【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

97 / 102
12/20 誤字修正 報告ありがとうございます


第二話:獅子は渇望に沈む

0.

 

 

 医学の進歩は、常に人類の禁忌(タブー)と隣り合わせであった。

 基本的に、医学が爆発的に進歩を遂げる瞬間とは、未知の病や回復不能なほどの怪我の絶えぬ時節──すなわち流行病や戦争の時期に重なっている。

 もはや助からぬことが分かった重病人に対し、あるいは人権そのものが存在しない敵国や奴隷に対し、口にするのも悍ましい実験や工程を得て、知識も技術も積み上がっているのは決して否定できない、しかしながら眼を背けてはならない技術躍進の『負の側面』である。

 鎬紅葉が抜群の医療技術を誇る理由も、それに準ずるものである。

 鎬紅葉が、今日(こんにち)にこの地位と名声を浴びているのは、本人の医学の才能がずば抜けていただけではない。

 範馬刃牙に打ちのめされるより前──つまり、ごく最近まで、紅葉は表に出せないほど多数の、非道な人体実験を他者に施していた。

 手足を失った者や、内臓を失った者。 

 助からぬ病に冒されたものたちに、鎬紅葉は冷徹にメスを入れてきたのだ。その結果は、実験を施された人間が、人生を大きく変えざるを得ないのは序の口で、今なおベッドの上で、無念を募らせる者たちもいるほどに、である。

 鎬紅葉の知的好奇心と向上心を満たすための犠牲は、確かに存在しているのだ。

 

 数々の実験の中でも、鎬紅葉が特に拘っていたことがある。

 ある人物に対する扱いを、ある意味でずば抜けて優遇しており、ある意味で尤も非道極まる施術を行なっていた。

 

 ある日、登倉(とくら)竜士(りゅうじ)という少年が、紅葉の診察を受けにきた。

 幼い頃から痛風──つまり、風が吹くだけで全身を耐えがたい痛みが襲う持病──を持ち、その治療をしてもらうために病院を転々としているとのことだった。

 その登倉竜士こそが、紅葉の知的好奇心を激しく刺激したのである。

 登倉竜士はデカかった。

 尋常な巨躯(デカ)さを誇っていた。

 初診に訪れた時の年齢は一六歳であったが、身長は二メートルを遥かに超え、体重は一八〇キロにも及んでいた。

 同年代の人間どころか、外国人のヘビィ級と比較(くら)べても、反自然的に太く、デカすぎる肉体である。

 立ち上がると、鎬紅葉が遥かに見上げる大きさであった。

 登倉の身体の中に、紅葉の肉体がそっくりそのまま収まってしまいそうなスケールの違いがある。

 顔が、紅葉の倍の大きさであった。

 刃物でぐちゃぐちゃに上がったような疵が目立ったが、これは、登倉自身が痛風の痛みを紛らわすために、自らつけた跡である。

 その顔を、しっかりと支える首が太い。

 僧帽筋が服に収まりきらぬほど盛り上がっていて、登倉を横から見たのなら、大胸筋の頂点が鼻より前にせり出ている。

 手も、大きい。

 紅葉と比較(くら)べてなお、赤子と相撲取りのサイズ差があった。

 足のサイズはマウント斗羽もかくやという大きさである。当然、太ももや下腿筋も、紅葉のウエストぐらいはありそうに、太い。

 その筋力やタフさがまた、見た目通りに桁外れであった。

 登倉は基本的におとなしい性格──というよりも、舌足らずな物言いや自身の感情をそのまま言葉にする話し方からは、歳不相応の幼さが垣間見え、年齢に反して熟れ切った肉体とはまるで真逆の印象を紅葉に抱かせた。

