていた。
力を込めてパンチを打った。
渋川の顔面を破壊するのに──人間の頭蓋骨を歪め、脳を揺さぶるのに充分な力を込めた。
あえて、少し大ぶりにふった。
合気を味わって見るためだ。
『理合』という概念を、オリバは疑っていた。
それは、開放すればそのまま図書館を開けそうなほどの蔵書を持ち、さまざまなジャンルの本の、その全てを時間の許す限り読破しているオリバだからこその疑いであった。
この世の中は、物質でできている。
時間と空間があり、原子が重力によって結びついて存在することで、個々の物質は成り立っている。
これは、この世の絶対法則である。
かの範馬勇次郎とて、その筋骨がいかに優れた強度と瞬発力を有していようと、その肉体を構成するものは分子に他ならない。
とりわけ、人間は七割近くが水分でできていて、より細かい物質に分けるならタンパク質とカルシウム、アミノ酸などが複雑に機能しあってひっつき合って構成されているのだ。
格闘──とは、すなわち、相手の肉体を構成している物質を、力によって
物体は、圧力を加えれば形が歪む。
圧力が増せば増すほど、歪みは強く細胞に刻まれる。
それを繰り返すと、強い歪みは次第に体内に累積していき、それが肉体の許容量を超えた時、人は、格闘士として『壊れる』のである。
強い力が勝つ──子供にも
そこに、
精神力や気合い。即ち心が生む力が存在することは認めるが、それだけではフィジカル差という現実には勝てない。
気合いや根性だけでは、闘争に勝つほどの力は発揮できない。その理屈は一〇〇キロのバーベルを上げられない者が、「さあ行くぞ」と歯を食いしばって力を込めたところで、一五〇キロのバーベルを上げられないことと同じことである。
ミステリアス・パワーがないからこそ、人類の闘争は今日まで物理と医学に基づく論理を積み重ね、飛躍的な発展を遂げたのである。
人は、まだ猿に近い時代に、より効率的に敵を破壊する術として石を持って投げ合った。
棒を持ち、それで敵を叩くことを覚えた。
それはやがて鉄棒となり、剣や槍と持ち変わる。
投げ石は弓となり、火薬瓶となり、果ては銃となり──行き着いた果てがミサイルである。
闘争の道とは、即ち道理の道である。
より効率的で、よりパワフルで、よりスピーディに成る道理を探求する道のことだ。
科学も、
医学も、
国語も、
算数も、
社会も、
音楽も、
道徳さえもがそのための道具なのだ。
そして、武の根幹である闘争の進化が道理をベースにする以上、それが導き出す方論と現実は、物理法則に敷かれたレールから外れることは、決してできない。
規格の定められた拳銃から放たれる銃弾の初速が、超音速にはならないように──
刀剣を用いた斬撃が刻むものが、基本的に刀身の範囲を超えないように──
全ては『そう在る』が故に、『そう為る』ものだ。
渋川剛気の体躯、質量では、このパンチは受け止められない。
物理法則に則るなら、そうだ。
だが、合気柔術は違うらしい。
だから、わざと、捌きやすいパンチにした。
目の前にして、オリバにはやはり、疑問があった。
渋川剛気──
この、女子供ほどの体躯の老人に、いったいどういう強さがあるのか?
