【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

99 / 102
予想を裏切り期待を裏切る話になっていたら幸いです
1/29 誤字脱字の修正と、少し加筆しました


一回戦第十七試合:????対???
第一話:福音を鳴らすものたち


 

 

0.

 

 

 範馬勇次郎は歓喜していた。

 この大会、要所要所に微かな嫌悪感はあるものの、()()()()()()においては、確かにこのトーナメントは地上最大級の闘争である。

 ここまで行われた闘争に対し、勇次郎には必ずしも幸福だけではなく、様々な言い分がありはするのだが、彼は彼らしからぬ気を使って、そのどれもを胸に秘めて、黙していた。

 その心は、かつて犯した愚行からの反省であった。

 まだ十三になったばかりの我が子刃牙を、その成熟を待ちきれずつまみ食いし、朱沢江珠を失ったあの時──

 範馬勇次郎とて、取り返しのつかない間違いを犯すことがある。

 範馬勇次郎とて、曲げられぬ道理が確かにあった。

 範馬勇次郎とて、腕力のもたらす反作用を、学ばねばならないことがあったのである。

 

 だから、今回は焦らない。

 熟すのを待つ。

 闘争には、待つ喜びもまた、甘美に味わう度量が必要だと己に言い聞かせる。

 眼前に並べられているのは、どれもこれもがメインディッシュを担える格を持つ男たちだ。範馬勇次郎をして優先順位を着けることを躊躇わせるほどの贅沢さがここにある。

 ならば、待つこともまた、享楽のひとつ。

 地上最強の頂で、構えていればいい。

 その代わり、勝ち上がり、ここまで登り詰めたものは、丹念に丹念に喰らいあげてやろう。

 

 勇次郎は歩いていた。

 寄り道のない通路を、まっすぐに。

 最初は、気晴らしを兼ねていた。

 いくら戒めようとも、闘争の気にアテられた身体の疼きは──根本的にはおさめる気もないとはいえ──いよいよ歯止めが効かなくなり始めている。 

 適度な距離を置かねば、勇次郎の細胞は、範馬の血は、勇次郎の意思をも侵食しかねない。

 

 そんな時に、ふと、感じた臭い。

 鼻腔を震わす微かな、これは獣臭であろうか。

 範馬勇次郎には嗅ぎなれた香りであった。

 しかし、不思議なことに、嗅ぎ慣れていながら、その臭いは未知であった。

 だから、勇次郎は今、好奇の心に誘われて通路を歩いている。 

 故に、この歩みの目的はもはや、身体の火照りを癒すため──ではない。

 予感があった。

 いや、予感より、確かなものだった。

 近づくにつれて、大きくなる。

 この先に、()()()()()という、確信。

 おそらく、己だからこそ嗅ぎ取れる、消そうとしても消しきれぬ、濃厚にして極上の香りである。

 己の闘争欲を満たすほどの【何か(強者)】が、この先にいる。

 

 たどり着いたのは、行き止まりであった。

 常人ならば、行き止まり。

 勇次郎の足を止めたのは、分厚い鋼鉄製の扉である。

 格子が幾重にも張り巡らされ、その上からも、鋼鉄製の巨大なハンドル式ロックがかけられている。

 銀行の大金庫に用いられるものと遜色ない大装備であった。並の爆弾ではとてもじゃないがびくともしないだろう。

 最も、勇次郎にとってはボロ屋の戸板となんら変わりない代物ではあるが──

 

 この中にいる。

 知らず、髪が逆立っていた。

 その気配にアテられたのか、金庫の中で、何者かが動く気配がある。

 

「良い子だ……」

 

 起き上がっている。

 こちらを見ている。

 オマエの動きが手に取るようにワカる。

 その調子だ。

 出てこい──……

 勇次郎は上唇を翻し、犬歯を剥き出しにして笑っていた。 

 ぎりぃっ、と音がする。

 金属が、尋常ならざる加圧に軋む音である。

 それが、次第に、めき……とこわばった音と鳴り、めき、めきっ……と数が増えていく。

 勇次郎の高なる心音に重なるリズムで、呼応するように金属が悲鳴を上げて捻じ曲がる。

 

 勇次郎の髪が、自身の肉体から立ち昇る闘気にあてられて、ゆらゆらと揺れていた。

 

 

1.

