転生したと思ったら婚約者(元男)が女の子になっていた件について 作:舞依夜
茜が目を覚ますと同時、視界に飛び込んできたのは、爪をギリギリと噛みしめる異様な男であった。背が高く、ぎょろりとした目が特徴的な男。彼女の頭の中で、はてなマークが躍る。意味が分からない。現状を理解出来ない。
ただ、最後に記憶にある情景から自分はどうやら攫われたらしいという事だけは理解していた。
「どうしてこんな奴が。僕のなのに。あの天使が。神様が僕に遣わしてくれた。運命の―― 」
ブツブツと訳の分からない言葉を呟く男に、背筋が震える。しかし、ここで目覚めた事に気づかれては、もっと恐ろしい事になるかもしれない。直感的にそう考え、喉の奥から飛び出しそうになった悲鳴を押し殺す。
そして、恐る恐る薄目を開けて周囲の状況を確認する。
見た事のない場所だった。埃っぽい臭いと、工場のオイルが混じったような香り。トタンで出来た屋根に、大量に積まれたドラム缶。風が壁を叩く音が聞こえる事から、相当壁は薄いのだろう。
全体像を把握した茜は、ここが街のはずれにある廃工場な事に気づく。そこは取り壊しが決まっていて、立入禁止の場所。人通りなどあるはずもなく、救出は絶望的と脳みそが警鐘を鳴らす。そしてそれと同時に、自分の体がドラム缶に縛り付けられている事にも気が付いた。
身じろぎしようにも、手は後ろで縛られ、胴体はドラム缶に括りつけられている。足は縛られず、横流しになっているが、立ち上がる事が出来ないのであれば、縛られているのと同義だ。彼女は文字通り、手も足も出ないとい
う状況に置かれていた。
十月の夜は少し冷える。だが、現状を理解した茜の全身は燃えるように熱かった。
「勢いで攫っちゃった。どうする?このままだと捕まる。そもそもこんなんじゃあの娘にふさわしく…… 」
やっぱり、男が言っている事は分からない。彼女の額に汗が伝う。閉じた瞼がぷるぷると震える。ごくりと口内に溜まった唾を飲み込んだ。
「うん?」
しかし、それは静まり返った廃工場によく響いた。戯言を呟いていた男が、くるりと茜の方を向く。そして、その細い顎をがしっと掴んだ。喉の奥の方で、細い声が鳴る。
「お前、起きたのか?」
必死で息を押し殺す茜。だが、そんな彼女の頬に冷たい感触が走る。
「正直に言わないと、ここでお前の目をくり抜くぞ」
「はい!起きてます!」
条件反射的に声を上げ、茜は目を見開いた。しかし、彼女はそれをすぐに後悔する。視界に映ったのは、真っ赤に腫れた眼球と包丁の鈍い光。形なき恐怖が、実体を伴って茜に襲い掛かって来る。
「元気だけはいい奴だな」
男はそう言って、ナイフを腰のポーチに入れた。
「こういう所が、あの人は好きなのか…… ?」
そして、唇に手を当てて、またぶつぶつと訳の分からない事をのたまい始める。だが、そんな呑気な彼とは対照的に、茜の体はガタガタと震えていた。
ころされる。
自分の頬に、先ほどまで他人が握ったナイフが当たっていた。いとも容易く自分を殺せる位置に、他者の意思が介在していた。その事実が、彼女から冷静な思考を奪っていく。
死というものが、後ろから這いずって来るような感覚に茜は襲われた。亡者が、生者である彼女の足を掴んでいる。自分を引きずり込んでいく。
「いやぁ!!もう何も聞きたくない!どっか行ってよ!ねぇ!」
「なんだ!うるさいなぁ、こいつ」
突然ヒステリーを起こし発狂した茜に、男は顔を顰める。図体が大きい割に、その動きや表情は幼子のようで、気持ちが悪かった。しかし、気まぐれゆえに恐ろしい。恐怖に耐えきれず、叫び声を上げた彼女にぐんと彼は詰め寄って来る。
「そもそもお前が、僕と美月さんの邪魔をするからいけないんだろ」
「え?」
「僕と美月さんが結ばれるべきなのに、お前がいるから美月さんが僕と結婚してくれない」
ぶすっとした顔で、男は茜に向かってそう言った。けれど、彼女には意味が分からない。
「結ばれるべき…… って?」
「美月さんは運命の人なんだ。雨の日、傘を忘れた僕に傘を貸してくれたんだ。それも、彼女も傘を一本しか持っていなかったのに」
