宿舎の中は照明の光量が弱く、等間隔に設置された電球の明かりが若干カビ臭い廃墟のような廊下をかろうじて照らしていた。そしてそこには原作とまったく違う光景が広がっている。
壁から床から天井から……各所のひび割れたわずかな隙間から、ピンク色の花が咲いていた。植物の生命力の強さを感じる……と言いたいところだけれど、俺にはその花の正体が大体察せられた。どうも次の中ボスは原作よりさらに活きがいいらしい。
「御二方ともご覧ください」
Tさんが突然、宿舎内のどこにでも咲いているピンクの花を手で示した。……と思ったが違った、彼が指しているのは花ではない。その花にはある昆虫が止まっていた。
車海老ほどのサイズがある規格外な体格の蜂、ゾンビ蜂「ワスプ」が一匹そこにいたのだ。
「うわっ……」
虫といっても蜂はそこまで苦手なわけではない智絵里が、それでもそこそこ強張る。俺も同じ気持ちだった。蜂としてはいささか大きすぎる体に、警告色の役割をばちばちに果たしている濃い黄色と黒の縞模様……。「あれに触れるのか……?」と不安に呑まれそうになる。どうしてだろう、その気になればこちらを丸呑みにできる大蛇に対してはまったくそれを感じなかったのに、でかい蜂に対しては身の危険を感じるのだ。
「この蜂、ワスプもゾンビの一種、つまるところクリア条件の一員です。御二方のどちらかに触れていただく必要があります」
「刺されるってことは……?」
「誓ってありません」
カラスに頭を小突かれるのとではどう考えてもわけが違うし、Tさんの言葉に嘘はないはず。度胸試しということか……。
原作のワスプは巣から無限湧きするスルー必須の敵だからアダーと同じく影が薄めで、まさかこんな存在感を伴ったクリア条件として立ちはだかってくるとは思わなかった。蛇嫌いでなければアダーに触れるのはあんなに簡単だったのに……。ビリヤード台のある部屋に現れるヤツが最大の山場かと思っていたら、意外なところに強めのジャブが用意されていたものだ。
しかしまぁ二人して同程度に怯んでいる以上、ここは俺が腹をくくるしかない。ヨーンを避けられなかった埋め合わせの意味でも。
「わ、ワスプさーん……? こんにちはー……?」
人語の通じるゾンビがざらに居ることもあり、とりあえず挨拶しながらにじりよってみる。
ワスプは花の上で微動だにしない。……いや、触覚だけはせわしなく動かしていた。あぁショットランペットガンはこんな時に現れずいったいいつ役に立つというのだろうか? 養蜂家の装備を召喚してほしかった。
そんなことを考えていると、花の上のワスプは突然ピクリと磁力にでも引かれたかのように動き出した。俺のにじりよりがボーダーラインを超えてしまったということなのか……? 奴は特有の唸るような羽音を響かせながら飛び上がった。
「……っ!」
ダメだ! 驚いてはいけない! 自分にそう言い聞かせて意地でも平静さを装う。蜂が近寄ってきた時は取り乱すと余計に刺されやすい……という話を子どもの頃母親から聞いたことがある。信ぴょう性のほどは定かではないがきっとクマに背を向けてはいけない的な話なのだろう。俺はそれを信じる……!
いたって冷静なつもりで、それでいて凍りついたように体を硬直させていると、その強張った右手の人差し指の先にワスプが止まった。確かな重量があった。
クリア条件「ワスプ」、達成。……しかしこの指先のワスプはこの後どうする!? ひとまず触れられたのはいいけれど、母の言葉に則るなら、この指先の危険生物を振り払ったりするわけにはいかない。しかしもちろん一生そこに止まっていられても困る。
「あっ、拓海!」
智絵里が暗い廊下の先を指さす。指に止まったままのワスプをどうすればいいのか分からないまま目線だけ動かして指さしの先を見ると、何かざらざらとした不定形の塊がこちらへ近づいてくるのが見えた。
次第に、身の毛もよだつ濁点的な風切り音が耳にとどくようになる。ブゥンブゥンブゥンブゥン……と咲き乱れるように鳴るそれは、つい先程聞いた羽音の集合体だった。
「あっちに巣があるんだ……」
ワスプの群れと本格的に遭遇した俺の口からは、一周回ってそんな冷静な言葉が出てきた。
万が一にも刺さないと言われたって、蜂の群れが寄ってきたら誰だって怖い。その蜂がデカければなお怖い。俺と智絵里が背中に嫌な汗をかきながら群れの行方を凝視していると、それはある時一斉に統率の取れた動きでいくつかの行く手に別れた。
