ゆるい、ばいおはざーど   作:氷の泥

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14 死屍累々の輝きを

 引き金を引いて召喚されたのはワスプの群れだった。と言っても、その総数は俺たちが宿舎で見た時よりもずっと多くなっている。五倍はいるだろうか? 一度に全員は視界に収めきれないほどの膨大な数が群れを成し、ブゥンブゥンと羽音の嵐を撒き散らしている。

 飛行能力を持つワスプたちであれば、竜巻に巻き込まれることはあっても、そこから落下の隙を襲われることはないだろう。数が桁違いであるがゆえに人型ゾンビのように各個撃破される心配もない。そしてアダーと同じくワスプたちの針にも毒が秘められている。これだけの条件が揃っていれば、リサ・トレヴァーを倒せるだろうか……?

 ……具体的な理由が思い当たるわけではないけれど、しかし漠然と、俺は彼らが彼らだけでリサに勝てるとは到底思えなかった。だから増援を呼ぼうとしてもう一度引き金を引く。律儀に少しずつ呼び出さなくたって、今まで出会った全てのゾンビを一度に召喚してしまえばいいと思ったのだ。

 が、何度引き金を引いてもトランペットの音はならなかった。弾切れということはないだろう。ということはおそらく、一度に呼べるゾンビの種類または組み合わせには限りがあるのだ。

 ワスプたちが空飛ぶ津波のように一斉にリサへと襲いかかる。……俺の漠然とした不安はすぐに的中してしまった。

 リサは先程倒した人型ゾンビたちから上着を剥ぎ取り、その分厚い布でワスプの群れのうち一部を……それもおそらく理論上可能な最大の数を包み捕らえては、巾着のようにその上着を縛りはじめたのだ。無論それで捕えられるのは群れの一部にしか過ぎない。……が、上着は全部で五着もある。いやTさんの物を含めれば六着か。

 結局、リサは五着の上着を使ってワスプの群れの大半を無力化してしまった。巾着の中には巣の中よりも遥かに過密にワスプたちが封印されている。そのせいで上手く身動きが取れないせいか、それとも元々布が分厚すぎるからか、あるいはすでに圧死しているのか、とにかく一度捕らえられてしまったワスプたちがそこから脱出を果たすことはなかった。

 残った僅かな残党たちは神速の手刀で殲滅されてしまう。その最中にワスプの針はカウンター攻撃じみてリサに突き刺さっていたようだが、たった数度刺したくらいでは彼女を怯ませることも叶わない。刺された箇所の腫れもすぐに引いていってしまった。

「さぁ次だ」

 リサに睨まれて俺は反射的に銃を構える。

 ……構えた、けれど、引き金に触れる指が錆びついたように動かなくなる。迷いが生じてしまった。こんなことを繰り返して本当に意味があるのか、本当に勝てるのだろうかと……。

 すでにこの場には、ハンターが一人、ゾンビが五人、ケルベロスだったバターが三つ、ヨーンが一体にアダーが二十匹以上、そしてキメラが一人……それだけの数のゾンビが意識を失って(あるいは死んで)横たわり、その上無数のワスプが拘束されたり地面に落ちたりしている。

 ……控えめに言って地獄絵図だった。倒れていったゾンビたちは、俺たちにとって赤の他人か? 俺にはそうは思えない。今日初めて知り合った仲だけれど、それでも彼らと俺たちは、そんなに冷めきった仲ではなかったはずだ。智絵里だって言っていた、この世界のゾンビはいい人たちばかりだと。俺だってそう思う。

 そのいい人たちを無駄死にさせるだけなら、もうこの引き金を引くべきではないのでは……? 一度そう考え始めると、その考えを否定する材料はどんどん見当たらなくなっていった。

「拓海様! 引き金を引くのです!」

「……でもTさん」

「彼らはゲームのキャラクターです、エンディングを迎えれば次のゲームへ向けて全員生き返ります! しかしエンディングを迎えるには、貴方方がヘリに乗らなければならないのです。だから貴方は引き金を引かなければなりません。元の世界へ帰らなければならないのです!」

「そうなのか……!? そういうことなのか!」

 ならば迷ってはいられない。俺は次のゾンビを召喚する。誰が出てくるのか分からないが、頼む、優しいゾンビたち、俺たちを……皆を救ってくれ……!

