【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願いします
1/18 誤字修正 報告ありがとうございます
※誤字まみれで本当にすみません!!


第三話:伸ばした手

 

0-1.

 

 

「鎬よ、手を潰されたならどうする?」

 

 滝行に身を投じる鎬昂昇にそう問うたのは、黒木玄斎であった。

 

 あのあと、鎬昂昇は師の教えに従って、倉本鉄山をたずねていた。

 およそ立派な門構えとは言えぬ、掘立て小屋のような道場を前にたじろいでるうちに、拳術館師範の金田長英に背後から声をかけられ、道場破りと勘違いした金田と互角の勝負を行った。

 金田の正拳突きを躱し、返しの指刀で四肢を斬りつけられた金田は、そこから血を拭って舌でペロリと舐めながら、

 

「スピードもキレ味も大したもんや……しゃあけど、破壊力がないわっ」

 

 と、昂昇の打撃を切り捨てた。

 昂昇には耳の痛い話であった。

 数手のやり取りで、自分と金田を比べるなら、自身の方がスピードや技のキレは上だったが、パワーやタフさでは金田の数段下にあることを実感していた。

 金田の筋肉を、昂昇の指刀では斬り抜くことができなかったのである。

 金田の筋肉は硬かった。

 肉に指をかけた瞬間、凄まじい負荷を感じたのである。金田の筋肉は、硬く、重く、無機質でさえあった。まるで、ひとの形をした鉛の塊のようである。

 昂昇の知る強靭でタフな筋肉とは、鋼の如く鍛え込んだ筋肉の上から、分厚い脂肪をかぶせ、その上からうっすらと筋肉をしつらえたものであった。

 主にプロレスラーや力士が鍛えるような、粘り強い筋肉がこれであり、これは現代では重量級の総合格闘家の標準的な身体の作りである。

 筋肉を打たれ強く育てる場合、筋肉だけを鍛えるのは間違いである。打たれ強い肉体とは、ある程度の柔軟性と弾力性を併せ持たなければならない。

 理由は単純で、筋肉に限らず物質とはただ硬いだけだと、外部からの衝撃を一〇〇パーセント受けてしまうからだ。

 物体にかかった衝撃を適度に逃すには、物体に波立たせる()()()()()や余白が必要なのである。

 例えば人間の骨はその中身、特に中心部は大まかに言って空洞になっている。これは骨の内部に神経の通る道を作っている以外に、骨そのものの強度を上げるためにそうなっている。

 中身までぎっちり、隙間なく詰まった物質は、外部からの圧力を逃す余白がないために、却って脆く崩れやすくなるのである。

 だから、人間の骨は壊れにくくなるための進化として、内部に細かな余白を持たせているのだ。

 武術に扱う筋肉においては、この余白とはすなわち脱力のことを指す。

 かの『天下無双』、宮本武蔵の自画像にも現れる『脱力』こそが、武術家の目指す自然体の境地である。──つまり、武道家にとって筋肉をひたすら鍛えるというのは、あくまで緊張と脱力の両輪を、高いレベルで行使するための道中にすぎない。

 武術を極める過程で、ある段階からは、余計な筋肉を捨て去らねばならなくなる。

 だが、連日試合をこなす必要があり、観客に己の大きさ、太さ、強靭さを見せつけなければならないプロレスラーや相撲取りは、職業柄これができない。だから彼らは己を大きくしつつ壊れないために、鍛えた筋肉の上に、程度の差はあれ脂肪をかぶせるのだ。

 

 もし、大相撲をやるとして、身体をボディビルダーのようなカタチに鍛えていたとすれば、どれほどの怪力を誇ったとしても、その男はたった一度の取り組みで筋肉が壊れてしまうだろう。

 

 だが、金田長英は違った。

 身体を、筋肉を、まるで鉄の如く鍛えている。そこにあるのはただひたすらに重く、ただひたすらに硬く、それのみを追求した肉体であった。

 武の道理を超越──あるいは叛逆した思想によって造られた肉体である。このような筋肉に生半可な打撃をふれば、打った拳の方が壊れてしまうかもしれない。

 この世界で最強のパンチとは、最強最硬の拳を、最速のスピードで放つことを言う。

 直喩すれば、範馬勇次郎のように殴ることを言うのだ。

 当たった部位を全て粉砕する拳を持てれば、いかなる高等技術も些末なものにすぎなくなる。

 金田のパンチはそういうものであった。

 スピードこそさほどでは無いものの、その拳が身体のどこに当たっても致命打になりかねないほど、磨き抜かれた鈍器である。

 

 昴昇が金田を評すると同じく、金田もまた、昴昇を評価していた。

 実のところ、昴昇の打撃はとてつもなく鋭かった。

 筋肉を絞めるのがかろうじて間に合っているからこそ、防御できているにすぎなかったのだ。もし、高度なフェイントをかけられ、筋肉を緩めた部位を抉られれば、皮膚はもちろん、肉が容易く削ぎ落とされるのを予感していた。

 

 互いの緊張感がMAXに達しようとした時、道場の戸が開き、中から怒鳴り声が上がった。

 鉄のような声が、ガツンと耳に届き、二人がそちらを見る。

 

 そこに立っていた男こそが、拳術館道場の主である倉本鉄山であった。

 

 

0-2.