 

 

 一回戦の全行程が終了した。

 勝ち上がったモノたちの二回戦のカードは以下の通りである。

 

 ◼️Aブロック

 第一試合

 ・範馬刃牙vs伽羅

 第二試合

 ・マホメド・アライJr.vs葛城無門

 ◼️Bブロック

 第三試合

 ・羽柴彦六vs獅子尾龍刃

 第四試合

 ・花山薫vs加藤清澄

 ◼️Cブロック

 第五試合

 ・ロロン・ドネアvs丹波文七

 第六試合

 ・加納アギトvs神奈村狂太

 ◼️Dブロック

 第七試合

 ・日下部覚吾vs愚地独歩

 第八試合

 ・ビスケット・オリバvsナットー・L・ネルーニョ

 

 ラインナップを聞くだけで、観客たちは興奮が冷めやらぬ状態であった。

 彼らは隣り合う名も知らぬ同士と、語り合う口が止まらない。

 勝敗予想──

 内容予想──

 選手評価──

 格付け──

 挙句、誰と誰が戦っていたら…というイフにすら想いを滾らせている。

 

 格闘士たちも、勝ち上がったモノたちと負けてしまったモノたちで、各々に想いや思惑を胸に秘めていた。

 

 闘技場の中央に、徳川光成が出てきていた。

 マイクを持っている。

 観客の視線が集まり、控え室の格闘士たちもまた、光成に視線を集めた。

 それらを確認して、マイクテストもそこそこに、光成は話を始めた。

 

『皆の衆に、良いニュースと悪いニュースがある』

 

 ある種の決まり文句を、光成は吐いた。

 例に漏れずもったいぶった口調であった。

 観客たちは懐疑よりも先に、好奇心に胸を躍らせている。まるでロック・スターの歌い出しを待つファンの心地である。

 光成は十分に間をおいて、言った。

 

『まずは、悪いニュースから話そう』

 

 格闘士たちの視線が強まる。

 大半のものが予想しているのは、先ほど最大トーナメントに乱入してきた謎の男、ナットー・L・ネルーニョに関することだろうと思っていた。

 鎬昂昇との試合の後、ネルーニョは斑目貘の──つまりは賭郎主導のもと、格闘士たちとも別の部屋に連れていかれてしまった。

 そこに、光成と滅堂、不知火なども同席して、しばしの間、なんらかの話し合いが行われていた。

 この大会には裏がある。

 それに、一部の格闘士たちは勘づいているのだった。

 

 しかし、光成の口から出た言葉は、ネルーニョとは()()()()()()()()話であった。

 

『第十二試合の勝者である神奈村狂太選手が、棄権を申し入れた。これにより、二回戦第六試合に出場する選手をリザーバーの中から決めねばならん』

 

 この言葉に過敏な反応を示したのは、葛城無門である。

 神奈村狂太が棄権──ッ!?

 考えられない。

 あの、自他共に認める戦闘中毒者(バトル・ジャンキー)の神奈村が、自分から勝負を降りたのかッ!?

 ありえない。

 思ったよりダメージが深かったのか?