強烈な強さ自体は感じていた。
オリバとて、強者を嗅ぎ分ける能力は超一流のそれである。
とりわけ、凶悪さを見抜く嗅覚には自信があった。
オリバの日常は、凶悪犯罪の本場たるアメリカで、幾人もの犯罪者を打ちのめすこととイコールで繋がっている。当然、その中には武術を嗜むものは多く、オリンピッククラスの身体能力を持つものだって珍しくは無い。
頼まれれば戦地に赴くこともやっている。
命を秤にかけ、目の前に互いの臓腑を並べ、それを奪い合うような
だから、彼我の戦力差を嗅ぎ取る能力は逞しく育っている自負もある。
──だからこそ、困惑している。
目の前の老人はそうじゃないらしいと肉体が言っている。
が、知識がそれと意見の衝突を起こしている。
その解法を求めるためにも、自らの肉体を差し出したのだ。
一瞬のやりとりで、オリバの知識は、実感する痛みと驚嘆とでせめぎ合い、敗北する。
強い──
これほどまでに、見た目と実情の戦闘力がかけ離れた男はみたことがない。
予想ができない。
何が、渋川の強さなのか。
今まで出会った、どのファイターとも違うタイプ──
振り抜く寸前、思考に割り込むように痺れがあった。
投げられた。
というより、弾き飛ばされた。
軽々と。
一六〇kgに迫ろうとする肉体が、まるで動かない壁にぶつかって跳ね返るバスケットボールのように弾けた。
尻から落ちた。
だが、痺れているのは尻だけではなく、全身であった。
摩訶不思議な力だった。
そうとしか言えない。
味わってなお、不可解であった。
知識が敗北してなお、肉体が疑問符を投げている。
「ミステリアスな体験だ……」
オリバは崩れた柵から悠々と背を放し、歩を進めた。
艶やかに唇を濡らして、好奇と感嘆の微笑が張り付いている。
再び、渋川の前に立った。
全身の筋肉が、先ほどより張り詰めている。
その緊張の仕方から、オリバが興奮しているのが渋川にはわかった。
ダメージは、ない。
カカ……と渋川が笑った。
声は、眼は、全く笑っていなかった。
「降参するかい、
からかうように、渋川は言った。
先ほどの弱々しく腰の曲がった態度はどこへ行ったのか。
言葉は瑞々しく弾み、肌のハリすらも若返っているではないか。
オリバが、ぐりっと眼を丸くした。
それからゆっくりと、空気ねじ曲げるように、自信満々に、オリバを纏う気が一気に鋭さを帯びて渋川へと向けられた。
渋川は、へッ、と笑った。
直後──右のストレート。
なんの変哲もないパンチだ。
だが、虚をついたつもりだ。
ビスケット・オリバらしいおっきくて太さのある拳が、唸りを上げて、渋川の目前で止まった。
オリバの膝が笑っていた。
腰が砕けていた。
背骨が歪んで、重力が行方不明になっている。
大口を開けて、身を捻りながら、驚愕の表情でオリバは頭をうずくめた。
足だった。
自身の、左足の親指へと伸びる甲の部分、親指と人差し指の付け根の間だろうか。そこに、渋川のくの字に曲げられた左の親指が乗っかっていた。
力を込めて踏まれている。
跳ね除けられない。
オリバは全身が痺れて動けなかった。
強烈な痛みが、身体の芯を撫で回していた。
止められた──
跳ね返せないッッ!?
わたしの力が抜けて──?
たったの指一本で──ッッ!?
眼前でゆるゆると揺らぐ、自身の顔ほどもある握り拳を、渋川は落ち着いた手捌きでたやすく払い除けた。
左手で、内から外に捌く防御動作だ。
それ自体は、空手などでもよく使う基本的なものである。
だが、扱っているのは渋川剛気であった。
オリバの右手首に渋川の左手が触れた途端、渋川は足の指を離した。
時間が動き出したかのように、パワフルな拳が力を取り戻し、空を切った。
ほぼ同時に、渋川が捌きに使っていた手を自らに引き寄せた。オリバの手首がそれに追従する。
オリバの重心はすっかり巻き取られてしまっていた。
左足がつんのめって、大袈裟に持ち上がった。
右肩が大きく落ちて、虚空に向かって縦に開脚し、地面とオリバの身体が、渋川を中心点にして円を描くように跳ねている。
重心は果たしてどこに行ったのか。
膝が伸び切って、力が入っていないことはわかる。
「チョイなッ!!」
空中で、渋川はすばやく入れ替えた右手をオリバの側頭部に添えた。
一歩、大きく前に踏み出す。
オリバの体躯が翻った。
渋川の手の中で、オリバの後頭部と地面とが、水平垂直の位置になった。
そのまま、オリバの顔を、渋川は地面に叩き落とした。
後頭部への一撃である。
受け身など取る暇もなかった。
さしものオリバも意識が混濁した。
刹那──揺らぎに揺らぐ眼前に、鋭いものが飛び上がった。
渋川剛気だった。
飛び上がったその足が、刀のしなりを帯びて、袴をはためかせていた。
「ダメ押しイィィッッ!!!」
渋川は悪魔的な表情を作りながら、それを、そのまま、なんの躊躇もなく、オリバの喉仏に向かって突き下ろした。
ザクッ、と音がして、オリバの身体が跳ねた。
尻から脚までがびくんと持ち上がって、しばらく緊張に震えてから、やがて固まり──力なく、地面に伸びた。
2.
