【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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一回戦第十六試合:鎬昂昇vs鎬紅葉?
第一話:朱より染まりて黒く在る


 

0.

 

 

 鎬紅葉は憂鬱に顔をもたげていた。

 控室の片隅で、あらゆる振る舞いに優美を求める彼にしては、らしくなく暗い空気を纏っている。

 

 今日、ここまでの試合を観て、()()()確信したことがある。

 ひとつ目は、最大トーナメントの看板には、嘘偽りがないと言うこと。

 徳川光成が()ち上げたこれは、最古最新、史上最強最大の格闘トーナメントに間違いない。

 紅葉の明晰な頭脳をして、おおよそ考えうる限り、人類の格闘の歴史を如何に紐解いたとしても、これほどの強者が一堂に会する祭典は史上唯一だと容易に断言できる。

 

 そして、もうひとつ。

 こちらの気づきこそ、紅葉が()()()認識したことであり、鎬紅葉の端正な顔立ちに、より暗い影を落とす原因である。

 それは、自分()()では、このトーナメントには()()()()()()()という確信であった。

 つまり、鎬昂昇──我が弟では、決してこのトーナメント(闘争)を勝ち抜くことはできないということだ。

 

 自身は、言うまでもなく超人である。

 身長一八四センチメートル。

 体重一三一キログラムと言う恵まれた体躯に、

 ヘビィ級ボクサーの瞬発力。

 短距離走選手(スプリンター)の機動力。

 アマチュア・レスラーの柔軟性。

 マラソンランナーの持久力。

 それらを併せ持って、十全に使いこなす能力がある。

 単純な筋力では自身をはるかに上回るビスケット・オリバや獅子尾龍刃を目前としてなお、紅葉の肉体への自認は『世界最高峰の肉体』に揺るぎない。

 

 そして、兄の贔屓目抜きに、弟もまた、世間一般の格闘士と比較(くら)べるなら、超人の側であることに異論はない。

 弟が地下闘技場に立った理由こそ、自らの鍛え上げた空手の相手を求めたからだ。

 在野では、もはや昂昇と勝負が成立する格闘士は、そうそういなくなっていた。

 強さ以前に、表で扱うにしては、鎬流空手はあまりにも危険すぎるという理由もある。

 『斬撃空手』とも揶揄され、古流空手の意を強く孕む鎬流は、拳や足の先、その変化のつけ方が肝要となる。

 四肢ではなく四肢の先端の凶器化こそ、鎬流空手の真髄なのだ。

 そのためグローブをつけることが義務付けられる表格闘技の場では、本領が発揮できない。近年流行り出したオープンフィンガープローブはその限りではないが、そもそも指刀による斬撃を宗とする鎬流は、意図した流血沙汰を嫌う競技空手と相性が悪いのである。

 最も、松尾象山や愚地独歩の主催する空手トーナメントなどでは、素手で闘争(たたか)うことも、流血沙汰も許されてはいるが──

 それでも、通常の空手の試合や喧嘩で使用(つか)うには、鎬流空手は危険がすぎた。

 

 だが、この大会ではどうだ?

 ビスケット・オリバの筋肉に、鎬流の斬撃空手が通用するとでも言うのか?

 殺人空手を解禁した愚地独歩の拳足の切れ味が、弟の拳足未満であるはずもない。

 ロロン・ドネアの『先の先』を、鎬流で乗り越えられるのか?

 加納アギトの『無形』を捉えられるのか?

 日下部覚吾の『幻突』を躱し切れるのか?

