0.
渋川剛気は困惑していた。
目の前の光景に。
いつもと変わらぬ通り道に、突然姿を現した異形──
どこまでも広がる、とりどりの花が咲き乱れる大草原に、目を丸くした。
それは、突如として現れた。
最大トーナメントの当日。
早朝、まだ日の伸び切らぬ時間である。
渋川はいつものように、布団から身を起こした。
いつものように、顔を洗った。
いつものように、軽く稽古をした。
いつものように、服を着替えた。
いつものように、朝食を済ませた。
いつものように、下駄を履いた。
いつものように、外に出た。
いつものように──……
渋川の日常は、何ひとつ変わらぬ佇まいで、時間を押し流す。
行住坐臥、全てが武であらんとする渋川の日常に、非日常との境界線はない。
今ここで、そこの曲がり角から、ナイフを持った暴漢が飛び出てくるとしても、渋川剛気は華麗に身を翻して撃退せしめるだろう。
もし、次の瞬間、暴走したトラックが背後から突っ込んできたとしても、渋川剛気はぬらり、ひょんと身を翻して躱して見せるだろう。
あらゆる危機に、即座に対応してのける。
それこそが武であり、それこそが護身。
渋川剛気に言わせてみれば、朝の目覚めから夜眠るまで、これは全て武の一部でなければならない。
あらゆる危機が突如として訪れること──あるいは、それをいちばん望んでいるのは渋川自身である。
武を試せるからだ。
自身の武が、果たして今、どの段階にあるのかを見失って久しい。
渋川の最近のマイブームは、
といっても、当たるものは車や自転車ではない。
人である。
深夜の歌舞伎町を練り歩き、いかにもヤバそうな雰囲気の男たちに、身体をぶつけに行くのだ。
あそこにいる連中は、イキがいいのが多い。相手が老人だからといって、オトシマエをつけることに躊躇がない。
だから、わざと喧嘩を売る。
素手で二.三人も転がして、敵わないと知るや、あいつらはナイフだって出してくる。
とてもいい。
ナイフを出しちゃあ、こっちの正当防衛が成立する。
思う存分叩きのめしたら、迷わず逃走だ。
いつか、捕まっちまうぜ、こんなの……
そういう想いがあるが、やめられない。
武を試したいからだ。
武を試したい。
日に日に、その想いは強くなる。
渋川剛気の──合気の限界を知りたかった。
限界を知れば、それは目標になる。
徳川光成から、最大トーナメントの誘いがあったのは、その想いが煮詰まりかけていた時であった。
ちょうどいい。
渋川は二つ返事で参加を決意した。
そして、今──
渋川の眼前に広がるものは、花畑であった。
草原であった。
春の陽気──お天道様すら頭上に見えている。
頬を撫でる風の柔らかさ。
花々の匂いまで感じ取れる。
アスファルトから地続きに──まるで異世界が顕現しているようだ。
渋川の眼が、ぐりっと見開かれた。
なんだこれは。
ワシは今、何を見とるんだ?
疑念を抱えたまま、渋川は歩き出す。
花々を掻き分けて歩いていく。
まるで危害のない世界。
敵意もなく、殺意もない、あたたかな世界であった。
おれに、何が起こるというのだ。
予感であった。
これは、予兆だ。
最大トーナメント。
そこで、何かが起こる。
渋川は、にたり……と笑った。
おもしろい。
そう思った。
東京ドームの形が見えてきていた。
花畑を通り過ぎると、朗らかな香りは名残惜しそうに、背後へと流れていく。
渋川は童のように笑っていた。
ワクワクが止まらなかった。
1.
球体と化したオリバを前に、渋川は一筋、冷や汗を垂らした。
完全なる
座り込む姿勢と、隆起した筋肉のシルエットが描き出す真球。
どうする?
どうなるッッ!?
さしもの渋川剛気もたじろいでいた。
たじろぎながら、分析を始める。
防御姿勢だ。
まず間違いない。
この姿勢。
腕も足も折りたたみ、頭すら埋めさせた姿勢から、自発的な攻撃は考えられない。
なるほどそれ自体は理にかなっている。
合気柔術は後の先が基本だ。
相手の気に合わせることが合気なのだから。
そこでこの姿勢──つまり、この渋川から仕掛けることを誘っている構えである。
崩せるか?