彼は嬉々として、自分と美月が如何にして愛し合う仲になったのかを語り始めた。ぺらぺらと満面の笑みで話す彼に、茜は落ち着きを取り戻していく。
目の前の男は子供みたい、ではない。
子供なのだ。
図体だけが大きくなって、精神は全く成長していない。現実を直視せず、妄想という名の夢を語る愚者なのだ。
目を輝かせて自分と美月がいかに愛し合っていたかを語る男を、茜は目を細めて見つめる。
「だから、僕と美月さんの間には、君がいらないんだよ!」
だが、精神が子供だったからといって、肉体が大人であれば出来る事は増えてしまう。例えば、女子高生を攫う事が出来る。その上、車を使って遠くに運ぶ事も出来るし
「そうなんだ。だから、仕方ない。やっぱり君には死んでもらわないと」
人を殺す事だって出来る。
哀れみへと感情を変えていた茜に、再び恐怖が襲う。
ポーチに閉まっていたナイフを、男が取り出す。チャックを開ける音が、冷たい響きとなって茜の耳に飛び込んでくる。
一度、雲散霧消した恐怖が、再び実在を伴って彼女の体を震わせた。
「だって君は邪魔だから」
コンクリを叩く靴の音が近づいてくる。視覚的に捉えるよりも、意思の介在を持たぬ靴音の方が、茜には何倍も恐ろしかった。
「僕と美月さんの道に、君はいらないんだ。君がいなければいいんだ。君が死ねば、それでいいんだ」
うわごとのように、彼は同じ言葉を繰り返す。本当に気が狂っている。茜はそう思った。目は裏返り、黒目よりも白目の方がずっと大きな面積を占めていて、異形と言ってもいいような様相を呈していた。
「ごめんね」
ポーチの中から、とうとう鈍い輝きが取り出される。しかし、その切っ先はふるふると向けるべき方向を見失い揺れていた。
死。
その一文字が、茜の脳裏によぎる。後ろで結ばれた手に、汗がじっとりと滲んだ。コンクリに雫が垂れる。息が荒くなり、その場から逃げ出したいという衝動に駆られる。何とかするべく体を捩った。しかし、重いドラム缶に
括りつけられた彼女の体が動くはずがない。
死にたくない。
茜は素直にそう思った。
こんな訳の分からない所で、名前も知らない男に、無意味に殺されたくない。だけど、抵抗する術なんてなくて、いくら体を揺らしても逃れる事が出来ない。
「これでやっと一緒になれる。一緒に暮らそう美月さん。ああ、美月さん。河川敷に家を買ってさ、子供は二人で男の子と女の子で。きっと君に似て可愛いよ」
もはや彼は、茜が死んだ後の事しか考えていなかった。しかもそれは、訪れるはずのない未来だ。
「どうしてあなたは美月に執着するの?」
声の震えを押し殺し、彼女は男に尋ねる。すると、彼は不意に足を止めた。
「どうしてって…… そう定められてるからさ」
ぽかんと口を開け、目を丸くする男。
「僕が産まれて、彼女に出会った時、僕は美月さんと結婚する運命にあるって悟ったんだよ。ねぇ、君に分かる?運命の人。うんめいのひとだよ。神様に決められた、一緒に生活して、エッチをして、子供を育てる人。美月さん
が、僕を埋めてくれるんだ。僕の隙間を埋めてくれるんだ。そして、美月さんの隙間も、僕だけが埋められるんだ。君じゃダメなんだよ。君には相応しくないんだ」
淡々と、当然の事実を語るように、彼は言う。
それを聞きながら、茜は腹の下から沸々と怒りが湧き上がってくるのを自覚した。
「君といると、美月さんは不幸になる!現に、何日も家から出てこなくなったじゃないか!僕が折角助けてあげようと思って、家に連れて行ったのに逃げ出して、それから外に出なくなった!お前が何かしたんだろ!お前があの人に暴力を振るったんだ!そうだ!きっとそうだ!そうに違いない!ああ、なんて酷い事をするんだ!悪魔だ!お前は人の皮を被った悪魔だ!殺せばきっと分かるぞ!黒い靄になって消えるんだ!当然だよなぁ!だって悪魔なんだから。人じゃないんだもんな。そうか!人じゃないなら、美月さんが惑わされるのも納得だ!きっと魔術を使っているんだな。そういえば、お前はネックレスをしていたな!」
