エヴァンゲリオンANIMUS外伝    作:しゅとるむ

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はつ恋練習曲〈エチュード〉

 

 綾波レイのクローン3体──№カトル(4ばんめ)№サンク(5ばんめ)№シス(6ばんめ)が半睡眠状態で搭乗していた衛星軌道上のエヴァンゲリオン零号機試製Ⅱ式改・領域制圧機、またの名をゼロGゼロ気圧型零号機、略称0・0エヴァ3機による全地球使徒探査殲滅ネットワークが崩壊した日、各国上層部には自国の軍事力を天空の高みから掣肘する桎梏(しっこく)(くびき)の消滅に快哉を叫んだ者たちが少なくなかったが、やがて新たな人類の敵対者アルマロスの脅威が明らかになるにつれ、ネルフによる自作自演への猜疑をひと通り経た後は、深刻な不安を訴える声となって、その声量は日増しに高まるばかりとなった。

 

 ネルフJPN(ジャパン)総司令の葛城ミサトは「自分たちがダモクレスの剣の下で遊んでいる子供だってこと、ようやく分かったのね」溜め息混じりにそう言った後は、事あるたびに通信会談を求めてくる各国首脳相手の宥め役兼サンドバッグ役を自ら以て任じている。誰か部下にやらせてはという声に対してはこう返していた。

 

「状況をより階級の高い軍人から説明された方が安心するらしいのよね。そして上手く行ってない時にいびる相手も将官に限る。四十にもならない小娘ならばなおのこと。政治家としての支配欲だか嗜虐心だかが満足するんでしょう。文民統制(シビリアンコントロール)ってそういう事じゃないと思うんだけどね。まあ、そんなあれこれを考え合わせると他人にやらせるよりは、私がやった方が少しだけましな仕事なのよ」

 

 第一、そう言うあなただって代わろうとはしないじゃないとミサトは決して言わないが、その相手は勝手に無言の中にそう読み取って二度とは交代の話を言わなかった。

 

 全てが変わったあの戦いから三年。二〇一八年はまだ、幾つもの人類史的大事件を残していた。

 

 

 そもそもの発端は加持だった。

 

 加持リョウジがもたらした、ゼーレと戦自によるネルフ本部襲撃の計画は、ネルフ側にそれへの十分な備えをする時間を与えた。もちろん、彼の情報がすぐ全面的に信用されたのではなかったし、何らかの謀略だと疑う声も無いではなかった。尋問を買って出た葛城ミサトも、全てを自白するとした加持の長い弁明を聞き終えた後、こう言ったぐらいだ。

 

「日本政府内務省に国連の人類補完委員会すなわちゼーレ、そしてネルフ。あなた、実は三重に裏切ってたって話なのね? それで今さらどうやって信用しろって言うの」

「葛城にはいつか借りを返したいと思っていたからな。それが今だっていう話さ。昔、抱いたことのある女の子がむざむざ殺される──そんな計画を知ってしまったら流石に寝覚めが悪い。幾らでも裏返る──いや、表返るさ」

 

 ミサトは頬を上気させた。取調室の換気が不充分で身体の熱が籠もるからかも知れない。だって、加持へのそういう気持ちはもう消え失せたはずだから。

 

「女の子って、もう三十よ。──借りって言うのは黙って私の前から居なくなった事を言ってるの?」

「いいや」

 

 加持は一箱だけならと特別に許可された紫煙をミサトにかからないように吐き出した後、左右に小さく首を振った。昔吸っていた銘柄に戻っていることにミサトは気付いた。彼女がこの臭いが髪や服にかかるのをいやがっていたことを加持は覚えていたのだろうか。

 

「──お前に手を出してしまった事さ。処女(おぼこ)だったのにな」

「そろそろ棄てたい年頃だったのよ。あんたに捧げたとか気持ち悪いことを思わないでよね」

 

 この取調室、尋問の最初から録画・録音をされていたから、上層部が閲覧する記録には取調官のプライバシーに配慮した適切な編集が為されることをミサトとしては祈るほかはない。まあ加持との関係性に関わる発言なので絶望的な願いだったが。

 

「光栄に思ってるよ。それと──勝手に消えて済まなかった」

 

 その謝罪があまりに真摯に見えたので、ミサトは思わず言葉を失った。普段軽薄極まりない加持が表情を引き締めて、頭を下げる。まるで遺言ではないか。しかしだからといって、加持の漏洩した情報を信じる確たる根拠が有るわけでもなかった。

 

「あんたの情報だけで、組織はハイそうですかって動く訳には行かないわよ。分かってるでしょうけど」

「ネルフに年度末までの残業手当を吐き出させるために、手の込んだ芝居をしているわけじゃない。嘘だったらその時に、俺を銃殺すればいいだけだろ?」

 

 やや焦りや苛立ちを見せて、加持は言った。握り締めた拳に力が込められている。上司の無理解に憤る時の加持の癖だった。もし加持の情報が本物なら、備える時間が限られているのは確かだ。

 

「……上を説得してみるわ。あんたとここで心中なんてゴメンだし」

「説得が上手く行くことを願っているさ。お互いの命のためにもな」

 

 取調室を出る時に、ミサトは背中から声を掛けられた。

 

「なあ──色々落ち着いたら、飯でも奢ってくれよ」

 

 軽口めかして加持がそう言ったのは、自分の行動により重荷を背負わせることになったミサトの不安を少しでも和らげようとしたからだろうか。

 

「奢る程のお金はないわよ。車のローンでひいひい言ってるんだし。うちには育ち盛りの子供たちだっているんだから」

 

 ミサトは第3新東京市郊外の自宅(コンフォート17)で預かっているシンジとアスカのことを挙げた。本部防衛戦が予測されるなら、エヴァの即応性の必要から、あの子たちにもジオフロント内の宿舎に移ってもらわなければならないだろう。また子供に負担をかけることになる……。

 

「財布なら余裕が出来るさ。年明けにはネルフ本部防衛の戦功で、昇進するだろう。葛城二佐(、、)

 

 鬼が笑いそうな加持の来年の予言に、実際より1つ上の階級で呼ばれたミサトは思わず振り返って、開けかけたドアを後ろ手で再び閉じた。

 