 引き金に合わせて音と光が弾けた。……が、その光の中からは何も現れなかった。

「え……」

 リサもきっとずた袋の向こうで怪訝に眉をひそめていたと思う。何を起こすでもない空虚な眩しさが消えた後、一瞬だけこの場の時間が止まってしまったかのような無音が流れた。

 ……そうして棒立ちになっていた彼女の四肢を、突如地面を割って現れた触手が絡めとって拘束する。いや触手ではない、それは植物のツタだ!

 大の字になって空中に吊り上げられたリサが、心なしか嬉しそうに叫ぶ。

「プラント42か!」

「リ〜サ〜……!」

 ヘリポートの壁面から無数のツタが、そして花とも実ともしれない植物の部位が生えてくる。そこがスピーカーのようになってプラント42の声が響く。宿舎でTさんの言っていた通り、彼はすでに完全復活していた。

「さぁリサ、プレイヤーに対しては使いどころのないコイツをくらえ!」

 ツタの数本がリサの顔まで伸びてきて、その先端に咲いている花から毒々しい紫色の花粉がばら撒かれる。

 そうか、今作ではプレイヤーを拘束する以上の害を成さなかったプラント42も、潜在的には毒性の攻撃手段を持っていたんだ。毒なら彼女をまた少しの間無力化できるかもしれない。そうなれば、今度こそ俺と智絵里はそのチャンスを見逃さない!

 ……だがリサの判断は早かった。花粉が来ると判断するや否や即座に目をつむり息を止め、彼女は自らの手足に巻きついたツタを渾身の力で引っ張り始める。

「痛たたたたっ!? 痛い痛い痛い!!」

 引きちぎってやる……。ずた袋の向こうの閉じた目からそんな殺意が感じ取れた。ツタはすぐに一時離脱のため拘束を解き引っ込もうとするけれど、リサの反射神経はそれを見逃さず、むしろ自分から逃げ行くツタを掴み直した。

 原作から考えるに、プラント42の体は銃弾を何発もしのぐ極めて強靭な物のはずだ。それを腕力で引きちぎろうとは異常という他ない考えだけれど、リサの筋肉の盛り上がり方を見ると、むしろすぐにちぎれないツタの方が異常なのではないかという気にさせられてしまう。彼女の腕の筋肉は、ボーリング球をいくつも並べたかのような異様な形と大きさをしているのだ。

「ちぎれる! ちぎれるって!! 分かった降参! もう降参!」

 悲鳴にも似たその言葉を皮切りに、プラント42はその姿を全て壁の割れ目の中へと隠し、この場から消えてしまう。降参を受け入れたリサがツタを手放したのだ。彼女は花粉の滞留するその場からすぐに飛び退いて離れた。

 白旗代わりだろうか? ヘリポートの中央には、初めて見る白い花が一輪取り残されていた。

「次ッ」

「くそっ……」

 引き金を引く。……すると今になって唐突に、召喚を伴うはずの光がこれまでとは違った挙動を見せ始めた。

 今、俺の目の前に期待していたような光が溢れることはなかった。けれどそのかわりに、この場に残されたゾンビたちの亡骸の全てが光り輝き始める。

 その数多の光はみるみるうちに膨張し、場に(かさ)をもって広がり、俺たちの腰のあたりまでを平たく光の海で埋め尽くしていく。……やがて、その光は別の物へと変化した。「水」だ。薄く青い澄んだ水がヘリポート中を満たして、あっという間にこの場をプールへと変えてしまった。

 そしてそのプールの中には、特徴的な背ビレを持つ者が一匹、いつの間にか泳いでいた。

「あ、そうか……! その手があったんだ!」

 その対戦カードに、俺は合点がいったような気持ちになる。召喚されたゾンビは鮫のネプチューン。水中において無敵のゾンビだ。

「ネプチューンならリサに勝てる……いや、負けないかもしれない……!」

「え、そうなの……? なんで……?」

「奴は水中なら全ての攻撃をノーダメージにするんだよ」

 宿舎探索の時、智絵里はすでにネプチューンに会っていたはず。けれどあの時はTさんが俺と一緒に拘束されていたから、ネプチューンについての諸々を詳しく説明してくれる人がいなかったのだろう。

