放課後を告げるチャイムの音の後、担任が出て行くと、教室はあっという間に、椅子を引く音や姦しい喋り声の喧騒に包まれた。
「ソレ、あんたのオトーサンの真似なわけ?」
シンジはその高い声に、はっとなって我が身を省みる。ホームルームで担任からの伝達事項も心ここに在らずの風情で聞き流すうちにいつの間にか、肘を机に突いて、両手の拳を顔の前で握っていた。
確かに少し似ているかも知れない。今は時間停滞スフィアの中で凍っているネルフ前所長、碇ゲンドウの特徴的な仕草に。しかしシンジにはそれを──自分が父親に似ている事を──素直に認めることに未だわだかまりがある。だから、力を込めた否定の台詞が出て来るのを抑えられなかった。
「ち、違うよっ!」
シンジの否定をよそに、声の主である少女は形のいい顎をしゃくって、でもそっくりじゃんと軽く笑った。
「ま、どうでもいいけどサ。……日頃からボケボケっとしているあんたには合わないわヨ、その難しそうなしかめっ面も含めて」
「えっと。そんな顔、してた?」
「してたしてた」
シンジの机の前に立ち、そう言って腕を前に組んで、うんうんと頷く相手は、惣流・アスカ・ラングレー、十五歳。自慢の金髪を最近では左右で束ね、中学生だった時よりも、活発な印象が強調されている。むしろ、彼女の地に近いのは現在の方なのだろう。
シンジの同級生にして、特務機関ネルフにおける同僚……と言う形容しか思い付かないが、かつての同居人でもあり、同じく汎用決戦人型兵器エヴァンゲリオンのパイロットの少女だった。
「……そっかぁ」
シンジは落ち込むように面を伏せて、溜め息をついた。後頭部が上を向くと、シンジが髪を伸ばし始めていて、後ろで結わえているのがよく見えるようになる。目指すはどうやら加持リョウジと同じ髪形らしい。いくら、シンジが彼に憧れているからと言ったってやり過ぎじゃない? アスカは心中、そう思わなくもない。
アスカにとって、加持リョウジはドイツ支部から彼女を帯同してきたネルフ職員であるが、いつの間にか加持の熱心な信奉者となってしまったシンジ程には、彼の挙措はアスカに感銘を与えなかったようだ。女慣れしていてスマートなんだろうけど、どこか得体の知れない陰のようなものが付きまとっている気さえする。
「ま、いいわ……悩めるうちは悩むのもいいんじゃない」
「うん」
しかしアスカはそれ以上、シンジに懊悩の理由を問い詰めたりする積もりはないようだった。
「私はヒカリと帰るけど。あんたは?」
「いや、僕は……」
そう言って、シンジは目を泳がせて友人の姿を探した。鈴原トウジを探しているのだろう。ちなみにアスカ命名するところの三馬鹿トリオのもう一人、相田ケンスケは最近あまり学校に来ていない。ネルフの諜報部に入り浸って、学業そっちのけでそちらの稼業に夢中になっているという噂が漏れ聞こえていた。いきおい、シンジとトウジの二人で行動する事が多くなる。
「そ。ならまた後で、ネルフでね」
アスカは素っ気なくそれだけ言うと、机横のフックから鞄を取り上げた。後ろにいる親友を振り返って、目配せする。
「ヒカリ、帰ろ」
「うん……でもいいの? アスカ」
「いいのいいの。コイツが暗い顔してるときは、しばらく放っておくの。それが家庭の平穏」
「か、かてい……!?」
その言葉にヒカリはドギマキしてしまった。高校生になったアスカとシンジはネルフの官舎に入り、もう同居はしていないわけで、それでもなお家庭と表現するアスカの言葉の意味は何なのだろう、と。
しかしアスカはヒカリに向かってニッコリと微笑んだ後、最後にシンジを振り返って、宣言する。
「でも遅刻は厳禁! 遅れたら承知しないからね。今日は二人揃って、エヴァの新型武器に関するブリーフィングなんだから」
「ああ、うん……お疲れ様」
「じゃね。アウフヴィーダーゼーエン♪」
背中に向けてひらひらと手を振って、教室を出て行くアスカはもうヒカリとの話題に夢中だ。
「……お姉さんとの欧州旅行、良いなあ。私もあっち帰りた~い」
「コダマお姉ちゃんも楽しみにしてるのよ、置いていくノゾミが不満そうなんだけど、まだ小さいからしょうがないわよね」
「お土産で宥めるしかないわねえ。チョコレートとかいいんじゃない? ベルギーのが……」
