月には海がある、しばらく前にアスカにそう聞いていたから、シンジはそれを贈り物に選んだのだろう。
人類の新たなる敵アルマロス──その敵が最後に
アスカの後ろの露天繋止用の特設ケージには月面用迷彩として、レゴリスと同じ灰色にすっかり塗り替えられた弐号機が鎮座していた。驚くことにこの塗装はアスカの方から進言したものという。さらに二脚のエヴァを四脚へと変換するアレゴリカユニットが下半身に接続されていて、あたかも
ユニットの翼面に多数設置されたN2揚力場スラスターが人工潮汐力場を発生させることにより推力を得るため、推進材を一切必要としない。常に推進材の重量と残量の意地の悪いディレンマで悩ましてくる冷たい方程式の女王の支配下でも、アレゴリカはアスカを必ずや月へと運んでくれる。そして月面の脆いレゴリスの上で四脚の足は弐号機を安定的に機動させてくれることだろう。ロケットのペイロードがたとえ通常の二倍を上回ろうともアレゴリカごと打ち上げる理由が確かにあるのだ。
壮行の為の記念撮影と野外パーティに暑熱を避けて夕刻から繰り出した皆はそのメインイベントとして、およそ40万㎞にも及ぶ長旅の無聊を慰めるため、アスカとその僚機のパイロットに思い思いの贈り物をした。
シンジが選んだのは樹脂でコートされた「お風呂でも読める」海洋生物写真集だった。
これならエントリープラグ内がLCLの液体で満たされてもちゃんと読める筈だ。本の封を解くわけにはいかず、事前に試してはいないけれど、お店の人は長期間の水没にも問題ない、何ならプールの中でも読めますよと請け合ってくれた。
それを披露された時、アスカはシンジの手の中の本をじろじろと眺めながら、始めビミョーな顔をしていた。
海洋生物の写真集?
ずいぶん、唐突なチョイスね。
だから素直な気持ちが口を突いて出た。贈り物への不平不満ではない、純粋な疑問形だ。
「私は月に行くのよ。あんた分かってるの?」
「行き先はもちろん知ってるよ」
シンジは視線を夜の空に向けた。だからアスカも自然に同じ方向を向く。シンジの後頭部に伸ばしてくくった長い後ろ髪が見える。どうやら加持の真似をしているらしい。ま、好きにすればいいんだけど。
空には女の肌の様に生白い月が真円を象っていた。
想像力に富んだ先達の書物から窺うところによると、どうやら無慈悲な夜の女王だったり、地獄だったりするはずのその地はまだアスカに何も語ろうとはしなかった。
「でも月には海があると前にアスカが言ってた」
「その海ってのは生き物のいない海なのヨ」
アスカは肩をすくめた。
17世紀の天文学者が地球から眺めて
むろんそれはアスカにとってはかねてからの常識ではあるが、地理学ならぬ月理学──わかりやすく言えば月面地理学は促成教育とはいえ、シンジも強制的に覚え込まされていた。アスカと一緒の部屋に二人缶詰めにされて額を文字通り突き合わせて勉強させられたのだ。テーブルがやたらと狭く距離が余りにも近いから、手と手、額と額、頬と頬がすぐに触れそうになった。呼吸するだけでお互いの鼻に鼻息がかかり、矢鱈とこそばゆいが不快感は全くない。シンジをからかおうと、頬に手を伸ばそうとして、ひょいと目を上げたシンジの涼しげな眼差しに逆にアスカが狼狽えてしまう。
アスカはそれでもシンジの顔から目を離せなかった。その整った顔立ちの微細の構造に魅入られると、頬の産毛と、午後の陽の傾きに合わせて漸くうっすらと伸びてきた若者らしいまばらなヒゲが目に入った。シンジの頬と自分の頬をこすりあわせて、触感で柔らかな肌と産毛の存在を感じてみたい。生えかけのヒゲの周りに掌を這わせて、指先でそのじょりじょりする感覚を味わってみたい。当年とって17歳になる少女はそう思った。
こうした欲望は極めて健全なもので、エロいものではないとアスカは心の中で力強く自己弁護していた。
「どうしたの、アスカ」
「な、何でもない」
狐につままれたような表情のシンジに問われて、かぶりをふるが、そこに別の女の声が後ろから覆い被さってくるので、心臓が口から飛び出そうになった。
「……確かにまだ二人は何でもないみたいね──でもそれは時間の問題だったのじゃない?」
振り向くと、三十分ほど前に「また様子を見に来るからちゃんと勉強するのよ。イチャイチャしたりしないで」と言い置いて、自分の執務室に去ったはずの伊吹マヤがいつの間にか立っていて、じとっとした醒めた視線をペンを持つ手が止まった二人に注いでいた。
驚きから立ち直ったアスカは後ろめたさよりも、この赤木リツコの衣鉢を継ぐ白衣の女科学者に同情心を抱いた。マヤには
「何のことかしら、マヤ」
「間に合って良かったわ。二人が横になって抱き合ったりしていたら、私は褒められて、同時に怒られるところだった」
