ケルベロスがドッキリをしかけてくる廊下を抜けてすぐに、智絵里がまじまじと自分の手のひらを見つめていた。
「どうした?」
「……いや、めっちゃグチョって感じだったなぁって」
「あぁ……」
ゾンビ犬の感触はしっかり見た目通りだったらしい。けれど見てみると、彼女の手は少しも汚れていない。感触はあるが汚れはしないということなのか……。
このゲームの譲れない部分と配慮してくれる部分の境界線が、俺にはまだよく分からない。見た目の変化はない一方で、彼女の手からはTさんと同じあのフローラルな香りがする。万人受けするような良い香り……。それはこの世界におけるゾンビの香りだ。
次の部屋へ向かう道中、やや入り組んだ構造の廊下を歩いていたノーマルのゾンビ(見た目はTさんにそっくり!)とばったり鉢合わせた。こちらの存在を認識したそのゾンビは、おそらくは生前と同等だろうすばやさで姿勢を正し、
「こんにちは、ようこそバイオハザードへ!」
と歓迎の言葉をかけてくれる。
視界に入ってすぐはやはりギョッとしてしまうものの、彼もTさんと同じく振る舞いが友好的なので、見た目に由来する緊張は二秒もあればほぐれた。そのまま「どうも〜」と会釈してすれ違おうとしたするけれど……そこで俺はハッと気がつく。
「あ、すみません、ちょっと握手してもらってもいいですか?」
「えぇもちろん」
ゾンビと握手を交わす。すると智絵里の言う通り、なにかグチャっとした嫌な感触が伝わってきて、同時にピロンとクリア条件達成を報告する音が鳴った。
「よくぞお気付きになられました。クリア条件「ゾンビ」を達成です」
「そういえばTさんにはまだちゃんと触れてなかったですもんね」
「いえ、わたくしは案内役なので、元々ゾンビの数には含まれていないのです。盲点になりがちなところですね」
「いや言ってくださいよ」
「ははは、御二方と協力してクリアを目指すことと同様に、御二方にこのゲームを楽しんでいただくこともわたくしの役目ですから」
あぁそうだろうな……。とケルベロスの時の彼の立ち回りを思い出す。彼は今後もきっとこのような「仕掛け」を施してくるのだろう。特に、たとえばこの先に謎解きをする機会があったとしても、カンニングなんかはさせてくれないはずだ。
……というわけで、それから角をいくつか曲がって俺たちが次にたどり着いた部屋は、数枚の絵画が飾られた明るくて縦に長い部屋だった。そこはケルベロスの廊下とは違って窓がなく直線であり、また他の場所よりも明らかに道幅が広くなっている。
さらに、部屋の天井付近にはつっかえ棒のような物が用意されていて、その棒の上には、五羽のカラスが待機していた。
「カァ、よく来た人間。我が名はクロウ、この部屋の番人だ」
「しゃ、喋った……」
智絵里がうろたえる。無理もない……というか俺だって驚かされた。たしかにこの世界の人型ゾンビは喋るけれども、それでも犬型ゾンビはバウッと吠えるだけだったのだから、普通に考えれば、カラスだってカァと鳴くだけだと思うだろう。俺も今この瞬間まではそう思っていた。
どうやらそのカラス……クロウは五羽のうち、中央の個体一羽だけが喋るようだった。残りのやつらは毛繕い(羽繕い?)をしたり明後日の方向を見たりしている。ちなみに当然ながら、原作のクロウは一羽たりとも喋らない。
そんな原作経験者から見ても得体の知れないカラスゾンビとの邂逅を果たした部屋には、非常に重要なことに、額に入った数枚の絵画が壁に飾られている。しかもただでさえ鳥目に優しく明るい部屋の中、その絵画たちにはそれぞれ小さなスポットライトのような光が当てられていた。