別れた群れのそれぞれ……部隊とでも呼ぶべきものたちが、そのうちある一定の形に固まり始める。彼らはスイミーのような原理で、自分たちの体でもって空中に文字を描いていた。
『こ ん に ち は』
……たった五文字の言葉の意味を理解するまでに長い長い数秒を要したあと、俺たちの肩からはドッと力が抜けた。
指に止まっていたワスプが飛び立ち、群れの中へと帰っていく。
「めっちゃ友好的じゃん……。こんにちは〜……」
心底安心したことは二人とも同じだったけれど、智絵里は特に完全に警戒心を解いたようで、友達にそうするみたいにワスプの群れへひらひらと手を振っていた。
ちょっかいをかけてくるクロウのせいで話がややこしくなっていたけれど、よく考えてみれば今まで会ったあの性悪カラス以外のゾンビはみんな完璧に友好的だったじゃないか。それにそもそも、もろに死体な見た目のTさんと肩を並べる俺たちが今さら見た目でびびるというのもおかしな話だったのかもしれない。
……と思いたかったが、群れになったワスプ一匹一匹を改めてよく見てみると、そこからは未だに身の危険を感じてしまうものだった。彼らが組体操ではなく声で喋ってくれていればまた少し違ったのかもしれないけど。
「あっちだって」
ワスプの群れが今度は矢印を作って見せてくれる。その指示にありがたく従って、俺たち一行はワスプの群れと別れ宿舎の奥へと向かった。
道中、智絵里が呟く。
「なんか、さっきの蛇たちには悪いことしちゃったかな」
「え、なんで?」
「さっきの蜂みたいに、蛇たちだってきっといい奴らだったんでしょ? なのに顔も合わせずに逃げちゃって、もしかしたら寂しがってたかも……」
「じゃあ戻ってみる?」
「絶対に嫌」
どないやねん、と心の中でツッコむ。けれど智絵里の中で何か変化が起こっているらしいことは理解した。少なくとも現実で蛇を見ている分には一生出てこない言葉だったように思う。
そう大した距離を歩かないうちにどうやら次の目的地へ着いたようで、Tさんがある扉の前で足を止める。
「次はこちらです」
「はーい」
良心と嫌悪感の狭間でゆれ動く智絵里と共にその部屋に入る。……するとおそらく一時的に、彼女の心から良心の類は完全に消し飛んだ。
俺たち二人の目に真っ先に映ったもの……それはキューとボールが備え付けられた一台のビリヤード台だった! まずいぞこの部屋は、智絵里にとって今作一二を争う修羅場の部屋だ……!
「智絵っ……」
名前を呼び終えるまでもなく、すでに智絵里は防御体勢を完了していた。扉からも壁からもビリヤード台からも離れた空白の空間で、ギュッと目を閉じ両耳を塞ぎ、棒立ちになったまま微動だにしなくなっている。……いや、少し震えている。
虫に怯える時、彼女はそういう行動をとる。空白の空間とは、何かを伝ったり隙間から現れたりする虫から可能な限り距離を置いた場所なのだ。彼女は決して部屋の隅に行ったり、うずくまったりしない。虫は壁や床からやって来るから。
そしてその体勢に入った彼女は必ず、決死の声でこう叫ぶ。
「拓海……! なんとかして……!!」
その声に呼応するかのように、ドッ……と重い物が落ちる音がする。来ると分かっていた刺客だ、俺はそいつから目を離さない。
ビリヤード台の上に、その一面を覆い尽くすほど巨大な全長でもって八本の足を広げる虫……巨大なゾンビ蜘蛛「ウェブスピナー」が、張り付いていた天井から落っこちてきた。……真横に八個ずらっと並んだ蜘蛛の目と視線が合ったように思う。
ウェブスピナーは小学生くらいなら乗れそうなほどのサイズがある上、頭部の色は毒々しい赤色で、腹部や足にはさっき見たワスプと同じような本能的に受け入れ難い縞模様が入っている。……蜘蛛に苦手意識はない俺でも、さすがにちょっと引いてしまうところがあった。八本足のフォルムは、巨大になる程に気色悪さを増してしまうものなのだ。
……がしかし、顔を合わせた相手の見た目に引いているのは、実は俺だけではなかった。
「ぎゃあああああああああ!!!!!!」
ものすごい悲鳴と共に、蜘蛛がせかせかと全ての足を動かして壁際まで逃げて行った。動くとなおのこと気色悪かったが、そんなことよりもまず悲鳴に驚く。女にしては低すぎるその声は当然智絵里から出たものではなく(そもそも今の彼女は状況を把握してないだろう)、じゃあTさんによるものなのかと彼を振り返ると、いつもと同じく彼は至って真顔の傍観者でしかなかった。