 その、おとなしく心優しい少年が、風にひと撫でされた瞬間に、自らの痛みに悶え苦しみ、それを紛らわすために圧倒的な暴威と化すのである。

 その際に発揮される膂力は、紅葉を凌駕していた。拘束具を紙屑のように引き裂く登倉を繋ぎ止められるものは、病院内には鎬紅葉しか存在しなかったのだ。

 驚愕だったことは、これだけの力を持ちながら、登倉は自ら筋肉トレーニングなどしたことがないのだと言った。 

 つまり、このガタイにあの膂力が、全て生まれ持った資質だと言うのだ。

 それを聞いた時の、紅葉の衝撃たるや──

 求め続けた金銀財宝に、人生を賭けた冒険の末にありついたトレジャー・ハンターの心地である。

 

 その時、ちょうど、紅葉に出資を申し出る()()()()があった。 

 紅葉の『闇』を知る彼らは、しかして紅葉を断ずる事をせず、むしろその『闇』を称賛し、その手助けをするためにと巨額の出資を約束していたのだ。

 

 紅葉は登倉を『実験台(クランケ)』とすることを決定(きめ)た。

 『究極の肉体』という幻想に取り憑かれていた当時の紅葉は、痛風の治療と称して、さまざまな実験を登倉にやりはじめたのだった。

 

 

1.

 

 

「夜行さん」

 

 斑目貘が、夜行妃古壱にちらりと視線を投げた。

 

「これ、どういうこと?」

 

 夜行はぐ、と唇を噛み、いっときの間を空けてから、言った。

 『賭郎』は、第一試合の開始前から、地下闘技場に入った人間は漏れなくカウントしていたはずだった。

 更に言えば、東京ドームの周囲には要所要所に賭郎の人員を配置させ、怪しい者がドームに近づいたなら、その瞬間にお屋形様──斑目貘に連絡が行く手筈になっていたのだ。

 配置した人員には互いに定期連絡をさせ、どこかの連絡が途切れたなら、やはりその瞬間に貘に連絡がいくようになっていた。

 だが、どこからも連絡がない。

 ここから考えうることは、ふたつ。

 ナットー・L・ネルーニョは最大トーナメント開始前、既に地下闘技場に潜んでいたか。

 あるいは賭郎の人員を、全て()()()排除したかだ。

 

「ちょっと、アマく見すぎたねえ……」

 

 夜行が弁明を口走るより先に、貘は顔を手のひらで隠すように覆って、顔を逸せてははっ、と自嘲した。

 その自嘲の中に、腹の底から冷え染めるような、ドロドロとした憤りが濁っていることに、夜行は気づいていた。

 

 

2.

 

 

 ナットーは、闘技場の中央であらゆる者の視線を集めていた。

 困惑も、増悪も、憤怒も、焦燥も、自らを射抜く全ての感情を咀嚼して楽しむように、露悪的な笑みを浮かべていた。

 

「良い子たちねェ」

 

 そう言った先は、目の前で狼狽える事に動きを留めている審判たちにである。

 彼らは予感していた。

 この男に『何か』をすれば、死ぬと。

 誰も言葉に出さずとも、彼らの共通認識である。一瞬で全身から絞り出された脂汗が、自らが今、墓前に立っている()()()()()にすぎないことを、細胞に伝えている。

 だから、突然現れた乱入者を前に、手も足も出せないでいるのだ。

 

 そのナットーに、毅然と声をかける者がいた。

 

「ナットー・L・ネルーニョくん」

 

 ナットーが振り返った。

 そこに立っていたのは、徳川光成であった。

 

 

3.