「もう私の上層部説得が成功したつもり? 奏功して襲撃に備えられたとしても、結局戦自に潰されるかもしれないじゃない」

「俺としては全部が上手く行ったストーリーに全財産を賭けるしかないのさ。天秤の反対側には死しかないんだからな」

「そのスリル(for kicks)がお目当てで、私の前からいなくなったのね」

「これは当たるさ。自信があるんだ。葛城だって一佐にもなれるかも知れないぜ」

「大法螺はよしてよ。防衛戦に勝ったって、ゲームみたいに領土が増えるわけではないのよ。昇進だって──」

 

 結論としてはその未来予想図は、むしろ控えめなほどで大法螺ではなかった。

 

 戦自の侵攻はこれあるを備えていたネルフに阻まれ、人類補完計画はアスカの弐号機を贄として発動しかけたが、シンジの初号機が介入した。エントリープラグからシンジ自身によって助け出された時、アスカは泣いていたという。

 

「よぅっく聞いときなさい」

 

 メディカルチェックが終わって3日ほど後、アスカは見舞いに来たシンジに向かって人差し指を突き付けて宣言したそうだ。

 

「その一、私は量産機9機を片付けたエース。その二、なのに突然、孤立無援で死にかけたら、人は『破局反応』ってのを起こすの。分かる?」

 

 つまり、私があの時泣いていたのは、あくまで人として自然な反応なの! という訳だ。そんなやり取りの結果かどうかは分からないが、それ以降、ミサトの見るところ、アスカはシンジに対して気取りがなくなり、一時期の頑なさがほどけた。これも見方によるだろうが、近頃の二人は始終じゃれついている。彼ら自身には違う見解もあるかも知れないが、大人から見たらそうなのだ。

 

 彼らチルドレンの活躍で、人類補完計画が不発と決まった時、リリスは黒の月を完全に外部と遮断した。電磁波、重力波、ニュートリノ──人類既知のあらゆる探査手段を透過するその空間では、おそらく反応がないのではなく、反応する時間がほぼ与えられないのだとネルフ嘱託の物理学者らが結論するに至って、今では時間停滞スフィアと呼ばれている。その、外部と時間の流れが異なる空間の中に碇ゲンドウや赤木リツコらは閉じ込められたままだ。もはや連絡も出来ない。

 

 旧ネルフ幹部で唯一健在の冬月コウゾウは人類補完計画に係る情報隠蔽等の罪で投獄され、一年を経て釈放の後、公職の全てから退いた。ネルフ本部を制圧できず、戦自が撃退されてしまった以上、情報操作も不可能で、ネルフを解体する訳にはいかない。ゼーレの幹部らは自殺や逃亡により政治の実権から遠ざかる一方、エヴァ三機を擁するネルフの武力は健在で、かえって日本政府や戦略自衛隊の立場の方が危うくなった。せめて旧ネルフ指導層の一掃を図り、両成敗的に取り繕う他はなかった。

 

 かくしてネルフはネルフJPN(ジャパン)に改組され、組織に残る最上位者の戦術作戦部長葛城ミサトが、総司令としてゲンドウの後を襲った。ミサトは二佐や一佐どころか、その上の階級である将補に昇ったのだ。しかもネルフ改組の過程で、ネルフは戦略自衛隊にも形式上、組み込まれることになったから、彼女の階級は戦略自衛隊の将補である。つまり葛城ミサトは今や、ネルフJPN総司令兼戦略自衛隊統合幕僚監部付の将補でもあった。

 

「もう葛城のこと、閣下と呼ばなくちゃいけないな」

 

 ネルフが戦略自衛隊を撃退した場合の力関係の変化までは読めていたが、ゲンドウやリツコの消失、ミサトの将官への昇進までは予想外だった。

 

「よしてよ、加持くん。……それより、そちらこそおめでとう」

「防諜部に異動したことが、慶事かねえ」

「あら、そうじゃなくて。助かったことよ、命以上に大事なものは無いでしょ」

「お前、まだ俺のこと、処刑する気だったのかよ。おっかねえな」

 

 広さの割に明るい照明に乏しい司令室で、加持は芝居がかった調子で肩をすぼめ、新しく部屋の主となったミサトはクスリと笑った。

 

「──じゃ、新しい辞令も受領し、命も助かったところで、そろそろ失礼するかな。約束の奢り、期待してるぜ」

「ああ、うん……」

 

 謹直な顔になって敬礼した後、彼が背を向けて司令室の入口へと歩き始めると、ミサトの視線は、早々に書類の山を積み上げ始めた司令用の机の上と、その僅かに空いている片隅にギリギリ置いている写真立ての中の、学生時代に撮った金髪の友人と加持と彼女自身のスリーショットの写真の上にさ迷った。

 

「──三人でつるめるのは、また当分お預けね。リツコ」

 

 新しいネルフの総司令の若い声には、拭いがたい寂寥の響きがあった。

 

 

はつこい(、、、、)って、なに?」

 

 アスカを見上げて、つぶらな瞳をぱちくりとさせながら尋ねたのは綾波レイ№シスだ。五、六歳の容姿に、エヴァ操縦関係の知識はともかく、外見年齢相応の常識と経験のみを持ち合わせた幼女だった。その容姿はどことなくシンジにも似ている。その実、シスは綾波レイの六番目のクローン体だった。最後期に作られ、培養漕を途中で出された事で彼女の外観は他のレイクローンより十歳は幼く見える。

 

 そのシスが白地に青のラインの入った児童用のプラグスーツを着ているのは、ここがパイロット控え室で、現在が警戒態勢を意味する第二種戦闘配置だからだ。駒ヶ岳山麓付近で、使徒の幼生体を腹部の繭状のコンテナに抱え込んだ量産型エヴァの成れの果て、通称エンジェルキャリヤーの反応があった。しかし直ぐに消えてしまったので、センサー類の誤作動による誤報の可能性も含めて現在チェック中なのである。

 

 当然、第二種戦闘配置中だから幼い瞳に見上げられるアスカの方もシス同様にプラグスーツ姿だった。と言っても、昔の赤色のプラグスーツではなく、今お気に入りのピンク色のを着用していて、その踵はハイヒールとなっているので、最近成長著しいシンジとの身長差を緩和してくれる代わりに、見上げるシスとの身長差はかえって広がっていた。

 

 惣流・アスカ・ラングレー。三年間で身長も手足もすらりと長く伸びて、すれ違いざまに「今の子──どこかの読モ?」などと同年代の少女たちに振り向かれる、自信に満ちた十七歳の女子高生。日頃のシンクロ率だってシンジたちより高いほどだ。本部決戦で生命の危機をシンジに救われた彼女は、より安定した人格を獲得した。自分の存在意義を──少なくともいなくなったら困る仲間として──シンジたちが認めたのだ。見捨てられて当然の存在だとは思われていなかった。それが彼女を本来の陽性な性格に導いたのは、間違いなかった。