状況から察するに、悲鳴を上げたのはウェブスピナーらしい。こちらに背(尻?)を向けて壁にすがりつくように蠢く彼は、続けて予想だにしない声を上げた。
「人間だぁぁぁぁぁぁ!! キモイぃぃぃぃぃぃ!!」
「えっ」
「喋ったぁ〜!! ひぃぃぃぃぃぃ!!」
「いや、えーと……」
困惑しつつもしっかりと回った脳みそが、大体の状況を理解し始める。
このゲームの世界は恐怖回避バージョンであるために、基本的に全てのゾンビがプレイヤーに対して「友好的」だ。しかしクロウの例にあったようにそれは必ずしも「完全に」ではない。例外パターンの二つ目が今目の前にいるドぎつい見た目の彼、ウェブスピナーなのだろう。……彼に言わせてみれば、人間の方がドぎつい見た目をしているらしい。虫嫌いの人間である智絵里とは対照的な、人間嫌いの虫……それがこの世界のウェブスピナーというわけだ。
問題は、俺はこの世界から脱出するために彼にも触れなければならないということ。「逃げるゾンビ」は初めてだ。
「あの、すまん、なんとなく君のことは分かったけど、少しだけ話を聞いてくれないか」
「な、なんだよっ!? 近づくなよ!?!?」
「近づかない……と言いたいところだけど、実は俺たち、君に触れないとこの世界から出られないんだ。それはすごく困る。協力してくれないか……?」
「嫌だ!! 絶対に嫌だ!!」
だろうなぁ、と内心ため息をつく。アダーに悪いことをしちゃったかなと言っていた智絵里も、「じゃあ戻るか?」と言われれば断固としてノーだったのだ。人間嫌いの蜘蛛が、人助けのために腹をくくってくれるわけもない。
相変わらずショットランペットガンは現れない。役立たずもいいところだが、いったいあれがなぜクリアに必須なのだろう……?
「けど、俺たちそれだと本当に困るんだ。なぁ、頼むからほんの少しだけ、指先をちょんってするだけでいいから、なんとかならないかな……?」
「ならない!! 出て行ってくれ今すぐ!!」
「……Tさん、物越しに触れるのじゃ触ったことになりませんか?」
「といいますと?」
「そこのキューで触るみたいな。それなら向こうもまだ……」
「ダメですね。それではクリア条件は満たされません」
「ダメかぁ……」
さてどうしたものか……。腕を組んで考える。相手は天井に張り付くこともできる蜘蛛だ、無理に追いかけたところでスピードでは敵わない上、頭上に逃げられると物理的に手がとどかなくなる。なんとか同意を得て一瞬だけ触れさせてもらうしかないように思えるが……。
……たとえば餌で釣るというのはどうだろう? どこかで魚を調達して……。いや、人語を介するほどの知能を有する相手にさすがにそんな原始的な方法は通用しないか。俺だってこんな状況でなければわざわざあんなデカい蜘蛛に近づこうだなんて思わない。たとえそこに寿司が置いてあったとしても。
では知的生命体らしく、何か交換条件を出して交渉してみるか? ……いやダメだ、俺には切れるカードが一枚もない。ウェブスピナーにとって唯一魅力的な交換条件は、俺たちが彼の縄張りであるこの遊戯室から速やかに退出することだろうけど、それと彼に近づき触れるというこちらの目的は決定的に矛盾している。交渉ではなく脅迫をする形になってしまうことは明らかだ。
……いやしかしそうか、脅迫か。そうするしかないのなら、仕方がないのかもしれない。
「ウェブスピナー、よく聞いてくれ」
「あぁ……?」
「俺はどうしてもキミに触れなきゃならない、無理やりにでもだ。そっちが応じてくれないなら力ずくで追いかけることになる。そうするとキミは一番安全な天井に逃げるだろう。……しかしそうなると、俺はそれでキミをひっぺがしにかからなきゃならなくなる」
ビリヤード台の上に置かれたキューを指さしながら言う。腕を伸ばして持てば天井まで十分とどく長さだ。
しかしそれを使って天井の蜘蛛を落とすとなると、必然的に俺は蜘蛛の真下に立つことになるだろう。……さすがに落としたくないものだ。
「そうなったら正直、お互いに地獄だ。だからなんとか、指先だけでいいから触らせてくれないかな……?」
いつの間にか、蜘蛛の足の動きは止まっていた。かわりにそれが思考を巡らせている時のポーズあるいは癖なのか、彼の口元の顎とでも呼ぶべき部位がせわしなく蠢いている。
「……お前は、虫は平気な方らしいな。そっちの女と違って、俺のこともそこまで怖くないらしい」