 確かに、畑幸吉の攻撃はいやらしいものが多かったと思う。

 試合後、神奈村は平然と振る舞っていたが、肋骨を何本も折られているのだ。

 腰を捻るのはもちろん、力を入れたり呼吸をするのだって、辛い状態なのは間違いない。

 だが、どんなに肉体が痛んでいようと、無門の知る限り神奈村は、戦って得た勝ちを自ら捨てるような人間ではなかった。

 

 控え室の中を、通路を、無門は駆けた。

 神奈村の姿はどこにもない。

 すでに、東京ドームから出ているというのか。

 

「どういうことだよ……」

 

 無門は拳を握った。

 その拳が、小さく震えていた。

 

「無門くん」

 

 その背に、声をかけた男がいる。

 無門が振り返ると、そこに立っていたのは本部以蔵であった。

 

「本部先生……」

「無門くんに、神奈村さんから伝言を預かっている」

 

 無門がす、と半歩分身を引いた。

 無意識の動きだった。

 本部の雰囲気に巻き込まれまいとする無門の経験値が、反射となって現れていた。

 それを察知し、ふ、と微笑を浮かべ、本部は語り出した。

 

 無門クン。

 わたしはワケあって、この大会を後にする。無門クンと再戦できなくなったのは申し訳ないことだけど、今回は縁がなかったと思ってほしい。

 無門クンは疑り深いと思うから、本部さんに伝言をお願いした。直接、わたしの口から言えなくてすまないね。

 無門クン、わたしの辞退は別に無門クンに関係するモノじゃない。

 わたしの、勝手な事情からだ。

 だから、無門クンは、わたしの行動にリソースを割く必要はない。大会に集中して、ぜひ優勝してほしい。

 キミが優勝したら──そこではないどこかで、キミに挑むことにしよう。

 

 頑張ってくれ、無門クン。

 

「…………」

「以上だ。この件について、わたしから特に言うことはないが……最後の二文には同意するよ」

 

 無門くん、是非優勝してくれたまえ。

 本部の口元が緩んでいた。

 嬉々と期待と、ほんの少しの妖気をないまぜにした微笑である。

 

「この本部以蔵も、今度は出来る限りの『武』を発揮できるシチュエーションで、最強になったキミにリベンジしたいからね……」

 

 言うだけ言って、本部以蔵は振り返った。

 無門は、闘技場で見た時以上に、一分の隙もない背中を見届けていた。

 

 

2.

 

 

 無門たちの心境をよそに、光成はつらつらと語り続けた。

 

『次に、良いニュースじゃが……リザーバーの選手には公正を期すために、試合をしてもらうことにする』

 

 刃牙が、斗羽を見た。

 斗羽は葉巻を摘んで口から離し、わたしではない、とかぶりを振った。

 

 最大トーナメントのリザーバーは五名である。

 うちひとりは、マウント斗羽。

 うちひとりが、二代目野見宿禰。

 斗羽に話がいっていないと言うことは、つまり、あと三人の中からふたりが戦うということだ。

 

 誰だろうか。

 刃牙と加藤が目を合わせた。

 疑問と疑問の目であった。

 

「ありゃ? 神奈村さん、辞退しちゃったのか」

 

 視線を合わせる二人の間に、太い声が割り込んだ。

 獅子尾龍刃であった。

 龍刃はネルーニョの試合の後、光成たちに話があると控え室を後にしていた。

 深刻な表情で出ていったのだが、戻ってきたら龍刃はあっけらかんとした表情であった。

 険しく寄って、割れていた眉間の皺が、今は優しげなラインを描いている。

 

「オッサン! ……大丈夫なのかよ?」

「ン? あー……もしかして、心配かけちゃった?」

「ばッ! ……おれはただ、オッサンが不調でいてくれた方が都合が良かったって思ってただけだよ!」

「はは、ワルいねえ。コンディションはバッチリだぜ」

「ちっ、なら意味深なカオするんじゃねェよ!」

 

 龍刃はモニターを見た。

 光成が言葉を終えて、席に戻っている。

 光成と滅堂と不知火の間に、ネルーニョが座っていた。

 ネルーニョの後ろに斑目貘と秋田太郎が座っている。

 鷹山ミノルと王森正道、夜行妃古壱がその傍に立つのは変わらない。

 ネルーニョは光成たちの提案で、他の格闘士と控え室を共にすることを禁じられていた。

 ネルーニョはそれを素直に受け入れて、ああして堂々と短い足を組んで座っているのである。

 範馬勇次郎の姿がないが、勇次郎が思うままに動くことは常であるので、誰もツッコミは入れなかった。

 