 

 

 鉄山は昂昇を道場に招き、対座になった。

 全く躊躇なく、昂昇の間合いの中に、鉄山は先に座したのである。

 その斜め後ろに金田を下がらせて、座らせていた。

 それに、昂昇が思うところはあったものの、それは口にも態度にも出さず、そのまま大人しく正座した。

 道場はこざっぱりしており、塗装の剥げた板張りの床に、使い古した巻藁打ちの器具とサンドバッグが吊るしてある他は、隅っこの方に試し打ち用だろうブロックや石が転がっているだけである。

 汗の臭いと、錆やカビの香りが薄らと鼻腔を震わせた。昂昇には嫌いではない空気であった。

 目の前にした倉本鉄山は、まさに巌のような男であった。

 膨れ上がって大きく前にせり出した額に、角質が固まってざらついた手。指が太く、ころりとしている。

 いうまでもなく、部位鍛錬を極めた男の手だ。目見に現れる迫力が、金田とは比較にならない

 相当に着潰した空手衣を着ている。

 鋭い眼光であった。

 態度こそ粗雑に見えるが、己には一分の隙もないのだと黒い瞳が訴えている。

 達人の空気を纏う男であった。

 金田と対峙した時以上の緊張感が、ざらりと昂昇の肌を撫でた。

 

 鉄山が口を開いた。

 

「鎬くん……せっかく来てくれたのに申し訳ないが──ワシが、きみに教えることはない」

 

 つう、と昂昇の瞳が大きくなった。

 そんなバカな。

 という思いが滲んでいた。

 

 倉本鉄山──『超人』と呼ばれた空手家である。激しい部位鍛錬を己に課し、五体を凶器化させた男だと聞いている。

 その腕は、他流試合で無敵を誇り、友のためにヤクザの事務所に乗り込み、日本刀や鉄砲で武装した男たちを無傷で返り討ちにした仁義の男であるとも聞いていた。

 空手家として、愚地独歩や松尾象山ほどの知名度はないが、マニアの間ではその二人に並びうる実力とも言われている。

 そして、その噂がただのデマかせではないことは、こうして対峙していると嫌というほど納得できた。

 倉本鉄山は、今の自分より強いかもしれない。少なくとも、戦えば無事にはすむまいと確信がある。

 

 そんな男が、なぜ、そんなことを言うのか──

 

「鎬くん」

 

 昂昇の狼狽を察したか、思いの外柔和な口調で、鉄山は語り出した。

 

「鎬流空手──その結実が、ワシら拳術館のカラテと近しいことはわかる」

 

 だから、ワシを訪ねてきたのだろう。

 懐疑の目が、じろりと昂昇を睨んだ。

 こくりと、昂昇は頷いた。

 鉄山は続けた。

 

「しかし、拳術館カラテは五体を、拳を、ハンマーのようにすることを目的としている。手足の指先の変化に重きを置く、鎬流空手とは似て非なるものよ」

 

 鉄山の言い分はこうだった。

 拳術館は、思想的には部位鍛錬空手の始祖たる志誠館の分派であり、その極地は五体を鈍器のように鍛え上げることにある。

 対する鎬流空手は、五体を凶器化することは同じであっても、その凶器性は刃のそれである。

 木版に指突で穴を開けるぐらいなら、拳術館空手でもできる。垂木を手刀で断つこともできるだろう。しかし、拳術館はわざわざそれを目的にトレーニングはしない。

 木版が相手なら拳でぶち抜くし、垂木を相手にするなら、やはり、垂木を拳で突き破る。

 近しい鍛え方をし、結果として身につく武は同じとしても、五体の使い方が拳術館と鎬流思想とではまるで違うのである。

 鎬流の戦い方では、木版や垂木を拳で突き壊すことは流儀に沿わない。

 鎬流はあくまで斬撃、斬るのことに特化するのだから。

 

「ましてや、鎬くんは鎬流空手を納めておろうが。キチンと、武器を手にしている──」

 

 一体どこから仕入れた話なのか。

 鉄山は昂昇の武のレベルを見抜いていた。

 先の金田との小競り合いを、最初から見ていたというのか。

 あるいは、こうして対座した微かな振る舞いから実力を測り切れるほど、鉄山の観察眼が優れているということか。

 鉄山の視線は強い。

 昂昇に、異論を挟む隙を残さぬほどに。

 

「しかしッッ!!」

 

 昂昇は言った。

 正座のまま、前のめりになった。

 

「わたしは、強くなりたいのですッッ!!」

 

 範馬刃牙に負けた。

 自分が敵わぬと知る、兄すらもがそうだった。

 このままでは勝てない。

 それは、最大トーナメントだけの話ではない。

 このままでは、範馬刃牙に勝てないのだ。 

 範馬刃牙をも倒しうるような男たちの、誰と戦っても勝てないのだ。

 今の自分は限界にぶち当たっている。

 強くなりたい──

 しかし、どう強くなればいいのかわからない。

 皆伝の名が泣いていた。

 鎬昴昇の培った武技が苦しんでいた。

 だから、恥を偲んで師の下を訪ね、諭されてなお食い下がり、こうしてここに在り、百戦錬磨の倉本鉄山に教えを乞うているのである。

 真剣そのものな、切実たる言葉に、さしもの鉄山も口を閉ざした。

 

 そして、ふ、と息を漏らした。

 緊張が、するりと解けていた。

 鉄山はすっ、と立ち上がり、踵を返した。

 昴昇の視線が後を追う。

 行く先には、電話があった。

 今時珍しい黒電話である。

 

「鎬くん」

 

 鉄山は、背を向けたまま、言った。

 

「たらい回しにしてすまんが、ある男を紹介しよう。その男はワシの古い友人で、()()()()()()()に限れば、ワシを凌ぐやもしれん男や」

「──松尾象山ですか?」

 

 倉本鉄山と松尾象山が友人であることは、知る人には知る話である。

 半身になって昂昇を見下ろしつつ、鉄山は首を横に振った。

 松尾象山以外に、鉄山にああ言わせる空手家が存在するというのか。

 

「その男は黒木玄斎というてのぅ。怪腕流空手を極めた空手家……かつて、ワシと苦楽を共にした男や」

 

 

1.