「何それ……」
「褒められるのは和室に座卓の部屋は絶対ダメと強固に反対した私の先見の明についてね。怒られるのはリノリウムの床だって発情期の若者には関係ない、それを見抜けなかった甘さについて」
そう、もちろんリノリウムの床には寝転がれない。だからそんな事をするはずがない。テーブルの上でのほっぺすりすり、ついでに軽めのフレンチキスぐらいのステージへは、マヤの邪魔が入らなければ無事に突入出来たのかも知れないが。
「私たちは清いお付き合い中で~す」
マヤのセクハラすれすれの牽制にヤケクソ気味の大声でアスカは切り返した。マヤはやれやれと首を横に振った。
「えっ」
先刻からの慌ただしい流れに茫然として成すところを知らなかったシンジが、アスカの軽口に目を見開いて驚いたところを見ると、彼の認識ではまだお付き合い中では無かったらしい。
──これは、ユユシキ問題。
アスカは心の中で呟く。シンジに交際の自覚がないのは色々と困るわね。これだからバカシンジは。
そんな回想をいい加減打ち切って、アスカはこの場のシンジとの会話に戻る。
「月の海に、魚はいない。ペンペンもいない。フナムシもイソギンチャクもいない。ちゃんと習ったはずよ」
「……だからだよ」
「え?」
アスカは眉を顰めて、怪訝な顔をした。
「生き物のいない海を見たら、アスカがきっと淋しがるだろうから。それでこの本がいいかなって。そう思ったんだ」
「そう──」
確かにシンジの言うことにも一理ある。今の月はかつての地球だった。というのは、人類補完計画が失敗する度に、まるで鬼ごっこの鬼が交代するみたいに、その地殻と土壌と生物層を奪い合ってきたのが地球と月という二重惑星系なのだ。
私たちの作戦が失敗すれば、やがて地球は今の月のような生命のない星になり果てる。月のウサギたちにもこれからは中秋の名月──いや、中秋の名球を楽しむチャンスが到来するというわけだ。
「でも先回りして、心配されているようなのは少し
アスカは拗ねたように言って、その青い本を受け取った。身を包むのはアスカの要望に合わせて新調した桃色のプラグスーツで踵にはヒールを取り付けてある。それを鳴らすように地面に埋まっている小石に打ち付けた。
まるで自分が人一倍寂しがり屋だとシンジに見抜かれてるみたいだ。
照れ隠しのように、本を開くと、見開き一杯にカマイルカの群れが飛び跳ねている様子が撮られているページだった。白と黒のモノトーンなのに生命の、筋肉の躍動感があって、名前の由来となった鎌のような背鰭のしゅっとした造形が美しい。一番手前の一対のイルカは雌雄のペアだろうか。まるで双生児のように同じ姿勢で空中に飛び上がり、海面にしぶきを立てている瞬間が写真には切り取られていた。それは何だかアスカの胸をざわつかせる。
アスカにも似たような経験があるからだろう。
目の前の男の子と日々を共に踊り、戦場で飛び跳ねて、瞬間心重ねて、生き抜いた経験が。
「独りじゃないのね、イルカも」
「そう。人間と同じだよ。みんな群れで懸命に生きている。アスカの任務はしばらくはサンクと二人だけのものだけど……」
サンクとは本部決戦後に生み出された綾波レイの新しいクローン体で、名前通り
アスカの懸命の馴致の結果もあって「惣流さん」と呼んでくれるようになったサンクは、綾波レイのクローン体の中では比較的協調性があり社交的な個性を持つが、それは表面的でかえって本心が見えにくいとアスカは慮っていた。
むろん、アスカにも己の過去を省みた時、偉そうに他人の協調性や性格を云々できる立場にはない。それをようやく自覚出来るようになったのが、彼女の一番の成長だろう。背丈や手足の長さや胸の大きさの急成長だけではないのだ。
「たとえ一時孤独だったとしても、私は必ず戻ってくるわ。月は私が生きていく場所じゃないのだもの」
アスカは噛んで含めるようにシンジに分かった?と視線を送りながら言った。
「うん。アスカが月の海を見た時に、この本を開いて、地球の海とイルカを思い出してほしい……」
シンジはそれだけ言った。
「他には?」
「え?」
アスカは悪戯な目をしてシンジに再度訊ねる。
「他に思い出してほしいものはないのかしら?」
「えっと」
シンジは頭を掻いた。彼が直前まで言おうとし呑み込んだ事をアスカは先刻お見通しらしい。だから、シンジはおずおずと口を開いた。
「太平洋のさ──海の中を思い出してよ。二人で見たやつを」
「あら、何か見たかしら」
アスカは小首を捻って、芝居がかった台詞を言って見せる。
「修学旅行は中止になったから、スクーバは出来ずじまいだったのよね」
第壱中学校の修学旅行先は沖縄で、アスカは透明な深く青い海でスクーバをするつもりで、ネルフのプールを借り切って練習までしていた。泳げないシンジはそれをプールサイドで眺めるばかりだった。