 光成の招きに応じて、リザーバーの選手が入ってきた。

 

 背の高い男であった。

 太い足取りである。一歩進むたびに、空間を静かに波打たせている。

 大きな筋肉を備えていた。

 がっしりした肩幅、大きな拳。

 厚みのある足に、太ももの筋肉ははっきりとした凹凸を持っていながら、女性のウエストもかくやという太さである。

 短く刈った髪金髪が、そぞろに生え始めてツンツンと立っている。

 がっしりとした視線が強い。

 重厚な塊である顎ひげが、男の全身から感じられる、ゴツゴツとした印象を加速させていた。

 

 男の名を、観客が叫んだ。

 歓喜の音色で。

 

「若槻だあーっ!!!」

 

 その声に応えるように、男──若槻武士は顔を上げた。

 

 拳願試合の古参闘技者が、地下闘技場に降臨したのであった。

 

 

3.

 

 

 一部の観客たちの歓声が大きい。

 主に、普段は地下闘技場ではなく拳願試合を観戦している者たちであった。

 若槻武士──

 拳願試合現最古参にして最多勝利記録者。

 拳願試合で数々の強者を葬ってきた男である。

 

 その説明を、控え室で、龍刃はオリバから聞かされていた。

 どうりでいい(カオ)をしているなあ、と龍刃は感心に声を漏らした。

 

 その反応に気を良くしたのか、オリバはさらなる解説を加えていく。

 曰く、生涯筋力が育ち続ける超人体質。

 曰く、常人の五十二倍の筋量、筋密度を誇る逸品。

 曰く、現代最強の肉体。

 エトセトラ、エトセトラ……

 

 加藤は目を丸くしていた。

 常人の五十二倍の筋量!?

 意味がわからない。

 単純に筋力に変換されるわけではないが、常人の五十二倍の筋量ということは──成人男性が、仮に三〇キロのバーベルを持ち上げられるとするならば──一.五トンものバーベルを持ち上げられるということになる。

 人間の腕力ではない。

 いや、熊だって馬だって、それほどの膂力を持つ種類は稀である。

 

「ば……バケモノじゃねえか……ッ!!」

「いや、加藤くん、ここにいるオリバも似たようなモンだよ」

「そうだ、カラテボーイ。わたしだって、バケモノ(モンスター)のように力自慢なんだぜ?」

「あ、いや……そ、そりゃそうかも、しれないケドよォ……」

 

 改めて、現在の自分を取り巻く男たちが規格外であることを実感する。

 その男たちと、自分は同じ土俵にいることも……

 

 龍刃たちとは別に、若槻武士の怪物性を認識しつつ、その登場に僅かに頬肉を緩ませた存在がいる。

 

 加納アギトであった。

 

 やはり来たか、若槻──

 無双の怪力と類稀な戦術眼、圧倒的な経験値を持ち、絶命トーナメントでさらなる凄みを得た男だ。

 最強最大を謳うこのトーナメントに参加しない理由がない。

 何より、若槻は自身へのリベンジをいまだに望んでいる。

 十鬼蛇王馬の二虎流を味わい、王馬を後一歩まで追い詰め、さらに進化しているだろう今の若槻に勝つことは並大抵のことではない。

 だが、アギトの頬肉が緩んでいるのは、そういう打算的な考えからだけではなかった。

 加納アギトは嬉しかったのだ。

 知古の強者が、存分に、そのウデを振るえる場に立っていることが。

 これもまた、かつてのアギトでは決して至れない境地である。

 それを自覚してか、しらぬか。

 自身の肉の裡から湧き上がる、もぞもぞとした喜びに、アギトはたまらず微笑していた。

 

 

4.