ぼうっとしてそれを見送るシンジに、背中から声が掛かる。
「なんや、お姫サンと一緒に帰らんかったんかい」
「まあ……ね」
トウジに振り向き、シンジは不器用に肩をすくめて見せる。
「ジブン、惣流と喧嘩でもしとるんか?」
「いや。してない……けど」
「それなのに浮かん顔やな」
「喧嘩をするぐらいの方が安心するよ。そういえば」
「そういえば?」
「トウジは今朝、……アスカと喧嘩してたね」
その言葉に混じる、皮肉というより嫉妬の色に、さすがに朴念仁のトウジも気付いて頭を掻いた。実を言えば、それが今日のシンジの悩みの一つ目だった。
「こりゃ参ったわ。ワシに矛先が向くんかい」
「そりゃ僕も、子供みたいな言い分だって分かってるけどさ」
「安心せい、来週の週番の割り振りについて揉めただけや」
この学校──第3新東京市立仙石原高等学校では中学の時の日直のような教員の補助担当が一週間単位で交代する週番によって割り振られている。毎日交代は非効率だから、という事らしいが、アスカのように日々多忙を極めるエヴァパイロットにとっては多少厄介な業務だ。
「あのじゃじゃ馬、全部ワシに押し付けようとして来たんやで。別にネルフに行かん日も含めてな」
「ああ、それで……」
「分担を変えるのは構へん。アイツやお前がパイロットとして世界のために頑張ってるのは知っとるからな。せやけど、ワシにもネルフでの仕事がある。代わるのが無理な日もあるんや。両方が出来る日は、仕事を分けたってええ」
「それは、分かるけど」
鈴原トウジは参号機事件の後、片腕と片足を喪い、チルドレンナンバーは抹消されたが、ネルフとの関係を絶とうはしなかった。今は機械の義足と義手を身に付け、その維持費を稼ぐという理由もあって、シンジたちパイロットに対する連絡員のような仕事や雑務を任されて、その業務上の便宜でそこそこの機密にも触れられるパスを得ている。一見、豪放磊落に見えて、気遣いも出来れば、機転も利く──ということで、ネルフ部内での評判も上々と聞いている。
週番についてもトウジの言うことは正論だ。剛毅な性格らしく、一本筋が通っている。女子に甘い態度を取ったりもしない。だから、気の強いアスカと揉めるのも分かる。しかし、そういう風に親友のトウジがアスカとポンポンやり取りをしているのを見ると、シンジは妙に不安になるのだ。
シンジ自身も、葛城ミサト宅での同居生活時にはもっとアスカと話せていたし、頻繁に喧嘩もしていた。でも、本部決戦でアスカを助けてからは、なぜだか却って先に踏み込めないような気がして、アスカとの仲は長期停滞中だ。昔、破れかぶれになったみたいなアスカに求められてキスをしたことがあったが、その事後のやり取りは最悪だったし。そういう過去の失敗の記憶による逡巡と、まるでアスカを救った事で、彼女との仲を深める権利を得た、そんな風に発想してしまう自分の自惚れや勘違いに自己嫌悪を感じているからなのだ、とシンジも何となく理解はしているのだ。日々、アスカから示される好意に心地よさを感じているというのに。
「そないな顔するなや、ワシと惣流の喧嘩はお前らの痴話喧嘩とは違う。そもそも、週番の仕事を分け合うのをアイツが拒否したのは、ある意味、お前のせいやで」
「僕のせい?」
「ああ。あの跳ねっ返りは週番の相方が不満なんや。ワシじゃのうて、シンジやったら良かったと思うとる。せやからワシはそう突き付けてやったんや。八つ当たりはやめえ。週番の順番を決めたのはワシやなくて先生や。そんなにシンジと組みたかったなら、先生にでも直訴せえ、てな」
「……それは」
わざわざ虎の尾を踏むようなものだ。アスカの自分に対する気持ちには未だ自信を持てないシンジではあるが、アスカの気持ちがどうあれ、第三者であるトウジの前でそんな事を認める筈がなかった。まして、教師に直訴などあり得ない。
「怒ったでしょ、アスカ」
「うんにゃ。顔を赤くしてムニャムニャ呟いとったが、それで喧嘩は仕舞いや」
「……そう」
「ワシにはな、シンジ。お前が不安になる理由が分からん。惣流はあれだけ分かりやすい女なんや。お前はもっと自信を持って、ガツンと行ったらええんや」
「でもトウジだって、委員長にはガツンと行ったりしてないんだろ」