 

 無理だ──

 

 三度の逡巡、鎬紅葉は確信を深めていく。

 鎬昂昇では、このトーナメントは勝ち上がれない。弟は、ここまで試合を行った誰と闘争(たたか)っても負けるだろう。

 しいて言うなら加藤清澄には有利ではあろうが、彼は前評判を覆す気合いと、格上を狩るための切り札()を潜めていた。

 そして、勝利した。

 勝てるはずもない相手に。

 たったひとつの勝利が、男子たるものに与える力は科学の領分を凌駕する。

 鎬紅葉にとって、加藤清澄はもはや油断ならない側の格闘士であった。

 その点でも、鎬昂昇は直近の試合で範馬刃牙に負けている。ならば、弟はあの時から、劇的な進化を遂げているはずもなく──

 つまり、この場にいる誰だろうと、弟が敵うはずもないのは道理である。

 

 それを見越していたからこそ、鎬紅葉は事前に徳川光成に相談し、『一回戦で弟と当たるように』カードを組んでもらったのだ。

 

 ここからの話は紅葉のワガママ(エゴ)が強くなるが、もとより、紅葉は弟に傷ついてほしくなかった。

 誰にも傷つけさせないと思っていた。

 自分以外の、誰にもである。

 少々行き過ぎなのは自認している。

 それが愛を超えた、鎬昂昇に対するある種の独占欲と、支配欲であることも理解(わか)っている。

 しかし、それでもなお、鎬紅葉はその思慮こそ、弟を想う兄の愛に他ならないと断じているのであった。

 言い聞かせるように、紅葉は心で唱えている。

 昔から、鎬昂昇はどんくさかった。

 勉強ができたわけでもない。

 スポーツだって、そう。

 だから、いつも守護(まも)ってきた。

 いつもやっていたことを、ここでもまた、やるだけだ。

 他の誰かに無惨に敗れるよりは、兄たる自分に負けた方が、弟は立ち上がりやすいだろう。

 

 鎬昂昇が鎬紅葉に勝てない──

 それは、昂昇にとっても、()()()()()()なのだから。

 

 この思想も行動も、他者が聞けば、『いらぬ世話』だと言われ、冷笑の対象にすら扱われるだろうが、紅葉に言わせれば、それは同じ血の流れる兄弟の愛を知らぬ者の、心なき言葉である。

 

 愛しているから守護(まも)るのだ。

 これもまた、人間の、最も原始的な本能である。

 人間が死ぬまでに持ち得る全てを削ぎ落とした時に、最後に残るものが、愛なのだから。

 その一点だけは、誰にも笑わせない。

 

 しかし、鎬紅葉は見誤っていた。

 弟への愛の深さゆえに、視野が狭まっていた。今の紅葉に足りぬものは、鎬昂昇に対する想いではない。

 鎬昂昇が、如何にこのトーナメントに入れ込み、わずかな期間に一分の無駄もなく、紅葉の知らぬところで己を研磨したかへの想像でもない。

 

 足りぬものは、自らの罪の足跡であった。

 この場にて、鎬紅葉を真に陰に抱き込むものは、彼がかつて、自らの好奇と躍動に突き動かされ、短慮に積み重ねた過去(原罪)そのものだった。

 

 鎬紅葉がシャツを脱ぎ、それを丁寧に畳み、選手通路を通って闘技場に出んと歩み出した。

 

 その背後(うしろ)から、彼の犯した罪の影が、ひそり、ひそりを手を伸ばしていた。

 

 

1.

 

 

 闘技場は色めき立っていた。

 観客たちの談笑が止まなかった。

 「誰々の試合が良かった」だの、「誰と誰が戦っていればどうなっていたか」だの、これまでの試合を振り返っては、さまざまな空想を酌み交わしていた。

 次戦の話題ももちろんあった。

 何せ、次の試合は一回戦の最終戦で鎬兄弟の対決である。

 どちらもつい最近、地下闘技場チャンピオンの範馬刃牙と、死闘を繰り広げた強者である。

 鎬兄弟に対する観客のイメージもまた、この場で死闘を繰り広げた他の格闘士たちに、決して勝るとも劣らずであった。

 

 控室でも、獅子尾龍刃たちは談笑に花を咲かせていた。

 中でも、ついさっき、自身が『弟』であることを知った刃牙は、らしくもなく昂昇びいきに言葉を綴っていた。

 

「まァ、フツーに考えれば、鎬紅葉の勝ちなンだろうけどね」

 

 と、自らの期待を自ら裏切るように、どこか自嘲気味に、刃牙は笑って言った。獅子尾龍刃にとっては鎬兄弟のどちらも初見であるためか、刃牙の言葉の含みを噛み砕き、ふむふむと相槌を打った。

