転生したと思ったら婚約者(元男)が女の子になっていた件について 作:舞依夜
土曜日、朝起きてすぐに茜はスマホの電源をつけた。そこに表示されたのは無骨な十一時という時刻と、九月二十七日の日付だけ。そこに期待していたようなメッセージはない。
今日一日、それは来ないだろうと彼女は薄々察していて、実際にそれは午後六時になるまで来なかった。しかも、そのメッセージも期待していた美月からのものではなく、涼香からのものだ。
『アクセはこっちで全部選ぶ。メイクもしてあげるから楽しみにしてて』
涼香の元に送られてきたメッセージには、そんな風に書かれていたらしい。
茜はメイクなんて大変な事、美月に出来るのかと少し心配だった。昔の女とはいえ、前世では彼女もよく化粧をしていた。大体が葬儀の前だとか、お祭りの前だとか、そういった儀礼の際だが、その時に酷く面倒だった事を良く覚えている。
そんな面倒な事が美月に出来るのか。
恐らくデザイナーの所で化粧も学んだのだろうが、それは実用レベルなのか。涼香の美しさを損なう結果になってしまわないのか。
スマホを握りながら、届かぬ想いを抱え、茜は一言美月に向かって『頑張ってね』と送った。三時間後、「ピコン」と軽快な音を立てスマホが着信を告げる。
きっと涼香からだ。
期待せずにホームボタンを押した茜を出迎えたのは、
『りょーかい!』
という柄にもなく意気込んだ美月の文字だった。
日曜日になっても、連絡はない。本番なのだから当然と言えば当然だ。わくわくしながらカーテンを開けた朝、対面の美月の家は相変わらず何も変わらずそこにある。分かっていても、茜は少し寂しかった。朝起きて階段を降
り、顔を洗ってリビングに行き、両親と朝の挨拶を交わし、自室に戻って着替え、参考書を開く。合間合間でスマホを弄って、時々窓から美月の部屋を覗く。
別にどうでもいいはずだ。
涼香の服を一から作って、それが認められたら美月は正式にデザイナーの弟子となる。彼女の道が開ける。でも、そんな事茜には関係ない。勝手に見出し、勝手に開いた、美月だけの道。彼女だけの道。
「一緒に行こう」といって、美月は茜を置いてけぼりにした。
部屋の中、一人彼女は唇を噛む。雨は降り続いていた。折角のデートなのに可哀そうだと、茜はそんな事を思う。
時計を見ると気づけばもう午後四時になっていた。
涼香は陸斗さんとの待ち合わせは、五時だと言っていた。今頃はドレスの着付けやら、化粧やらで、てんてこ舞いだろう。ぼんやりと窓の外を覗く。そこにいたのは一人の男だけ。透明のコンビニで買ったみたいな傘を、無機質な顔をして差している。特に何の感慨もなく、茜は彼を見つめた。
すると、彼は不意に足を止めた。そして、美月の家の方を向く。その動きはまるで何かを観察しているようだった。
すわ空き巣か!
神経をとがらす茜。しかし、その予想に反し男は一分ほどその場に留まった後、再び歩き始めた。彼女は去り行く透明な傘に、ほっと胸を撫で下ろす。
だがその時だった。男が振り向いた。しかもあろうことかその瞳は、窓から彼を覗いていた茜をしっかりと捉えている。冷えた瞳だった。連日続く大雨。その雨粒を閉じ込めて反射をなくし、僅かに黒い絵の具を混ぜたような
瞳だった。
「っ!」
茜は慌ててカーテンを閉じる。そして窓に背を預け、その場にへたり込んでしまう。上下する胸。思わず自分の手で体を抱きしめる。気づけば額に汗をかいていた。
単に目が合っただけ。多少の後ろめたさはあれど、そこまで怯える事はないはずだ。しかし、事実として彼女は震えていた。恐れを抱いていた。
何者かも分からない透明な傘を差した男。
シュッとした顎筋に、百八十はあろうかという背丈、特徴的な泥のような瞳。
数分経ち動悸が収まった彼女は、恐る恐るカーテンの端を掴み、少しだけ外を見る。
そこに先ほどの男の姿はなかった。
ほっとして茜は長く息を吐く。窓ガラスが白くけぶる。それを袖口で拭って、彼女は椅子に座り直した。
どうしてあんなに怯えていたのか、ビビりまくっていた己を自嘲して鼻で笑い、シャーペンを持って参考書を開き数式の海に溺れる 。
夕食を終え風呂上りの茜は、お気に入りのワンピース型のパジャマを羽織って、ベッドに寝ころんでいた。スマホの漫画アプリを開き、更新をチェックする。
連載開始日から読み続けている漫画だ。男子校の中に女の子が一人だけ放り込まれて、貞操の危機に怯えながら初恋の人を探し続ける物語。主人公の女の子は臆病で小さくて、けれどどうしようもなく熱い恋をしている。
様々なピンチに翻弄されて、でも前を向いて歩くその姿が茜には美しく映った。
だってそれは自分にはないものだから。
一通り更新をチェックし終わり、時間を確認すると八時になっていた。結局、美月と涼香が何をしているのか気にしているだけの一日になってしまった。茜は少しそれをもったいないなと思い、でもそんな一日も悪くないなと
少し微笑む。
今頃、涼香は何をしているだろうか?