「たまらねェなあ、渋川さんの武は」
獅子尾龍刃が言った。
まいったまいったと頭を掻きながら。
加藤清澄は、唖然とモニターを見つめていた。
目前の光景が、トリック・ショーかなにかに思えていた。
常日頃から殴りあいの世界に身を窶す加藤にとって、渋川のやっていることは不可解極まりない。
あれだけの質量差があって、筋力に乏しい方が豊かな方を、軽々と投げとばすことは、加藤の知る限り不可能であった。
しかし、渋川の表情を見てみよ。
まるで涼しい顔をしている。
それが、当たり前であるかのように。
二発のパンチに対する渋川の動きは、力がいくらかも込めていないように見えた。
つまり、加藤には、オリバが勝手に、渋川の動きに合わせて大袈裟に跳んでいるように見えたのである。
息を合わせたように。
「間違っちゃいねえさ」
疑念を口にすると、獅子尾龍刃は感心に音を鳴らした。
どういうことか──
加藤は今少し踏み込んだ。
龍刃はうほん、と咳き込んだ。
恥ずかしながら……とでも言うような、わざとらしいものだった。
合気柔術。
つまりは、相手の力を無力化して、自身の力をプラスした上で返す技だ。
加えられる攻撃力が大きくなればなるほど、相手に返す力は比例して大きくなる。
つまり、オリバがあれほど高々と飛んだのは、オリバ自身の馬力が規格外だからに他ならない。
「む、無敵じゃねェか……」
そうさ、と龍刃は応えた。
「合気の術理を完全に使いこなせれば、
そうなのである。
理論値を極めればこそ、合気柔術は最強──というより、無敵の武術である。
しかし、それを極めることは不可能に近い。
合気の投げや極めは、人間の生態機能を逆手にとって行われる。
理論的には普通の関節技や投げ技とあまり変わらないのである。
関節は逆に曲がらない、
重心が傾けば崩せる、
神経を突かれれば反射運動が起きる。
それを、主に体移動(体捌き、運足)と手技で、呼吸を読みながら行うのが合気柔術である。
ここからは筆者の考察であるが、『体移動』そのものを攻防に組み込むことにこそ、合気柔術の開祖、武田惣角の理念が反映されていると思っている。
武田惣角は身長一五〇センチメートルという小柄であった。
幼い頃から相撲や柔術をはじめ、武器術を含む武芸百般を仕込まれた惣角の性格は、己の人生を武のために費やすことを自然と決意する。
人と歩くときは決して前を歩かず、どんなに親しい間柄であっても会うとなれば油断せず、出された飲食には決して手をつけなかった。
それほどまでに人生を──つまりは日常を武としていた惣角のシミュレーションには、常に『対多人数』があったことだろう。
しかも、相手は武器を持っていて、不意打ちをしてくるという明らかなる不利想定が。
当作でも何度も書いたことではあるが、多人数を相手取る場合、最も重要なものは速度である。
それは逃げ足の速さはもちろんのこと、相手をひとりひとり、一手の手間で片付けては次に移る速度のことだ。
第一部で獅子尾龍刃がベトナム戦争にて打撃を主体にしていた理由がそうであるように、柔術で相手を倒すとなれば投げと極めが肝要となる。
このうち投げはともかくとして、極めは時間がかかる。
多人数を想定するならば、ひとりに向かって極め技を仕掛ける隙に、背後から打たれてしまう。
寝技などしたならば、寝転がる真上から顔に向かって、踵を落とされるだろう。
つまり、体移動を行ってから技をかけるのでは間に合わない。
ならば──体移動で相手を投げれば良いではないか。
惣角はこのように思ったのではないだろうか。
体移動や体捌きが、防御動作だけではなく、相手への攻撃となる。体移動で必殺の投げを出せるなら、理論上は相手の攻撃を躱し、つんと突くなりぶつかって行くだけでいい。
実際、筆者は塩田剛三の合気柔術のビデオを拝見した際に、塩田が相手から逃げるように走り、唐突に振り返って顔や肩をこづくだけで、追っていた男たちを次々に転がすシーンがあるのを覚えている。
特別な力を発揮するために、大きな動きから始まり、次第に日常で扱うような小さな動きで特別な力を発揮することができるようにする、というのは、羽柴彦六の発勁を練り上げるシーンにも通ずる概念である。
普通の動きで、特別な力を発揮する。
日常これことごとく武と謳うなら、これ以上の拳境もないだろう。
そして、渋川剛気は天才であった。
龍刃は残念なことに、と言葉を詰めた。
「渋川さんは、その
頭をガシガシと掻きながら、龍刃は言った。
斜め隣で、刃牙が顔を傾かせて、目を半分閉じて、ふうと深い息を吐いた。
複雑な胸中がその動作に現れている。
「じゃあ、勝負はキマってるってことかよ?」
加藤の言葉に、ふふ……と龍刃は言った。
太い微笑が、その顔に現れていた。
「いやァ、ところがどっこい。おれの見立てじゃ、渋川さんとオリバは
「──はァ? な、なンだよ。完璧な合気は無敵ってさっき言ったクセによ。またワケのわからねェこと言いやがって……」
加藤の悪態を、龍刃は微笑ましく笑って一瞥した。
3.