 

 

 昂昇の打撃が煌めいていた。 

 はるかに小さい、的の少ないネルーニョに対し、自身を上回る筋力をもつネルーニョに対し、昂昇は果敢に攻め込んでいた。

 滑らかな連打であった。

 自信に満ち溢れた打撃であった。

 手と足が、目まぐるしく打ち込まれていく。

 その全てが刀の鋭さを帯びていた。

 手刀と足刀。

 ネルーニョは身体を左右に細かく振り、的を散らしながら、両腕を使ってその場で捌いている。

 致命打は、ない。

 捌きのレベルもかなりのものだ。

 だが、昂昇の打撃が打ち抜かれるたびに、その引き手に合わせて真新しい鮮血が、微かに吹き出していく。

 打撃から逃げるように、ネルーニョが跳び退いた。

 それを、昂昇は追わない。

 地に足をつけ、腰を座らせ、両の手を前後に備え、澄んだ目でネルーニョを捉えていた。あくまで待ちの姿勢である。

 その心が十分に落ち着いていた。

 余裕が現れた構えであった。

 

 わああっ、と観客が湧いた。

 歓喜の中には、昂昇への賛辞が強かった。

 もとより、観客の中には先の試合にて、範馬刃牙との激闘を見届けたものが多い。

 鎬昂昇は強い!

 己が期待を上回るほどの昂昇の強さに、自己認識の正しさを後押しされた喜びが混ざっている。

 

 だが、なにより美しかった。

 

「なんて……しなやかなんだ」

 

 刃牙が言った。

 加藤が、ぎり、と噛み締めた。

 空手家としての嫉妬心(ジェラシー)の現れである。

 何があった──鎬昴昇?

 刃牙は、加藤は、胸中で問いかけていた。

 ひと皮剥けたどころではない。

 別人のようである。

 あのようにしなやかに伸びる手刀は、刃牙が戦った時の鎬昂昇にはなかったものだ。

 どっしり腰を据えた立ち姿、あの落ち着きはなかったものだ。

 自分と戦った時の昴昇は、力を持て余していたためか、もっと荒っぽくて、かくばっていて、ザラついた空気を纏っていた。

 だから隙が多かった。

 打撃は粗く、素直が過ぎて軌跡が読みやすく、代名詞の『紐切り』にしても、不完全なワザだった。

 刃物に比肩する四肢を持ちながらも、あの時の鎬昴昇は、それを全く活かせていなかったのだ。

 

 愚地独歩がほほぅ、と声を漏らした。

 試合開始時の不穏は、もはや払拭されていた。

 獅子尾龍刃も、黙して昂昇に目を奪われていた。予想していた事態と、あまりにも現在が違い過ぎている。

 ビスケット・オリバは、静かに微笑していた。

 

 

2.

 

 

 ネルーニョが大きく下がった。

 昂昇の間合いの外に跳び退いた。

 昂昇は、やはり、それを追わない。

 腰を落とし、手を前後に構え、ここが自陣であると憚らない態度である。

 誘いには乗らない。

 自らを崩さない。

 打突は、当たり前に、手の届く距離でなければ効果はない。

 ネルーニョのリーチは短いから、必然的に大きく踏み込んでくる。だから、呼吸を読む。相手の息に合わせて、攻撃する意図を読み、タイミングよく手を出せば、容易く後の先を取れる。

 堅牢な城が如く、昂昇の存在が闘技場に鎮座していた。

 

 ネルーニョの四肢に血が滴っていた。

 真っ白なスーツが真紅に染まっている。

 捌きに用いた手足が、スーツ越しにさんざ斬り付けられたからだ。

 自身の膝下程度のネルーニョの身長を、まるで苦にもせず、恐るべき精密さの昂昇の斬撃であった。

 

「フフ……」

 

 しかし、ネルーニョは不敵に笑った。

 甲高い息が、歯のない口からひと塊となって吐き出されている。

 まだ、余裕があった。

 ぺろりと、愛おしそうに、腕の血をすくって舐めた。

 

「スゴイわぁ、昂昇ちゃん」

 

 眼を見開いて、口角を左右に広げて、言った。まるで爬虫類の威嚇のようであった。

 スーツを、ゆっくりと抜いだ。

 

「アナタの手足は刃物そのものね。そこまで鍛えるのに、一体どれほどの苦痛を乗り越えてきたのか──」

 