 原作においてネプチューン……とりわけ水中にいるネプチューンを倒す方法は、存在しない。どんな武器で何発撃っても傷一つ付けられない。あの鮫は水中にて完全に無敵なのである。

 ただしそのかわり、水の外に出るとナイフの一刺しで絶命してしまうような、ゾンビとしては弱小の部類になってしまうという弱点もある。そのためネプチューンを倒す方法は「イベントで水を抜く」のただ一つしか存在しないのだけれど、それはつまり逆を言えば、水さえ確保できていればネプチューンの耐久力は、ラスボスであるタイラントすらも遥かにしのぐ物であるということを意味している。

 そして今このヘリポートに、水を抜くイベントなんて物は用意されていないはずだ。なぜならヘリポートが水に満たされるということ自体が異例の現象だから。そしてそうだとすれば、今ここに不死身vs無敵の頂上決戦が成立していることになる。

 ネプチューンがリサに勝てるかどうかは分からない。だけど負けさえしなければ、二人が戦っている間に俺たちはヘリに乗り込むことができるはずだ。

「こいつは……」

 リサもその背ビレの持ち主がただならぬ刺客であることを察知したようだった。今までとは質の違う緊張感を纏い始める。

 その変化を感じ取ってか、それまで優雅に泳いでいたネプチューンが、突如としてジェットスキーのような速度に加速した。彼は縦横無尽にこの狭く四角い海を駆け回る。音もなく鋭角のカーブを繰り返し、目にも止まらぬ速さでリサの目を撹乱する。

 リサは、俺たち一般人には全くピンと来ないタイミングで、ある時その両足に力をこめた。そしてその直後、彼女の足の片方は痛々しくあらぬ方向に折れ曲がることになる。無敵の装甲を持つネプチューンが、彼女の足に向かってものすごい速度で突っ込んだのだ。

 ……しかし同時に、ネプチューンの体が空中に飛んでいた。

「来ると分かっていればな……!」

 俺たちの目にはほとんど見えない速度だったネプチューンの動きが、リサの目には捉えられていたらしい。その鮫が牙を剥き突っ込んでくるタイミングを察知して彼女はその場に踏ん張り、カウンターを当てる形で無敵の鮫に蹴りをくらわせたのだ。しかしグレネードランチャーさえものともしない無敵の存在を生身で蹴ったのだから、当然彼女の足は無事では済まない。……無事で済ませる必要などない不死だからこそ繰り出せた蹴りだったのだろう。

 その蹴りをくらったところで、ネプチューンはおそらくこれっぽっちもダメージを受けていない。……が、彼の体は強烈な蹴りの運動エネルギーを受けて、無理やり空中に打ち上げられてしまった。無敵の耐久性とは不動をもたらす物ではないのだ。仮に彼の体が核の爆風にも余裕で耐えられる物だったとしても、それで重力に逆らうことが出来るようになるわけではないように。常識外れの運動エネルギーを殺し切るような芸当は、彼がいくら無敵であっても実現出来はしない。

 だから水中にて無敵の彼は、一瞬とはいえ水の外へ引きずり出されてしまった。リサの不死身性が損傷した足を治すまでの猶予として、その一瞬はあまりにも長すぎた。

 ハンターの幻覚に叩き込んだような空中アッパーが、今度は確実にネプチューンの白い腹に直撃する。……彼の声なき断末魔を聞いて、智絵里が叫んだ。

「ネプチューン……ッ!」

 足元に溜まった水が目も眩むほどの光を放ちだす。その光は、一滴も余すことなく一瞬のうちに消え去った。俺たちの服は乾き、元々水なんてなかったかのように、辺りには数秒前と同じように仲間たちの亡骸が転がる。