「うん……? あぁ、まぁな」
「お前の苦手な生き物はなんだ? 何かあるだろう。いや生き物でなくてもいい、お前が絶対に触れたくないものはなんだ……?」
「触れたくないもの? ……まぁ普通に排泄物とかかな」
「じゃあお前は! 指先だけでいいからウンコに触ってくれと言われたら、仕方ないなぁってなるのか!? ならないだろ! こっちに何の得もないのに……! そこの棒で追いかけ回すだとぉ……? お前……そんなことになった日には……俺はそこの女を追いかけ回してやるからなぁ!!」
「なっ……!?」
お、脅し返された……!? それもこの蜘蛛、俺が智絵里を庇っていることをきっちり見抜いてきている……! いやそりゃ当然見抜かれるか……しまったな……。
人間嫌いの蜘蛛が実際に智絵里を追いかけ回せるとは思えないが……、さすがにここで俺が勝手に「上等だ!」なんて言うことはできない。それに、恐怖に追いこまれた生き物が何をするかは実際のところ分からないものだ。マジ物の地獄絵図が繰り広げられてしまう可能性もそう低くはないように思える。しかしそうするといよいよ打つ手が……。
「じ、上等よ……この虫野郎……」
心もとなく震えた声が、不似合いな口の悪さで啖呵を切る。耳を疑いその声のする方を振り返ったのは、おそらく俺だけではなかったはずだ。
目を開け、耳に栓をすることを辞め、現実に存在するどの生物よりも鳥肌モノであるはずの大蜘蛛をジッと見据えた智絵里が、見るからに覚悟を決めていた。
指で耳に栓をしたくらいでは、会話は聞こえてしまっていたようだ。
「元の世界に戻るためなら、虫に一瞬触るくらいやってやる……。やってやるわ……」
「ち、智絵里、無理はよくない」
「でもそれ以外にないでしょ……? この世界にずっといるのはもっと無理……」
苦虫を噛み潰したような顔で、腰の引けたままファイティングポーズらしきものを取る智絵里。その目は再び固く閉じられていた。
「さぁ来い……! 目をつむってればギリギリなんとか……ならないけど……する……!!」
……そこまでされたら俺もその覚悟を汲まないわけにはいかない。
「あー、ってことらしいからウェブスピナー、そっちから来ないなら俺はマジでお前を追いかけるぞ。いいのか?」
「くっ……うぅっ……」
……蜘蛛は、その多すぎる足のうちの一本を、躊躇いながら前に出した。それは二本三本と続き、やがては彼の体を一歩前身させることになる。それを皮切りに、噛み締めるような一歩一歩がゆっくりと……発展途上のロボットにも似たおぼつかない動きで踏み出されていく。それは見る者に、腰が引けた人間のする摺り足を連想させた。死骸かどうか分からないセミの横を通り抜ける時のような摺り足だ。
長い長い数秒間……いや一分以上あっただろうか? とにかくそのくらいの時間をかけて智絵里の足元まで這ってきた蜘蛛は、短い毛がびっしりと生えた縞模様の足先で、彼女の靴の先にちょんと触れる。目を閉じたままの智絵里は石像のように全く動かなかった。
クリア条件「ウェブスピナー」の達成を示す音が鳴る。そのコンマ一秒後、蜘蛛は本来の目にも止まらぬスピードで壁際まで走り去った。足元に風を感じるような恐ろしい速度だった。
「約束だ! 帰ってくれ!」
「わかったわかった」
智絵里の手を引いて部屋をあとにする。いつもとは反対にTさんが俺たちの後ろに続き、全員が廊下へ出ると、案内人の彼は扉へ向き直り丁寧にそれを閉めた。……そして彼はしばらくの間、いや、秒数にすればほんの少しの間だけ、そのまま俺たちに背を向け続けた。
嵐が過ぎ去ったような空気がその場に流れる。といってもそれは、清々しい晴天のような物ではない。……Tさんが「それでは次は」とこちらを振り返るのと、俺が智絵里を抱きしめたのは、偶然にも同じタイミングになった。
「ちょ、拓海……?」
「智絵里、今日一で頑張ったな……」
「あ、ありがと……。……Tさん見てるよ?」
「知ってる」
彼がすぐ隣にいることを示す、死体らしさの欠片もないフローラルな香りが確かに漂っていた。けれどそれは蛇や虫に比べれば、今は気にとめるほどの物でもない。
この先いつか出会うことになるだろうもう一匹の大蜘蛛は、もっと協力的な性格でありますように。そうであってくれれば、俺は今度こそ智絵里を庇いきれるはずだから……。
……彼女を抱きしめながら先のことを憂いたのは、たぶんこれが初めてだった。