「ん……花の匂い……?」
俺の膝の上で目を覚ました智絵里は体を起こして、ぶち破られた扉の方に目を凝らす。もうそこにヨーンはいない。
「なんか……とんでもない奴がいなかった……?」
「あれはヨーン。本来なら初めての中ボスになるはずだったゾンビ大蛇」
「大蛇……ヘビ……」
智絵里は自分の口にした言葉に自分で身震いする。
ヨーンはあのあと、智絵里が気絶している間に速やかに撤退してくれた。心優しい彼にとって、自分のせいで女性を震え上がらせてしまうことは全く意に反することだったらしい。起こってしまったことは不可抗力である。
俺が事情を説明した時の、彼の申し訳なさとかなしさに満ちた表情は印象深い。この世界のゾンビは表情と情緒が豊かだ。それだけにこういった時にはこちらの良心も痛む。顔を見て気絶される側の気持ちを想像すると心が痛い。
立ち上がった智絵里が服をはたきながら周囲を見渡す。そして首をかしげた。
「……あれ? ライフルは?」
「ライフル? あぁ、トランペットの?」
「そう。どこやったの?」
「消えた」
「はぁ?」
「必要な時になったらまた出てくるらしい。あれはなんというか……召喚アイテムなんだって」
「なにって……?」
順を追って話さなければとても理解してもらえないから、俺は彼女が気絶している間に起こった諸々を説明することにした。
突然気を失ったプレイヤーの女性を見て、ヨーンはまず急病を疑ってくれた。そして俺が彼女の重度の蛇嫌いについて説明すると、事情を理解した彼は「悪いことをしたな……」と呟きながら、そそくさとこちらに背を向けたのだった。
せっかく助けてくれたのに、その背中にお礼を言うだけではあんまりだ……と俺が思ったその時、小さい太陽でも現れたかのように、突然目の前がまばゆく発光した。俺は面食らい、背中越しにその光を感じたヨーンも振り返る。
光の中から細長い物が現れる。それはショットランペットガンだった。その時になって気付いたのだけど、その妙な形の銃なんだか楽器なんだか分からない代物は、いつの間にか俺の手の中からは消えていたのだ。
「拓海様、引き金をお引きください」
「え?」
「その銃は、必要になった時だけあなたの前に現れます。そしてその時は、引き金を引くと特別なことが起こるのです」
「特別なことって?」
「やってみてのお楽しみです」
またドッキリ的なことじゃないだろうな……と疑いつつ、俺は光の中に浮いた銃を手に取る。さっき気が動転していた時には気づかなかったけれど、その銃はやけに軽い物だった。縁日の射的屋にあるコルク銃よりも軽くて、片手でひょいと持ってしまえる。
「銃口はどこに向ければ?」
「どこでも問題ありません。弾は出ませんから」
「(じゃあ何が出るんだ……?)」
疑問への見当はつかないまま、俺はとりあえず銃口を真上に向けて、引き金を引いた。
ぷぁ〜……と一度聞いたことのある間抜けな音が鳴る。しかし先程とは違い、今度はその音色に合わせて目の前が発光した。銃が現れた時と同じように、その光の中にはまた何らかの……どこか見覚えのあるシルエットが浮かび上がる。
数秒もしないうちに光だけが収まっていき、シルエットの正体がその場に残される。それは独特な生々しい音を立てて床に落ちた。光の中から現れた物の正体とは……。
……それは巨大な一尾のマグロだった。しかも生きている。不思議な光の浮力を失って床へと落っこちたマグロが、ビチビチと足元で跳ねていた。
ヨーンの視線が、そのマグロへ釘付けになる。
「おっ、旨そうな……」
「……あ、よかったらどうぞ」
「いいのか? 悪いなぁ」
原作の即死攻撃よろしく、ヨーンはそのマグロを一口でゴクンと丸呑みにした。この世界のゾンビは魚を食べる……いや魚しか食べない……。