 固いコンクリートの地面に、ズシンという音を立ててネプチューンの体が落ちた。……彼はもうピクリとも動かない。

「さて、次だな」

 リサがこちらを向く。俺はすでに引き金を引いていた。もう今さら、この戦いを引き返すことはできないから。

 召喚の光に包まれて現れたのは、黒く巨大な救世主の姿だった。……あの時岩石のトラップから俺たちを救ってくれた大蜘蛛、ブラックタイガーが今再びここに参上する。

 彼は八つもある目で周囲を見渡し、この場の惨状を即座に把握したようだった。

「これは……。……よし、オレに任せろ」

 その台詞と共に、リサが今まで見せてきた動きと同じように、彼の姿は忽然と消えた。速すぎて初動が見えなかったのだ。

 ネプチューンがそうしたように、ブラックタイガーもリサの周囲を高速で駆け回って撹乱する作戦に出る。リサはそれを「またこれか」と鼻で笑ったが、その蜘蛛の攻撃は一味違った。……リサがネプチューンを迎撃できたのは、あくまでも「本体が来ると分かっていたから」なのだ。

 残像が見えるほどの動きを見せるブラックタイガーから、不意に何かが発射される。リサはそれを瞬時に手刀で弾こうとしたけれど……。

「むっ?」

 振り払われた彼女の腕には、蜘蛛の糸が絡みついていた。

 同じように糸の弾丸が次々と吐き出される。リサは迎撃するのではなく躱そうとするが、何せそれは360度全ての角度からランダムに乱射されているのだ。全てを躱しきることは出来ず、結局はいくつかを手刀で捌くことになる。するとそのたびに糸は彼女の腕に絡みつき…………ついには両腕を胴体に縛り付けることに成功した。

「ちっ……!」

 糸は粘着力に加えて弾力性も兼ね備えているようで、彼女の馬鹿力であってもそれを引きちぎることは叶わない。このまま全身を糸で包んでしまえば不死身といえども無力化することができる。そうすれば事実上こちらの勝ちだ……!

 俺はヘリに向かって走る心の準備を済ませておく。ヨーンの時のように間に合わないということがないように。

 ……すると両腕を縛り付けられたリサは、まだ自由に動かせる足を振り上げ、その場で豪快な地団駄を踏んだ。重機と見紛う音が鳴り、コンクリートの床に大きな亀裂が入っていく。亀裂が入った部分のいくつかは地面から欠けだして、彼女の足元には大小の瓦礫が転がった。

 彼女はその瓦礫を器用に足で浮かせて、サッカーボールのように空へ向かって蹴り上げる。渾身の力で、宇宙まで届くのではないかというほどに。

「……あっ!?」

 その行動の意図が分からずに、蹴られた瓦礫の行き先を目で追ってみて声が出た。……その瓦礫の軌道上、いや射線上には、脱出用のヘリコプターが滞空していたのだ。

 人外の力で蹴り出された瓦礫は一直線にヘリを貫通した。……黒い煙を上げながら、そのヘリはあっけなく墜落する。

 爆音と共に、皮膚中の水分を全て干上がらせるような熱を伴う大爆発が起こった。

「……ッ!」

 あまりの熱気に声も出せない。ブラックタイガーもさすがに怯んでその足を止める。燃え盛る機体から距離を取ろうと後ずさる。

 ……その一瞬の狼狽を、不死の女は見逃さなかった。ヘリの残骸から軽々と這い出て、燃え盛る炎の中から彼女は現れる。顔に被っていたずた袋と一緒に、蜘蛛の糸はすべてその炎に焼き切られていた。

 火の海を割るような速度の突進であっという間に距離を詰め、ブラックタイガーの頭部に殺人的な拳が振り下ろされる。彼の頭はそれで地面に叩きつけられて、自身の巨体を支点にワンバウンドした。……頼れる大蜘蛛が意識を取り戻すことはなかった。

「さぁ次を出せ」

 素顔のリサがこちらを見る。彼女は口元だけで笑っていた。筋肉の化け物みたいな体にはあまりにも似つかわしくなく、不釣り合いで、まるでそこだけ取って付け替えたかのような、不気味なほど小さく美しい女性の顔がそこにあった。

 ……次の瞬間、ヘリポートを包む炎が機体の残骸ごと綺麗にフッと消え去る。何が起こったのかと周囲を見渡すと、そこかしこに転がる仲間たちの亡骸にも焼かれたような跡は残っていなかった。……すでにいつの間にか、新品のヘリが元通りの位置に滞空して縄梯子をぶら下げている。

 俺はその時になって不意に、ここへ来てから一度も「プロペラ音」を聞いていないことに気がついた。ここのヘリは全くの無音で滞空しているのだ。……ゲームらしく何一つ「不都合」はないということだ。