 

 新しく開発された第三世代型のプラグスーツのデザインから彼女のシンボルカラーである赤色を除いたのも、踵をハイヒール型にしたのも、アスカ自身の希望である。それは彼女の成長の現れだったが、少しばかり少女の複雑な想いも覗く。

 

 ──いつまでも自分のセルフイメージにこだわってるだけじゃ追い付けない。私も伸びたけど、あいつがあんなに背が伸びるなんて──生意気よ──男の子だからって。

 

 とはいえ、アスカも少しずつ悟りつつある。女は必ずしも男の子と同じ土俵で争う必要はないんだってことに。でも、それじゃどういう風に男の子と付き合っていけばいいのかは、まだ分からない。バカシンジはぐいぐい異性をリードするタイプじゃないし──かといって、女の私から引っ張るのもヘンな話じゃない?

 

 だから初恋の話なんて聞かれても困る。本当はこっちが聞きたいぐらいなのだから。だけど、アスカのプライドは、私もよくは知らないとはなかなか素直に白状出来ない。

 

「なにって、ねえ……。レイとサンクはどう思う……って、この子たちじゃ恋バナはムリか」

「〈自分〉の意見じゃ、参考にならないよ」とシスは不満げに返す。

 

 アスカがレイと呼んだのは、綾波レイ№トロワ(3ばんめ)。アスカやシンジにとって一番長い付き合いだった綾波レイ№ドゥ(2ばんめ)の自爆後、その後を継いだ本部決戦以前からの綾波レイだ。彼女は静かにベンチに腰掛けて文庫本を読んでいる。岩波文庫のキルケゴール『死に至る病』だ。

 

 案の定、「わからない」と彼女から発せられた応答はそっけなかったが、本から目を上げて、しっかりとアスカの顔を見ていたこと。その回答に微かに困惑の色が滲んでいたのが、以前の綾波レイとは異なっていた。考えてみれば、トロワは「彼女たちが母親のクローンであることを知った」シンジによって今、微妙に避けられている。そして、それを明らかに悩んでもいる。庇護者であるゲンドウも失った孤独なレイの心細い反応は、彼女に振った話題が無神経だったかなとアスカに(ほぞ)を噛ませた。

 

 一方のサンクは、以前からトロワらとの区別のために髪型をベリーショートにしている。アスカに向かって曖昧に微笑みながら、「男子に告白はされたことあるけど──断ってばかりだから。恋愛知識はええ、──惣流さんの言うように──ないに等しい」と答えた。人並みの社交辞令などは使いこなせるのが、他の綾波クローンとの最大の違いで、学校では一番人気があった。「命令があれば、そうするわ」といった、どこかずれていて、突き放した返事をしないからだが、綾波としては変──いや、かなり個性的というのがネルフ本部での評価だ。

 

 本来、クローンという器がいくつあってもそれに宿る魂は1つというのがこの世界の(ことわり)のはずだった。それゆえトロワ以外の綾波にも分化した個性と呼べるほどのものはなかったのだが、アルマロスの精神干渉による擾乱(じょうらん)が、同時に生きる4人の個性的な綾波を生んでしまっていた。いや、個性という概念に戸惑うトロワとそれ以外の綾波たちというのがより正確なのかも知れなかった。トロワは以前の綾波から、あくまでその延長線上に立ったまま、ゆっくりと歩み続けているのだから。

 

 他にもう一人、綾波レイ№カトル(銀髪の綾波)がいたが、彼女はネルフを裏切ってアルマロス側として活動している以上、当然この場には居ない。

 

 綾波クローン同士の間で確立されていた「精神ミラーリンク」はタイムラグと距離制限のない感応能力である。現在はしばしば不調とはいえ、これまでシスにトロワやサンクの考えを会話することなしに共有してきた上に、思考のベースは結局綾波レイなので、シスが文句を言うように彼女たちの考えは改めて確認してもあまり参考にはならないのかもしれなかった。

 

「じゃあいっそ、男の子の意見を聞いてみたら?」

 

 答えあぐねて、アスカは長い両脚を交差させながら隣にいたシンジに視線を送って話を振る。未だ十七歳の彼女にもその質問への答えは単純ではない。体よくシンジに押し付けた格好だが、彼がなんと答えるかは興味がある。

 

「え、僕が? そうだな──シス」

 

 アスカに背中を小突かれたシンジは腰を屈めて、幼児としか思えないシスと目線の高さを合わせた。その格好だと、アスカの目からもシンジの少し逞しくなった背中と、後ろ髪を束ねて伸ばしている彼の新しい髪型がよく見える。始めはその髪型に違和感を感じたものだが、何度も文句を言っているうちに、加持の髪型と同じなのだとアスカは気付いた。

 

 そう気付いてみると、それに色々言いたいことはあったが、加持さんの真似なんかしなくていい!と拒絶するのは躊躇われた。アスカが──彼女でもないのに──彼女然としてシンジはシンジのままで良いと、今の「変わろうと足掻くシンジ」を否定するのもおかしな話だったし、そもそもがアスカ絡みで加持を真似ているというのも自惚れのように思われたからだ。シンジが誰かに憧れ、真似したいのなら今はそうすればいい。段々、そんな風に思えるようにもなってきた。その試行錯誤はきっとシンジにとって大人になるために必要なことなのだろう。

 

「初恋は、言葉の意味では初めての恋のことなんだろうけどね──」

 

 シンジは頬を指で掻きながら、シスに答えた。むしろシンジには自分に引き寄せて答えを考える必要が無かったから、その回答はいたって気楽なものだった。それがシスからの無限に後退し続ける質問の始まりに過ぎないとも気付かずに。

 

「こい? こいってなんなのだ?」

「えっと……人を好きになること、かな」

 

 話題にやや気恥ずかしくなって、頬を赤らめながらシンジが答えると、シスは更に深堀りした質問をしてくる。

 

「人を好きになるって、どういうこと?」

「それは……いつも一緒にいたいと思ったり……さ」

 

 シンジは言いながら、分かるだろう? とアスカを見上げ、確認と助けを求める視線を送るが、彼女は素知らぬ素振りだ。

 