レストランは六時から予約していると彼女は言っていた。ならば、八時の今はもう既に食事は終わっただろう。楽しんでいるのだろうなぁとぼんやり思う。デートというのは何歳になっても楽しいものだ。それが誕生日で、特
別な日ともなれば、その幸せは格別だ。
自分も付き合い始めた時―― もう百年以上前の事だが―― 、とても楽しかった。
初めて手を繋いだ時は、たった一部分だけなのに心まで繋がっているような気がした。ファーストキスはレモンの味で、ツンとした甘さが額をつんざき何も考えられなくなった。抱かれた肩が熱くてしょうがなくて、自分の体はチョコレートみたいに溶けた。
そんな想いを涼香もきっと今している。
そう考えると、なんだか茜は後ろめたい気持ちになった。
友人と元担任のラブシーンを想像するのはどうにも背徳感が凄く、不純な気がして、彼女は頭に浮かんできた妄想をブンブンと頭を振ってかき消そうとし―― た所で、タイミングよくインターホンが鳴った。
「なんだろう?」
非常識な時間のそれに、茜は首を傾げる。しかし、そう思うだけで動こうとはしなかった。どうせ、宗教勧誘か何かだろうと決めつけ、ソシャゲを起動する。一階にいる両親がどうせ対応するだろう。彼女の興味は来客からす
ぐに、ゲームのイベントへ移る。
「あかね~、お友達が来てるわよ~」
と思いきや、その言葉に茜はベッドから跳ね起きた。
きっと美月だ。
一仕事終わった彼女が「褒めろ」とか、「労われ」とか言いに家までやってきたのかもしれない。
転げ落ちるような勢いで階段を降りる。パジャマなのも今更だ。はしたないなんて言い合う関係性でもない。どたばたと足音を立てて、短い廊下を走り玄関の鍵を急いで開ける。ほんの四、五日顔を合わせていないだけなのに、彼女は早く恋人の顔を見たくてしょうがなかった。
「美月!お疲れ!」
その言葉と共に、茜は勢いよくドアを開けた。
「ごめんなさいね。美月じゃなくて」
しかし、彼女の瞳に飛び込んできたのはいつもの小さくて、黒い髪の恋人
の姿ではなかった。
「りょうか?」
目の前にいたのは、住宅街には場違いな淡い青色のドレスを纏った、ここ
にはいないはずの友人の姿だった。
「どうしてここに?」
涼香の姿を目にして、一番最初に茜の口から飛び出したのは、そんな素朴
な疑問だった。
「……………」
けれど、問われた彼女はどうにも答え辛そうな顔をして下を向いて一言「家
に入れてくれない?」と言った。こんな時間だ。普段礼儀正しい彼女の意外
な物言いに、茜は思わず面食らう。
「ほら、ここだとちょっと人目があるじゃない? それに雨だし」
涼香がちらり道路の方に目配せする。彼女の言う通り、人通りが少ないとはいえゼロではない。現に、今も青色の傘を差した男が物珍しそうにこちらを覗いている。夜、軒先に女二人。片やパジャマ、片やドレス。いくら自宅の前とはいえ、万全を期すべきだろう。
「いいよ」
「ありがとう」
扉を開けた茜に小さく頭を下げ、涼香は玄関に足を踏み入れる。そして、ずっと履いてきたであろうハイヒールを脱いだ。親指が靴擦れのせいで少し血が滲んでいて、小指の爪も内出血のせいで赤黒く染まっていた。
「先に上行ってて」
それを見た茜は涼香へ自室に向かうように言い、台所から氷を持ってきてビニール袋に入れ、自分も二階に上がる。
「ごめんなさいね」
涼香はカーペットの敷かれた床の上で、幼子のように膝を抱えて座っていた。流石に疲れたのか、そこにいつものような優雅さはなく、太ももは半ばほどまで露わになっている。
「大丈夫だよ」
茜は柔らかく微笑み、彼女をベッドの上に座らせる。そして自身は涼香の足元にひざまづき、持ってきた氷を赤黒くなった指先に当てた。
「っ」
「おつかれ」
痛みのあまり、声にならない叫びを上げた涼香を、彼女は優しく労わる。ハイヒールで長い間歩くのは大変だっただろう。時間も時間だ。茜は涼香は軽くショッピングか何かした後、レストランで食事をし、その後散歩でもし
て帰って来たのだろうと推測した。