 

 

 御老公ッッ!! と審判の誰かが言った。

 その声は安堵と、不安が混ざっていた。

 光成は堂々と、ナットーに向かって歩を進めた。

 恐れなき歩みであった。

 時を同じくして、獅子尾龍刃とビスケット・オリバが、闘技場に顔を出した。

 

 ナットーは、前後左右を一瞥して、光成に視線を合わせた。

 見計らって、ころりとした純な眼で、光成は聞いた。

 

「鎬紅葉をどうしかたね?」

 

 当然の質問であった。

 ぐっ、と昴昇が顔を顰めた。

 ナットーの口が、不気味に広がった。

 歯が無い故に、剥き出しの歯茎が糸を滴らせて上下に別れていく。

 

「殺しちゃいないわよ」

 

 クスクスと、ナットーは微笑した。

 その答えを、()()()()()()()()としたのか、光成は質問を続けた。

 

「なぜ、ここにいるのかね?」

「アラ、わざわざ()()()()()を聞くのね?」

 

 くるっと目を丸めて、ナットーは言う。

 

「最大トーナメントの参加条件は、強いヤツであることでしょ?」

 

 続けた。

 なら、アタシがここにいることに、何か不思議なことがあるの?

 人種、国籍、年齢、思想……身長や体重の制限も無し。

 ただ、強ければいい。

 強ければ、ここに立つ資格がある。

 

「そう宣言したのは、Mr.光成、アナタでしょう?」

「…………」

 

 光成の眼は、懐疑に揺れていた。

 それが、ナットーには意外であった。

 ふ、と息を吐く。

 

「アタシの強さが信用できないなら──そうね、例えば……今からここで、控室にいる()()()()()を、血祭りにあげたらいいかしら?」

「──ッッ!」

 

 強い怒りを纏い、闘技場に出ようとした龍刃の眼前に、オリバが手を伸ばして制した。龍刃が視線を投げたが、オリバは黙して語らずであった。

 しかし、その双眸(まなこ)には、強い敵意と警戒心が色づいている。

 

「そう心配しないでちょうだい」

 

 向けられる敵意を飄々と躱しながら、ナットー瞳が不気味な輝きを放ち、光成を見返していた。

 

「アタシがここに来たのはね、アナタたちに協力するためだから」

「──なッッ!?」

 

 龍刃の戸惑い、或いはオリバの戸惑いをよそに、ナットーはからころと笑いながら、言った。

 

「日本にいる限り、倶楽部『賭郎』から逃れる術はないでしょう? アタシたちが、如何に組織力で優ろうとも……時間稼ぎが関の山なのは目に見えてるじゃない。だから、捕まって、拷問にかけられるぐらいなら、自分から出て行って話せる事を話した方がいいじゃないの」

 

 これは駆け引きでも取り引きでもないわ、とナットーは続けた。

 

「あのラロちゃん(アイデアル)を策謀と暴力で破った連中に、駆け引きを弄するほどアタシはバカじゃないのよ」

「…………」

「信じるかは任せるけれど、Mr.光成に()()理解(わか)る話をするなら……そうね。どんな強大な組織であっても、()()()()()()()()()()()、一枚岩とはいかないのよ」

 

 光成はぐ、と拳を握った。

 悔しさが滲む動作であった。

 このナットーの言葉が、嘘か、本当か、光成には判断がつかなかったからだ。

 ただものでないことは、容易に伝わってくる。真摯に話しているフウではあるが、同時に、どこかこちらを小馬鹿にしたような韻を踏んでいる。

 第一に、ナットーは光成の()()()()()()()が高い。

 敵陣のど真ん中に──最大トーナメントに部下ではなく自らを割り込ませた理由が、それだけだとはとても思えなかった。

 

 光成は、強い者が好きである。

 日本随一の、強さの好事家である。

 だからこそ嗅ぎ取れることがある。

 ナットーの強さは歪んでいるものだと。

 強いことは強いだろうが、その強さは光成が憧れてやまない『強さ』とは別種のものであると……

 ナットーの言葉に、光成の思慮の外にある意図が含まれていることも、光成は理解していた。

 しかし、そこまで理解してなお、

 

『この男の強さが見たい』

 

 という、どうしようもなく純な気持ちが、自身の心中深層に潜んでいることを、光成は認めざるをえなかった。

 