 シャツを脱いだ。

 二頭身の肉体が露わになった。

 そこにあったものは、悍ましく圧縮された、肉の塊である。

 ひと目で、それが()()()の肉体ではないことが伺えた。

 現れた異形に、昂昇はたかぶる心を抑えんと、す、と浅く息を吸った。

 シャツを脱いだ瞬間、ネルーニョの身体から、不気味な気が立ち昇っているのが見えた。

 空間を歪ませるほどの邪気である。

 妖気といって差し支えない、おどろおどろしい闘気であった。色で唱えるなら、鮮血と灰を織り交ぜたような不気味に彩られている。その表面は艶かしい量感さえ備えている。

 必然、昂昇の警戒心が高まった。

 それを、まるで無視して、ネルーニョは得意げに語り出した。

 

「アナタが、その素晴らしい才能と時間を費やし、苦痛と難行を乗り越えて手に入れた武器(それ)。まるで刃物の斬れ味なのは認めるわ。……だけどね、所詮、()()()()なの」

 

 人間が鍛えて至れる極地。

 手足をより硬く、より強いもので研磨し続けて手に入れた、刃物に比肩する手足。

 並べた針金を指先で斬り捨て、バスケットボールを苦もなく破裂させるほどの四肢の凶器化──

 確かにスゴイことよ。

 凡人では決して辿り着けないもの。

 ……だけどね、人が人を殺す時に、そんなものはね、()()()()の。

 

「…………」

()()武神、愚地独歩でさえ、鍛えた拳足の評価は()()()()()()に落ち着くわ。……この意味がわかる? 斬れ味に差はあれど、今時この国でも、刃物なんてその辺に売ってるでしょう?」

 

 人が人を殺す。

 それを目的とした場合、凶器を持つことは自然であり合理である。

 人を殺す際に刃物や銃を用いるのも合理である。

 つまり、わざわざ手足を鈍器や刃物のようにする必要はないのである。

 人を殺すために、害するために。

 苦痛と難行を持って、時間を費やして、ようやく手足で刃物の斬れ味を再現するなら、ナイフを買ってそれを使用(つか)えばいいではないか。

 武道とは、なんと意味のないことなのか。

 アナタたちの歩んだ道の、なんと無駄なことなのか──

 ネルーニョはそう言っているのだ。

 

「人を殺傷する術を求めるのが武術ってモンよ。それは理解してるわ。だけど、人を殺傷することにのめり込みすぎて、本来全く必要のない労力を己に課すのでは、本末転倒じゃないかしら?」

 

 ネルーニョは仰ぐように手を広げた。

 顔を、少し俯かせている。

 その顔は、歪んだ笑みを携えていた。

 その手が指し示すものは、ネルーニョが問いかけているのは、この空間──つまりは地下闘技場そのものにであった。

 

「あたしから言わせてみれば──ここで行われることは、しょせん、真剣勝負(リアル・ファイト)()()()。"無手の勝負"という『美学』を言い訳に自慰(オナニー)を比べ合う場所よ。本当にその手足で人を、それも大勢を相手に、思う存分殺傷(セックス)したいのならアナタは戦場に出るべきなのよ。わかる? 昂昇()()()……」

 

 聞くべきではない──

 理性はそう言っているが、心はそうもいかない。昂昇の心が少しざわついていた。

 ネルーニョの侮辱の真の目的は、心を乱すことだ。

 逆に言えば、今の自分には隙がなく、攻め手に欠けているということ。

 攻められないから口撃で心を乱し、隙を作る。兵法の基本である。

 焦るな。

 これは、自分が優位に立っている証拠だ。

 

 昂昇はまた、浅く息を吸って、細く、それを吐き出した。

 ネルーニョは変わらず不気味に笑っている。

 焦るな。

 焦るな。

 

「それじゃあ、あたしもチョットだけ、本気でやるわね」

 

 ネルーニョはそう言って、拳を固めて脇に引き、腰を落とした。

 鎬昂昇の腹に、弾丸のごときネルーニョがぶつかっていった。

 

 

2.

 

 

 疾い──ッッ!!

 

 小さな塊が、さらに小さくなって、限界まで縮こまったバネが弾けるようにネルーニョの身体は躍動した。

 昂昇に向かってまっすぐに、地面と水平に飛んできた。

 昂昇にその速度たるや、昂昇の反射速度をわずかに上回る。

 だが、厄介なことは、あまりにも位置が低いことだった。

 拳による迎撃ができない。

 必然、蹴りを選択した。

 地面を掬い上げるように、右の前蹴りを打った。

 それを、突進の最中でありながら、ネルーニョは楽々と右手で掴んで見せた。

 蹴りが持ち上がるのに身を任せ、ネルーニョの身体が昂昇の顔の前にぞろりと並んだ。

 

「あら、近くで見るといい男ね」

 

 そんな言葉を聞いた気がする──

 

 昂昇の顔面、鼻っ柱にネルーニョの拳がめり込んだ。

 

 昂昇が、顔面から大きくのけぞって吹き飛んだ。血の飛沫が激しく飛んだ。

 一瞬、一撃で、昂昇の意識が無我と自我の狭間を彷徨った。

 あんな小さな拳で、車に撥ねられたような挙動である。

 だが、真に不可思議なことは、その直後であった。

 

 ──ッッ!?

 

 昂昇の身体が、のけぞりの姿勢のまま、ぴたりと止まったのである。

 観客や格闘士にも分からなかったし、昂昇自身も訳が分からなかった。

 

 宙空にあるネルーニョの、前蹴りを掴んだ左掌が、()()()()()()()、掌底のカタチで昂昇の右足の、胴着の脛の部分に張り付いていた。

 

 空掌──ッッ!?