ハイヒールで歩くのが慣れていない学生にとって、それは辛く長い旅だっただろう。だが、彼女は乗り切ったのだ。
「ところでどうしたの?突然うちに来て。もしかしてお父さんに、大人と付き合ってるのバレちゃった?」
時々忘れそうになるが、一応彼女たちの関係は違法である。いや、厳密には清い関係であるから違法ではないが、あまり褒められた関係性でないのは確かだ。
涼香はニヤニヤ笑いでそんな事を言った茜に対し、静かに首を横に振った。
その様子に彼女は目を丸くする。彼女も本気でそう思っていた訳ではない。
けれど普段の涼香ならば「そんな訳ないじゃない」とか、「貴方たちと一緒にしないでくれるかしら」とか、強気な事を言うだろう。なのに、今の彼女は弱り切っていて、死に体ですっかり落ち込んでいる。
「………… 」
室内に沈黙が落ちる。机の上に置かれた時計の秒針が動く音がこだまする。
階下の両親が見ているであろうテレビの音が、薄っすらと耳に届く。内容までは分からない。でも、日曜の八時頃という時間帯から大体何を見ているのかは予想がついた。
無言が続く。茜は黙って小指の辺りに当てていた氷を、親指の辺りに変える。同時に、涼香が身じろぎした。ベッドとドレスの衣擦れの音。何気なく茜は彼女を見上げる。改めて見る涼香は、ぞっとするほどの美しさを湛えていた。切れ長の瞳はアイライナーで強調され、薄い唇は淡いピンクに彩られ、女性である茜ですら引き込まれそうな輝きを放っている。
これを美月が施した。
彼女が今身に纏っている胸元がシースルーで、ちょっとドキッとするようなデザインも含め、今の清水涼香は一種の芸術作品のようだった。
だが、その美貌が崩れる。
彼女は美しくとも、彫像ではない。
確かに感情を持つ人間だ。
「あのね、私振られちゃったの」
その事実を頬を流れる一滴の雫が、痛いほどに示していた。
「え?」
涼香の言葉があまりにも自然だったせいで、茜は思わず口をぽかんと開けてしまう。けれど、彼女はそんな茜に構う事無く淡々と話し続ける。
「今日、ディナーに行ったでしょ?そこでね、初めはいい感じにお話も弾んで、マナーとか大丈夫かな? とか、子供っぽいと思われてないかな? とか、不安は不安だったけれど、それ以上にすっごく楽しかったの」
そう語る彼女の口角は少し上がっていて、僅かに足先も跳ねていた。落ち着いているけれど、本当に楽しかったのだろうと、茜はそれを見て悟る。彼女自身も、前世でのデートを思い出すと胸がときめく。きっと涼香はあのと
きめきを味わっていたのだろうと想像した。
「でね、最後に、デザートが来たの。デザートは簡単な氷菓子だったわ。難しい名前の料理だったけれど、私にはただのアイスにしか見えなかった。陸斗さんと二人で『カッコいい名前なのに、ただのアイスだね』って笑い合って。
その後、互いの口にスプーンでアイスを入れあったの。ああ、今私すっごいバカな事やってるなぁって思ったわ。人目も気にしないで、バカップルみたいに『あーん』なんて言われて。けど嬉しかった。ずっと一歩引いてた陸斗さんが歩み寄ってきてくれた気がしたの。口の中はアイスでひんやりして、でも心臓の鼓動は止まらなくて、体が火照ってしょうがなかった」
まるで魘されているかのように、彼女は口から滔々と言葉を零す。それは端から見ていると幸せそうに見えて、けれどその語りの最中でも流れ続ける涙が、この物語の結末がハッピーエンドではない事を主張する。
「でね、そんな風にしてすっかり有頂天になった私は陸斗さんに『連れてきてくれてありがとう』って言ったの。そしたら、彼はちょっと視線を逸らして申し訳なさそうに突然『別れよう』って。私は初めに耳を疑って、その次に理由を聞いたわ。そしたら、好きな人が出来たって言うのよ。私がどこの誰か聞いても『涼香さんには関係ない』の一点張り」
話が進むにつれ、彼女の声は震えていく。
「関係ないってなに!私が陸斗さんの彼女だったのに、好きな人が出来たって言われて突然振って『誕生日、一緒に過ごそう』って言いだしたのは陸斗さんだったのに!彼が言い出したのに!初めから振るつもりだったなら、そう言ってくれればよかったのに!楽しみにしてた私が馬鹿みたいじゃない!好きだったのに!本当に好きだったから、先生に告白したのに!」