「それで、シンジはいつもアスカと一緒にいるの? こいだからなのか?」

「いや、別にそういうわけじゃ……」

「ほう。そういうわけじゃないのか……ふーん」

 

 シンジは立ち上がった。アスカのジト目が横からシンジを襲う。彼が「恋してるのではない」と否定したと受け取ったのだろう。シンジとしては、アスカと始終一緒な訳ではないと言いたかったのだが。それにアスカとは一度、勢いでキスをしたことはあるが、未だに恋人同士な訳ではない。曖昧で逡巡ばかりの関係。それを認めるのが少し悔しい気持ちもあるが。

 

「別に無理して私なんかと一緒にいる必要はないのよ。……碇くん(、、、)

 

 アスカが、耳慣れない二人称を使い出したら、それは警報(アラート)だ。厳重な警戒を要する。シンジも流石にその程度のことは理解している。しかしそうした事態への適切な対処能力があるわけでは全然無かった。

 

「む、無理なんかしてないよ。アスカと一緒にいるのは僕には自然だよ!」

「それって、もう私じゃドキドキしないってこと? フツウになってしまって、当たり前の背景みたいになっているってこと!?」

「そんなつもりじゃ……」

 

 ああ言えばこう言うアスカの嬲り方に、シンジは口ごもる。アスカはどこまで本気なのだろうか。単なる悋気(やきもち)を越えて、深刻な追及なのか。それともシンジを手玉に取って、一時の玩具として弄んでいるだけなのか。

 

 そんな二人を後目に、やれやれと呟いて鈴原トウジが一歩進み出た。この控え室で唯一の、チルドレンでない少年だ。正確には彼もかつてはチルドレンであったが、参号機事件による使徒感染でチルドレンナンバーを抹消されていた。本来ならこの控え室にいる資格はないが、彼は新たにネルフ副司令代理の職──役職名こそ物々しいが、実態は雑用係だ──を拝命しており、その役職の資格でここにいる。だからプラグスーツではなく、普通に学生服のワイシャツの上に官給の作業用ジャケットを羽織っている。

 

「そもそも何で初恋の話なんや、シス」

「クラスの女子たちが話してたの」

「さよか。おなごはけったいな話をしとんのやな」

「みんな、男の子の話ばっかりだよ」

 

 無邪気に女子の会話の秘密を開けっぴろげにするシスにアスカは少し慌てる。

 

「私はそんな話に加わっていないわよ。バカバカしい……」

 

 シンジの視線が、──アスカも? と、自分に向けられたような気がしたからだ。義理もないのに潔白を説明する必要に駆られた。だって、シンジは案外、嫉妬深くて独占欲が強いのだから。しかも厄介なことに、嫉妬している自覚もなく、自分でも訳が分からないうちに機嫌が悪くなることさえある。──そんな反応は、実はアスカもほぼ同じだったが。

 

「まあ、シスの歳ならそないな話、よう分からんわな。気にせんでもええんやで」

 

 トウジは誰に命じられた訳でもないが、シスの保護者役をいつの間にか買って出ている感がある。パイロットのケアも重要な仕事やからな──。

 

「シスは高校生! じぇーけーの話題についていけないと困る!」

「せやかてシス、お前はまだガキンチョやないか」

「ヒカリもこの話、してたよ?」

「なぬ! その話、もう少し詳しく……」

 

と言ったところで、トウジは襟首をアスカに掴まれた。

 

「いくら何でもそれ以上はプライバシーの侵害よ。ヒカリの親友として、封印とします」

「なんやて! ヒカリの事なら、ワシには資格がある!」

「無いわよ。……シンジも私に対してそんな資格は無いからね。こっそり相手の話を本人の同意もなく聞き出そうなんて」

「なんで今の話で、僕とアスカが出て来るの?」

 

 アスカはこめかみに人差し指を突き当てて、大きく溜め息をついた。こいつは何にも分かってない。バカシンジとは我ながら、正鵠を射た命名だった。この調子ではさきほどシンジから感じた緑色の目をした怪物(ジェラシーの視線)も、アスカの勘違い──いや、自意識過剰だったに違いない。

 

「……つらいのか? アスカ」

「ええ、とってもね。男がバカだと女はいつも苦労するの。あんたも覚えておきなさい」

 

 眉根を寄せたシスの気遣いに、アスカは母性に満ちた優しい声で応じる。シンジはやり取りを見て、なんだか居心地が悪かった。

 

「僕、怒られてるのかな?」

「ワシには何で惣流が怒ってるのか分かったで。解説料三百円でどや」

「鈴原、そういうのも禁止だからね」

「なんでや、惣流。ワシは副司令代理としてお前らのコミュニケーションをスムーズにやな……」

「余計なお世話よ。人の楽しみを取るな。シンジが自力で辿り着いてこそ意味がある。彷徨えるシンジを私はニヤニヤと眺めている。私はそのぐらいの価値はある女なの」

「さよけ。自己評価が高すぎるのも困りもんやな……だがお前がそう言うなら口は出さんとこ」

 

 アスカとトウジの応酬はシンジを一層の混乱に落とし込んだが、それはシスにとっても同じだった。

 

「アスカとトウジが何を話してるのか、わからない。シンジは分かるの?」

「いや、僕にもあんまり……」

 

 アスカは肩をすくめた。日本人離れした所作が様になっていた。

 

「つまり、シンジは五歳児並みって事よ」

「それは……ちょっと酷くない?」

「そうだ、そうだ! シスは高校生なのに!」

 

 ニヤリと笑って、アスカはシスに返答した。

 

「シンジだってもちろん高校生なのよ。……でもナリは大きくなっても、女の子の事は何にも分からない」

「そんな事はないと思うけど……」

 

 アスカは本人の抗議を華麗に無視した。ひばりみたいに高い声で、歌うように言った。

 

「バカな男の子は、私、世界で一番キライ」

 

 そう、あんたが世界でいちばんダメな男よ──私のただ一人のバカシンジ──と、女神は残虐な笑みを閃かせて、シンジを見る。

 

 

「アスカのこと、何か怒らせたのかな」

 

 ネルフ本部内のトレーニングジムで、シンジは時速8kmに設定したランニングマシーンを幾分余裕を以て走りながら、小首を傾げた。

 

 第二種戦闘配置は三十分前に解除された。エンジェルキャリヤーの反応は再検出されず、誤報として処理された。ネルフJPN総司令葛城ミサトはむしろそれで頭を抱えていた。

 