「ちくしょう……!」

 俺は引き金を引く。すると次に現れたのは、ブラックタイガーの後に出てくると小ぶりに見える……しかしそれでも人間と同等のサイズを誇るゾンビ蜘蛛、ウェブスピナーだった。

 彼は召喚も早々に、ついさっき聞いたヘリ墜落の爆音にも負けない声量で叫ぶ。

「ぎゃあああああああ!!!! きもいいいいいいい!!!!」

 ものすごい速さでウェブスピナーは壁際まで逃げ去って行った。智絵里がそれを白い目で見て、リサが「はっ」と声を出して笑う。……中ボス級や無敵の力を持つゾンビでさえ勝てなかった相手だ、実際彼にリサへ立ち向かえというのは酷な話でしかないだろう。俺も彼に戦ってくれと言う気にはなれない。

 ……けれど形勢は、彼の次の一言で一転した。

「なんだよその筋肉ぅぅぅぅキモすぎるよぉぉぉぉ」

「……き、きもい?」

 何か声音に違和感があった気がしてリサの方を見る。するともはや素顔を晒している彼女は、あからさまに狼狽えた表情を浮かべていた。

 いや狼狽えるというよりは、ショックを受けていると言った方が正しいか。

「キモいよ! ただでさえ人間はキモいのになんだよその体格!? 加減とか考えないのかよ!? お前らだってデカいゴキブリとか見たら普通でもキモいのに余計キモいって思うだろ!? キショすぎるんだよぉぉぉぉ〜!!」

「こ、この筋肉が、…………気持ち悪いの、か……?」

 あまりにも素直にショックを受けている様子のリサ・トレヴァーを見て、そうかそういうことかと俺は理解した。

 そうだ、いくら今や筋肉の化身と化した不死身のゾンビでも、リサは元々はいたいけな少女だったのだ。少女が「容姿に対する心無い言葉」に傷つくのは当然のことだ。だってリサは女の子なのだから……!

 ヨーンやアダーやワスプやブラックタイガーと同じく、ウェブスピナーにだって毒はある。けれど人型の相手には近づける様子もない彼では、その毒も宝の持ち腐れだろう。……しかしもう一つ、彼は彼にしかない毒を持ち合わせていたのだ。それは言葉の毒、心に作用する毒だ。

 もうこの際なんだっていい。その毒でリサが戦意喪失してくれるなら、こちらとしてはそれで万々歳だ。

「キモいよ! 分かれよそのくらい! そんなに筋トレ好きなら家で一人でやってろよ! 外に出てくんなよ鏡見ろよ! お前ほどキモい人間さすがに見っ……」

 ウェブスピナーの言葉はそこで途切れる。

 音より速く移動したのではないかというリサの蹴りが、心ない蜘蛛の体を壁にめり込ませていた。

「…………傷つけていいのは、傷つけられる覚悟のあるやつだけだ」

 さっきまで浮かべていた笑みは完全に姿を消して、憎しみにも似た感情が彼女の顔に浮かんでいた。

 そうだった……。彼女は両親の死を乗りこえて前向きに生きることを決めた女性なのだった。そんな強い心の持ち主が、精神的な理由で戦意を喪失するなんてことは考えられない。少なくとも、あんな低質な悪口程度では束になっても無理だ。

「ご、ごめんなさい」

 リサと目が合い、自分の舌が、意思とは関係なく本能的に謝罪の言葉を口にしてしまう。

「いいから次ッ!」

「あっ、そ、そうだっ!」

 引き金を引く。プァーという音がやけに耳障りに聞こえた。

 もはや見慣れてしまった眩い閃光……。その中から現れたシルエットを見て、俺は「あぁこれが最後か」と悟る。倒れていった仲間を数える余裕は今の俺にはなかったけれど、それでも彼の姿を見ればこれが最後だと分かるのだ。

 剣のような爪をじゃらじゃらと鳴らしながら現れた逞しい肉体の彼、タイラントは、原作におけるラスボスの威厳をもってリサに対峙する。研究室で会った時とは別人なのではないかと思わされるほど、彼は鬼の形相を浮かべていた。