そして、それは最後には呪いの言葉へと変わった。クリーム色のカーペットが、涼香の涙で灰色に滲む。茜はそれを見ながら、何も言えなかった。
「それからは呆然とする私を放って、彼は淡々とアイスを食べていたわ。私だけが夢心地だった。食べさせっこして、それがまるでただの思い出作りだったみたいに、彼は平然としているの。私はとっても嬉しかったのに。体が
熱くなったのに。陸斗さんにとっては、ただのスキンシップで、私の事は玩具としか見ていなかった」
俯く茜。何も言えない。言う資格がない。彼女は慰めの言葉を持たない。
『そんな事ないよ。きっと陸斗さんも涼香の事好きだったと思う』
そうやって言って涼香の肩を抱ければ、どれほどよかっただろうか。けれど、そんな事は出来ない。
だって好意がなくとも関係性は構築出来る。それを茜は痛いほどに理解している。
「どうしてこの日なの?どうして誕生日にそんな事するの?他の日じゃダメだったの?そんな事考えないくらい私の事はどうでもいいの?」
悲鳴交じりの声。彼女は階下の両親が気になった。これ以上うるさくすると何か言われるかもしれない。宥めなくては。そう考える。でも、茜には何も出来ない。出ない言葉の代わりに、彼女は氷を当てる脚を右から左に変えた。
「うぅ」
涼香の華奢な肩が上下に揺れる。それが痛々しくて、茜は思わず目を逸らす。涼香の足は靴擦れでぼろぼろだった。すすり泣きが空間を支配する。何も言わない茜。感情の波に翻弄されそれ所ではない涼香。二人はただお互い
がそこにいる事だけで、慰め合っていた。
それからどれほど経っただろうか。
脚に当てていた氷はすっかり溶け切り、冷たさを宿すただの水へと変わっていた。
「ごめんなさいね。こんな話されても、茜にはしょうがないわよね」
涙も止まり、瞳にその名残を残すだけとなった涼香が、茜に向かって恥ずかしそうに頭を下げる。
「ううん。大丈夫だよ。頼ってくれて嬉しい」
彼女は笑ってそう返す。結局、茜は何も言えなかった。
「は~あ。失恋かぁ」
伸びをしながら、しみじみと涼香は呟き、
「何だか実感が湧かないものね」
そしてそう言ってクスリと笑った。
「そういうもんじゃない?」
茜は実際の所、失恋なんてした事がない。だから実感が湧くか、湧かないかなんて彼女に分かる訳がない。でも何か言わないといけないと思った。でなければ、何のために涼香が自分の元を尋ねて来てくれたのかが分からない。
「きっとまたいい人が見つかるよ」
別れてすぐに次の男の話をするとは、随分と節操がない話だと彼女自身も思ったが、特に言う事もないため、そう口にする。涼香はそれに「うん」と小さく頷いた。
「茜は美月を大切にね」
そして、潤んだ瞳のままで彼女に向かってそう言う。きっとそれは『自分のようになるな』という意思表示と、『貴方達は変わらないで欲しい』という願いが込められているのだろうと思う。
「そうだね」
きっとそれは涼香の日常の象徴なのだ。
「私もずっと一緒にいられたらなと思うよ」
茜は笑う。それは本心で、本心じゃない。
嘘のようで、嘘じゃない。
「氷変えてくるね」
柔らかく微笑んで、彼女は立ち上がった。扉を開けて、閉める。階段を下りながら、ポケットからスマホを取り出して、ホーム画面を覗く。そこにはパンダがごろんと寝ころんでいる。そこにメッセージはない。
『今日頑張ってね』
午前中、十時頃に美月に送ったメッセージ。返信は来ない。土曜日、返信があったきり。こんなものに翻弄されるのが馬鹿らしいと彼女自身でも思うが、それでも振り回されてしまうのだから仕方がない。
リビングの扉を開けると、両親がテレビに向けていた視線が一斉にぐるりと茜の方を向く。
「悩み相談だよ。大丈夫」
四つ並んだ眉を、安心させるため苦笑で返し、リビングを抜け、台所に入った。そこでビニール袋に入った氷であった水を流す。