 加藤は、

 

「勝負ってのは、蓋を開けてみねえとわからねえゼ、刃牙」

 

 と、どこか誇らしげに口角を持ち上げて、刃牙の意見に自らの意を加担させて反論した。

 

「せやで、刃牙。部位鍛錬特化の空手はおっそろしいで。なんせ刃物握っとるようなもんやからな、どんな相手でもワンチャンあるもんや」

 

 宮沢熹一がどこか苦々しく語る。

 彼の脳裏には、かつて高校生の頃に戦った、部位鍛錬に重きを置く空手家たちが浮かんでいた。

 

「まあ確かに……昂昇さんの勝ち目がゼロとは思わないけどね」

「刃牙くんは、鎬兄弟のどちらともヤってるんでしょ?」

 

 しかも、勝ってるんでしょ?

 と龍刃は続けた。

 はい、と刃牙は頷いた。

 

「その刃牙くんの見立てで、昂昇くんにも勝機があると言うのなら、そうなんだろうね」

 

 童心の好奇を滲ませながら、龍刃は言った。

 

 

2.

 

 

 闘技場に、鎬昂昇が降りてきた。

 精悍な顔立ちで、適度に力を抜いた、自然な立ち姿であった。

 髪を、総髪に結っている。

 戦うための身綺麗さが、見事に形になっている。

 その姿を観て、獅子尾龍刃はおっ、と言葉をこぼした。

 

「なんだ。ぜんぜん、強いじゃないか……」

 

 刃牙も同意であった。

 驚き、洞察のために目を細めた。

 違う。

 あの時の鎬昂昇とは、まるで違う。

 何があったのか、どんな鍛錬を積んだのか── 鎬昂昇が、武道家として一皮剥けていることが、モニター越しにも伝わってくる。

 

「いい空気纏ってンじゃねえの」

 

 愚地独歩が言った。

 うん、うんと龍刃も頷いた。

 

「いい(かお)してるよ、彼。場数を踏んだ男の貌だ」

 

 鎬昂昇がここに立つにあたり、踏み越えた場数、乗り越えた鍛錬の質が、面構えに如実に出ている。

 これは、どうなるかわからないな。

 刃牙は心中でそう思った。

 

 そんな期待の眼差しなど露知らず。

 昂昇は怪訝に眉を顰めた。

 

 紅葉が闘技場に現れないのである。

 

 

3.

 

 

 観客の意気に、どよめきが混ざり始めていた。

 鎬紅葉が闘技場に現れない。 

 どういうことか。

 控室の格闘士たちも、紅葉の不自然な行動に首を傾げていた。

 

「そういう兵法か?」

 

 獅子尾龍刃が言った。

 想起するものは、かの天下無双、宮本武蔵が巌流島で行った兵法である。

 宿敵、佐々木小次郎との決闘に、武蔵は堂々と遅刻してのけた。

 武士の至心に反する武蔵の行いに、小次郎は怒り立ち、平常心を失ってしまったのである。

 さらに、武蔵は海から船で現れ、日を背にして大太刀よりはるかに長い木剣を、刀身の長さを悟らせぬために海に浸していたという。

 この決闘にまんまと勝利したからなのか、『五輪書』においても、武蔵は「敵の平常心を奪うこと」は兵法の基礎にして極意だと綴っているのである。

 

 龍刃の言葉の意図を汲み取った上で、刃牙はかぶりを振った。

 

「いや、紅葉さんは、そういうのしないと思います」

 

 鎬紅葉の戦闘スタイルは、磨き上げた己の肉体を敵や観客にまざまざと見せつけるナルシズムに傾倒する。

 自らが兵法を扱うのではなく、敵の兵法を己の肉体で打ち破るのを得手としているのだ。よく言えば真っ直ぐであるが、悪く言えば愚直なのである。

 その紅葉が、しかも弟を相手に武蔵的兵法を使うだろうか?