「毎度のことだけど、日本政府も国連も戦自も誤報を文字通りに受け取ってくれないのよ。──ネルフのいつもの欺瞞と隠蔽だって解釈されてね」

 

 それを司令塔から通信してシンジたちに──司令部員にも聞こえるようにわざわざ──言ったのは、もちろん「王の耳」ならぬそれら機関の諜者が司令部員内にいることを見越してのことだろう。ある意味ではネルフの自業自得でもある。ゲンドウ時代に、ネルフは「誤報」をいささか便利に使い過ぎた。

 

 待機が明けたから、シンジとトウジは語らって本部内のジムに歩いて移動した。アスカたち女性陣はシャワーを浴びに行ったようだ。「プラスーは蒸れるじゃない。つま先に汗が滝のように溜まってるし……なんならシンジも一緒に浴びる?」

 

 それは女子高生としては精一杯背伸びしてそれなりに艶めかしい誘いだったが、シンジの代わりに「じゃかあしいわ! はよ行け」と間髪入れず怒鳴り返したのはトウジだった。シンジは何も言えず、赤面しただけだった。アスカは満足そうにその表情を見てから、口角を上げ、おもむろに頷いて去っていった。

 

「何や──また惣流とひと騒動おっぱじめるつもりやないんやろうな?」

 

 応じるトウジはベンチプレスで40kgを持ち上げながら、荒い息で問う。さして重い重量ではないが、手足を一本ずつサイバネティックスの義手と義足に代えているトウジは決して無理をしない。安全マージンをかなり取っている。何か有った時、自分独りでは対応が困難になるかも知れないからだ。そうなれば却って周りに迷惑を掛ける。トウジはそれを幾度かの手痛い失敗から学んでいた。

 

「僕はそんなつもりじゃないんだけど」

「お前らの夫婦喧嘩は、世界の命運級やさかい。自重してや」

「エヴァに乗ったまま喧嘩したりはしないさ」

 

 シンジは努めて冷静に反論した。エヴァを降りても、女の子に手を上げたりはしない。アスカは女の子なんだ。そういう思いは、彼女の身体的な変化とともにいや増してくる。

 

「痴話喧嘩だけやあらへん。お互いに心配したり、気を揉んだり、そういうメンタル面でのトラブルが、世界を無うなったりしかねへんのや。何せ今の碇センセはスーパーエヴァンゲリオンと一心同体なんやしな」

 

 鼻を鳴らしてトウジは言う。憂慮という心の荷物を抱えながらだと、40kgがやけに重く感じられる。

 

 世界か……。シンジは小さく呟いた。シンジは一度、綾波レイ№カトルに殺害され、エヴァと共に蘇った。その心臓を共有するかたちで。今の(スーパー)エヴァは、心臓部分の異世界に開いた窓から無尽蔵にエネルギーを取り出すことが出来る。

 

 伊吹マヤはシンジが生還して程なく、彼を自分の執務室に呼び出した。彼女はリツコが消えた今、司令部員のオペレーターから技術開発局先端技術部のマネージャーに異動している。元々、研究職で入所した才媛なのである。初めて与えられた個室は落ち着いた女性らしさで整頓されていた。シンジはじろじろ見回したりしないように注意していたが、室内にはネコをモティーフにした小物が目立つ。マヤさんは言った。

 

「私たちの世界って、巨視的視点からは宇宙にほんの一瞬あらわれた揺らぎみたいなものなの。いつ消えたっておかしくない」

「一瞬の揺らぎ──ですか?」

 

 思わず眉をひそめたシンジに向かって、マヤは優しく微笑んだ。

 

「そんなのヘンだ、って思うでしょう。日常的感覚では、私たちの世界が秩序(コスモス)で、宇宙の方がカオスに感じられる。それが人間にとっては普通よ。でも宇宙的視点では私たちこそ、終末の熱力学的平衡状態(宇宙の熱的死)に至る過程の中で生まれた、ほんの一時の異物で、すぐに弾ける泡沫(うたかた)なのかも知れない。もちろんその一瞬は数千万年なのか、数十億年なのかは分からないけれど。そしてここからが重要なのだけれど、エヴァの力はそれを明日にも断ち切る事が出来る力なのかも知れない」

 

 マヤは婉曲的話法ながら、シンジの背負っている責任の自覚を促したのだろう。シンジにしてみれば無論「知ったことか」と反撥する気持ちもある。彼自身が望んだ事ではないのだ。しかしその世界にはシンジだけではなく、アスカたちも生きているのだ。自分ひとりの世界ではない。それに加持リョウジもシンジに向かってこう言ったのだ。

 

 ──君が選択して作った世界だ。

 

 一度、逃げることを止めたなら、最後まで逃げるな、そういう響きが加持の言葉にはあった。だから、スイカ畑の水やりを毎日の日課として、シンジは放擲したりは出来なかった。シンジは加持の畑を引き継ぎ、髪型も引き継いだ。当人には気恥ずかしさもあって言わないけれど、シンジは志だけはそのつもりだった。

 

「向こうの世界から見たら、僕たちどんな風に見えるんだろう」

「向こうって?」

「エヴァの向こうの世界だよ。僕が勝手にエネルギーを借りている……」

 

 そう説明されて、ようやくトウジも思い至った。

 

「マヤさんが言うとった(スーパー)エヴァの『高次元の窓』とかいうヤツの向こうの世界の事か? そんなん人間どころか、生物がおるかも分からへんで。何せ高次元やからな。ワシらとは文字通り、住んでる世界が違う。ハイソサエティ(、、、、、、、)っちゅーワケや」

 

 下手くそなトウジの冗談に、それでもシンジは自分の空想を消し去ろうとは思わなかった。別の世界にも僕らと同じような人間がいて、ずっと覗き窓から自分や仲間たちの一挙手一投足を見守られている感じがある。別の世界と繋がったシンジが獲得した感覚で、それは恐ろしい感覚では無かった。ずっと僕と重なり合ってくれているような。しかし、その視線は常に僕を肯定している訳でもないとも思う。

 

「たぶん不甲斐ないと思ってるんだろうな。失敗したり、うろたえたり、女の子にもどう接していいかさえ分からなくて」

「高次元にもあんなのがおるんかいなァ? あない難物がようおらんかったら、それを相手にするお前をバカにしたりはせんやろ」

 

 トウジの言うあんなのとは、アスカのことなのだろう。シンジはアスカのために一言弁護する義務感を感じて、言った。

 