「ふぅ……。腹も膨れたし、俺は帰るよ。じゃあな」
「あ、ありがとう、助けてくれて」
「ああ、また機会があれば会おう!」
「……あっ! ちょっと待って! 最後に触らせてくれ!」
それで俺は握手代わりに彼の顎を撫でて、気の良い大蛇と別れたのだった。当然、クリア条件の一つ「ヨーン」も無事に達成された。
そしてその数分後の今に至る。役目を終えたショットランペットガンは再び姿を消していた。
「マグロを召喚する銃ってこと……?」
「いや、Tさんいわく、召喚される物は場面によって変わるらしい」
「ふーん……? まぁ、なんでもいいや。それで次はどこへ行くの?」
苦手な生き物(しかも巨大)を見て気絶したわりにケロっとしている智絵里がそう言うと、返事をしたのはTさんだった。
「この次は一度洋館から出まして、併設されている宿舎へと向かいます」
「宿舎? なんで?」
「そこでしか会えないゾンビがいるのです」
「なるほど」
これまでと同じように、俺たちを先導して部屋を出るTさん。その背中を智絵里と二人で追いながら、俺は意を決し、今回の反省を活かすことにする。
べつに誰に聞かれて困るわけでもないのに、心理的言いづらさから声量がコソコソした物になった。
「智絵里、すごく言いにくいことがあるんだが」
「え、なに」
「この先、お前の嫌いなタイプのゾンビが何体も出てくる」
「……嘘でしょ?」
眉根をひそめて、彼女の方もヒソヒソした声になる。
「……具体的には何?」
「普通サイズの蛇がたくさんと、鬼のようにデカい蜘蛛が2パターン。ヨーン……さっきの大蛇にももしかしたらまた会うかも……」
「うそでしょ……」
「残念だけどマジだ」
そしてそれらはいつ現れるか分からない。ヨーンと出会うタイミングが予想外だった以上、もう原作知識を過信することはできないからだ。だからこそ、どこかしらでは会うだろう奴らのことは今のうちに全て伝えておくしかない。たとえ今後のことを考えて気が重くなろうとも、今さっき起こったような完全な不意打ちになるよりはマシなはずだ。
話を聞いた智絵里は、なんとも言えない微妙な感情が入り混じったような顔をした。それが少なくともポジティブな感情でないことだけは分かる。
「そういう奴らのことはもう、拓海に任せるよ。来そうになったら言って、わたし目つむっとくから」
「あぁそのつもりだ。ただ問題は原作と出現タイミングが違うことで……。俺は、ヨーンの時だってそうするつもりだったんだ」
「マジかぁ……」
恐怖は身構えることその物の中にもある。これで正式に、智絵里にとってこのゲームの世界は十分なホラー性を取り戻してしまった。ショットランペットガンに虫嫌いや爬虫類嫌いを助ける機能はないのだろうか……? 何を召喚すれば助けになるのか見当もつかないから、まぁないんだろうけども。
Tさんについていくうち、俺たちは洋館を抜け出して宿舎へ通じる連絡通路へとやって来た。そこは巨大な中庭を兼ねており、つまり宿舎へ行くには一度屋外へ出ることになる。そしてずっと建物の中にいると忘れがちだけれど、この洋館が建っている場所というのは鬱蒼とした森林の中なのだ。
中庭には「外のにおい」が漂っていた。キャンプへ行った時にかぐような自然の香りだ。それ自体は本来良い物であるはずだけれど、状況が状況なのでそう気楽にも捉えられない。頭上に伸びる木々の枝と葉、冷たい石タイルの床、全体的にジメジメと湿気た空気……。そんな環境を通って宿舎へ向かわなければならない以上、その道中で現れるゾンビがどんな物になるのかは想像に難くない。……たとえば蛇は、その中庭と比べれば屋内にいる方がむしろ不自然なくらいだろう。