「おぬしが負けた際には──」

「言ってるじゃない。アタシが勝とうが負けようが、大人しく身柄は預けるし、紅葉ちゃんも返してあ・げ・る、ってね」

 

 光成は振り返った。

 ナットーに背を向けた。

 これ以上、好奇と嫌悪が入り混じる、自身の表情の歪さを見られたくないという振る舞いであった。

 審判たちが、ただならぬ緊張のあまり、ようやく目に浸っていた汗粒を拭った。

 

 闘技場から一歩出て、光成の手が、上がった。

 

「試合開始じゃ!!」

 

 半ばヤケクソ気味な光成の宣言を機に、審判たちが慌てて外に出た。

 範馬勇次郎と、斑目貘は目を細めていた。

 精妙な表情で、それを見届けていた。

 

 

4.

 

 

 改めて、鎬昴昇とナットーが対峙した。

 昴昇の眼はギラついていた。

 そこから感じるものは、怒りや憎しみだけではなかった。

 昴昇の構えは、腰を高めに据え、両の手を前後に置き、掌を下に向けて、指を軽く曲げていた。前に伸ばした左手が自身の視線をナットーを結びつけている。

 瞳にみなぎる力に反し、適度に脱力の効いている構えであった。

 

 獅子尾龍刃とビスケット・オリバはナットーの背の向こう側の通路に待機していた。

 龍刃は柵を握りつぶさん力で掴んでいる。闘技場でナットーが『何か』をやったのなら、全てを投げ捨てても飛び出すつもりであった。

 オリバは、そうなった時、龍刃がやりすぎないよう歯止めをかけるつもりであった。

 獅子尾龍刃がナットー・L・ネルーニョを許せるはずがない。

 範馬勇次郎の孤独を知る男が、範馬勇次郎を()()()()()()()()()を、断じて許すはずがないのだ。

 

 しかして、鎬昴昇とは、なかなかのものだとオリバは思う。

 先ほどの激情が、見事に体内に収まっているではないか。

 聞くに、兄を人質に取られている男の立ち姿ではないが、適度な緊張とリラックスの狭間に己を立たせているのは、相当な鍛錬を積んでいると見受けられる。

 

 それは、モニター越しにその光景を観る格闘士たちも感じていることであり、たった今、オリバたちの後ろから現れた刃牙と加藤も感じたことであった。

 

 何があった──鎬昴昇ッ!?

 

 

5.

 

 

 鎬昴昇は考える。

 考えられるほど、冷静になっている。

 兄を人質にされた──その事実が昴昇にもたらしたものは、憤怒と、ある種の諦観であった。

 心のどこかで、兄は──いつか、こうなる運命(さだめ)でもあったと思う。

 それ以上の人を救っているとはいえ、他者の人生をオモチャのように弄び、台無しにしてきたのも事実だ。

 自惚れが激しく、自己愛が強い兄は、いつかきっと、自分の過去に足を取られることになっていただろう。

 くやしいのは、それを為したのが自分ではなかったことだ。

 兄を超える──その確信を持って臨んだこの場で、今少なからず感じるものは、兄と闘争(たたか)えぬ肩透かしである。

 今日、この日を迎えるにあたって、鎬昴昇は挫折を乗り越えてきた。

 その成果を、兄に見せつけることができないのが残念だった。

 

 ナットー・L・ネルーニョ。

 小さい男だ。

 なんせ、もとより老齢の徳川光成より、さらに頭半分は背が低い。

 普通、武道においては大は小を兼ねるのが筋であるが、ここまで小さい男と対峙するのは稀であろう。

 小さい、ということは、搭載できる筋量が限られるということだ。

 骨格の狭さ、四肢の短さは小回りこそ効けど、推進力を破壊力に変えるにはあまりにも頼りない。

 しかし、それが却って不気味である。

 自ら望んでここに立つ以上、ナットーにはここに立ちうるに相応しい『自負(武器)』があるに違いない。

 しかし、それが見当もつかなかった。

 だから、昴昇は先手を譲ることにした。 

 後の先で刺す──

 そう決めていた。

 

 ナットーが、ぐ、と拳を引いた。

 右拳を腰まで引き、そのまま顔をかがめて力を溜めた。

 どことなく、花山薫のそれに似ている。

 まさか──

 昴昇は愕然とした。

 まさか、そのまま打つ気なのか?