 

 葛城無門が、目を見開いた。

 見間違えるはずもない。

 指を揃えて伸ばし、ほんの気持ちゆるやかに曲げた掌が、物体や肉に吸い付く技と言えば、それしかない。

 あのワザは無門にとって、あらゆる意味で人生を変容(かえ)た技だからだ。あれは、あの、柳龍光の代名詞のひとつなのだから。

 

 獅子尾龍刃が柵を握りつぶした。

 

「空掌──やっぱ、使えるのか……」

「マスター国松は彼の弟子だ。使えんハズもない」

 

 オリバがあいづちを打った。

 龍刃は、ネルーニョはこの世でメジャーと言える殺人術のほとんどを収めていると聞いていた。

 空掌の達人たるマスター国松にしても、彼の弟子のひとりであるとも。

 とはいえ、ネルーニョの手は、国松のそれと違い、見た目は赤子の手のようである。

 その手で、空掌がやりにくいとされる、軽くて表面に波が打たれる胴着の一部を吸い付ける技量は恐るべしと言わざるをえない。

 

 無門たちに遅れて、昂昇も、回転の鈍った頭で解に辿り着く。

 胴着が吸い付いている。

 ネルーニョが地面に降りても、まだ。

 

「ホラ、どうするの?」

 

 綽々の態度で挑発するネルーニョの顔に、昂昇は手刀になぞらえたストレートを振った。しかし、それは簡単に的から外れていく。

 ネルーニョがほんのわずかに左手を外側に回したからだ。

 空掌に紐づけられた昂昇の足が大きく動いてバランスが崩れる。だから、手刀がまっすぐ飛ばない。

 

「──ッッ!!」

 

 ネルーニョは左手をそのまま、大きく自身の背後に振り回した。

 昂昇の身体が、大した抵抗もできずに振り回されて、尻餅をついて倒れた。

 顔の高さが下がった。

 ネルーニョの、拳の間合いに。

 

「じゃあね」

 

 唇をちゅ、と鳴らして、ネルーニョの右拳が昂昇の顔面に突き刺さった。

 

 

3.

 

 

 昂昇は派手に吹き飛び、大の字になって地面に寝転んでいた。

 勝負を決めた一撃のように思えた。 

 だが、徳川光成は裁定を求めなかった。

 ざわっ、と闘技場の空気が膨れ上がる。

 

 ネルーニョの首筋から出血があった。

 そして、彼の顔が呆気にとられて周囲を、何かを確認するように見回していた。

 鎬昂昇の対戦相手が()()をするとき、それが何を意味するのか多くが知っている。

 

 『紐切り』が成功したのだ。

 

 昂昇は、ネルーニョの拳を防御しなかった。

 というより、もう防御が間に合わないことを悟って、瞬時に攻勢に切り替えた。

 死を齎しかねない拳を前に、昂昇は冷静に、ネルーニョの首に埋まる視神経を両断したのである。

 

 これが何を意味するか。

 昂昇はまだ、戦う()る気だ!

 

 

4.

 

 

 ゆっくりと、息を整えながら、昂昇が立ち上がった。

 それだけで、闘技場から拍手が湧く。

 潰れた鼻を戻し、血と涙と鼻水でドロドロになった液体を吹き出して、昂昇はネルーニョを見据えた。

 

 すごい。

 と、刃牙がつぶやいた。

 

 昂昇は、自らに言い聞かせる。

 まだ動ける。

 手を、少し握った。

 力がしっかり行き届いている。

 足は? 

 地面の感触がある。

 腹は?

 重心の位置が確かにわかる。

 なら大丈夫だ。

 イケる。

 だったらイケるぜ。

 立ち上がれたのは、兄貴のおかげだ。

 このぐらいは、予想していたからだ。

 元々、あの超人的肉体を持つ兄貴とヤりあうつもりだった。

 だから、この程度のダメージは想定内だ。

 ぶちのめされることは、わかっていた。

 無様に転がされて、追い詰められることはわかっていた。

 兄貴だけじゃない。

 このトーナメントに参加する、誰と戦っても、無傷で勝ち上がれるとは露とも思っていなかった。

 その覚悟が、昂昇の意識を肉体に残した。

 その覚悟の量を、ネルーニョも、刃牙たちも見誤っていた。

 

 

5.

 

 

「オモシロイわねェ……」

 

 一方のネルーニョは、半分になった世界を楽しんでいるようである。

 まるで苦にしていない。

 周囲をキョロキョロと見回して、現れた非日常を満喫している。

 

 そこに、昂昇が踏み込んだ。

 切ったのは、右目。

 だから、死角となる右から攻める。

 拳を打つ。

 ネルーニョが、こともなげにそれを捌かんと手を翻した。

 拳が止まる。

 フェイント──

 本命は、右のローキック。

 ネルーニョには完全に見えていない。

 

 ──ハズだった。

 

 ローキックはネルーニョに撃ち込まれた。

 だが、防御された。

 立てた右腕と、その腕を支えるように、肘に添えられた左腕によって止められた。

 これだけの体格差があるのに、ネルーニョは岩石の如く鎮座し、びくともしなかった。

 そして、蹴り足が戻される前に、再び、ネルーニョの左掌が、今度は足の甲の、生身の部分にぴたりと止まった。

 

 ぞくりとする感覚が、昂昇の背を駆けた。

 

 ネルーニョが左手を乱暴に、捻りを入れながら振り払った。

 昂昇の右足の甲が、ぞぶり、と鈍い肉音を立てて引き剥がされた。

 

 

6.