「うちのクラスの委員長は今はお前やないか。……ま、ヒカリとのことはな。あれは惣流とは違う。もっと難物やで」
トウジはそう言って、初めて渋面を作った。
「お前はこの先、惣流の尻に敷かれたって構へんやろ。だからどんどん進んで構わんのや。だけど、ヒカリは違う。あの女はワシを立てたいんや。あくまで古風やからな」
「僕は別にアスカの尻に敷かれたいわけじゃ……でもそれならトウジはそれこそガンガン進んで良さそうだけど? 別に洞木さんなら尻に敷かれる心配もないんなら」
「分かっとらんな。日本の古風な女は、表向き男を立てて、影の支配権はしっかり握りたいんやで。だからこのままヒカリのペースで進むと、ワシは大変なことになる」
愛妻家にはなれても、恐妻家にはならん!というのがどうやらトウジの持論らしい。
「トウジも色々大変だね」
「まあな」
これで、シンジの憂いの一つは晴れた筈だが、その顔の曇りはまだ完全には晴れない。
「ジブンにはまだ悩みがありそうやな」
シンジは黒板に書かれた今日の日付を見た。十二月一日 金曜日という記載があった。
「もう一つは、僕自身で解決しなくちゃいけない」
シンジは机の上の両手を自分の頭の後ろに回して組んだ。
「とりあえず、また会わなくちゃ」
「どうせ、一時間もしたらまた会うんやろ」
トウジが鼻を鳴らして言った。
「お前らが長時間、離れていて気が収まる訳ないやろからな」
そっぽを向いて続けた言葉は、親友には聞こえない声量で、その声の小ささの理由は、答えはお前ら以外にはバレバレやから、とっとと自力で見つけいやという意味に他ならない。しかし、シンジはそれには気付けない。別の憂いに頭が占領されているからだ。
(アスカの誕生日、何をあげたらいいんだろうか)
一昨年のアスカは入院していた。シンジも何回か献身的に見舞いに行っていたが、彼女のメンタルの回復はおぼつかず、誕生日どころではなかったのだ。彼女が奇跡的に回復し、本部決戦でシンジが彼女をギリギリの場面で救った後は、年も改まり時期を逸してしまっていた。だから、週明けの十二月四日は実質的には、シンジが迎える彼女の二回目の誕生日ということになる。
◆
その日のブリーフィングは、夕方の五時過ぎに始まった。説明者の実験がその時間にならないと終わらないという事だから、シンジとアスカはネルフJPN本部で再合流してから、少し待たされる事になった。
待っている間、シンジとアスカの二人は……しりとりをしていた。
(しりとりって、小学生じゃないんだからナァ)
発案者のシンジはそんな自己嫌悪に密かに落ち込むが、来週四日のことを考えると、意識が先立ち、アスカに何を話していいのか分からない。それで取り敢えず苦し紛れに沈黙の間を埋める提案をしたのだが、意外にもアスカはそんなシンジの提案に朗らかに「いいわよォ♪」と乗ってきたのだ。
「スニーカー」
「んー。カニカマ?」
「ディ、ディナーデート……」
「豆腐ハンバーグ」
「ね、ね、ネックレス……」
「えっと、スイカ。……そういえばあんたがリョウジから引き継いだ畑のスイカってさ」
シンジが次々とアスカにプレゼントしようと思うものの候補をしりとりの中に混ぜ込むが、その意図を知ってか知らずか、アスカの返してくるのは、ロマンチックさの欠片もない食い意地に偏向したものばかりだ。
カニカマや豆腐ハンバーグやスイカをプレゼントしたってなあ……
やがて担当の伊吹マヤがブリーフィングルームに入ってきて、慌ただしくも始めた説明は流石に淀みがなかったが、しかし彼女の顔に貼り付いているのは浮かない表情だった。一通りの説明が終わると、アスカがまず口を開いた。
「──私たちのたいせつなものを、武器に入れるですって?」
「そう。エヴァパイロットが個人的に強く惹かれるもの、集中できるものを意識の依り代として武器の先端に封入するの」
「あの、それ……何の意味があるんですか?」
シンジも頭を捻り、質問した。科学部技術部兼任主任として、リツコが停滞スフィアに囚われて以後のネルフJPNのサイエンスとテクノロジーを一手に担う伊吹マヤが、呪術めいたオカルト的な主張をしている事が、釈然としない。理解に至るまでには、説明が圧倒的に足りていない。