そのタイミングで茜は初めて、涼香が本当に振られてしまったのだという事を理解した。
「美術館へ連れて行って貰ったの」
水曜日、そう笑って言った。
「どうすれば振り向いてもらえるかしら」
三年前、まだ小さくてあどけない表情をした彼女は顎に手を当てて、考え込んだ。
「付き合う事になったわ」
中二の修了式、はにかみながら二人に向かって告げた。
それはもはや泡沫の夢となってしまったのだ。
楽しかった思い出も、失恋という事実に上書きされてしまえば、それは幻へと移り変わる。恋人との楽しかった逢瀬も、別れてしまえば封印したい記憶へと早変わりだ。幸せな日々としての記録は、感情によって焼却されてし
まうのだ。
「私もいつかそうなるのかな」
ジャージャーと流れる水の音に紛れるように、小さくそんな言葉を紡ぐ。
と、同時に途轍もない嫌悪感に襲われた。今、涼香は苦しんでいる。行き場のない怒りと、それでも冷めぬ恋情に絞められている。恋人のために着飾って、恋人のために傷つき、恋人を想い続けて届かなかった。
そして、後には着飾って傷ついて少女が残される。
茜は軽く頭を振って、冷蔵庫の製氷室を開け、氷を再び袋に詰めた。彼女の意識は二階でベットに座っているであろう涼香へと移っていた。
「悪いわね」
部屋に入って来た茜に向けて、彼女は開口一番そう言った。赤く腫れた目を隠そうともせず毅然としたその態度が、茜には美しく映る。
「気にすることないよ」
彼女は再び涼香の足元にひざまづく。
「美月から返信はあった?彼女、私と会った時に随分とやつれていたけれど」
「い~や、まったくないね。あのでくの坊、今頃寝てるんじゃない。『一仕事終わったー』みたいな呑気な顔してるよ、きっと。人の気も知らないで勝手な奴だよね」
ハハハと乾いた笑いを上げる茜。そんな彼女を心配げに見つめる涼香。
「一度きちんと話をした方がいいと思うわ。今の貴方達は見ていて、少し不安よ」
そして、そんな事を言う。
彼女の忠告に、茜は思わず目を丸くする。干渉しすぎる事無く、干渉しなさすぎる事もない。丁度いい距離感で、無意識的に引かれた白線。その内側へ唐突に涼香は踏み込んきた。
「どうしたの?突然」
内心の動揺を抑えながら、茜は聞き返す。
「貴方達、最近おかしいわよ。何かあったの?」
「別に何もないよ」
彼女は俯き、それを誤魔化すように氷の位置を変える。
「私はもう大丈夫よ。だから次は貴方達の事を考えなさい」
そう言って涼香は茜の手から氷を奪い取り、自らの足に当て直す。視線を逸らす口実を失った彼女は、否応なしに涼香の顔を正面に捉える事になる。
「………… 」
彼女は寂しそうな顔をしていた。そこで初めて茜は、涼香が気丈に振る舞っているだけで、実の所とても不安定な状態である事を理解した。
「そうだね。明日、学校で話してみるよ」
だから、茜は彼女を安心させるためにそう口にした。けれど、涼香は上辺だけのそんな言葉では納得しない。
「何を話すかは決めたの?」
「何が問題か分かってる?」
「どうして上手くいってないか、ちゃんと考えなくちゃだめよ」
首を少し傾げながら、詰問してくる涼香に苛立つ茜。
「分かってるよ」
平静を装いながらも、少しぶっきらぼうな言葉で返す。
「私は貴方達には上手くいって欲しいの」
その気持ちも知らず、涼香が茜の肩を強く掴んだ。
「私だってそう思ってるよ!」
押さえていた感情がその一言で爆発した。
「でも分かんないんだもん!どうして上手くいって欲しいなんて言うの? それが難しい事なのは涼香が一番分かってるじゃない。なのにどうしてそんな事が言えるの?」
茜だって上手く美月と付き合いたい。キスだってしてみたいし、一緒に抱き合って眠りたい。前世みたいに心を通わせたい。
けれど、それが出来ない。
まだ、茜は美月との恋の味を知らない。清とのキスはレモン味で、体が溶けてしまったと勘違いするほどの熱さがあった。なら、美月とのキスはどんな味がするのか。
それを彼女は知らない。
「私は貴方達の事を思って!」
涼香が悲鳴交じりに叫ぶ。