 

 痛い──ッッ!!

 

 足の甲が、まるまる引き剥がされた。

 肉の断面が丸出しになって、骨まで見えていた。

 あっという間に血が溜まり、ボロボロとこぼれ落ちていく。

 昂昇の、もはや昂昇のものではないモノを、ネルーニョは投げ捨てた。

 昂昇の顔に向かって。

 

 躱さない。

 眼も閉じない。

 昂昇は痛みに耐え、あくまで冷静な対処に努めた。

 目潰しを無視して痛みを我慢し、飛び上がってきたネルーニョに向かって左の指刀を踏み込んで打った。

 

 その左腕が、手首の部分からへし折れていた。ネルーニョのショートアッパーは、昂昇の顔でも腹でもなく、最初から狙い澄ましていた部位破壊を行った。

 空手家の四肢の先端は凶器だが、その内側、特に関節部位は脆い。

 昂昇はへし折れた自身の左手を戻した時、自身の動きがネルーニョに操作されていたことを実感した。

 そして、この試合の中で、自身の武器が半分になってしまったことも、理解していた。

 

 

7.

 

 

 よく戦ったよ。

 そんな声が、観客席から聞こえ出した。

 誰の目から見ても、もう昂昇に勝ち目はなかった。

 

 甲の外れた右足は力をこめられず上擦り、左手は重力に逆らう術を失い、手首が腫れ上がって項垂れている。

 対するネルーニョは不気味に笑っている。

 

 誰の目から見ても、昂昇に勝ち目はなかった。

 

 格闘士たちの多くもそう思っていた。

 彼らが脳裏に浮かべるものは、既にこの試合の勝敗ではない。「自分だったら、どうやってネルーニョを倒すか?」というシミュレーションに意識を移している。

 

 だが、徳川光成は裁定を遮った。

 鎬昂昇を見出し、この場に導いた光成は信じていた。

 まだ、なにかをやってくれるのではないか、と。

 斑目貘は澄んだ瞳で闘技場を見つめていた。その背後で、夜行妃古壱が静かに、部下に指示を出している。

 

 ネルーニョを前に、鎬昂昇は足を前後に広げて腰を落とし、両手をすっ、と持ち上げた。

 

 戦うための構えをとった。

 ネルーニョの顔に不機嫌さが滲んでいた。

 昂昇が、構えをとったことに対する嫌悪ではない。

 

 この状態において、まだ、眼の光が死んでいないことに対する嫌悪であった。

 

 

8.

 

 

 ──鎬よ、手を潰されたならどうする?

 

 黒木玄斎に問われた時、昂昇は最初、質問の意味がわからなかった。

 しばし考えた後、「手を潰されないように戦います」と答えると、

 

「では、それでも潰されたなら、どうする?」

 

 と、黒木は聞き返した。

 昂昇は唖然とした。

 滝から前に出て、両手を持ち上げて、己の拳を見た。

 

 わかりません。

 そう答えるしかなかった。

 黒木は沈黙し、滝から出て、共に修行を課していた中田一郎を呼び出した。

 

「では鎬よ、手足を使わずに一郎と戦ってみるがいい」

 

 無茶苦茶なことを、黒木は言った。

 そして、昂昇は一郎こと理人に敗れる。

 当たり前の話であった。

 理人は自由に手足を支えるのに、昂昇は手足を攻撃にも防御にも使えない。

 空手家から四肢をもぎ取れば、何が残るというのか。

 黒木は同条件の試合を何度もやらせた。

 昂昇は全く歯が立たなかった。

 次第に苛立ちが沸き、とうとう黒木につめよった。

 

 ──手本を見せていただけないか。

 

 四肢を使えない状態で、ある程度実力のある相手にどう戦えるというのか。

 皮肉混じりの昂昇の言葉に、黒木は一切反論せず、張り切る理人の前に立った。

 

 そして、あっさりと勝ってみせた。

 

 鎬は息が詰まる思いだった。

 黒木は、意気揚々と拳を出した理人の間合いに入り込み、その鼻っ柱に頭突きを見舞って昏倒させた。

 気絶から目覚めた理人が再戦を願うと、今度はローキックを外に躱して死角に滑り込み、膝を理人の尻の下に潜らせて、肩から体当たりで理人の重心を崩して姿勢を乱すと、起きあがろうとした理人の鼻の先に膝を当てて降参に追い込んだ。

 

 何度やっても、黒木玄斎は手も足も使わずに、理人に勝ってしまった。

 

 ──ッッ!!