……例によって、俺はこの部屋の仕掛けを知っている。
「そこの女、お前がチエリだな?」
「む、そうですけど」
「この洋館から脱出したければ、お前はこの部屋の謎を解き、オレに触れる必要がある。もし謎を解かないまま無理やり触れようとしたなら、その時はお前に天罰が下るだろう!」
「謎解き……?」
部屋を見回して、智絵里も気がついたようだ。それぞれの絵画の下に、小さなボタンが取り付けられていることに。
そう、この部屋の謎解きとは、決められた順番通りにそのボタンを押すことである。原作ではそこを無視して発砲した瞬間、あるいは誤った順番でボタンを押した瞬間に、頭上を牛耳るカラスの群れにボコボコにされることが決定する。
部屋に飾られている絵画は合計六枚だ。それらは左右の壁にお互いが向かい合わないように……つまり互い違いの配置で飾られている。あえてその絵画にタイトルを付けるのであれば、入口から近い順にこのような感じになるだろう。
・つかれた中年の男性の絵
・生まれたばかりの赤ちゃんの絵
・たくましい青年の絵
・おさない子どもの絵
・元気な少年の絵
・気の強そうなお年寄りの絵
……察しのいい人なら分かる通り、押すべきボタンの順番とは「絵に書かれた男の年齢順」である。ごちゃごちゃに配置された絵を行き来して、赤ちゃんから始まりお年寄りに終わるようにボタンを押せば正解なのだ。
智絵里もすぐにそのことを理解したようだった。しばらく絵画を見渡して「わかった!」と口にしたのち、何の迷いもなく赤ちゃんの絵の下のボタンを押しに行く。そして次は子どもの絵の方へ……と、彼女が部屋の中を駆け回り始めた……その時だった。
天井付近で俺たちを見張っていたカラスの群れが、堰を切ったかのように一斉に飛び立つ。間違ったボタンも押していなければ、暴力行為も行われていないのに……!
カラスの群れは、次に向かうべき絵を探す智絵里の頭に群がった。
「判断が遅い!」
「痛ぁ!?」
五羽ものカラスがせわしなく羽ばたいていてよく見えないが、ふりまかれる花の香りの中で、どうやら智絵里は頭をクチバシで小突かれているようだった。
「ちょ、なに!? 今解いてるところでしょ! ルール違反してないし!」
「カァ、確かになぁ。が、遅い! 見ていてイライラする!」
「イライラする!?」
直球の罵倒に面食らう智絵里(そりゃそうだ)。そんな彼女から手で払われそうになると、カラスたちはそそくさと天井付近の棒の上へと戻って行った。うっかり触れられてしまっては「クロウに触れる」の条件が達成されて用無しとなってしまうからだろう、逃亡の手際はいかにもプロだ。その状況でちょっかいをかけにくるとはいい性格をしている……。
「Tさん、ここのゾンビは無害だったはずでは……?」
智絵里救援のタイミングを見逃したついでに、同じく傍観しっぱなしの案内人ゾンビに話が違うじゃないかと問いただしてみる。
「えぇ無害ですよ。……多少の幅はありますが」
「思い切りつついてましたよね」
「いえ、それはありません」
俺たちが話している間にも、智絵里は順調にボタンを押して回っている。
「たしかにクロウたちは多少絡んでくるところがありますが、あれでも怪我だけは絶対にさせないよう配慮していますからご安心を」
「痛ぁって言ってましたけど」
「それでもです。彼らがかけてくるちょっかいは、笑える範囲を超えません」
「そんなツッコミ芸人みたいな……」
一つツッコむたびに相方の額を思い切りひっぱたく芸風のコンビが脳裏をよぎる。ああいうのは確かに加減が分かる人でなければできない芸風だろうけど、カラスがクチバシでそれを……?