「じゃあ、聞くけど涼香に私たちの何が分かるの?私達が積みあげた物を知ってるの?前世のしがらみから、私を救ってくれるの?」
対抗するように拳を握って、茜は声を上げた。だが、すぐにそれを後悔する。
「前世って…… なに?」
目の前には見開いた涼香。やってしまったと思い、美月は顔を顰める。
「私に言ってない事全部、私に話しなさい」
そんな彼女の表情を見た涼香は、毅然としてそう言う。面倒だと茜は思った。どうせ、話しても理解されない。狂人だとあしらわれるのが関の山だろう。しかし、下手な誤魔化しは通用しない。知らぬ存ぜぬで何とかなるよう
な相手でもない。
仕方なく、彼女はため息を一つ吐き語り始めた。
「きっと信じて貰えないだろうけど、私も美月も前世の記憶があるの」
言葉にすると、それは酷く嘘臭かった。本当なのに、嘘のような事実。それがおかしくて、茜は小さく鼻で笑う。
「それで?」
けれど、その話を聞く涼香は真面目な顔をして座っている。現実主義者な彼女が、前世なんていう空想のような話を信じている事を訝しみながらも、促されるまま彼女は話す。
「前世で、私達は恋人だったんだ」
「今もそうじゃない」
「話は最後まで聞いて。確かに今も私達は付き合ってるけど、昔と今じゃ決定的に違う所があるの。それが性別。前世では美月は男の子だった」
ちらりと涼香を見る。話は最後まで聞けと言ったせいか、彼女は特に何の反応も示さない。
「今から百年くらい前の事だよ。田舎の村で私達は生まれ育って、自然に恋をした。始まりが何かなんてもう覚えてもないけれど、本当に気づいたら私達は付き合っていた。もしかしたら、運命の人とかって言うのかもしれない」
それを聞くや否や、涼香は口をへの字に曲げた。そして『運命の人』なんていう安っぽい形容をした茜も、恥ずかしそうに眼を背ける。
「気に入らない表現だけど、でも本当にそう言うしかない。本当に自然に私と彼は恋に落ちたんだから。けれど、上手くいったのはここまでだった。私はしがない農家の娘。彼は村を収める豪農の息子。身分違いにも程があるし、当時はまだ自由恋愛なんて眉唾物な時代だった。だから、私達は想いを貫くために駆け落ちを決意したんだ」
夢現な彼女。
周囲に広がるのは、何の変哲もない茜の部屋。勉強机に、美月から送られたぬいぐるみ。時を刻む時計に、黒い三角形のネックレス。いつも通りだ。けれど、茜の瞳には確かにどこまでも広がる田畑が映っていた。
そして、その田畑のあぜ道で見つめ合う一組の男女の姿も。
「戸籍上では結婚していなかったけど、私達は結婚してたんだ。結ばれてたんだ。だけど、一緒にいられなかったから、一緒にいるために駆け落ちを決めた」
そんな彼女の隣で、涼香は黙ってその話を聞いていた。彼女には「嘘つき」と罵倒するつもりも、「本当なの?」と確認するつもりもない。そもそもおかしな話なのだ。小学校からずっと付き合っていて、喧嘩の一つもないなんて。むしろ、涼香はやっと合点がいったとすら思っていた。
「けど、一緒にいるという夢は叶わなかった」
茜の話は続く。その一言を皮切りに、彼女の表情が暗くなる。
「駆け落ちは上手くいったんだよ。途中で彼の両親にはバレちゃったけど、何とか逃げおおせて汽車に乗ったんだ。幸せだったなぁ。おっきな腕に包まれて、その中で汽車の窓から見る景色は、本当に綺麗だった。何の変哲もない田んぼ塗れの景色だったんだけどね、胸がとってもドキドキして」
茜はそこで小さく息を吸った。そして、空気の味を噛みしめるかのように瞼を閉じる。穏やかな表情だった。微笑を浮かべてすらいた。けれど、涼香には彼女がどうにも哀れに思えた。
「でも、そこで終わり。汽車は事故に遭って、凄い衝撃と音の後に私は気絶した。次に目を開けたら、車内は地獄だったんだ。私を抱きしめていた彼は、死んでいた。車内は呻き声とすすり泣きで溢れていて、私も目覚めたけれど瀕死だった。足から血がドクドク流れて、もう死んじゃった彼のシャツを握りしめて泣く事しか出来なくて」