 

 武の次元が違う。

 怪腕流の空手は、四肢を凶器化させることを旨とすると聞いていた。

 "魔槍"に例えられる黒木の四肢の鋭さと重さは自惚れてはなく昂昇のそれに匹敵する。

 だが、黒木の真の強さはそこではない。

 それを思い知った。

 

 怪腕流の修行は、拳が潰れても腕が折れても行われるという。

 それ自体は、部位鍛錬の空手にとっては不思議なことではない。

 黒木玄斎が違うところは、それが、ただ鍛えるためではないところだった。

 実戦において『たられば』は意味がない。

 同時に、『確実なこと』も、何ひとつ存在しない。

 四肢を砕かれることがあるかもしれない。

 五感を奪われることがあるかもしれない。

 不意打ちをされ、先に平衡感覚を失うかもしれない。

 フィニッシュ・ブローを決めても倒れないかもしれない。

 それらの逆もしかり。

 ならば、腕が潰れた時にどう戦うのかを考える。

 五感を失った状態で、どう感じるのかを考える。

 平衡感覚を失っても、問題なく身体を動かせるように鍛錬を積む。

 

「鎬よ、()()()刃と化すのではない。()()刃と化すがよい」

 

 五体を武器とするのではなく、己を武器とせよ。

 腕が、刀なのではない。

 己が刀なのだ。

 全身全霊で鎬昂昇を刃にせよ。

 その意識を持って鍛錬せよと、黒木は言っていた。その境地に至れたのならば、たとえ戦いの最中に腕を潰されようと、足を失おうと、顔だけになったとしても、鎬昂昇は鎬昂昇として戦えるのだと。

 力を持て余していた昂昇の過去は、そのまま武器を持て余していた未熟の過去であった。

 範馬刃牙と戦った時もそうだ。

 がむしゃらに、素直に、武器の威力に身を任せていた。

 優れた武器を持っている──ただそれだけに過ぎなかったのだ。

 ならば、いかに斬れ味のある手足を持っていても、刃物を持った素人と違いはない。

 鎬流空手が至らないのではない。

 鎬流空手を極めていなかっただけなのだ。

 

 ならば、鎬昂昇のやるべきことはひとつだ。

 鎬流空手を極めること──

 この道を歩む。

 迷い、

 振り返り、

 導かれ、

 鎬昂昇は答えを見つけた。

 己が、どんな武道家になるべきなのか。

 己が、どんな武道家へ至るべきなのか。

 

 ──成ったな。

 

 どこかから、あの巌のような声がしたのを昂昇は感じていた。

 

 

9.

 

 

 ネルーニョの眼前にそれは現れた。

 巨大な、成人男性ほどもある、日本刀であった。

 霞がかったように研ぎ澄まされた、抜き身の刃が佇んでいる。

 ひとえに()()()()見えているのは、そう見うるほどに習熟されたネルーニョの拳境ゆえであるが、()()映るほどに練り込まれているのは鎬昂昇の纏う気である。

 これとよく似た光景を、過去に見たことがある。

 "伝説の殺し屋"──『百龍(パイロン)』が、この全身凶器の気を纏っていた。

 あれとそっくりだ。

 なるほど、今の鎬昂昇とは、その拳境にある。

 眼の光が死んでいないのも、まだ、勝てると思っているからだ。

 全く忌々しいが、ナメてかかるには危険が過ぎるか。

 

()()()

 

 言った。

 

「ヤるじゃない」

 

 愛嬌心と、嫌悪感の狭間の調子であった。

 

 ネルーニョが半身に構えた。

 片目のハンデを消すためだ。

 こうすれば、正面から斜めまで視野角を広げられる。

 背後に回り込まれない限り、死角がなくなるのだ。

 そのまま、ネルーニョは後ろ足に力を溜めて、静止した。

 

 気づけばしん……と静寂が闘技場を支配していた。

 ひりついた空気が、ふたりの男の一挙手一投足を縛り上げているようである。

 

 次に動く時、終わる。

 それを誰もが理解していた。

 刃と無手で対峙する緊張感を知るものは少ないが、おそらく、観客の心地もそうだったに違いない。

 言葉を殺し、態度を殺し、固唾を飲んで見守っていた。

 

 

10.

 

 

 先に動いたのはネルーニョだった。

 闘技場の砂が大きく吹き荒ぶ強烈な蹴り足。

 砲弾のように全身を、頭から昂昇に向かって撃ち飛ばした。

 対する昂昇の選択。

 なんと、折れた左手による突きである。

 手首が折れ曲がったまま、昂昇はそれをネルーニョに向かって差し出した。

 

 ぐちゃっ、

 拳が潰れた。

 ネルーニョがわずかに顎を沈め、頭頂部で手を受けたのだ。

 手首の骨が粉砕しただろうか。

 だが、その甲斐あって、ネルーニョの勢いががくんと落ちた。

 ネルーニョが空中で身を捩ったが、昂昇の次手の方が早い。

 潰れた手を、昂昇は戻さなかった。

 ネルーニョの眼前から退けなかった。

 刹那の瞬間、ネルーニョの残った視界が塞がれた。

 

「じゃあッッ!!!!」

 

 残った力を絞り出した咆哮だった。

 昂昇の右の手刀が、ネルーニョの鎖骨を寸断し、胸に食い込んだ。

 バチッ、と音がして、ネルーニョが倒れた。

 

 勝った──ッッ!!

 

 昂昇は残心で身構えた。

 肩から血を流して倒れるネルーニョ。

 もう、力は感じられない。

 左腕は潰された。

 右足も失った。

 しかし、鎬流空手はここに完成した。

 

 勝利者コールが鳴った。

 昂昇がふ、と息を吐いて、構えを解いた。

 疲れが、どっと肩にのしかかった。

 思わず顔を俯かせ──

 

「おめでとう」

 

 その声が昂昇の耳に届き、顔をあげた。

 そこに、鎬紅葉が立っていた。

 

 

11.