闘技場では睨み合いが起こっていた。
オリバが背筋を伸ばし、顔を逸せて渋川を見下ろしている。
だが、それだけであった。
動かない。
否、うごけないのか?
観客がざわつき始めた。
あるいは、オリバへの失意もあった。
範馬勇次郎に匹敵する男という前評判からの落差。
渋川を讃える声よりも、渋川の擬態を見抜き切らぬものからのオリバへの嘲笑が滲み始めている。
それを肌で感じながら、
わかってねェな、こいつら。
と、男は思っていた。
渋川剛気の擬態を、的確に見抜いていた。
いや、正確には、自身の慧眼のみで見抜いたわけではない。
隣に座る男が、菓子を取る手を止めてまで、闘技場に意識を向けていたからである。
「すごいな」
朴訥な声の中に、混じりっ気のない賞賛があった。
彼にはオリバへの嘲笑も失意もなく、渋川の技量への過剰な賛美もなく、試合場で行われる武のやりとりに対し、淡々とした喜楽の情が浮かんでいるだけである。
「
「……アンタが、素直に褒めるレベルなんですか?」
「うん。見てわからないのか?」
「…………」
「冗談だ、そう怒るな。そうだな……合気は比較的新しい術理だが、私も『理合』の応用であの程度はできると思う。……だからこそ言えるが、合気の『理合』をあのレベルで極めた者なら、
「技さえかけられれば……ね」
ナチュラルな上から目線であるが、紛れもなく賞賛の言葉であった。この男が言うならば真実なのだろう。
男にとってはビスケット・オリバこそ脅威の対象であり、この試合においても彼の勝ちを確信していたのだが、この男が言い切るならば、どうやらこの試合、一筋縄ではいくまい。
「この試合、いいじゃないか。興味が湧いてきたぞ。……と言うわけで
「いやっ、そこは『瞬きせずに見逃すなよ』とかじゃねえのかよ!!?」
「?
「ち、っくしょうが!! 金はアンタもちだからな!!」
「あ、ビールも頼むよ」
「ふざけんなよボケが!!」
4.
ビスケット・オリバがにい、と笑った。
分析が終わったのである。
「ナルホド」
揚々とした口調であった。
渋川は変わらず
「わたしのチカラを、そのままわたしへの攻撃に利用している──いや、利用されるようにわたしが
渋川は答えない。
しかし、オリバはそれこそを是と受け取った。
「確かにこれならば、単なる力自慢では手も足もでないだろう。警察の逮捕術の指導にあたるのも当然だ、納得いったよ」
まだ、理解はできていないがね、と言葉を足す。
渋川は動かない。
渋川にとっては、動く必要がない。
オリバの力を跳ね返すのが主武器の都合、オリバからの攻撃を待つのは道理である。
このままいくら時が過ぎても、ただイタズラに消費するだけなのは明白だ。百戦錬磨の武の達人たる渋川は決して隙を晒さない。
それが
オリバが言った。
「センセイ渋川に、質問〜ッ!!」
ン〜? と渋川は唸った。
にこりと、オリバが口を開く。
「その合気で、真球を倒すことはできるかな?」
渋川は微かに目を広げた。
驚きが挿している。
ゆっくりと、オリバを見下げるように、顔をのけぞらせた。
「オモシロい質問だねェ……考えたこともねェ……が。まァ、できねェって言われたら、ヤりたくなっちまうとは思うぜ」
渋川の答えを聞いて、オリバが満面の笑みを浮かべた。
いっそ不気味なほどに、嬉々とした顔であった。
「じゃあ、やってみてくださいヨ!」
途端に──オリバは小さくなった。
途端に──オリバのカタチが
目の前に現れたトランス・フォームに、さしもの渋川も戸惑いを見せてたじろいだ。
なんだい、こりゃあ……?
オリバが、丸くなっていた。
あぐらをかき、背を丸めて、顔を沈ませ、肩を縮めて、腕を顔の前に立てて並べて、沈黙した。
肉の要塞──そう形容するべき存在へと、オリバは変態した。
その筋肉が作り出すシルエットが、真球のカタチであった。
5.
控室。
モニターの前で困惑を浮かべる加藤や刃牙を尻目に、獅子尾龍刃が深い笑みを作っていた。