転生したと思ったら婚約者(元男)が女の子になっていた件について 作:舞依夜
夜に駆けていた。
天上に浮かぶ月は煌々と輝き、それを彩るかのように無数の星々が流れている。そのおかげで草木も眠る丑三つ時だというのに、闇を進む齢十八の少年少女の視界は明瞭であった。
田んぼに水が流れる音とげこげこという蛙の鳴き声に、二人の荒い息遣いと足音が混じる。夏の田畑は湿気が酷く、足元から土の臭いが立ち上ってくるような感覚を彼女たちに与えた。二人の額に汗が浮かぶ。それは暑さ以上にこれまでの道のりが原因であった。
だがしかし千代は流れる汗など無視し、農作業と水仕事で荒れた右手で前を走る清のゴツゴツとした手をぎゅっと握りしめる。
「あとちょっとだ!」
清は振り返り彼女に向かってそう言った。それに千代は深く頷く。出掛けるころ頂点にあった月が、今となっては二時の方向に傾いている。随分長い間走っていたのだと、彼女は今になって自覚した。
「もう追手はこないな」
息を荒げながら、少し無理な態勢になって清は後方を確認した。ほんの少し前まで後ろに迫っていた人影は、今はもう影も形もない。そこに残るは光さえも飲み込みかねない、どこまでも深い闇であった。
「そろそろいいんじゃない?」
疲れ切り棒のようになった足を止め、千代はその場に立ち尽くす。辺りを見渡すと、見慣れた田園風景を離れ、ぽつぽつと民家が立ち並んでいた。
「ここまで来たんだね」
それを見て彼女はしみじみとそう呟く。今まで見た事のない風景。長年生まれ育った田舎から離れてここまで来た―― 来てしまったのだと思い知らされる。
「あとは列車に乗るだけだ」
清がぼんやりとしていた千代の手を引いた。始発は午前五時。それにさえ乗れば、二人は面倒な親戚のしがらみから解き放たれ、晴れて新たな人生を歩む事が出来る。
「ようやくここまで来たな」
荒い息を整えながら彼は言う。清と千代は幼馴染であった。しかも俗に言う筒井筒の仲という奴である。しかし、そんな二人を遮ったのが、豪農の息子であった清に届いた許嫁の話だ。
「うん!」
だが、それも今となってはもう関係のない話。二人は互いを見つめ合い、唇を触れ合わせ柔らかく笑った後、再び駆け出した。それを見る者はいない。清を偉丈夫の男たらしめていた地位も、周囲の目も、千代を訝し気に見る者も、そこにはいない。遥か遠く、けれど少し手が届き易くなった月と、いつでも蘭然と輝く星々だけが二人を見ていた。
そこから二時間弱、走ったり止まったりを繰り返して、二人は寂れたプラットホームに辿り着く。人影はまばらで、周囲には今生の別れとでも言うかのような空気が漂っている。そのただ中にあって、笑みを浮かべた清と千代の姿は異様であった。
「風強いね」
千代が真夏でありながら、あまりにも薄い恰好で己の体を抱きしめる。それもそのはず、二人は服を着替える暇すらなく、寝間着のまま家を飛び出したのだ。そのせいで彼女の体に夏の早朝、時折吹く冷たい風は酷く堪えた。
「そうだな」
ブルブルと震える彼女を見かねた清が、そっとその華奢な体を抱きしめる。温かく小さな体だ。男の中でも大して身長が高くない彼であったが、それでもなお千代の体は小さかった。
「ごめんな」
思わず清の口から謝罪の言葉が零れる。サラサラと彼の手から彼女の美しい黒髪が流れた。もし自分が親戚を、両親を説得出来れば、彼女にこんな思いをさせずに済んだかもしれない。駆け落ちなんていう事をせずとも済んだかもしれない。絶縁する事無く、幸せな日々が築けたかもしれない。彼の胸中にそんな想いが渦巻く。
「ううん。いいの」
悲し気に瞼を下ろした清に、千代は首を横に振った。広い肩、大きな腕に包まれた彼女は強い安心感を覚えていた。
「私は貴方と一緒にいられればそれでいいから」
その先にあるのは、幸か不幸か。
遠くで鳴った蒸気機関の汽笛が二人の耳をつんざく。黒煙が朝焼けに伸びる。列車の駆動音に千代の胸が高鳴った。
あれは愛知と東京を結ぶ列車。自分たちを乗せる列車。
それと同時に、千代と清の『これから』を乗せる列車。
物々しい音を立て、二人の眼前に黒光りする巨体が止まる。周囲の人々はもう耐えきれないとばかりに、服の裾で涙を拭い声を押し殺して泣き始めた。
だが、清はそんな人々を一顧だにせず、蒸気機関車の赤いカーペットに足を伸ばす。千代もまたその後ろに続く。彼女はその背中がとても頼もしかった。
五分後、列車は進む。
駅を訪れた時の様に汽笛を鳴らし、車輪の軋む音をたてながら。
二人は遠くなっていく故郷を窓から覗きながら、抱き合った。
「これからは二人で生きていくんだ」
かくして、二人の恋物語は地元を離れ、第二幕へと進み始める。
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「どうしてこうなった…… 」
プッチンプリン片手に首を傾げる黒髪の少女を見下ろしながら、千代―― いまとなっては茜という名になった彼女が呟いた。
「なにが?」
片手で頭を押さえた茜を、美月と名を変えた清が見上げる。その身に纏うは可愛らしい女子制服。自分よりも遥かに美しい容貌を恨めしく思いつつ、茜はぶすっと「なんでも」と返した。
口の端にプラスチックのスプーンを咥え、清もとい美月が首を傾げる。一体いつからこの子はこんな表情を浮かべるようになったのだろうかと茜は思う。だが、それに答えは出ない。もう彼女が男であった頃なんて十七年も昔の事なのだ。
時は2021年。千代と清が親戚一同から逃げ出してから、百年とちょっと経った頃。彼女たち―― 千代と呼ばれた少女と、清と呼ばれた少年の恋物語は、文字通り姿形を変え大正時代から現代に再現されていた。
TS転生という奴である。