 

 闘技場に審判たちが集まってきていた。

 試合放棄と見做して失格とするべきか。

 もう少し待ってみるべきか。

 失格とするなら、リザーバーに準備してもらわなければならず、そうなれば諸々の事情を考慮して、試合の時間まで間を空けるべきか──?

 

 審議の行方を、鎬昂昇は眼を広げて見つめていた。

 

 と────

 

 闘技場に、妖気がただよってきた。

 昂昇の正面の通路から、色にして言うならば暗黒色の闘気が、闘技場の中に染み出してきている。

 

 なんだ──ッッ!?

 

 控室の格闘士たちもざわつき始めた。

 闘技場に立つ昂昇の困惑は、息を呑む不安へと変容(かわ)っていく。

 

 男が現れた。

 暗黒の闘気を掻き分けるようにして、ゆっくりとした歩みで闘技場に現れた。

 

 その瞬間、獅子尾龍刃が驚愕に眼を見開き、総毛立たせた。

 ビスケット・オリバが眼を細めた。

 

 現れた男──? は、小人であった。

 頭頂部が、昂昇の膝ほどしかない。

 身長は一〇〇センチメートル未満であり、体重は三〇キログラムも無さそうに見える。

 頭はまるハゲていて、身体に比して異常に大きい。

 刀身で言えば二頭身に収まってしまうだろう、まるで不気味な人形の如き身体つきである。

 服は白のスーツであり、革靴を穿いている。どちらもサイズ的に特注品であることは明白で、その上で民間人では手を出せないほど高級、高品質な素材で紡がれたものだとわかる。

 控室の格闘士にはわからないことだが、複雑な香りの混ざる、薔薇の香水(コロン)を振っていた。

 

 その男が醸し出す雰囲気が尋常ではない。

 その男の佇まいが、並ではない。

 指が、しっかりと関節ごとに肉がついている。

 緩やかにたゆむ顎先と、ぎらついた目付きは、男がしっかりと成人──それも、中年を超えている男性であることを主張していた。

 

 観客席の秋田太郎がチッ、と舌打ちをした。

 斑目貘が、らしくもなく眉を険しく歪ませた。

 夜行妃古壱もまた、驚愕に眼を開いていた。

 

「フフ、ゴメンなさいねえ……」

 

 男が言った。

 男は艶やかな瞳で昂昇を睨め上げている。

 言葉には、虚無があった。

 その言葉は、開いた口からねとりと、空気を重たく病ませる毒のような息と共に放たれ、謝意の気持ちなど微塵も篭らぬ音を奏でていた。

 

「紅葉ちゃんは、ここには来れないわァ……彼は、今──」

「キサマッッ!!!!!」

 

 男が言葉を言い切る前に、昂昇の怒号が空気をつんざいた。

 勢いよく腰を落とし、腕を前後に構えて、眼を血走らせて、渾身の怒りを言葉に乗せて、昂昇は言った。

 

「兄をどうしたあッッッッ!!!!!?」

 

 鎬昂昇には、ひと目で理解していた。

 兄が、ここにこない理由。

 この男だ。

 この男が、兄に()()をしたせいのだと。

 目の前の男の危険度は、昂昇の測れる針を振り切っている。

 男の全身から、香水(コロン)では到底消しきれないほどの、夥しい血臭が漂っていた。

 

 単なる強者ではない。

 ここにいていい男でもない。

 この男は、殺し屋だ。

 それも、今までいったい何人手にかけたのか、想像もつかぬほど恐ろしい殺し屋────

 

 控室で、獅子尾龍刃が身を震わせた。

 刃牙が、加藤が龍刃を見た。

 

「昂昇ォォッッ! 逃げろオォオオッッ!!!!」

 

 困惑する刃牙と加藤を一瞥もせず、獅子尾龍刃もまた鬼気迫る表情で叫び、闘技場に向かって走り出した。

 

 現れた男は、名をナットー・L・ネルーニョと言った。

 

 日本最強最大の暴力団、源王会八代目組長にして、兵器産業N.O.Nカンパニーの代表にして、つい最近"ヴァイス・ファンド"の一角に成り上がった男であった。

 

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