智絵里は中庭に出るなりさっそく何かを察したようで、お化け屋敷を行く女子がそうするように俺の腕に抱きついてくる。彼女の勘は実に正しい。この先にはおそらく「アダー」がいる。
「智絵里、嫌な原作知識があるんだけど聞くか?」
「聞かなかったらどうなるの……?」
「さっきみたいな不意打ちをくらうかも」
「……聞く」
「よし。……この先、たぶん、頭上から蛇が何匹も降ってくる場所がある」
「うそだ」
残念ながらマジである。原作通りに事が進むならそうなる。
Tさんはすたすたと前を歩いていく。怯える智絵里と共にその背中を追いながら頭上含め周囲に気を配るけれど、降ってくるタイプの蛇ゾンビ「アダー」の気配を察知することは出来なかった。不甲斐ないことに、俺も具体的にどのあたりで降ってくるのかまでは覚えていないのだ。アダーはどちらかといえば影の薄いゾンビだから……。
……と、この世界へ来てすぐの頃のように警戒心全開で歩いていたある時、さも何でもないことのようにそれは起こった。……前を行くTさんの肩になにか縄のような物が落ちてきたのだ。智絵里の緊張が極限まで高まったことを握りしめられた腕で感じる。
「拓海様、こちらへ」
Tさんの肩に落ちてきたそれはやはり蛇、赤茶の体色と細身の体が特徴のアダーだった。Tさんの両手で「捧げられる剣」のような持ち方をされたそいつは、つぶらな瞳でこちらを見ながら舌をピロピロ出し入れしている。
智絵里は必死に目をつむっていた。俺は彼女に絡みつかれていない方の手で、Tさんの持つアダーにちょんと触れる。クリア条件「アダー」が達成された。
「Tさん、アダーってこの先も降ってきますか」
「えぇ何匹か」
「……走りましょう」
原作でのアダーへの対処法、それは走り抜けること。銃を持った主人公ですら、的が小さく数も多い上べつに道を塞いでいるわけでもない相手とはいちいち交戦していられないのだ。そしてそれゆえアダーは影が薄いのだ。
幸いにも宿舎への道は一本道で迷子の心配はない。俺たちは落下してくるアダーが地面に(あるいは自分たち自身に)つくよりも早くその場を走り抜ける。ぼとぼとと蛇が落ちてくる音は聞かないフリをし続けて、やがて宿舎の入口へとたどり着いた頃には、お互い数年ぶりの全力疾走によりゼーハーと肩で息をする羽目になっていた。
一方ゾンビであるTさんは、思ったより普通の人間みたいに走る上、べつに息は切れていなかった。さすが案内人に選ばれたゾンビといったところか……?
「ねぇ……バイオハザードって……こんな感じなの……?」
「え……?」
「こんな……こういうホラーなの……? もっとこう……グロいだけなんじゃ……?」
「いや、原作からこうだよ……」
智絵里はグロテスク表現への耐性が高い。元々のモデルが人間や犬であれば、Tさんとの会話にいち早く慣れたり、ケルベロスを撫で回すことができるほどに高い。本人もそれを自負しているから「ホラー耐性は高い方だ」という認識をしている。が、その穴を突いてきたのがヨーンやアダーであるわけだ。
そういえば実写映画のバイオハザードには、エイリアンのようなデザインの敵や体から触手的なものを出す気色の悪い敵はいても、蛇や虫はほとんど登場していないのだったか……。そうだとすれば心の準備はできていなくて当然だ。
「さぁ御二方とも、息が整いましたらさっそく中へ参りましょう」
ツタの絡みつつある扉を開き、古びた二階建ての宿舎へ足を踏み入れるTさん。俺は智絵里に「行こう」と促しつつ、彼女にとってこの宿舎探索パートで最も重要なことを伝えておく。
「智絵里、この先で「ビリヤード台」を見たらすぐに目を閉じろ。そこにやばいのがいる」
「わ、わかった」
Tさんの背中を追うと、洋館よりもずっと老朽化の進んでいる床が、ホラー作品らしく不気味に軋んでみせた。