「コラッ、そこの二人、何をぼそぼそ喋ってんの! どうせ答え知ってるんでしょ、手伝いなさいよ!」
「あ、はい」
青年の絵のボタンを押しながらの智絵里に呼ばれてようやく、俺もこの謎解きボタンラリーに参加する。考えてみればこの謎解きは解けた後は単調な作業になってしまうのだから、もっと早く手伝いに入っていればよかった。
さて次は中年の絵だな、どこにあったんだっけ……と部屋の中を見渡していると、ふと嫌な予感がよぎる。そしてその予感が的中したことを、吹き抜けるような頭上の羽音が報せた。
「判断が遅……うおっ」
「ちっ」
カウンターで触ってやろうと思ったけれど、寸前のところでこちらの動きを見極めたクロウに回避される。わざわざちょっかいをかけにくる自信のほどは伊達じゃなかった。
カラスたちと視線の鍔迫り合いをしながら俺が中年の絵のボタンを押すと、誰に目をつけられることもなくフリーになっていた智絵里がすぐにお年寄りの絵のボタンを押した。……というわけでこれにて謎解きは終了だ。
親切なことに、部屋にはピンポーンという正解音が鳴り響いた。……そして音によって俺は、この次に何が起こるのかをまったく予想できていないことに気がつかされた。
原作では謎解きを突破すると絵の一枚が外れて、その裏から先へ進むために必要なアイテムが出てくることになっている。……が、どうもこの世界にそういう「鍵」的なシステムはなさそうだ。面倒なのでいちいちツッコミもしなかったけれど、俺たちはすでに「先へ進むために何かしらするイベント」をいくつかすっ飛ばしてここにいる。それは全然いいのだけれど、そうなってくると謎解きの報酬が何なのか、そういえばまったく見当がつかないのである。
ウイーン……と何か機械的な物の駆動音が聞こえてくる。それは足元の方、床よりもずっと下、地下の方から聞こえてきているようだった。
その駆動音が止まった時、部屋の中央の床が四角形に、ティッシュ箱くらいのわずかな面積だけくり抜かれる。あらかじめわずかに切れ目の入っていたらしきその部分がシャコッと横にスライドして、床に穴が開いたのだ。
その穴の中から、再びの駆動音と共に「止まり木」が生えてくる。人間の腰の高さ程度のT字型の木の棒が、ハイテクな機構でもってこの部屋の中央に今突如として立ったのだった。
クロウのうちの一羽、喋る個体がそこへ舞い降りて来る。俺たちが触れやすいように。
「仕方がない。見事謎を解いたお前たちに、このオレに触れる権利を与えよう」
なるほどそういうことか……と理解して、止まり木の上でおとなしくしているクロウに手を伸ばそうとしたところ、横から伸びてきた手にそれをひったくられた。
智絵里が、両手でクロウを鷲掴みにしていた。人の首でも絞めるみたいに。
「よくもつついてくれたよねぇ……」
「カァ……!? ちょ、痛い痛い! 握る力が強い強い……!」
ピロンと達成音が鳴る。傍観に徹していたTさんがクリア条件「クロウ」が満たされたことを報告する。フンと鼻息を鳴らして、智絵里はクロウを止まり木の上に解放した。
「て、てめぇ……! 何しやがる……! カァ!」
「これでおあいこでしょ?」
「おあいこだと〜? 覚えときやがれ、カァ……!」
「えぇ覚えてますとも」
今度は智絵里がクロウと視線の鍔迫り合いを交わしていた。……彼女を怒らせるとロクなことがないということを、俺と違ってあのカラスはまだ知らないのだ。
「さ、御二方、次へ参りましょう」
「はーい」
Tさんに促された俺たちはクロウに背を向け、謎解きの部屋をあとにする。心なしか智絵里の足取りが軽やかになっているような気がした。この世界に慣れてきたのだろうか……?
一方で俺は、むしろ先行きが少し不安になってきた。「怪我をさせない程度のちょっかい」をかけてくるゾンビがこの世界にいることが「普通」なら、それがここで会ったクロウ一種類だけだとはどうも考えづらい。……というか、原作知識的にすでに心当たりのある奴がいる。あの即死攻撃を持ったゾンビなんかは、きっと俺たちプレイヤーにちょっかいをかけてくるんじゃないだろうか……。
けれども、わざわざそんな不穏な予想を口にしたところで仕方がない。どうせクリアまでこぎつけなければ元の世界にかえれないのだから、常にポジティブに行かなければ。
遠い先の心配よりも、俺は次に現れるであろうゾンビについてを考える。原作ならそろそろ中ボス戦も近いところだけれど……。俺はその中ボスの姿を、智絵里に見せるわけにはいかないのだ。ボス部屋には俺だけが入り、そいつとのくだりを一人でなんとかしなければならない。……智絵里がそのボスの姿を見たら、きっとトラウマになってしまうだろうから。