 思い切り握り込んだ拳を、正面からただ打つだけだと言うのかッッ!?

 この体格で!?

 そのリーチで!?

 

 次の瞬間、ナットーの身体が爆ぜた。

 蹴り足の残像が残るほどの速度で、ナットーはその全身で昴昇に向かって突撃した。

 

 そのまま来るのかッッ!?

 

 速いは速いが、見え見えの動作にどこを狙うのかひと目でわかる攻撃姿勢。 

 狙いは、顔だ。

 顔に向かって、一〇〇センチメートルに満たない肉の塊が、超スピードで駆け上がってくる。

 昴昇は──

 奥に構えた右手を開き、顔の前に添えた。

 そこに、見え見えの、リーチの短い、ナットーのパンチが炸裂した。

 その瞬間、

 

 重────ッッ!?

 

 その威力から昴昇が想像したものは、クレーンに吊り下げられた鉄球が、十分な振りを持ってぶつかってきた絵であった。

 

 昴昇は混乱のただ中にあって、左腕に微かな力をこめると、地面に向かって頭から突っ込んだ。

 受け身もクソもない。

 シーソーを思い切り踏みつけたような動きであった。

 伸び切った昴昇の足が、ぱたりと地面に落ちた。

 

 

6.

 

 

「な、なんだよオイ……どういうことだよ……?」

 

 加藤は身震いしながら言った。

 なんというパンチ力なのか。

 今のパンチは、あのゲバルのそれに劣らないのではないか。

 いや、そういうパンチが打てることは、まだいい。

 問題は、ナットーのあの体躯で、あのパンチが打てる謎だ。

 

「『超人体質』──」

 

 オリバが苦々しく口を開いた。

 加藤と刃牙が、オリバを見た。

 

「ナットー・L・ネルーニョは、ああみえて──わたしには劣るにせよ──尋常ならざる筋肉の塊なのだよ」

 

 オリバの解説はこうだった。

 ナットーは、先天的にホルモンバランスの異常を持っていた。

 その影響で、自らの筋肉が身体が未成熟な頃から発達しすぎており、それは自身の肉体的成長を阻害し、命を脅かすほどであった。

 これは、つまり、生まれついて死ぬまで、異常な筋量が永遠に成長し続ける『超人体質』の中でも、取り立てて特異体質のそれである。 

 ナットーの筋肉は現在も成長をし続けており、放置すれば命を脅かすために抑制のための薬を常用している──と。

 

 同じ説明を、夜行妃古壱から聞いた斑目貘が、言った。

 

「つまり、アイツは密葬課の──」

「左様です。あの男は、かつて門倉立会人が葬った密葬課の箕輪勢一と、同体質と言うことになります」

「ふーん……つまり、アイツも人喰いの化け物(ミノタウロス)ってことだねえ……夜行さん、夜行さんは、鎬さんは勝てると思う?」

「……私の見立てでは、鎬昴昇には荷が重い相手と見えます」

 

 ふうん、と貘はから返事をうった。

 含みがあるのかないのか、判断に困る反応である。

 夜行はいったん貘から視線を外し、闘技場を──ナットーへと意識を向けた。

 

 闘技場のナットーは、感心したように眼を細めていた。

 自身の、攻撃に使った右腕からは、ひと筋の血が滴っていた。

 

 

7.

 

 

 ──斬ったッッ!!