「アスカはいいやつ(、、、、)だよ」

「……いいやつて。……それ、お前からは絶対に惣流に言わん方がええで」

 

 トウジは胡乱な目つきでシンジの表情を窺い、彼が本気であることを確信すると、首を否定の意味で強く振った。

 

「なんでさ」

「とほほ、やな。……惣流に同情心が芽生えてきたわ」

「『あんなの』より、『いいやつ』が悪いのか?」

「ワシが言う『あんなの』は惣流にとってはミジンコに悪口を言われたようなもんや。シンジが言う『いいやつ』はあの女にとっては多分最悪の猛毒やで」

 

 トウジには自らをミジンコに喩えて良しとする雅量がある。それが彼の発言にある種の客観性を与えていた。

 

「……そのぐらい、理屈では分かってるよ。誰に言われたかで感じ方、受け止め方は全く違ってくるって言うんでしょ。でもアスカにとって僕は他のやつとは違うんだって確証は何もないんだ」

 

 ──キスも1回しただけだし。

 

「……ワシのベンチプレスのノルマはもう終わりや。やから帰るわ」

「ああ、それじゃ僕も……」

 

 トウジはいきなり起き上がると、それに倣ってランニングマシーンから降りようとしたシンジの鼻先に向かって人差し指を突き付けた。

 

「シンジ、お前はあと10km走っとけ」

 

 それは時々トウジがシンジに見せる兄貴面だった。

 

「……走ってどうなるのさ」

「そんだけ走れば、疲れてあのじゃじゃ馬と喧嘩する気も失せるやろ」

「それで?」

「一緒に帰ろうと誘ったらええ」

「待機明けたから、もう帰ってるかもよ」

「どあほ! あのアマなら絶対おるわ! 世界の果てでもお前のことをいつまでも待っとるわ!」

 

 シンジは首を捻った。そんな事ないと思うけど。そして直後、振動したスマホを取り上げ、赤い通知バッジの付いているLINEを立ち上げた。

 

「……あ、アスカ、先に帰るって」

「いや、帰るんかい!」

 

 手の甲でシンジに突っ込みを入れてトウジは荒々しく肩で息をした。

 

「シャワー浴びたら眠くなったからってさ」

「さよけ。夜まで寝とったらええわ」

 

 白けた顔でトウジはそっぽを向く。

 

「私の部屋に入るなら、シャワーを浴びてからにしなさい。汗臭いの禁止! ──だってさ」

「いちいち読み上げるなや。ひとっ風呂浴びたら惣流の部屋に行って、イチャイチャしとったらええやないか」

 

 しかし、シンジは首を横に振って、降りかけていたランニングマシーンの正面に向き直った。

 

「走るよ、10km」

「……ワシは適当言うただけや。もう気にせんでええ、そんなの」

「喧嘩する気を無くすためじゃない。そんなつもり最初から無いし。僕はアスカに会いたいんだ。今すぐ会いたいくらい。だから走る」

 

 アスカからのLINEが、シンジに何故か火を付けていた。大嫌いとシンジに向かって意地の悪い笑みを浮かべたアスカ。待っててくれず先に帰ってしまったアスカ。落とせるものなら落として見れば? と言わんばかりの挑発的態度。恋愛なんか得意ではないのに、とんでもない初恋があったものだ。手応えが有り過ぎる。

 

「ランニングマシーンをいくら走ったって、家には着かんわい」

「それでも走るよ。決めたんだ」

「ほんま、時々頑固なやっちゃな」

 

 ──きっと、どこかで僕は走らなくちゃいけなかった。間に合おうと間に合うまいと。ランニングマシーンの上を走っても、絶対に家には着かないなんて諦めちゃいけなかったんだ。本部決戦で僕はかろうじて間に合った。アスカの弐号機を助けられた。でもあの時僕は死に物狂いだったか? 間に合わなかった時のアスカがどうなるか、ちゃんと想像して、必死になっていたか? この世界にたどり着いたのはシンジの決断というよりも、単なる偶然ではなかったか。

 

 たまたまアスカを助けられて、たまたまアスカと上手く行って、たまたま世界を救って、それでいいって言えるのか?

 

 ──だってあの時、エントリープラグから出たアスカの顔は涙でぐしゃぐしゃだったんだ。命を救った嬉しさより、死に面した恐怖から守ってあげられなかったことが後ろめたくて、胸が締め付けられた。アスカにあんな思いをさせたのは、自分に覚悟と能力が足りなかったからなのか──

 

 シンジがジムに通い続けているのは、だからかも知れない。

 

「少なくとも10km走っても死にはしないんだ」

 

 シンジはそう言って、綾波レイ№カトルにガンマ線レーザーを撃ち込まれた灼熱を思い出したように、今は鼓動していない心臓の上に手を当てる。今は心臓はエヴァの方にある。カトルが僕を殺そうとした理由だって僕にはよく分からないんだ──単にアルマロスに操られているからだけとは思えない。僕がもっと女の子の気持ちに向き合えていたら、もしかしたら……

 

 シンジを糾弾し殺意を向けてきた時、カトルは言った。それは『君が選択して作った世界だ』という加持の言葉と同じことを言っていたが、それだけでもなかった。

 

『彼女を選んで補完計画を壊した……』

 

 カトルの言う彼女が誰なのかシンジにも分かっている。でも仕方ないじゃないか。アスカを見殺しになんて出来なかった。選択肢が彼女と補完計画なら、比べる必要さえないほどだ。だからって僕を殺そうだなんて。

 

『いっそあなたの母親になると答えれば、私の存在は認められるの?』

 

 シンジは過去からのカトルの声を振り払うように首を振った。日に日に母に近づいているように思える綾波たちを避けていたのは事実だ。シンジは母イオカステと交わったオイディプスになるつもりは無かった。だからといって、アスカを選んだのは消去法なんかじゃない。綾波を避けるために、アスカに逃げ込んだというのは違う。

 

「あれから脈打たないんだ。いくら走っても」

「……それでも走れば苦しいんやろ」

 

 シンジは歯を食いしばり、トウジは気遣うように言った。がさつなように見えて、繊細な男子だった。

 

「そりゃそうだけど。……でも僕が走らなくて、アスカが──綾波たちもだけど──みんなが苦しむ方がもっと苦しいし」

「何のこっちゃ。頭沸いとんのか」

 

 感覚的にはむしろよくわかる、男子の思春期の懊悩を、あえて突き放すようにトウジは茶化した。シンジはもうランニングマシーンを再び走り始めていた。

 