突如、烈火のごとく喋り出した男はそう言うと、茜に近寄り、その首に掛けられていたネックレスを取り出した。
「きっとこれがトリガーだな?これを使って、あの人に魔術をかけていたんだ」
胸倉を掴み、男は彼女に問いかける。
「ち…… が… 」
否定するべく、口を開こうとするが胸倉を掴まれているせいで、彼女には上手く声が出せない。
「ほうら、やっぱりそうだ!」
そして、それをいい事に彼は自己完結し、声を張り上げた。
「消えろ!悪魔め!」
ギリギリと歯を食いしばって、男はナイフを振り上げた。
もはや、彼は茜の事を人間だと認識していない。それゆえ、それまであった人殺しへの忌避感や、殺人を犯した後始末などといった考えは、すっかり抜け落ちていた。今の男は興奮剤を打ち込まれた、怖れを知らない獣のよう
なものだ。
躊躇いなく彼は茜に近寄ってきて、白刃が彼女の喉元を裂かんと迫る。
迫りくる自意識の消滅に、茜は思わず目を閉じた。
しかし、その視界にははっきりとした情景が映る。
初めて美月と出会った日。
砂場で、子供のふりをしていた自分が、退屈そうな女の子にスコップを渡した。
小学校に上がった日。
まだズボンしか履いていなかった美月が、照れくさそうにそっぽを向いて、ネックレスを渡して来た。
中学校に上がった日。
髪の毛を伸ばし始めた美月に、戸惑った。理由を聞いても教えてくれなくて、少し不安になった。
中学校二年生の夏休み。
急に美月が可愛くなって、私服もスカートがメインになった。先生にバレない程度の化粧を始めて、よく居眠りするようになった。
高校に上がった日。
どんどん素気なくなって、笑う事が減った。
昨日。
げっそりとやせ細って、力もなさそうで、別れるって言っても何も言ってくれなくて、凄く悲しかった。あれ?死ぬまで長いなぁ。
彼女はそんな景色を眺めている間、ふとそんな事を思った。
ああ、これが走馬灯っていう奴なのか。
となると、いよいよ自分は死ぬらしい。
ふっと茜は苦笑を浮かべた。
繰り返される情景。流れ続ける日々。走馬灯に、彼女の十七年という短い人生に、移り続けるのは、家族でも涼香でもなく、たった一人の少女。
前世での十七年。
清の姿は流れない。
美月の笑う顔。拗ねる顔。怒る顔。プリンを取られて、不貞腐れる顔。涼香に向かって、得意気にベッドインを誘う顔。流れてくるのは、彼女の顔ばかり。
大切な恋人の顔ばかり。
ここにきて、茜は初めて気が付いた。
「好きな所なんて、なくてもいいんだ」
言葉にして、理由づけして、『私は貴方のこういう所が好きです』なんてのは、無粋だ。本能が、頭ではなく、心が好きだという事を証明していれば、きっと好きという言葉だけでいい。建前はともかくとして、本心はそれでいい。
でも、それに気づくのが遅すぎた。
自分はもう死ぬ。
ここで、狂人に殺される。
閉じた瞼の裏に、美月の仏頂面が映った。
死にたくないという想いが、一層強くなる。
どうして最後、別れようなんて言ってしまったのか、という後悔が襲う。
耳元で風切り音が鳴った。文字通り、目前まで絶命が迫っている。彼女は勇気を振り絞って、目を開けた。
ギラリとナイフの鈍い光が、すぐ前に来ていた。条件反射的に、唯一自由に動かせる首を曲げた。すると、間一髪の所で刃を避ける事に成功する。目的地を失ったナイフは、背後のドラム缶に当たり、カァンという甲高い音を
立てた。
「あれ?おかしいな」
思い描いていた光景と違う状況に、男が首を傾げる。
「まぁいいか。次は確実に当てれば」
しかし、そんな戸惑いは一瞬だ。彼は彼女の細い首を大きな手の平で掴み、シュミレーションするかのように、ナイフをゆっくりと首筋に当ててくる。
男の荒い息が、茜の前髪を揺らす。不快感と恐怖に、彼女は顔を歪めた。
「ここから僕達の未来が始まるんだ!」
そして、再び白刃が迫る。
先ほどまで動かせた首も、もう動かす事が出来ない。縄が解ける気配もな
く、反撃の手立てもない。
茜は、もう何度したか分からない死ぬ覚悟を決めた。
自分が死んだら、美月は悲しむだろうか?