そこまでしたのに、浅間山火口で発見された第8使徒サンダルフォンのせいで、アスカとシンジの修学旅行は急遽中止になったのだった。
アスカはその事を言った。
どうやら彼女はしらばっくれているらしい。
「そっちじゃなくて!──忘れたとは言わさないよ、ガギエルの口に……」
「二人でケーキを入刀した?」
第6使徒ガギエル撃退の顛末を茶化して、アスカはそれを乙女色のエピソードに染めてしまう。
「ち、違う──けど」
「ま、似たようなものでしょ」
アスカはふんと鼻で笑った。腕を前に組んで独り合点するようにそうだ、そうだと何度も肯くのだった。
「あれはきっとそういう事なのよ。うん、きっとそうなんだ──二人でやった初めての共同作業ってやつ?」
ガギエル戦はもちろん、アスカがシンジに国連軍空母オーバー・ザ・レインボーの艦上で出会ったその日に起こった。初対面のその日にケーキ入刀とは、われながら大胆なものね。でも、コイツが相手で少し早まったかしら? とアスカは、目をそらして照れくさそうにポリポリ頬を掻いている少年の横顔を見た。いや、もうそろそろこいつも少年期を卒業だろうか。
私よりだいぶ背が高くなったものね。あの時は僅かにアスカの方が背が高かったのに。と思うと、些か感慨深い。
「よくそんな恥ずかしい事を言えるナァ」
「恥ずかしくはない」
だいじなことだから、きっぱりと言い切った。
「え、だってさ」
「男はそれを恥ずかしいと思う。女は思わない。それぐらいは覚えておきなさい」
「う、分かったよ」
真剣な青い瞳に見つめられて、シンジが含羞の色を頬に滲ませて頷いた。アスカは再び
満点の星空だった。
「宇宙も海もきっと似ている、一度迷ったらもう戻っては来れないかも知れないわ」
その言葉にシンジは心細そうな顔をした。寄る辺なき孤児のような表情を見て、アスカは少年期を卒業しつつあるというさっきの印象をとっととクーリングオフした。
やっぱりこいつはいつまでも子供なんだから。バカシンジには私が付いていなくっちゃ駄目ね。
シンジもアスカ自身も二人は瓜二つの寂しがり屋なのだから。寄り添って初めて一人前だと言える。アスカはほっと安堵するように微笑んだ。
「だけど、この本はきっと──シンジが呉れたこの本は──」
アスカは腕の中の本の表紙に目を落とした。アスカの好きな赤とは対比的な青い海が描かれている。自分とは違うから惹かれるのかも知れない。そんなアスカも小はプラグスーツの色から、大は弐号機の色まで大胆に変えようとしていた。しかし本質は──アスカの色は、自分でもいつまでも変わらない気もしている。
双生児のように瓜二つで、赤と青のように対照的。
それがアスカとシンジだった。
アスカはポンポンと本の表紙を叩いた。まるでシンジの背中をやさしく叩くように。
「──道に迷ったとしてもあたしをシンジの元へと導いてくれる。だって、あんたは
「それは……たしかに僕の名前は碇だけどさ」
混ぜっ返すようにシンジは言った。
「そうだね。──でも、いつまでも自分の名字を自分だけのものと思うなとは言っておく」
「えっ?」
アスカは片方の口の端を吊り上げて、ニヤリと笑った。
「奪うから」
「すごいことを言うなあ」
シンジは呆れたように声を上げた。
「あ、意味が分からないなら、一応解説してあげるけど」
「──流石にそこまでバカじゃないつもりだよ。意味ぐらい分かる」
「バカでもいいじゃない。あたしがそれで良いと思ってるのなら」
一人称をそこだけ昔──シンジと出会った時のあたし──に戻して、それからアスカは青い本を抱きしめた。
本当はシンジを抱きしめても良かったが、それは後日の再会に取っておこう。アスカはこれを今生の別れにするつもりはさらさら無かった。
「この本をアンタと思って一緒に月に連れて行ってあげる」
「うん、ありがとう」
「私はあの月に行く。晴れている日なら、あんたが私を見失う心配はない」
アスカは真っ直ぐ指先を白い満月に向けた。
シンジは点頭して、口の端を緩めた。
「僕も月からすぐ近くの青い星にいる。多分、アスカも見落とさないよ」
いっぱしの宇宙旅行ガイドになってシンジはアスカに、知る人ぞ知る宇宙地理の秘密を披瀝した。
「その星は今は縮みつつあるけれど、僕とアスカが生まれ育った星だから。アスカはきっとそれを見失わないよ」
アスカは遠くを見る目をした。ここではなく、宇宙に飛び出た自分を、──そして、そこから眺める風景を──二人の星を想像して。
「私、その星の名前、知ってるな」
その星は、シンジが呉れたこの本みたいな澄んだ色をしていて、
その名前はきっと──
「
アスカとシンジの声が綺麗に
だからそこは二人で戻るべき場所。