 

 パンチが炸裂する一瞬、昴昇は左人差し指で、ナットーの上腕を斬っていた。

 抜け目のない一撃である。

 

「やるわねえ、昴昇ちゃん……」

 

 血を拭って、ナットーが視線を配る。

 ゆっくりと、昴昇が立ち上がっていた。

 息が上がっている。

 まだ、焦点はバラけていた。

 打撲痕が、左頬に克明に刻まれている。

 

 しかし、こらえた。

 破壊力は想像を超えていたが、昴昇はきちんと手のひらで受け、意識を残すことには成功していた。

 

 昴昇が最も驚いたのは、パンチ力ではなかった。

 その肉の密度であった。

 人差し指に残る余韻。

 それがナットーの肉に引っかかった時、零コンマ数秒の間に凄まじい量感が伝わってきた。

 幾重にも折りたたんだ太いゴムを、プレス機か何かで無理やり圧縮して固めたような密度である。

 人間の肉の感触では無かった。

 つまり、神経まで刃先が通っていない。

 

「いいわよォ、昴昇ちゃん。いいキレ味よ。その指を造り上げるのに、とてつもない苦痛と難行をこなしてきたのねェ」

 

 アタシにはわかるワ。

 ナットーの言葉は賛嘆の意があった。

 尤もそれは、幼児を褒める大人の()()である。

 舐められている。

 だが、それもそうだろう。

 まともにやったら、勝てるはずもない戦力を、誰であろう鎬昴昇が今、一番実感していた。

 

 そう、勝てなかっただろう。

 範馬刃牙と闘争(たたか)っていた頃の自分なら──

 

 昴昇は再び構えた。

 焦点が定まらぬまま、左を打った。

 必然、打ち下ろしになる。 

 急所は狙いづらい。

 しかし、それでもいい。

 どこを狙っているわけでもない拳である。

 どこかに当たれば、それでいい──

 そういう拳を、ナットーは右に避けた。

 休まず、昴昇は右を放った。

 それを、ナットーは左に避けた。

 蹴りを放った。

 必然の下段蹴り。

 ナットーは腕でそれを逸らした。

 そういうやりとりが、数手分続いた。

 

 昴昇が距離をとった。

 くく、とナットーが嗤った。

 

 立ちすくむナットーの腕が、自身の血に染まっていた。

 

 一方で、その姿を見下ろす昴昇は、自身の中に攻撃の姿勢が整ったことを実感していた。

 

 

8.

 

 

 強くなりたかった。

 今以上に、強くならねばと誓っていた。

 

 範馬刃牙に負けた。

 そして、兄も、範馬刃牙に負けた。

 

 最大トーナメントの話を聞いて、昴昇がまず思ったことは、現在(いま)のままでは範馬刃牙に勝てない、ということであった。

 

 昴昇は自らの師を訪ねた。

 免許皆伝を受け取りながらも、恥も外聞も捨てて、強くなる術を己の師に求めた。

 師の住まいにて、座布団を退けて頭を下げた、昴昇の生真面目さをまっすぐ受け止めながら、師は言った。

 

「今のおまえに、教えることはない」

 

 と。

 皆伝を授けたのは並々ならぬ思いがあってのことだと、師は続けた。

 もはや、鎬昴昇という逸材を、自身が研磨することはできないと断言した。

 

「しかし、わたしは……わたしは今より強くならねばならないのですッッ!!」

 

 それでも、昴昇は食い下がった。 

 昴昇もまた、並々ならぬ思いを抱えて師を訪ねていた。

 師は──諦めのように息を吐いた。

 そして、言った。

 

「今のおまえを鍛えられそうな男を紹介しよう」

 

 と。

 師は、メモ用紙にボールペンで住所を書き殴り、昴昇にそれを渡した。

 

「一応、わたしからも話は通しておく。気難しい男だが……きっと、おまえの助けになろう」

 

 その男の名を、昴昇は訪ねた。

 

「その男の名は、倉本鉄山。部位鍛錬を極め、あらゆる他流を実戦で制した『超人』と呼ばれる男よ」

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。