 

 

「兄さん──」

 

 微笑を携えて、鎬紅葉が立っている。

 紅葉は手を叩いた。

 慰労と、賛美の拍手である。

 

「昂昇、よくやった」

 

 柔らかい音を奏でている。

 何事もなかったように、記憶の通りの鎬紅葉がここにいる。

 

「兄さん……だッ、大丈夫なのかッッ!?」

「ああ、昂昇。オマエが頑張ってくれたおかげで、こうして無事だ」

「……ッッ!!」

 

 昂昇の目元が弛んでいた。

 涙がつう、と流れていた。

 無事だった──。

 それだけで十分だった。

 おれの活躍を見ていてくれた。

 兄貴が、おれを、認めてくれている。

 

 昂昇は涙が溢れていた。

 

「ありがとう」

 

 言葉は震えていた。

 心から湧き出たものは、感謝であった。

 紅葉は()()()()()()()()昂昇に、微笑んでいた。

 

「ありがとう──────」

 

 昂昇の記憶は、そこで途切れていた。

 あとには、暗闇だけが、残っていた。

 

 

12.

 

 

「どーしたって言うンだよォッッ!!」

 

 加藤清澄が吠えていた。

 刃牙は、言葉にこそしなかったが、突然の不可思議に困惑と動揺を隠せていない。

 

 昂昇の手刀がキマった瞬間。

 下品な音を立ててネルーニョがフィンガー・スナップを行った。

 自分から倒れたネルーニョを前に、鎬昂昇は立ち尽くす。

 呆然と、何か……違うモノが見えているように動きを止めた。

 挙句、ありがとうと呟き、頭を下げて泣き出した。

 その間に、ネルーニョは立ち上がり、砂をはらって悠然と昂昇の目の前に歩み、思い切り溜め込んだ拳を昂昇の胸に叩き込んだ。

 

 昂昇はピンボールのように吹き飛び、地面を跳ね、そのままごろりと力なく倒れた。

 

 何があったのか──ッッ!?

 

 闘技場に渦巻く動揺をよそに、ネルーニョはぼそりと、誰にも聞こえない音量で呟いた。

 

「まさか……()()を、ここで使うハメになるとは思わなかったわ……」

 

 獅子尾龍刃とビスケット・オリバ。

 控え室では伽羅などが、何が起こったのかをなんとなしに掴んでいる。

 

 催眠術。

 対戦者の感覚器官に外部から刺激を加え、対戦者の『そうあってほしい光景』を与える術である。

 脳は、強い感情や衝撃に揺さぶられた時、それを誤魔化すためか克服するためか、誤作動を起こす。

 足を欠損した者がシャワーを浴びた際に、欠損した足に水が滴る感覚があったりする。

 高層ビルの屋上から見下ろす地面は、絶対に落ちないようにワイヤーなどで支えていたとしても、根源的恐怖を心に浮かび上がらせる。

 それは、人間に『想像力(イマジネーション)』があるからである。

 未来を予知する力とも言っていい。

 重要なのは、その誤作動は外部からの刺激で()()()()()()()()()と言うことだ。

 

 鎬昂昇の中に眠る根源的な感情が、鎬紅葉に強く揺さぶられることを、ネルーニョはわかっていた。

 

 だから、術にかかった昂昇は『そうあってほしい』鎬紅葉を自身の『想像力(イマジネーション)』で具現化してしまい、まんまと心を奪われたのである。

 

 そしてこれは、地下闘技場のルール違反にはならない。

 地下闘技場のルールは、「武器の使用以外を認める」ことである。

 催眠術はネルーニョの純然たる技術であり、使用しているのは鎬昂昇の想像力なのだから、違反になりようがない。

 

 ネルーニョがシャツを拾って袖を通した。

 まだ、何があったのか審判の中でも判断がついていない。

 しかし、鎬昂昇がもう、立ち上がれないことは確かだろう。

 

 勝負あり。

 

 審判がそう唱えようとした時に、しかし、鎬昂昇は立ち上がっていた。

 

 

13.

 

 

 ゆらゆらと、鎬昂昇は立ち上がった。

 スーツを着ようとしていたネルーニョが手を止める。

 

 左手は完全に潰れている。

 右足は機能不全。

 胸骨は折れて、背骨も歪んでいる。

 なんなら、ネルーニョの一撃は心臓撃ちであったから、心臓が止まっているのである。

 

 それでも、鎬昂昇は立ち上がった。

 

 闘技場がざわついた。

 刃牙たちも言葉がない。

 獅子尾龍刃が飛び出そうとするのを、オリバが止めていた。

 

 ネルーニョが昂昇に向き直る。

 反応はない。

 

 ふう、とネルーニョが息を吐いた。

 そういうこと……と、ぼそりと言った。

 

()()()……」

 

 反応はない。

 ネルーニョは構わず続けた。

 

「紅葉ちゃんは、無事よ。大事に預かっているわ、約束してあげる」

 

 らしからぬ──優しげな語りかけであった。

 言い終わると、ネルーニョはスーツを肩に担いだ。

 振り返るのに遅れて数瞬、鎬昂昇が崩れ落ちる。

 こんどはもう、立ち上がらなかった。

 

 

 一回戦第十六試合:勝者、ナットー・L・ネルーニョ

 

 

 

 




次回、ちょっとしたサプライズの予定です
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