 ……あぁけれど悲しいかな、異常な成長を遂げたリサの肉体と比較してしまっては、彼の屈強な体もどこか頼りなく見えてしまうものだった。……おそらく勝てないだろう。

「随分と好き勝手してくれたようだな」

「あぁ、お前が冷蔵庫の中を漁ってる間にな」

「……ぶっ殺す」

 タイラントの突進の踏み切りは、それだけでコンクリートの床にヒビを入れる。

「ガハッ……!?」

 気がついた時にはその長い爪が、リサの左胸を貫いて背中まで貫通していた。あのリサがあっさりと攻撃をくらったのだ。彼女の足は地面から浮き、口からは血反吐を吐く。

 タイラントがこちらに背中を向けたまま、腹の底まで響く声で叫んだ。

「二人とも何してる! 走れ!」

「えっ、あっ、そうだ……! 智絵里行くぞ!」

 俺は智絵里の手をとって走り出す。そうだ、今度こそヘリに乗るのだ。不死身のリサは心臓を貫かれたくらいでは死なない。串刺しにされて体が地面から浮いた状態でも絶対に反撃してくる。だからその前にヘリに乗るんだ!

「舐めるなよラスボス風情が……!」

 俺たちが走り出すのと同時に、リサはタイラントの頭を掴みヘッドバットをくらわせる。己の頭蓋が砕けることをまったく考慮していない無茶苦茶な威力だった。さすがのタイラントもそれには怯まされる。

 するとその隙を突いて彼女は、貫かれたままの胸に渾身の力をこめる。彼女はその胸筋の力だけで、己を貫く刃の全てをへし折った。

 そこから地に足をつけた彼女は、鬼神のごとき拳のラッシュを繰り出す。鈍い音の洪水と共に、タイラントの体がサンドバッグのように無惨に揺れた。……俺たちが三歩ほど駆ける、たったそれだけの間に。

「ダメだ……ダメだ智絵里逃げろ!」

 俺はヘリに向かうことを諦めた。諦めざるを得なかった。これではとても間に合わない。

 ……リサから距離を取り、ふとこの数分の出来事を振り返ってみれば、結局状況は何一つ前に進んでなかった。今も、爪の折れたタイラントが膝から崩れ落ちたこと以外には、彼を召喚する前と何一つ変わったことがない。ヘリポートのあちこちに今まで知り合ったゾンビたちの亡骸が散乱し、俺たちプレイヤーと脱出用ヘリの間には、初めと変わりなくリサ・トレヴァーが立ちはだかっている。

 ……よく考えてみれば、彼女から多少距離を取ったからといってそれがなんだというのだろう? たしかにその距離は、俺たちにこの奇妙な銃の引き金を引く時間を与えてくれるものではある。けれどもうゾンビたちはことごとく屠られてしまった。今となってはこの銃は、どこからともなくマグロを持ってこられるだけのガラクタだ。

 その気になればリサは今すぐにでも、俺たちを新たな亡骸の一つに加えることができるだろう。けれどなぜか彼女はそれをしない。ただこちらの行く手を遮り続けることに終始している。……それはなぜだ?

 俺たちの背後、研究室と通じるエレベーターの傍から、聞きなれた声がする。

「拓海様、どうぞ引き金を」

「Tさん、でももう……」

「まだゾンビは残っているはずです」

「まだ……? ……あぁ」

 たしかに、俺たちが今までに出会い触れてきたゾンビは、あともう一人……いや、もう一羽だけ残っていた。クロウのことを、うっかり忘れかけていた。

 けれど、彼を呼べたからなんだというのだろう? 数羽のカラスがリサ・トレヴァーを倒せるか? 瓦礫の弾丸で撃ち落とされて終わりじゃないのか……? あるいは神速の跳躍で鷲掴みにされて終わりじゃないのか……?

「彼に何ができるっていうんですか」

「いいえ彼には何もできないでしょう。拓海様、それでも引き金を引くのです」

「どうして……?」

「……それは」

 リサは次の召喚を待って動かない。ヘリのプロペラの音は聞こえない。Tさんの声には焦りもなければ、悲痛さだって少しもない。

 ……滞空するヘリの上の空を流れる雲の形が、その配置が、ここへ来た時からずっと変わっていない気がした。

「それは、やってみて初めて分かることですよ、拓海様」

「……そうか、分かった」

 俺は、おそらく理解した。……Tさんはゲームのネタバレをしないのだ。ゲームはまだ続いている。俺たちがこの世界に入った時からずっと続いている。

 もしかして、この数分の間に見た地獄絵図は、全てがイベントの一環なんじゃないか……?