「……僕が追えば、その間にアスカも逃げる。だから、一生追い付けない。前にリツコさんが教えてくれた。ゼノンの背理(パラドックス)って言うんだってさ」

 

 「弾道計算や航空力学──その基礎となる数学が出来なくてエヴァパイロットが勤まると言えるの?」と、学校のカリキュラムより数年繰り上げて行われたパイロット向け──受講が必要なのはシンジだけだったが──の教育課程で微分積分を教わりながら、リツコに語られた雑談だ。シンジは数学の方はほぼ忘れてしまったが、脱線の方だけ印象に残っていた。

 

「お前の足が、惣流より速けりゃすぐ追い付けるやろ」

「それがそのゼノンによると、どうしても無理なんだってさ。不思議な話だよね」

 

 シンジは寂しげに笑った。古代ギリシャの哲学者の言うとおり、綾波たちを悲しませ、アスカを怒らせる自分には女の子に一生かかっても近付ける気がしない。

 

「まあ、ワシもヒカリには追い付ける気はせえへんけど。……おなごには勝てる気がせえへん。お前とおんなじや」

 

 トウジは立ち去りかけていたベンチプレスに戻って、ドカッと音を立てて座った。

 

「……トウジ?」

 

 走るのを止めずとも、物問いたげに彼へと顔を向けたシンジに向かってトウジは言った。

 

「ヒカリのやつな──。ワシがあの事件の後、この義手と義足を付けることになってな、クサクサしとった時に見舞いに来たんや。サイバネティックス製の義手と義足のメンテナンスを勉強するって」

 

 シンジは押し黙った。トウジの手足を奪ったのはシンジだったからだ。正確には参号機を破壊したのはダミープラグだが、シンジは自ら戦って状況を打破しようとしなかったのだから、同じ事だった。トウジもシンジの反応には構わず、続けた。

 

「もう、リツコはんに相談してテキストをもらって来ててな。サイドテーブルにそれを広げて、見舞い中もずっと勉強しとった。あんまり夢中になっとったから、見舞い先のワシが話しかけても、静かにして! と怒られたりしてな。お前、ワシを慰めに来たんやないんかい! とこっちも怒鳴ったら、そんなくだらない事のために来たんじゃない! あんたがこれからの人生を生きる手立てを勉強しているんだと叱られてな」

「トウジ……」

 

 シンジは思わず喉のところまで出掛かった謝罪の言葉を呑み込む。前向きに問題を解決しようとしたヒカリの話を聞かされて、安直な謝罪をするのはむしろ失礼だと分かったからだ。シンジだけ後ろ向きになって、自分勝手な謝罪でスッキリする訳には行かなかった。

 

「せや。ワシは死んだ訳やないもんな。長い人生はまだ続く。ヒカリに叱られてハッとしたで。──義手義足の現物がまだ無かったから、ワシもヒカリに色々教えてもろたんや。腕と足の同期の仕方やサイズ補正の方法とかな。腕や足が片方無うなって不安でいっぱいのワシもそれでちっとは具体的にこれからの生活をイメージでけたから、ごっつ安心してな」

 

 つらい時期の記憶なのに、トウジの語り口はあくまでも穏やかだった。口元には微笑まで浮かべている。

 

「──ヒカリは泣き言やネルフへの恨み言は一切言わんかった。それを一番言いたいのはワシやったんやからな。だからワシも言えんかった。ヒカリは泣いたりもせんかった。真っ先に泣くと思うとったんやけどな。強情に泣かんかった。強情に、って変な形容やろ。でも実際そうやったんや。涙を堪える素振りさえ見せんようにしとった。ワシより先に泣く訳にいかんもんな。ワシはそれで毎晩独り病院のベッドで泣いとったで。手足が無うなったからやない。ヒカリに涙を流さずに泣く方法を身に付けさせてしまった自分が不甲斐のうて、悔しくてのう」

 

 トウジは遠い目をして、懐旧する。好きな女の子を悲しませた記憶。その想いにシンジも自分のアスカへの想いを重ねる。

 

「ワシがお前との友情を失わんかったのはヒカリのおかげや。お前に向かって最低の事を言わんで済んだのはヒカリが強かったからや」

 

 シンジは足を止め、黙って頷いた。謝罪したくなる葛藤を必死に押さえ込む。強情に涙を堪える。彼もヒカリの強さを見習って。そしてトウジのように強く、優しくありたい。

 

「──せやからもう一生、ヒカリにはアタマが上がらん。あないなおなごに勝てる気はせえへんけど、でも只、負けるのは癪やから、今日のワークのノルマをちびっと追加するわ。お前が10km走り終わるまでな」

「トウジはいいやつ(、、、、)だよね」

 

 シンジは微笑んだ。笑みがぎこちなくなければ良いが、と願いつつ。少なくともこの使い方は猛毒(、、)ではないはずだ。

 

「アホ。気付くの遅いわ」

 

 

 アスカは綾波のクローンたちと一緒にシャワーを浴びた後、すぐに帰った訳では無かった。帰る宣言をLINEでした後に、彼女たちを引き連れて、本部内のカフェテリアでお茶を飲んでいた。全面ガラス張りの壁面から燦々と、地上の集光ビル経由でジオフロントへと取り込まれた日の光が照りつけている。

 

 アスカたちは二階席に陣取っていた。そこはアスカのお気に入りの場所だった。出会ったばかりの頃、手すりから身を乗り出しながら、「一階の客たちを見(くだ)すのが愉しいでしょ?」とシンジに言ったら、「それを言うなら、見()ろすだよ」と笑われたことがある。あの時は別に日本語を間違えたのでは無かった。本気で他人を見(くだ)していたのだ。シンジが勘違いしてくれていて良かった──そんなことで嫌われたくはないから。今は下で豆粒のように見える子連れの職員や、ネルフと戦自の異なる制服で一緒に休憩中のカップルが微笑ましい。私が──私たちがあの人たちの幸せを守ったんだと思うと誇らしくなる。

 

 飲み物は全員、アスカの奢りだ。特にトロワに対してだが、無神経に話に巻き込んだことにアスカは少し気が咎めていた。その償いの気持ちもあって無理やり彼女たちを連れて来ていた。サンクは遠慮がちに、シスは大喜びで、トロワは相対的に無感動に、スタバもどきの店のコーヒー飲料を奢られていた。

 