淡々と、まるで映画の情景を説明するかのように語る彼女に、涼香は思わず頬が引き攣る。茜の経験は真実なのだろう。なのに、どこか冷めていた。それが結末を知っているから来るものなのか、それともそれ以外の理由があるのか。彼女には判別がつかない。
けれど、涼香には自らの死と恋人の死をあまりにも無感情で語る茜が、不気味だった。
「そして私も死んだ。次に目が覚めた私を出迎えたのは、分娩室の強い光だった。それからは適当に生きた。両親に怪しまれないように幼児の演技をして、何のために転生したかもわからずに、のうのうと生きた。だけど、保育園で私は美月と出会ったんだ。死んだ彼の生まれ変わりだった美月に。
そこからは幸せだったんだ。再会を喜び合って『指輪はまだあげられないけど』って代わりにネックレスを貰った。死んだのに、私達の恋は続いてた。けど、美月は変わっちゃったの。中学校の頃から急にオシャレに凝り始めて、知らない内にデザインの勉強を始めた。そして、どんどん変わる彼女に、私はどんどん冷めていった。理想とは違う美月に、私はどうしたらいいか分からなくなって、自分の気持ちも分からなくなってしまった」
そう言って茜は頭を振る。涼香はそんな彼女を黙って見ていた。涼香に茜の気持ちは分からない。あくまで彼女は振られた側であって、振る側ではなかった。だから、気持ちが冷めるなんていうのは涼香にとって考えられない
ものだ。
しかし、それが今の美月と茜の違和感を形作っている。
「ねぇ、教えて涼香。私は一体どうすればいいの?そもそも私は美月が好きなの?好きな所がなくても、恋愛は成立するの?」
彼女は死んだ瞳で、涼香を見つめた。恋愛感情の所在が分からないと語る茜に、涼香は動けなくなる。彼女は陸斗の事が大好きだった。振られた今なお、涼香は彼の好きな所が幾つだって言える。
デートに行った時、さり気なく手を繋いでくれる所。
お会計を勝手に済まして、それを誇ろうともしない所。
必死に大人ぶろうと背伸びする自分を、やんわりとした笑みで包んでくれる所。
それ以外にも、言い切れないほど一杯ある。それは彼女にとって当たり前の事で、一緒にいた理由だ。
だというのに、茜にはそれが分からないと言う。
「本当に好きな所がないの?」
涼香は改めて聞き返した。彼女には信じられない。好きな所が一つもなくて、何年も一緒にいられるほど、人間は強く出来ていない。本人がないと思っていたとしても、絶対にどこかあるはずなのだ。
「ないよ。私が好きだったのは力強く抱きしめてくれたり、守ってくれたりする彼だったから」
確かにそれは今の美月には欠片もない。それは端から見ているだけの涼香にも、十分以上に理解出来た。美月はいつも寝てばかりのぼんやりとした、口数が少ない美少女だからだ。
「もう分かんないよ。好きっていう感情はあるのに、好きな所が思い浮かばないんだもん。しかも美月は私に色んな事を、全然話してくれない。デザイナーになりたいっていうのも言ってくれなかった。中学校に入って、オシャ
レに凝り出した理由も分からない。なのに、美月は私を冗談交じりに好きだって言って、笑いかけてくるの」
その様子を涼香は腐る程見てきた。それは俗に言う夫婦漫才の事だろう。
もはや二人でいるのが当然であった彼女たちは、それを前提とした会話をする事がよくあった。しかし、それは一方通行だったのだ。お決まりのやり取りを見続けて来た涼香は、その事実に少し悲しい気持ちになる。
「言ってくれなきゃ分かんないよ。好きなら言葉にして欲しいよ。一緒にいるだけじゃ満足できない。キスしたいし、抱き合いたい。頭を撫でて、目を細めて、それで終わりなんて無理だよ。私だけがずっと片思い。前世で好きだったから、付き合ってる。本当にもうそれだけしか、今の私達を繋ぎ止めてるものがないの」
そう締めくくった茜の相貌には、悲壮感が満ちていた。きっと彼女も苦しいのだ。
如月茜という少女は、幼少から安原美月という少女と一緒にいた。
それどころか、前世の分も含めれば三十年以上も同じ時を過ごした。