「来い! クロウ!」

 俺は引き金を引く。プァーと、やはり何度聞いても間抜けな音が鳴り、目の前に召喚の光が輝く。

 召喚されたクロウは、唯一喋る個体であるたった一羽だけだった。俺の頭より少し高い位置に羽ばたいて滞空している。

「カァ! お前、何考えてるんだぁ!」

「は?」

「オレなんか呼び出して、勝てるわけないだろうが! カァ!」

「あー、まぁ、それは、うん……」

「うん、じゃねーだろぉ!」

「痛っ」

 初めて会った時と同じように、クロウに頭を小突かれる。黒い羽がいくつか目の前に舞い散った。

「ね、ねぇ拓海……」

 智絵里がちょいちょいと俺の袖を引っ張る。なに?と耳を寄せると、彼女は滞空するクロウを顎で指す。

「なんか、変じゃない?」

「変って?」

「クロウが、……なんか光ってない?」

「え?」

 …………よく見るとたしかに、クロウの体から光の粒子のような物が舞い出していた。焚き火から火の粉が散るように、羽ばたくクロウの羽から光の粒子が散っている。

 そう気づいた瞬間に、その粒子は彼の全身から目に見えて大量に舞い上がり始めた。その数、密度はどんどん増えていく。そしてそれに比例して、クロウの黒い体はぼんやりと透けて行き、向こう側の空の青色が見えてきた。

「えっ……。クロウ、なんかお前、消えていってるけど……」

「カァ? なに言ってんだ、まだ何もされてないのに消えるわけ……ァ!? なんだこれ!?」

 本人も異変に気がつく。自覚症状的なものは全くないらしいけれど、しかし刻一刻と彼の体は、分散する光の粒子へと置き換わっていっている。煙が空気中に溶けて消えていくみたいに、彼の体もみるみるうちに消えかかっている。

 ……そしてその現象は、クロウの体だけに起こっていることではなかった。あちこちへ転がるゾンビたちの亡骸のほぼ全てから、同じような大量の光の粒子が舞い出していた。ほとんど全ての亡骸が、同じように透けて消えつつある。

 赤い血を吐いたハンターから。上着を剥がれたゾンビから。ケルベロスだったバターから。打ち捨てられたヨーンとアダーたちから。俺たちの身代わりになってくれたキメラから。捕獲され、あるいは打ち落とされたワスプたちから。プラント42の残した白い花から。力尽きたネプチューンから。意識を失ったブラックタイガーから。壁にめりこんだウェブスピナーから。……あらゆるゾンビの亡骸から光の粒子が上り、その体は透けて消えていく。

 ……ただ一つだけの例外を残して。

「これは、何が起こってるの……?」

「分からない……」

 俺たちは呆然とその現象を見守ることしかできなかった。

 ただ、見守るだけでも変化を感じ取ることはできる。舞い散って消えていくように見えた粒子も、量が集まることでその具体的な動きが視認できるようになってくる。……宙に舞った光の粒子は、ある一点に引き寄せられるように動き、空中を流れていた。

 倒れ伏したタイラントの体へ。唯一この現象に見舞われていないゾンビの亡骸へ向かって、全ての粒子が集合していく。

「智絵里様、拓海様。……良いエンディングを」

 ハッとして振り返ると、Tさんの体はすでにほとんどが透けてしまっていた。彼も光の粒子になっていく。まばゆい粉雪のようになっては消えていく。……いや、消えているのではない。誰も消えてなどいない。皆、形を変えているだけなのだ。

 やがてリサともう一人を除いて、この場から全てのゾンビが姿を消した。

「……その姿は初めて見たな」

 リサがそう口にして、未だかつてない殺気を……あるいは恐れを顔に出す。ずた袋を被っていた時だって、きっとそんな表情は一度も浮かべていなかっただろう。

 全ての光の粒子を吸収して、我らがタイラントは再び立ち上がった。彼の体は今文字通りの意味で、黄金の輝きに満ち溢れている。

 太陽のようなその光が、俺たちの最後の希望だった。

 

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