「発想としては大昔からあるものなのよ。例えば千人に赤い糸で縫い目を付けでもらった布や、恋人や奥さんの髪の毛や陰毛を身に付けていると弾避けになると言って、第二次世界大戦の時には多くの兵士が戦地に持参した。いわばそれの現代版」
「インモーって?」
「……あそこの毛のこと」
日本語の単語の意味を確認するアスカに、返答するマヤの頬が少し赤くなっている。赤くなるくらいなら、陰毛まで言及しなくてもいいのに、とシンジは思う。というか、目を細めて、口の端を緩めたアスカの表情変化を見るに、陰毛の意味などちゃんと分かった上で、大人をからかっているのが分かりそうなものなのに……。リツコさんなら、なんとなく顔色一つ変えずに説明してのけそうだが、マヤさんと前任者との違いはそこだろうなあと少し生意気なことまで考えてしまう。
「うげげ。何ソレ、まるでおまじないじゃないのよ」
「確かにそう。フレイザーが
一度接触したものあるいは一つのものであったもの──例えば、毛髪と人間──同士は、遠隔地においても相互に作用するという「接触の法則」に基づいた呪術のことだ。もちろん、筆者の社会人類学者ジェームズ・フレイザーはそのような呪術が本当に効果を及ぼすと信じていたのではない。人類が太古から信じてきた呪術なるものを構成する虚構と錯誤のロジックを彼は解き明かしたのだ。
だからそんな説明を科学者であるマヤにされても、アスカもシンジもすぐには納得出来なかった。何より、マヤの不承不承の顔が、彼女自身の不満を物語っているようだった。
「でも──赤木博士は」
そこでいったん、言葉を止めてマヤは目を瞑り、演壇の上に手を置いた。しばらくしてから説明を再開する時、溜め息を付いたのを、シンジもアスカも聞き逃さなかった。マヤが今は不在の赤木リツコに強い憧憬を抱いていた事は誰もが知っている。
「──赤木博士は、このプランの実用化を検討されていた。そして、それに基づいて私たちがマギの内部でシミュレーションしてみた限りでは、実際に効果はあるらしいの。エヴァに乗っていた時のパイロットの皆の過去の心理グラフ、その時に交わされた会話や視覚情報、人類の思考や感情をモデル化した擬似パイロットAIにあなたたちの性格や好みをインプットしてみた」
「私たちを使って勝手に……と文句を言いたいけど、シミュレーションの結果は?」
「武器の《情報宮》に依り代を封入する形で、高い確率で、ATフィールド特性を切っ先に持たせることが容易となり、強度と侵徹力が元の物理的数値より格段に上がるだろうと、マギは三者一致で推論したわ」
「じょうほうきゅう?」
シンジもアスカも耳慣れない言葉に、怪訝な顔をして、顔を見合わせる。
マヤの補足説明によると、第2ステージエヴァの全武器にはこのプランに備えて情報宮と呼ばれる空間が皆、備えられており、武器や弾体そのものにATフィールドを発生させる機構の一部として、情報宮に封じられた依り代の力は重要なのだという。しかし、なぜ情報宮などという名前なのか。
「
そして説明の締めくくりに、週明けの十二月四日に行われる実験の内容を説明される。次世代パレットライフルであるパワードエイトの弾体の情報宮に、エヴァ初号機F型及び弐号機F型のパイロットそれぞれのたいせつなもの──あるいは、それに繋がると信じられるものを封じる。後は、模擬戦闘を行って、武器の威力が増し、弾丸側にATフィールドが発生しやすくなったかどうか──その仮説を実証するというのだ。
「二人には製造過程も見てもらうから、その日は申し訳ないけど、学校は一日欠席ね」
「
「それが確かにそこに入っていると言うのを二人がちゃんと見ていないと、効果が発揮されない」
「何よ、プラセボ効果みたいな話ね」
薬と偽って、何でもない只の粉を飲ませただけで、患者の症状が改善してしまうという、偽薬効果というやつだ。
「否定はしないわ。エヴァの操縦にはシンクロ率を始めとして心理面が及ぼす効果が大きいもの。でもそれだけの事で、一割も二割も武器の威力が変わると言ったら、やらない理由がないわ。たとえオカルトめいた仮説で、科学者として不本意であっても」
そう言ってから、マヤは最後に「それぞれが封印するたいせつなものを決めてきてね」と言い渡すと、ブリーフィングをお開きにした。