渋川は自問する。
力の流れがない。
二足歩行で、両の手を持って構える相手にある、雑多な力の流れが見えない。
全てが点だ。
一点集中。
完璧だ。
力が留まっている。
全く乱れのない力の塊。
つまり、合気で崩す隙がない。
分析を終えて、渋川はフッ、と息を吐いた。
舐められたもんだぜ。
そうつぶやいた。
オリバを中心に、円を描くように歩き出した。
「ナルホド。自ら攻撃しなければ、加害を加えなければ、合気は無意味だと──」
さくりさくりと渋川は歩を進める。
観客たちの視線が、渋川の歩みに巻き取られるように集中していった。
「加害の意思がなければ争いは起こることもなく、誰も傷つくこともない──それは確かなこと」
ぴたりと、止まった。
オリバの、ちょうど真反対に。
丸まったオリバの背に向かって、渋川は語りかけた。
「じゃがのォ……これは試合じゃ」
さくり、と渋川が重心を傾ける。
試合とは──
渋川は言う。
試合とは、優劣を決めるために存在するもの。
「若すぎるッッ!!」
渋川が駆けた。
手が、一本拳に握られている。
狙いは、オリバの脊髄。
背骨の周辺は神経が集中している上に、筋肉が比較的つかない場所だ。
いい狙いであった。
ごちゃっ、と渋川の突きが、オリバの急所をえぐった。
と──しかし、弾き飛ばされたのは、渋川であった。
「──ッッ!?」
盛り上がった。
突いた部分の肉が。
筋肉が集まって膨らんだ。
それに、弾き返された。
なんちゅう……!?
渋川が驚嘆に喉を鳴らした時、手持ち無沙汰となっていた右手が、掴まれていた。
オリバの左手に。
合気──ッッ
しかし、流れがなかった。
オリバの本体は、依然として真球のままである。
崩せる力が、隙が、ないッッ!!
渋川がそう判断した刹那。
自らを覆う影に気づいた。
口が開いていた。
渋川の眼が大きく見開かれていた。
それは隙だった。
瞬きの間に、渋川の景色が闇に包まれていた。
2.
闘技場が静寂に包まれた。
闘技場の中央に、丸くなったビスケット・オリバが鎮座している。
その中に、渋川剛気がすっぽりと飲み込まれてしまっていた。
どッッ!
「どーいう攻撃だよッッ!?」
加藤清澄が困惑を吐いた。
範馬刃牙や、宮沢熹一ですらが唖然とモニターを見つめている。
クックックッ、と獅子尾龍刃が肩を揺らして笑っている。
龍刃は、きっと、観客席にいる範馬勇次郎も笑いを堪えているだろうと思った。
包まれるという
獅子尾龍刃は語り出した。
あの、恐るべきワザの効果を。
全身をあますことなく包まれるというストレス!
抗いようのない力で、自らより大きいものに、全方位から圧されるという状態は、著しく体力と精神を消耗させる。
外を飛び回る昆虫。
捕まえる。
潰さぬように、そっと、優しく両手で包み、家に持ち帰る。
潰さぬように──
潰さぬように──
決して傷つけまいとする心で。
そして、家の、机の上に開放した時に知る。
弱りきった昆虫。
もはや飛ぶことも叶わず身体を震わせる姿を見て、想う。
あんなに優しく包んだのに────
渋川剛気に起きていることは、まさにそれだと龍刃は言う。
ビスケット・オリバという大きな手のひらに、今、渋川は優しく包まれている。
「確かに」
と、刃牙。
ため息とともに。
「これは、合気じゃ捌けないな……」
うん、と龍刃は頷いた。
「二本足ではない。二本手でもない。重心もクソもないから、崩すもどうするも不可能」
刃牙は、めざとく見抜いていた。
あの筋肉の塊。
脅威は、あのパックマン(?)だけではない。
渋川の拳を弾き返した瞬間、あれは膨れ上がった。当てどころが拳の半分ほどの大きさに膨れ上がったのを確かに見た。
打撃は通じない。
崩しも通じない。
圧倒的な筋力を持つオリバだからこそ可能なワザ。
お互いに、相性がワルい。
獅子尾龍刃の言葉に、刃牙は賛意を覚えたのだった。
「まあ、渋川さんが、このまま終わるとも思えないけどね」
獅子尾龍刃はまた、深く静かな微笑を浮かべていた。
3.