 

 

「ン?」

 

 と、眉を折り立てたのは獅子尾龍刃であった。

 片目を細めてモニターを凝視する。

 何かを観察するように。

 

「どうしたよ、オッサン?」

「いやあ、なんか……観客の中に銃を持ってるヤツがいるなあって……」

「はあ!? 銃って……」

 

 聞いた加藤は驚きながらモニターを観る。

 観客席に意識を向けるが、取り立てて変わった様子もなかった。

 

「カン違いじゃねーのか?」

「うーん……おれも、確信があるワケじゃなくてさあ……」

「じゃあ気のせいだよ、なァ刃牙?」

「……さすが獅子尾さんっスね」

「あァ!?」

 

 加藤に話を振られた刃牙が、観念したように顔を傾けて息を吐いた。

 

勇次郎(オヤジ)が乱入した時にって、ジッちゃんと話をしてたンスよ……」

 

 刃牙の言い分はこうだった。

 範馬勇次郎は必ず暴れ出す。

 極上の餌を前に、あの地上最強のワガママ親父が、最後まで抑えが効くとは思えないからだ。

 範馬勇次郎が暴れ出した時、静止のために格闘士やガードマンを何人派遣しても、それはそのまま棺桶の山を積み上げるに等しい。

 だから、観客席に、観客に紛れた腕っこきのハンターを多数配置していた。

 彼らはそれぞれにライフル銃とチタン繊維製の網を持っており、ライフルの弾はシロナガスクジラをも眠らせる超強力な麻酔弾を希釈なしで装備させてある。

 勇次郎が闘技場で暴れ出したなら、まず牽制の意味も込めてひとりが勇次郎に麻酔弾を撃ち込み、注意が向いた瞬間に別方向から網を被せて、身動きが取れなくなった勇次郎に連続で麻酔弾を撃ち込み鎮圧する。

 というものである、と。

 

「なァるほど。御輿柴先生が、昔ヤられかけた方法だなァ……」

 

 刃牙の言うそれは、渋川剛気の師である御輿柴が、とある宗教にのめり込んで警察と敵対していた時期に、機動隊が『対御輿柴』を考えて用いようとした戦術とよく似ていた。

 実際は大型の猛獣などを的確に狩猟(ハント)する際に用いられる用法なのだが、それは、龍刃には親しくない事柄である。

 

 これを、ジャック戦で憤怒を携えて勇次郎が降り立った時、刃牙が闘技場に現れた時点で実行されるハズだったと刃牙は語った。

 なるほど、と龍刃が頷いた。

 

「ん……? ってェことは、オリバはあれ、あの時に気づいてたりする?」

「モチロンだとも。わたしの言葉をよく思い出したまえ」

 

 ここで横暴を振るうことが、誰にとって一番不利益になるのか──まさか、きみが、ワカランわけじゃなかろう?

 

「あのままオーガが暴れ出せば、彼は致命的な恥辱を、公衆の面前で晒すことになっていただろう。そうなって、目覚めた時に癇癪を起こされて見たまえ……ここにいる人間の半数は殺されてしまいかねんよ」

「あー、確かに。だから勇次郎もあんだけ大人しく引いたのかァ」

「それに関しては、キミが身体を張ったからに違いないとも。もちろんオーガの倅も、このわたしもね」

 

 当人たちには軽い談笑であったが、内容の不気味さに、加藤はちょっと引き気味であった。

 話題を変えるためにも、わざとらしくモニターに視線を移す。

 

「しっかしよォ、相手が出てこねぇな」

「そうだねェ、迷って────ッッ!?」

 

 瞬間、獅子尾龍刃と範馬刃牙は総毛立っていた。ぞわりとした感触が、ふたりの背筋を舐めまわしたのだ。

 額に汗の粒が浮かんでいた。

 ふたりとも、眼を見開いていた。

 

「なん────ッ!?」

「刃牙くんも、感じたかいッッ!?」

「わたしも感じたよ。ぞわりとするものがね……」

 

 オリバですら冷や汗をかいていた。

 一方で、加藤は平然と疑問符を浮かべている。

 