──たいせつなもの、か。悩みがまた一つ増えて、二つに戻ってしまったな。
シンジはそう思って、やれやれと嘆息した。
◆
「さっきから、そわそわして何よ」
「いや、別に何も……」
街灯が点灯し始めた路地を、ネルフ本部からの家路に付いたシンジとアスカだったが、言葉数は少ない。アスカにしてみれば、朝からシンジが悩み事を抱えているのは見え見えだったが、それっていちいち私から手を差し伸べるような話? とも思うのだ。子供じゃあるまいし──。
でも、そんな風に双方がどちらからも歩み寄ろうとしないのなら、問題は決して解決しないのも分かっていた。
それにアスカにはシンジに対して借りがある。
シンジは本部決戦の時に、初号機で彼女を助けに来てくれた。その前に、アスカとシンジの間に劇的な和解劇や対話があったわけではない。アスカはずっと入院していて、シンジと話す機会は無かった。その時、心理的に殻に閉じ籠もっていたのは、アスカの方だったと言える。シンジは義務感からであっても見舞いには来ていたのだから。
だから、あの救出劇は、シンジの方からアスカに歩み寄ってくれた結果とも言える。
(次に素直になるのは、私の番か……)
それにシンジの為に、補助線を引いてやったところで大した手間でもないし、アスカの自尊心が傷付く訳でもない。むしろその逆だ。
どうせ今のシンジの悩み事なんか、たかが知れている。そしてその悩みは、アスカにとって全く不快なものではなかったのだから。
だから、アスカはとぼとぼと後ろを付いて来るシンジの前に立ちはだかって、彼の顔に人差し指を突き付ける。
「さっきの話で思いあぐねているの? 弾体に何を封入するのかっていう」
「それもそうなんだけど、十二月四日でしょ。その日はさ──」
シンジはそう言って、頭を掻いた。思った通りじゃない。アスカはふんっと鼻で強く息をした。
「その髪──私に散髪させなさいよ、それであんたの悩みもきっと解決する」
「あの、それって」
「言うまでもないでしょ、私のたいせつなものとして、あんたの髪の毛を寄越しなさいって話よ。ついでに、あんたがずっと悩んでるらしい来週の私の誕生日のプレゼントも──今年は──それでいいわ」
「アスカ──あの、確かに僕はその事で悩んでたんだけど、でもそんなので本当に?」
「私を見くびるんじゃないわよ。あんたがプレゼントしてくれるなら、スニーカーでもネックレスでもディナーデートでもなんでも喜んで受け取るわよ。だけど、モノが欲しい訳じゃないし、あんたがウジウジと悩む姿を見たくはない。他の男と喧嘩したぐらいでムスッとなったりね。だってそんなの、ぜんっぜん、男らしくないんだもの」
「……全部お見通しだったんだね」
シンジが全面降伏とばかりに両手を挙げた。
「でも本当に──僕なんかでいいのかな?」
その質問自体で怒られるかもしれない、そんな不安を抱きながらも、ついシンジはより以上の安心を求めてしまう。アスカの言葉という何よりの安心材料に。
「白馬の王子様みたいに、量産型に囲まれた私を助けに来ておいて、私が他の誰をたいせつに思えってえの?」
「でもあれは──本当に間一髪で、もしかしたら間に合わない事だって有ったかも知れない。そうしたらアスカも大怪我をしてたかも」
シンジの本部決戦での出撃直前の遅疑逡巡は事実だ。もしも世界があの決戦で、分岐すると妄想したら、きっとアスカを助けられた世界と助けられなかった世界は半々の数になるだろう。そうであったなら、それでもアスカは僕のことを憎まずにいられるだろうか。僅かな心の片隅でも、尚もたいせつに思ってくれるのだろうか。
「その時は、情けないシンジをたいせつに思うことにするわ。弱すぎるシンジをきっと、私はいとおしく思える。要するに──」
アスカはシンジに近づいて、鼻の頭をちょんとつついた。
「あんたの自信の源は、私のここにある」
鼻をつついた指先は、アスカの左胸に向かった。
「全てはここにあるのよ。愛も、憎しみも、私があんたに向ける感情は全て。こんなに強い感情は他の誰に対しても、私は持たないの」
そこにはアスカの心臓がある、心がある。それがいちばんたいせつなものなのだ。シンジにとっても。
「それに、あんたは髪を伸ばしてるのよね」