そもそも見つけてくれるだろうか?
まさか、こんな男と付き合ったりしないよね?
こんな状況になっても、彼女の頭に浮かぶのは美月の事ばかり。
恋を自覚しても、今の茜には何も出来ない。
貰った物を返せない。
うさぎのぬいぐるみ。
常用の枕カバー。
黒い逆三角形が象られたネックレス。
全部貰ったもので、逆に自分が美月に返せたものなんかない。
彼女の中に、自分が残らない事が悲しかった。
将来、美月の隣に自分がいない事が、側にいられない事だけが、茜にとって唯一の心残りだった。
「あはははははは!待っててね、美月さん!今から迎えに行くよ!」
ゆっくりと瞼を下ろした彼女に耳に、喜悦の叫びが届く。生理的嫌悪感を抱きながらも、茜はせめて痛くないようにと、全身の力を抜いた。
「別に私は待ってない」
だが、否が応でも体に力が入った。ピタリと目の前で、男の動きが止まったのが分かる。
「ずっと前から余計なお世話」
ゆっくりと彼女は目を開けた。
「ああ、僕の天使!どうしてこんな所へ?今から、僕が君に憑りついた悪魔を払ってあげるよ!」
興奮した男の背中で、姿は見えない。だが、大股に開かれた彼の足の隙間から覗く細い腕と、鈴のような声で誰が来たのか、茜にはすぐ分かった。
「美月!」
「大丈夫。私はうるとらすーぱーいい女。すぐに助けてあげる」
叫んだ茜とは対照的に、美月はぐっと親指を突き立て、いつものように無表情でそう言った。
「何を言ってるんだい?助けるのは僕の方さ」
「うるさい。この変態ストーカー。気持ち悪い」
大仰に手を広げた彼を、美月は唇を曲げて罵倒した。
「またまた、そんな事言っちゃって。強がりなんだから」
しかし、男が彼女の言う事を気にした様子はない。それどころか、満面の笑みで美月の罵倒を受け入れている。
そんな彼を見て、彼女は一つため息を吐いて「もういい」と小さく呟いた。
「一緒に行こ」
かつかつと美月の小さな足がコンクリを叩く。それと同時に、外から吹いた強い風で工場の薄い壁が揺れた。
「危ないよ!」
あまりにも無防備に、彼女は男へと近づいていく。だが、彼はナイフを持っているのだ。華奢な美月には、一度襲い掛かられたら抵抗する力なんてないだろう。
「うるさい!悪魔め!邪魔するな!」
茜の忠告を、脅迫か何かと勘違いしたのか、彼は相貌を歪めて唾を吐く。そんな事をしている間に、美月は男へと抱き着いていた。突如、腰の辺りに発生した柔らかな感触に、男が振り向く。そして、その柔らかさの正体が美月だと知ると、でれでれとした顔で、彼女の頭に手を伸ばした。
その瞬間、男の腕が強張る。
壊れた機械のように脚がブルブルと震え、肩が歪なマリオネットのように不自然な動きをする。そして、どさりと音を立てて、その場に崩れ落ちた。
「………… 」
目の前で起きた事に理解が追い付かず、目を丸くする茜。
「ぶい」
彼女の視界には、右手にスタンガンを持って、左手でVサインをする美月が映っていた。