「な、なンだよ……どうしたってンだ?」

 

 何かが来る。

 三人は──控え室にいる多くの格闘士たちは感じていた。

 

 恐ろしい何かが来る。 

 恐ろしい速さで、

 恐ろしい重さで、

 恐ろしい強さの、何かが──

 

 それは、闘技場に佇む若槻武士こそ、最も強く感じている圧力であった。

 彼の呼気が強まった。

 低く浅く吸い込んだ息を、気合の下に強く吐き出す。

 まるで、かの者を誘うかのように、あえて己から発せられる獣臭を濃く、艶やかにしているようだった。

 

 やがて、ダダダダダダッ、と音がした。

 駆ける音だ。

 走っている、こちらに向かって。

 

 若槻の正面の通路から、それが飛び出した。

 

 それは、人間であった。

 少なくとも、ヒトの形はしていた。

 

 ただ身長は、頭の位置は、跳び上がっているということを除いても、一九三センチメートルの若槻をはるかに見下す高さにあった。

 視認できる肉感だけで、体重は二〇〇キログラムをはるかに超えるだろう太さがあった。

 大きな口を、ことさら大きく開いていた。

 牙のような──ではなく、牙そのものな、白々とした犬歯が若槻に向かって剥き出しであった。大型の肉食獣が、弱らせた獲物に確実なトドメの一撃を加えんとするようである。

 数ミリ、その顔が若槻に向かって進むたびに、身体が膨れ上がっているように見える。相対的に、その大きな顔が小顔に見えてしまうほどに、肉体が巨大(デカ)い。

 肩周りの筋肉、胸の筋肉、腹筋、背筋、腕の筋肉も、デカい。

 手の大きさも、足の大きさも、縮尺を間違えているのかと思うほどに大きくて太い。

 指の太さと長さはモチロンのこと、特に爪がスゴかった。

 生涯一度も切ったことがないのだろうという太さと鋭さ──凶器性を伴っている。

 全てがデカくて太い──

 それでいて、浅黒い肌に、大きな口。

 明らかに武器と判断できる牙と爪。

 そこから、凶悪なまでの攻撃性が、圧力となって闘技場に撒き散らされていた。

 観客たちが、思わず、声を失ってしまうほどの大迫力。

 それが、ゆったりと若槻に向かって飛び込むのが見える。

 重厚な存在感が、時間の歩みさえ留めてしまっているようだった。

 

 範馬勇次郎──ッッ!?

 

 一瞬、龍刃たちが見間違えるのも無理はない。

 その男の醸し出す全ての要素が、範馬勇次郎によく似ていたのだから。

 

 だが、違った。

 範馬勇次郎ではない。

 むしろ、勇次郎よりも、迫力のスケールが一段上だった。

 

 若槻武士が自嘲気味に口角を釣り上げた。

 彼は、()()の正体をあらかじめ聞き知っていた。

 

 若槻は構えた。

 拳を握った。

 

 既知の上でこの場に立った以上、彼の脳裏に浮かぶものは、恐怖ではなく勝利の二文字であった。

 

 

5.

 

 

 彼は、来訪者だった。

 とはいえ、彼は人間である。

 彼は人類として地球に生まれ、育った男だ。

 異世界から来たわけではない。

 異次元生物ではない。

 異星からの使者でもない。

 

 それでも、彼は来訪者だった。

 

 彼が生まれたのは、およそ一億九〇〇〇万年前だった。

 

 彼は、過去からの来訪者だった。

 

 中生代──恐竜が全盛を誇っていたジュラ期に、彼は生まれ、育っていた。

 

 岩塩層の中、ティラノサウルスに飛び掛かる姿勢のまま完璧に保存され、採掘作業にてたまたま掘り出された彼は、その由来からノーベル賞化学者のアルバート・ペイン博士にこう命名される。

 

 

 

 ピクル(塩漬け原人)──と。

 

 

 

 

 

 一回戦第十七試合:若槻武士vsピクル

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。