ごろり、と渋川が吐き出された。
渋川は力無く仰向けに倒れ、呆然と天を見ていた。
オリバが立ち上がる。
悠々と、得意気な笑みを浮かべ、渋川を見下ろしていた。
会場がざわついた。
オリバが何をやったのか、あれがどういう効果を伴うワザなのか、見当がついているものは少ない。
観客からしてみれば、渋川がまるっと飲み込まれて、吐き出されて、動けなくなっただけにしか見えない。
「
オリバが言った。
にこり、と太い笑みがあった。
「申し訳ないが、日本のマーシャル・アーツの達人が、精神的に折れるとは思っていない──」
オリバは足を持ち上げた。
でっかい足の裏が、渋川の視線と繋がる位置に浮いた。
落とす気かッッ、ビスケット・オリバ。
それも、地下闘技場では許されている。
オリバがかっ、と目を見開いた。
落とした。
着弾の寸前、渋川はにぃぃっ、と笑った。
「ほりァァアッッ!!!」
寝ている姿勢から、立ち上がるついでと
でも言うように、オリバの蹴り足を渋川が掬った。
軽く、払いのけるようなそれで、オリバの足が大袈裟に引っ張られて、大きくのけぞった。
「まだまだァッッ!!」
渋川は手首を──つまり、オリバの足首を返す。すると、オリバの身体は宙空で捻りを帯びた。
顔に、渋川の手が添えられた。
「ちぇいッッ!!」
どかんと、オリバの側頭部が地面に叩きつけられた。
4.
渋川はその場に座した。
ふらついていた足を誤魔化すように腰を落とし、正座となった。
仰向けのオリバの頭がそばにある。
オリバの眼は驚きに瞬いた。
オリバの身体には力が漲っていた。
未知への好奇がダメージを上回っている。
おもしろい──あるいは、美しい。
オリバの感想はそれであった。
混じり気のない賞賛。
ゆっくりと背を起こし、振り返る。
オリバがパンチを打った。
腰を落としてからの、打ち下ろしの右。
渋川は下から払いのけるように手首を掴み、座った姿勢のまま腰を切った。
ぐおんと、オリバの身体が勢いよく宙に浮いた。
そのまま、渋川の身体を跨ぐように背後に昇り、背中から落ちた。
すかさず体勢を整える。
顔を上げると、渋川の背中が前にある。
左手で、下から掬い上げるように襟を掴んだ。
渋川の背がぐっ、と縮まった。
オリバがこけるように、また、渋川を跨いで顔面から地面に追突した。
顔を上げる。
渋川が正面から見下ろしている。
呼吸が整っていた。
休まれた。
まんまと休まれた。
すばらしい。
オリバは身を起こした。
渋川はまだ正座のままだ。
ゆるり、とオリバは手を伸ばした。
渋川は反応しない。
そのまま、オリバの手が渋川の目前三センチ手前で止まった。
オリバは拳を握っている。
そのままちょこん、と前に突き出せば、渋川の顔面は無惨に潰れてしまうのではないかと思わせる、固く、太い拳である。
息の詰まるような沈黙が訪れた。
渋川もオリバも、全く動かなくなった。
やがて、空気がピリピリと痛みを帯びていく。
「きなされ」
言葉ではなかった。
だが、オリバには聞こえていた。
確かに、ほんのわずかだが、渋川の口がそう言っていた。
オリバの拳が捩じ込まれた。
それは、渋川の顔面を通り抜けた。
渋川の両手がオリバの拳を上下から挟んでいる。
投げた──
いや、投げさせた。
身体を背から落とされて、しかし、渋川の袴をオリバが摘んでいた。
そうして──
渋川の身体はオリバに飲み込まれた。
食虫植物が、小蠅を飲み込む際に花弁を閉じるが如く、オリバは下から渋川の身体を飲み込んだのだった。
5.
その時の様子を、渋川はこう語る。
崖だよ。
奈落の底。
足下からね、地面が消えたのよ。
代わりに、深い深淵が横たわって、そいつがおおーきな口を開けてね、ワシをばくりといきやがった。
圧──
何がイヤって、熱いんだ、そこ。
三六〇度、肉の壁が圧してくる。
だってェのに、全然痛くねえ。
ただ、熱いんだ。
全身が、真綿の塊に絞られるような──
おれも、武道に携わって長ェけどね。
あんな体験はあれこっきりだよ。
でもね、もう、いっぺん食らってるワザだからね。
脱出するよう。
ワシも、伊達や酔狂で達人なんて呼ばれてねンだわ。
6.