そんな彼女にとって、美月がいない自分なんて考えられない。例え好きでなかったとしても、彼女は自分の一部 だから切り捨てる事が出来ない。いわば共依存関係に置かれている。それは在り方として間違っているのかもしれ
ない。
だが、それはそれで別にいいと涼香は思った。
当人たちが幸せならば、外野が文句を言ってその幸せを崩すべきではない。
ましてや、茜と美月は破滅の道を歩んでいる訳ではないのだ。
彼女は知っている。
茜が口では何と言おうと、美月の事が好きであるという事実を。
そして、美月もまた茜の事を大好きであるという事実を。
ほんの五年ちょっと。二人が過ごして来た年月から見れば豆粒のような時間だけれど、両者に宿る愛を見定めるには十分すぎる時間だ。
「それも含めて、一度話した方がいいんじゃない?どうして変わったのか、どうして自分の気持ちが冷めたのか。貴方も言っていたけれど、きちんと言葉にしなければ伝わらないわよ」
だから涼香はそう言った。
二人は自分とは違う。振った理由を尋ねても、答えてくれないような関係を構築した自分とは。
「対話はいつ如何なる時でも、忘れてはならないわ。関係性を継続したいなら、なおさらね」
言いながらも、彼女は思わず苦笑する。それを怠ったから、自分は別れるハメになったのだ。
「そう…… だよね」
だが、それ故に涼香の言葉は実感がこもっていた。真摯な彼女に絆され、茜は顎に手を当て少し考え込んだ後、頷いた。
「そうして」
涼香は微笑む。気づけば、もう陸斗に振られた事は半ばどうでもよくなっていた。どうして振られたかは分からない。なにか落ち度があったのか、それとも純粋に高校生とは付き合えないという倫理観からか。
理由は分からない。
ただ知った所で、元の関係に戻れる訳ではない。
「今日は夜遅くにごめんなさいね。それと―― ありがとう」
茜の家を訪れた時とは対照的に、涼香は晴れやかな笑みを浮かべる。
「ううん。こちらこそ、ごめん。折角来てくれたのに、私の話ばっかりで」
「ふふふ。それこそいいわよ。お陰で、私も気が晴れたわ。けれど、しばらく恋愛はいいかしらね。少し疲れたわ」
「そうするといいよ」
ドレスを身に纏い、気を張っていた彼女は伸びをして、ぱちりとウインクをした。そんな涼香を見て、茜もまた僅かに微笑んだ。
「じゃあ、また明日」
「うん、明日」
玄関先、涼香を見送るために外に出た茜は、右手を左右に軽く振った。涼香も同様にその仕草を繰り返す。
雨はまだ降り続いていた。夜九時、多少あった人通りもなくなり、街灯が薄ぼんやりと路地を照らしている。天気予報によると、明日は晴れらしい。
久々の晴れが茜は少し楽しみだった。
「返信はあった?」
玄関を出てすぐ、三段ほどの階段の途中で涼香が振り返る。
「ううん、まだ」
茜は話し合った方がいいと言われてすぐ、美月にメールを送った。
『ちょっと話したい事がある。明日の放課後、学校近くのマックに行きたい』
まだ、今朝送ったメールの返信がないのに、次のメールを送るのは節操がないと思ったが、今送らなければ勇気が出ず、不安定なままな気がしたのだ。
「早く来るといいわね」
眉を下げた彼女を励ますように、涼香が下りた階段を再び昇り、肩を叩く。微笑を浮かべた彼女に、茜は力強く頷いた。
「じゃあ、本当にさよなら」
それを見て、安心したのか涼香はハイヒールを鳴らしながら夜の街に溶けて行った。雨に濡れないように白い傘を差して、モデルのように優雅に消えていく。
角を曲がり、姿が見えなくなって、茜も玄関に入り扉を閉める。その時、どこからともなく足音が聞こえて来た。
「?」
扉が閉まる直前、恐る恐る隙間から外を覗く。けれど、そこには誰もいない。
聞き間違いかな?と己を納得させ、彼女は完全に扉を閉める。
「課題やったの~」
「もうやったよ!」
リビングから飛んできた母親のお節介に、唇を尖らせながらそう返し、彼
女は自室に向かうべく階段を上る。
それと同時、玄関先をひたりという音と共に大きな影が横切った。傘を差したそれは数秒、茜の家の前に留まり、その後消えた。
だが、それに気づいた者はいない。