「シンジやトウジは来ないのか?」

 

 無邪気に、しかし、男子たちの不在の違和感を隠しもせずシスは尋ねた。シスにとってはシンジやトウジは仲のいい兄ちゃんたちであった。

 

「……もう帰るって言ったのよ。シンジにはね」

「嘘をついたの?」

 

 アスカはうーんと首を捻って、どう答えたらいいか暫し考える。子供向けに噛み砕いてはいるが、アスカはシスには誠実に答えたかった。

 

「そういうのも時には必要なのよ。押したり、引いたりの駆け引きが、あんたの気になっている、はつこいとやらにはね」

「シンジをだました?」

「騙すっていうか、本当のことを言わないだけ。言ってしまったらそこで終わりだから」

「終わりって、こいが終わるの?」

 

 深刻で悲しそうな顔をしたシスに、アスカは微笑んで首を横に振った。

 

「終わらない。そこからまた始まるのよ。はつこいじゃなくて、新しい何かがね。それはもしかしたら、一生続くものなのかも知れないわ」

「……むずかしい」

 

 鹿爪らしい顔をした幼女のレイに向かって、アスカは説明する。

 

「そりゃそうよ。初めてだから、初恋っていうんだからね。難しくて当たり前。でも初恋には初恋の楽しさがある。ちょっとした駆け引きはあったとしても、手練手管を駆使した恋愛じゃないから、(つたな)くて、不器用で、傷付けたり、悲しかったり、怒ったりもする。もちろん、やきもちを妬いたりもね。でもそれが可愛くて、愛しくて、相手の反応や気持ちが分からないからこそ、ドキドキして、試行錯誤する。初恋は一生に一度のものなんだから、大切なのよ。ステキなの」

「シスにも出来るの? はつこいは」

「出来るわよ!」

 

 不安そうな顔をしたシスを元気づけるようにアスカは明るく張りのある声で言った。この子には他の綾波クローンの個体とは成長速度が違うという引け目がある。それは十四歳をピークとするエヴァパイロットのシンクロ率適性をあえて時間的にずらし、将来に亘って、長期的にパイロットを確保するという目的があったからだが、シスの悩みには関係ないことだった。

 

「──シスだけじゃない。レイだって。サンクだって。今はここにいないカトルだって! みんなステキな女の子に生まれたんだもの!」

 

 アスカはそう言って、ニッコリとこの場にいる全員を見回した。気休めで言っているのでは無かった。シンジが選んだこの世界が、人類補完計画という人類の文化と文明の破局あるいはそこから永劫に続く無感動の静謐に満ちた世界を拒絶するものであったのなら、アスカの言っていること──女の子のステキ──はその世界の大義の中心に据えられるべきものであったからだ。きっと、あの唐変木のシンジもこれだけは強く賛成してくれる。

 

 サンクは微笑んでアスカに向かって小さく点頭した。トロワは小声で「ありがとう」と言う。それから「カトルもきっと喜ぶ。精神ミラーリンクが切れてるから今は確かめられないけど」と義理堅くかつ正確にカトルの分まで、礼を言った。シスは咲きこぼれるように笑顔を浮かべた。そして、突然理解したように大声を上げた。

 

「シンジはアスカのはつこいなんだ! シンジに教えてあげなくちゃ!」

「ちょっ、余計な事はやめて!」

 

 アスカは慌てて立ち上がり、いっちょ前に買ってもらったキッズ用スマホを取り出したシスを制止する。その白晳の顔は真っ赤になっている。

 

「教えたでしょ! 『言ったらそこで、はつこいは終わり』だって! だからまだシンジに言ったらダメ!」

「どうして? はつこいが終わってもつぎが始まり、一生続くのだ? 別に困らないのに」

「それも説明した! 初恋には初恋の素晴らしさがあるのよ! 今しかない期間限定商品的な良さがある。あんたがしょっちゅう食べたがるマクドナルドのあれと同じ!」

 

 アスカはこないだの昼食の時もシスが、テレビコマーシャルで宣伝されていた「ザク切りポテト&肉厚ビーフ コク旨ガーリックマヨ」という新商品を食べたがって聞かなかったことを思い出した。ネルフ本部には無いから、マクドナルドまで行くのは昼休憩ではかなり時間的に厳しく、(あせ)らされたものだ。

 

「じゃあ、アスカとシンジは一生はつこいをするのか? つぎにはいかないの?」

「いや、それは……次のステップでしか出来ないことにもとても興味ある……し。一生このままって訳には行かないわよ……すごく、気持ちいいって話には聞くし……だからいずれは……高校のうちに……」

 

 ごにょごにょとアスカの口調が急速に尻つぼみになった。サンクがそこで静かに微笑んで、二人に割って入った。

 

「惣流さん。次のステップの話は、シスにはまだ早い──のでは」

 

 その指摘に、ハッとこれまでの発言のセンシティブさに気付いて、アスカは面をあらためた。

 

「……それはそう……うっかり、つい、口が滑って……ゴメンナサイ……」

 

 しかし、サンクの言葉は普段の温厚な彼女に似ず、止まらなかった。

 

「だいたい何──。すごく、気持ちいいって? シスばかりじゃなく、私たちの前でも。そういうのはあなたと碇くんの二人きりの所で相談すべき」

「ご、ごめん、そうするわ。今度シンジと二人きりの密室で……内々に……」

 

 どうも、この綾波の前ではアスカも調子が狂う。いや、普段のサンクの前ではそんなに畏縮することも無いのだが、今日は妙に相手に迫力があるのだ。

 

「シンジと関係を深めろと言ってるのではないのですよ。そういう軽はずみな事ではなくて、もっと慎重に検討しなさいと──はしたない──高校のうちにって焦りすぎなのでは?」

 

 ゴゴゴゴとタイタニック号に向かって巨大な氷山が迫るような迫力で、笑顔のまま静かに怒りを募らせる綾波レイ№サンクの前に、アスカは小さくなっている。そう、まるでサンクにシンジの母、碇ユイが乗り移っているかのようだ。アスカは米搗き飛蝗(ばった)のようにサンクに向かって頭を下げている。

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい──」

 

 かつてただ一人の綾波としての時間を過ごしてきた綾波──綾波レイ№トロワは、ずもももと大きな音を立てて、桃のフラペチーノを飲み終わると、アスカとサンクを無表情に眺めて、静かに、しかし困惑混じりに言った。

 

「はつこい、難しい。……私にはやっぱり、わからない」

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