ワザを解いたのは、オリバからだった。
「オワッッ!!!!!」
けたたましい声を出して、オリバが渋川を開放した。ごろんと転がる渋川は、億劫な動きでゆったりと中腰になる。
オリバが耳を抑えていた。
手の隙間から、どろりとしたものが溢れている。
血の混じった体液だった。
渋川剛気、なんという男か。
抱き潰されながらも、オリバの耳にひと差し指を捩じ込み、鼓膜をぶっ壊したのだ。
オリバが尻もちをついている。
立てない。
バランス感覚を失っていた。
三半規管もきっちり壊している。
抜け目のない──
渋川は、顔面から汗を滴らせながら、苦笑に顔を歪めていた。
してやったりだぜ──そう言いたげな口の動きである。
「鼓膜にも、ウエイト・トレーニングをしておくべきだったなァ」
軽口を叩く。
まだ、気力は漲っている。
だが、座したままだ。
渋川もまた、立てないのだ。
消耗しすぎていた。
肉体は悲鳴をあげている。
負けたくねえ──
その気持ちが、渋川を震わせている。
負けたくねえ。
獅子尾龍刃が、勝った。
愚地独歩も勝った。
なら、渋川剛気が負けるワケにゃいかねえだろう。
逸る気持ちがふつふつ湧き立っている。
前のめりになりそうな姿勢を、力を、抑えている。
おれの武術は、まさに、こういうシチュエーションのために存在するんだ。
うってつけさ。
でっけえ男に、小せえ男が勝つ。
力を、技で制す。
さあ、こいよ、オリバ。
見せてやるよ。
アメリカで一番、ケンカがつえぇ男よ。
もう、あのフォームはとれねえぜ。
三半規管がグラグラだからな。
おれも、世界も、ぐにゃぐにゃに見えてるだろう?
じゃあ、おまえさんは、もう殴りかかるしかねえワケさ。
さあ、こい──ッッ!!
7.
範馬勇次郎が、静かに笑っていた。
クスクスと顎を揺らし、アホウが……と呟いた声を、その囁きを、一体誰が聞き取れただろう。
8.
やっべェ〜ッッ。
渋川剛気は、その優れた予測能力で自身の末路を悟った。
己を影が覆っている。
オリバが跳んだ。
その場から。
まるで、体操選手のように、羽根のように軽やかに。
宙で身を捻り、力を一気に解放させんと四肢を広げた。
渋川剛気の真上だった。
ボディプレス────
渋川の額から、ざあっと汗が滴った。
この世界に大地がある限り。
この世界が惑星の上にある限り。
この世界で人間が生きる限り。
重力という力はどうしても存在する。
跳び上がったものは下に落ちる。
それは法則である。
宙空を蹴っていっ時を稼ぐものはいるだろう。
宙空に布や板を飛ばし、その上を走ることができるものはいるだろう。
だが、人が人である限り、いつかは落ちるのだ。
三半規管の狂いも、ただ落ちる分には問題はない。
そこに存在する力の流れとは、完全なる一方に集約されるのだから。
力の流れがねえッッ!!
バランス──ッッ
考えたな──ッッ
合気じゃ対応──
潰れる──おれッッ!!
避ける──ムリッッ!!
避けたらカッコいいぜ──?
手を──出してどうなるッッ!?
ちか──ッッ
デケェ──ッッ!!
確か体重……
折れ……?
死!?
お、
お母ちゃん……
………………
……………………
…………………………
9.
オリバは、渋川を押し潰した。
そのまま両腕を渋川の背に回す。
渋川の両腕ごと、寝たまま抱き締める形になった。
「ビューティフル」
オリバがそう言った。
余裕を持った、しかし、掛け値のない賞賛の言葉だった。
びきっ
と音がした。
渋川は闇の中で、自らの体内が軋む音に目覚めさせられた。
「ひ、ひゅる…………」
渋川は、
渋川は笑っていた。
眼が、あさっての方を向いていた。
不気味な顔であった。
オリバは、渋川を抱きしめたまま、ゆっくりと膝を立て、時間をかけて立ち上がった。
「ひ、ひ……」
オリバがす、と息を吸った。
渋川は、考えていた。
得心がいっていた。
ああ、そういうことか──
朝に見たあの景色。
花々咲き乱れる草原。
お天道様の優しい光。
ぜんぶ、納得がいった。
だってこの男──
こんなに優しく、やっつけてくれるんだもの。
こんなに優しく──抱きしめてくれんだもの。
────ビキッ
オリバの腕の中で、渋川が大きく跳ねた。
ピクピクと痙攣し、やがて、力無く手が投げ出された。
オリバは優しく──
丁重に、渋川をこれ以上、決して傷つけまいとする振る舞いで、彼を闘技場に寝かせた。
『勝負ありッッ!!!』
コールがあった。
誰も、それを咎めない。
大男が、小男を倒すというアタリマエを見て、誰も渋川もオリバも批難しない。
オリバの神妙な表情が、この戦いが決して楽勝ではなかったと物語っていたからだ。
並々ならぬ闘争であったことは自明である。
歓喜の拍手が舞った。
担架に運ばれる渋川を見届けて、オリバは誰に言うでもなく、言った。
「真球、倒されちまったなァ……」
見事だったゼ、
一回戦第十五試合:勝者、ビスケット・オリバッッ!!