シンジが誰に憧れて、誰を目指そうとそれはシンジの勝手だ。男というものはそういうもので、女がそれをどうこう言っても仕方がない。
「でも、闇雲に伸ばして後ろに括ればいいってものじゃない。髪型を真似するのはいいけど、私が上手に整えてあげるわ」
しかし女には、男がより、いい男になれるように、手伝ってやることは出来る。最後には女が男を育てるのだ。
「ありがとう、アスカ──」
シンジはアスカの言葉に頷いた。もうアスカの心について不安に思う必要はない。だから思い切って思いの丈を吐き出してしまおう──。
「僕もアスカから、たいせつなものを貰いたいよ」
思わずそう言ってしまってから、シンジはその言葉が別の意味で解釈出来ることに気付き、赤くなった。慌てて、取り繕う。
「ふーん、女の子のたいせつなものを貰いたい、ねぇ」
「ち、違っ……あの、そういう意味じゃなくて」
「スケベ」
「だから全然、そういう意味じゃなくて!!」
「男の子はみんな狼なのよねー、シンジの部屋に遊びに行くときも、これからは気をつけなくっちゃ」
ニヤついて、シンジをからかう新しい材料を手に入れたアスカは、ことのほか、上機嫌だった。
十五年生きてきて、こんなに愉快な思いをした日はなかった。サードインパクト未遂までの十四年間の人生にはつらいことが多過ぎた。だけど、もしかしたらそのつらさは、この日を迎える為だったのかも? とアスカは思う。空腹は最上のスパイスとか言うが、苦しみは幸福にとって最上のスパイスなのかも知れない。
──そして、私はいよいよ十六になる。来年は高校二年生になるのだ。シンジと一緒に。どこまでも私はシンジと一緒に年を重ねていけるのだ。
それって、なんだか奇跡みたいに素晴らしい事じゃない?
◆
十二月四日、アスカとシンジはガラス窓越しに、ネルフ兵器廠の弾丸製造ラインを眺めている。
アスカが使う弾丸の情報宮には、シンジの毛髪が。シンジが使う弾丸の情報宮には、アスカの毛髪が封入される。その工程の見学だ。
二人はそれぞれのたいせつなもの──相手自身と元は一つのものであった相手の一部である毛髪が、まさにこれから武器に封じられる場面を眺めている。シンジはその封入の瞬間の直前に思い切って、口を開いた。
「アスカ、手を──つなごうか」
その言葉はアスカを驚かせ、そして直ぐに肯かせた。
「うん。つなぐ」
──シンジのやつ、やるじゃない。初めて、積極的にシンジがアプローチをしてくれたことに感心する。出逢った頃のシンジでは決して期待出来なかったことを何も言わなくても、シンジからしてくれている。人は変われるのだ。変わらなくてはいけないのだ。それを知ることが出来たのだから、女である私から距離を縮めようと歩み寄ったことも決して無駄ではなかったとアスカには思えるのだ。
二人の手が重ね合わせる。キスよりも、ある意味ではたいせつな繋がりが生まれる。二人がこれまで密かに願って、叶えられる事のなかった絆だった。
そして今、二人の武器の中に、お互いの一部が封印された。それを見ながら、アスカは思った。
──私の喩えは間違っていたわ。プラセボですって?
いいえ、違うわ。これは思い込みなんかじゃない。想いそのものなのよ──。
相手が自分といつも側にいてくれる。実際に彼の一部が私の武器の中には入っている。その圧倒的事実こそが、力になるのだ。なぜなら、エヴァの力も武器の力も全て、その力は究極的には、相手の為になり、相手を守る力となるのだから。
そうでない力ならば──何の意味もない──ならば、犬にでも食わせてしまえばいい!
そう思って、知らず握っていた手に力が籠もると、シンジがこちらを見る気配がした。男の子であるシンジはアスカの握力など物ともせず、穏やかに微笑んでいた。
「緊張することはないよ。僕はまたアスカを守るから」
その言葉に、アスカもまた穏やかな気持ちになってコクリと同意する。そして、シンジはアスカを見つめたまま、一つの奇跡に感動する面持ちで言った。
「アスカ、僕と同じ時代に生まれてきて呉れて、ありがとう」
「……どういたしまして!」
アスカはにかっと笑って、そう返す。
私はシンジの女神サマなんだから、シンジの隣に生まれてきてあげたことへのお礼を受け取る資格は十分あるわよね──そう心の中で呟きながら。